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公認会計士は|手を|こすりながら、|意味ありげな|視線を|送りつつ、|メグレの|執務室に|入ってきた。

「できましたよ!」

「何が|できた?」

「この|七年間の|シャツ屋の|帳簿を|ざっと|見直しました。||簡単なことでした。||フェンステンは|まったく|帳簿のことが|わからず、|週に|一度か|二度、|銀行の|若い|行員を|呼んで|帳簿を|つけさせて|いたのです。||税金を|少なくするための|多少の|ごまかしも|あります。||ざっと|目を通せば、|全体が|すぐに|見えてきます。||手元現金さえ|あれば、|そう|悪くない|商売です。||売り子の|給料は|毎月四日か|十日に|支払い。||手形は|二度三度と|書き換え。||在庫処分の|セールで、|何としても|現金を|手に入れようとする。||そして|最後に|ウルリッヒです!」
メグレは|表情を|変えなかった。||部屋の中を|行ったり来たり|しながら|まくし立てる|この|饒舌な|小男には、|話させておくのが|一番だと|知っていた。

「いつもの|ありふれた|話ですよ!||帳簿を|さかのぼると、|七年前の|記録に|初めて|ウルリッヒの|名前が|出てきます。||二千フランの|貸し付け、|満期は|一日。||一週間後に|返済。||次の|満期には|五千フランの|貸し付け。||おわかりでしょう?||この|シャツ屋は、|必要な|ときに|金を|手に入れる|方法を|見つけたのです。||それが|習慣になる。||最初の|二千フランは、|半年後には|一万八千フランに|なります。||そして|その|一万八千フランは、|二万五千フランで|返さなければ|ならない…||ウルリッヒ老人は|欲が|深いのです…||ただし|付け加えておきますが、|フェンステンは|誠実な|男です…||きちんと|返済は|する…||ただし|やり方が|少し|特殊です。||たとえば、|十五日に|一万五千フランを|返し、|二十日には|また|一万七千フランを|借りる…||それを|翌月に|返して、|すぐに|二万五千フランを|借りる…||三月には、|フェンステンは|ウルリッヒに|三万二千フランの|借りが|あるのです…」
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「それは|返しているのか?」

「もちろんです!||その|時点から、|帳簿には|もう|ウルリッヒの|名前は|一切|出てきません…」
それには|もっともな|理由が|あった。||ブラン=マントー通りの|あの|老ユダヤ人は|すでに|死んでいたからだ。||つまり、|その|死によって、|フェンステンは|三万二千フランを|手に入れたことに|なる!

「その後、|ウルリッヒの|代わりは?」

「しばらくの|あいだは|誰も|いませんでした。||一年後、|再び|資金繰りに|困った|フェンステンは、|小さな|銀行に|信用を|求め、|それを|得ました。||しかし|銀行の|方が|嫌気を|さしました」

「バッソの|名前は?」

「彼の|名前は|最近の|帳簿に|出てきますが、|貸付では|なく、|形式的には|為替手形です」

「フェンステン死亡時の|状況は?」

いつもと|変わりません。||二十枚ほどの|手形で|何とか|やりくりしていた…||次の|満期までは!||パリには、|まったく|同じ|状態の|商人が|何千人も|います。||何年も|足りない|金を|追いかけながら、|ぎりぎりで|破産を|免れているのです」
メグレは|立ち上がり、|帽子を|手に取った。

「ありがとう、|フルレ」

「もっと|詳しく|調べましょうか?」

「今の|ところは|いい」
すべては|順調だった。||捜査は|機械のような|規則正しさで|進んでいた。||だが|その反面、|メグレは|むしろ|不機嫌そうに|見えた。||あまりに|順調すぎることに|警戒しているかの|ようだった。

「リュカから|連絡は|あったか?」と|彼は|事務員に|尋ねた。

「先ほど|電話が|ありました。||例の|男は|救世軍1に|行って、|寝床を|頼んだそうです。||それから|ずっと|寝ています」
それは|ヴィクトルの|ことだった。||彼は|一文無しだった。||それでも|なお、|ウルリッヒ老人の|殺害犯の|名前と|引き換えに、|三万フランを|得られると|期待しているのだろうか。
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メグレは|河岸通りを|歩いて|進んだ。||郵便局の|前を|通りかかったとき、|彼は|ためらい、|やがて|中に|入り、|電報用紙に|記入した。

おそらく|木曜に|着く。||全員に|キスを
その日は|月曜だった。||休暇が|始まって|以来、|彼は|まだ|アルザスに|いる|妻の|もとへ|行くことが|できていなかった。||外に|出ると、|パイプに|タバコを|詰めながら、|再び|ためらう|様子を|見せ、|やがて|タクシーを|呼び止め、|バティニョル大通りの|住所を|告げた。

彼は|これまでに|数百件の|事件を|手がけていた。||そして、|ほとんどの|事件が|二つの|段階を|経るものだと|知っていた。||すなわち、|異なる|二つの|局面を|持つ。
まず|最初は、|警官が|新しい|空気に|触れ、|前日まで|まったく|知らなかった|人々に|出会い、|事件によって|揺れ動いている|小さな|世界に|入り込む|段階である。
そこへは|よそ者として、|敵として|入っていく。||相手は|敵意を|持ち、|ずるく、|あるいは|心を|閉ざしている。
メグレにとっては、|むしろ|この時期こそが|最も|興味深い。||匂いを|嗅ぎ、|手探りで|進む。||足がかりは|なく、|多くの場合|出発点すら|ない。||人々が|動き回るのを|眺めながら、|誰もが|犯人である|可能性も、|共犯者である|可能性もある。
やがて|突然、|糸の|端を|つかむ。||すると|第二の|段階が|始まる。||捜査は|動き出し、|歯車が|回転し始める。||一歩|進むごとに、|一つの|行動ごとに、|新たな|事実が|明らかになり、|たいていは|その|進行は|加速し、|最後には|突然の|発見に|至る。
もはや|警官|一人で|動いているのではない。||出来事の|ほうが|彼の|ために|働き、|ほとんど|彼を|離れて|進んでいく。||彼は|それに|遅れないように|ついていかなければ|ならない。
ウルリッヒの|発見以来、|状況は|まさに|そのように|なっていた。||その|日の|朝でさえ、|メグレは|サン=マルタン運河で|見つかった|遺体の|身元について|何の|手がかりも|持っていなかった。
だが|今では、|それが|古物商であり、|しかも|高利貸しでも|あった|男で、|シャツ屋が|借金を|していた|相手であることを|知っていた。
あとは|その|糸を|たどるだけだ。||十五分後、|警部は|バティニョル大通りの|建物の|五階に|ある|フェンステン家の|アパルトマンの|扉を|叩いていた。
髪を|乱した|無表情な|女中が|出てきて、|彼を|中に|入れるべきかどうか、|迷っている様子だった。

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だが|その瞬間、|玄関の|コート掛けに、|メグレは|ジェームズの|帽子を|見つけた。
物事が|一気に|加速しようとしているのか、|それとも逆に、|歯車の|どこかが|欠けてしまったのか?

「奥さんは|いますか」
メグレは|女中の|気後れに|つけこんだ。||田舎から|出てきたばかりと|見える。||彼は|中へ入り、|声が|聞こえてくる|扉へと|向かい、|ノックして、|すぐさま|開けた。
部屋の間取りは|すでに|知っていた。||この界隈の|小市民的なアパルトマンと|変わらぬ|造りだ。||細長い|ディヴァンと|金色の|細い脚の|きゃしゃな|肘掛け椅子が|並ぶ|サロンに|入ると、|まず|目に入ったのは|窓際に立つ|ジェームズだ。||通りを|ぼんやりと|眺めている。
フェンスタン夫人は|外出の|仕度を|すませていた。||全身|黒ずくめで、|こぢんまりとした|しゃれた|クレープの|小帽子を|被っている。||いかにも|血気盛んな様子だ。
ところが|メグレの|顔を|見ても、|夫人は|少しも|不快そうな|素振りを|見せなかった。||一方|ジェームズは|こちらへ振り向き、|うんざりした、|どこか|所在なげな|顔を|向けてきた。


「どうぞ、警部さん、|お入りになって。|ちょうど|よかった。|ジェームズに|馬鹿なことを|するなと|言っていた|ところなんです」

「ほう」
明らかに|夫婦喧嘩の|最中だ。||ジェームズが|気のなさそうに、|頼りなげに|呟いた。

「まあ、マドー」

「だめよ!|黙ってて!|今は|警部さんに|話してるんだから」
観念したように、|イギリス人は|また|通りへ|目を向けた。||その目には|通行人の頭しか|映っていないに|違いない。


「あなたが|普通の|警察官だったら、|こんなふうには|話しませんわ、|警部さん。|でも|モルサンで|私たちの|お客様でしたし、|あなたには|わかって|いただけると|思って」
彼女は|何時間でも|しゃべり|続けられる|女だった!||誰もかれもを|証人に|引っ張りこみ、|どんな|饒舌な|者でさえ|黙らせてしまう|女だ!
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彼女は|美人でも|かわいくも|なかった。||だが|なまめかしかった。||とりわけ|喪服姿が|よかった。||悲しげに|見えるどころか、|かえって|艶めかしさを|増していた。
肉付きの|よい、|生命力に|あふれた|女で、|さぞかし|激しい|愛人で|あっただろうと|思わせる。
ジェームズとの|対比は|鮮烈だった。||うんざりした|顔、|いつも|どこか|ぼんやりした|目、|冷淡な|物腰。

「バッソの|愛人だということは|みんな|知ってるわ。||恥じて|なんかいない。||隠したことも|ない。|モルサンでも|誰も|責めなかったし。|夫が|別の|男だったなら」
息も|つかずに|続ける。

「自分の|仕事も|まともに|できない|男!||こんな|掘っ立て小屋みたいな|ところに|住まわせて!||しかも|ほとんど|帰りも|しない!||たまに|帰ったかと|思えば、|夕食の|あと、|金の|心配と|シャツ屋の|話と|従業員の|話ばかり。||女を|幸せに|する|器量も|ないくせに、|文句だけは|いっちょまえ|なんだから。||それに、|マルセルと|私は|いずれ|結婚するつもりだったの。||知らなかった?||もちろん|大っぴらには|していなかったけど。||彼が|踏み切れないで|いたのは|息子の|ことだけ。||離婚すれば|よかったのに。||私も|そのつもりで|いたわ。||バッソ夫人を|見たでしょう?||マルセルみたいな|男に|ふさわしい|女じゃ|ないわよね」
隅っこで|ジェームズが|ため息を|つき、|花柄の|絨毯を|じっと|見つめていた。


「私の|務めを|教えて|ください。||マルセルは|苦しんでいる!||追われている!||国外へ|出なければ|ならない!||そんな|彼の|そばに|いるのが|私の|務めじゃ|ないんですか?||ねえ、|はっきり|おっしゃって」

「ふむ、|ふむ」|メグレは|言質を|とられないよう、|ぶっきらぼうに|唸っただけだ。


「ほら!||ジェームズ、|聞いた?||警部さんも|私と|同じ|意見よ。||世間体なんか|どうでも|いい。||なのに|ジェームズは|マルセルの|居場所を|教えてくれない。||知ってるくせに。||そのくせ|知らないとも|言えないんでしょ」
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メグレは|これほどの|手合いの|女を|これまでに|何人か|見ていなければ、|おそらく|度肝を|抜かれていただろう。||だが|もはや|その|無神経さには|驚かない。
フェンスタンが|バッソに|殺されたと|思しき|あの日から、|まだ|二週間も|経っていない。

それなのに|今、|この|陰気な|アパルトマンで、|シャツ屋の|肖像画が|壁に|かかり、|灰皿には|彼の|煙草入れが|置かれたまま|なのに、|その|妻は|自分の|務めを|語っている。
ジェームズの|顔は|雄弁だった。||顔だけでは|ない!||肩も!||姿勢も!||丸まった|背中も。||それらすべてが|語っていた。||「まったく|とんでもない|女だ!」
彼女が|ジェームズに|向き直った。

「ほら、|警部さんも|私の|意見で」

「警部は|何も|言っていない」

「あら!||あなたって|最低!||男じゃない!||何もかも|怖いのね!||今日|ここへ|来た|理由を|言いましょうか」

あまりに|思いがけない|言葉に、|ジェームズは|まず|頭を|もたげた。||顔が|真っ赤だ。||子どものように|赤くなっていた。||一気に|顔全体が|紅潮し、|耳まで|血の色になった。
何か|言おうとした。||できなかった。||立ち直ろうと|努め、|ようやく|苦しそうな|小さな|笑いを|漏らした。

「どうせなら|今すぐ|話して|しまおう」
メグレは|女を|観察した。||口から|滑り出た|言葉に、|彼女自身|少し|当惑している。

「そんなつもりじゃ|なかった」

「そう、|あなたは|いつも|そんなつもりじゃない。||でも|そうなってしまう」
サロンが|より|狭く、|より|親密に|感じられた。||マドーは|肩を|すくめ、|『だから|どうした、|あなたの|勝手でしょ』と|言いたげな|顔を|した。

「失礼」|目を|笑わせながら、|メグレが|ジェームズに|割って|入った。
「いつから|タメ口を|きいてるんだ?||モルサンでは|そうじゃ|なかったはずだが」

自分でも|笑いを|こらえるのが|やっとだった。||知っている|ジェームズと、|目の前の|ジェームズとの|あまりの|落差に。||今の彼は|まるで|悪事を|現行犯で|捕まった|内気な|小学生だ。
自宅の|スタジオで、|妻が|かぎ針編みを|している|傍らでは、|ジェームズは|孤立した|無愛想な|男として|一定の|風格を|保っていた。
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モルサン、|ヴィユー・ガルソン、|カヌー、|小さな|ヨット、|そして|木陰の|テラスでの|おごり合い。||現実とは|思えない|ほど|穏やかな|風景の中で。
七、八年もの間、|毎週日曜、|同じ顔ぶれが|同じ時刻に|食前酒を|飲み、|午後は|ブリッジに|興じ、|蓄音機に|合わせて|踊っていた。
だが|最初は|ジェームズが|マドーと|連れ立って|公園の|奥へと|消えていたのだ。||フェンスタンが|皮肉な|目で|眺めていたのも、|おそらく|彼のことだった。||平日に|パリで|彼女と|密会していたのも|彼だった。

みんな|知っていた。||見て見ぬふりをして、|ときには|二人を|手助けさえした。
バッソも|そうだった。||そのバッソが|ある日、|今度は|自分が|恋に|落ちて、|後を|引き継いだのだ!
おかげで|この|アパルトマンでの|場面は|いっそう|味わい深くなった。||ジェームズの|みじめな|態度と、|マドーの|堂々たる|様子が。
メグレは|マドーに|水を|向けた。


「ジェームズの|愛人で|なくなって|どのくらいに|なりますか?」

「そうね、|五年、|いいえ、|六年くらいかしら」

「どんな|終わり方を|したんですか?||彼から?|それとも|あなたから?」
ジェームズが|口を|開こうと|したが、|彼女が|遮った。

「二人とも。||お互い|合わないと|わかったの。||あんな|ふりを|してるけど、|ジェームズは|神経質な|小市民気質で、|もしかしたら|私の|夫より|もっと|堅物だったかも」

「それでも|仲良くしていられたんですか?」

「何が|いけないの?||愛し合わなく|なったからって、|別に」

「一つ|訊きますが、|ジェームズ!||当時、|フェンスタンに|金を|貸したことは|ありますか?」

「私が?」
だが|答えたのは|マドーだった。

「どういう|意味ですか?||夫に|お金を|貸す?||なぜ?」
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「いや、|ただ|ふと|思っただけです。||でも|バッソは|貸していた」

「それとは|違う!||バッソは|金持ちよ!||夫は|一時的に|苦しかっただけ。||私と|アメリカへ|行く話も|していたし。||だから|面倒を|避けるために|バッソが」

「わかった、|わかった!||でも|たとえば|六年前にも、|ちょうど|あの頃|アメリカ行きを|話していたとしたら」

「何が|言いたいの?」
彼女は|憤慨しそうな|勢いだった。||貞節を|踏みにじられた|女の|場面に|なりそうだと|悟り、|メグレは|話題を|変えることに|した。

「失礼した。||声に|出して|考えていただけで、|何も|ほのめかすつもりは|ない。||ジェームズと|あなたは|自由な|関係だった、|それだけのことです。||そういえば、|あなたの|ご主人の|知り合いで|ウルリッヒ|という人が|そう|言っていた」
目を|細めながら、|二人を|観察する。||フェンスタン夫人は|驚いた|顔で|メグレを|見た。

「夫の|知り合い?」

「あるいは|仕事上の|付き合いかも」

「そっちでしょうね。||その名前は|聞いたことが|ない。||何を|言っていたの?」

「特に。||男と女の|話を|していただけです」
ジェームズは|驚いた|様子で|メグレを|見ていた。||何かを|嗅ぎつけた|男の|目で、|相手が|どこへ|向かおうと|しているのか|読もうと|している。

「それでも|マルセルの|居場所を|知っていて|教えないのよ!」|フェンスタン夫人が|立ち上がりながら|続けた。||「でも|自分で|見つけてみせる!||それに|どうせ|マルセルから|来てくれという|手紙が|来るはず。||私なしでは|生きていけない|人なんだから」

ジェームズは|メグレに|横目を|くれた。||皮肉な|目だったが、|それ以上に|暗い|目だった。||訳せば|こういうことだ。

『彼女に|手紙を|書くと|思います?||またぞろ|のしかかられに|くるだけじゃ|ないですか!||この女は!』
彼女が|ジェームズに|詰め寄った。

「それが|あなたの|最後の|答え?||私が|あなたに|してあげたことへの|感謝が|それだけなの?」

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「ずいぶん|してあげたんですか?」|メグレが|訊いた。
「ええ、|彼は|私の|最初の|男だったんです!||彼より|前は、|夫を|裏切れるなんて|思ってもいなかった。||でも|あのころから|変わってしまって。||まだ|お酒も|飲まなかったし、|身なりにも|気を|使っていた。||髪も|あったし」
こうして|天秤の|針は|悲劇と|滑稽の|間を|揺れ続けた。||意識して|思い出そうと|しなければ|ならないほどだ。||ウルリッヒが|死に、|誰かが|その遺体を|サン=マルタン運河まで|運んだこと。||六年後、|二サンチームの|居酒屋の|物置小屋の|裏で|フェンスタンが|銃弾に|倒れたこと。||そして|バッソが|家族ごと|逃亡し、|警察に|追われていることを。
「国境を|越えられたと|思いますか、|警部さん?」
「さあ、|私は」
「いざとなれば|あなたが|手助けして|くれますよね?||あなたも|あの人の|家に|招かれた|客だったんだから。||あの人の|よさは|わかるはず」
「もう|こんな時間だ!||会社に|行かないと!」|ジェームズが|椅子という|椅子を|探しまわりながら|言った。
「私も|ご一緒します」|メグレが|すかさず|言った。
フェンスタン夫人と|二人きりに|なるのだけは|何としても|避けたかった。
「お急ぎで?」
「用が|あるもので。||またお邪魔します」
「マルセルも|きっと|あなたの|ご親切に|感謝するはずよ。||そういう人なんだから」
彼女は|自分の|外交手腕に|満足していた。||メグレが|バッソを|国境まで|送り届け、|礼として|千フラン札を|何枚か|受け取る場面が|見えているらしい。||
別れ際に|手を|差し出すと、|彼女は|意味ありげに|長々と|握り続けた。||そして|ジェームズを|指して|囁いた。
「あまり|恨まないで|あげて。||お酒が|入ってから|ああなったんだから」
二人は|黙ったまま|バティニョル大通りを|歩いて|下りた。||ジェームズは|大股で|歩きながら|足元を|見つめている。||メグレは|パイプを|ゆっくりと|うまそうに|吹かしながら、|通りの|眺めを|楽しんでいるようだった。
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- 救世軍(Armée du Salut)とは、キリスト教系の慈善団体です。十九世紀に始まった国際的な組織で、信仰活動と同時に社会的な救済を重要な役割として担っていました。
一九三〇年代のパリにおいては、特に貧困者や浮浪者に対する支援の場として機能しており、行き場のない者に簡単な寝床や食事を提供していました。そのため、金を持たず宿にも泊まれない人間が、最後に頼ることのできる場所の一つでした。
この場面でヴィクトルが救世軍に行ったというのは、彼が完全に無一文であり、通常の宿泊手段を失っている状態にあることを示しています。単なる宿ではなく、社会の周縁にいる人間がかろうじて身を寄せる救護施設という意味合いです。
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