銭形平次捕物帖  巻一|三 お藤は解く

銭形平次捕物控

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登場人物

銭形平次 —— 神田の岡っ引1、岡っ引とも見えぬ秀麗な顔を持つ名探偵。

八五郎(ガラッ八) —— 平次の子分「下っ引」、大きな鼻が特徴の陽気な若者。

笹野新三郎 —— 南町奉行配下の吟味与力筆頭2、平次を信頼する上役。

洲崎の金六 ――深川洲崎を縄張とする大先輩の岡っ引、根は人が良い。

甲州屋万兵衛 ――深川木場の材木問屋の大旦那、今朝風呂場で殺された被害者。

伝之助 ――万兵衛の弟で店の支配人、恐ろしい毛深い左利きの四十男。

万次郎 ――万兵衛の倅、二十三歳の道楽者で親譲りの放蕩児。

お直 ――奉公人上がりの妾、三十五歳の念入りな厚化粧の女。

文次 ――甲州屋の番頭、狐のような印象の三十七八の臆病な男。

お藤 ――江戸一番の蒔絵師藤吉の娘、十八九歳の美しく聡明な娘。

おさめ ――甲州屋の下女、万兵衛の死体を最初に発見した。


「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」


南町奉行|配下の|吟味与力|笹野新三郎|は、自分の|役宅に|呼び付けた、|銭形の平次に|こう|言うのでした。


「ヘェ、|——旦那の|仰しゃることなら、|否を申す|私では|ございませんが」


平次は|縁側に|踞ったまま、|岡っ引きとも|見えぬ、|秀麗な|顔を|挙げました。||笹野新三郎には、|重々|世話になっている|平次、|今さら|頼むも頼まれぬも|ない|間柄|だったのです。


「南の御奉行が、|事をわけての|お頼みだ、|——お前も|聞いたであろう、|深川木場の|甲州屋万兵衛が|今朝|人手に|掛って|死んだという|話を——」 


「ツイ|今しがた、|たまり3にいる|八五郎から|耳打を|されました。||あの辺は|洲崎4の金六が|縄張で――」 


「それも|承知で|頼みたい。||――甲州屋万兵衛は|町人ながら|御奉行とは|別懇べっこん間柄、|一日も|早く|下手人を|挙げたいと|おっしゃる||——金六は|一生懸命だが、|何分にも|老人で、|届かぬ|事もあろう、|すぐ行ってくれ」 


「畏まりました」


吟味与力に|頼まれては、|嫌も|応も|ありません。||平次は|不本意ながら、|大先輩|洲崎の|金六と|手柄争いを|する積りで、|木場まで|行かなければ|ならなかったのです。


「八、|手前が|行くと|目立って|いけねえ、|神田へ|帰るがいい」


永代まで|行くと、|後ろから|影のごとく|跟いて来る、|子分の|八五郎に|気が付きました。


「帰れと|言えば|帰りますがね、|親分、|あっしが|いなきゃア|不自由な|ことが|ありますよ」


八五郎の|大きな鼻が、|浅い|春の風を|一パイに|吸って|悠々|自惚心を|楽しんでいる|様子です。


「馬鹿、|大川の|鴎5が|見て|笑っているぜ」


「鴎で|仕合せだ。||――この間は|馬に|笑われましたぜ。||親分の|前だが、|馬の|笑うのを|見た者は、|日本|広しと|いえども、|たんとは|あるめえ」


「呆れた|野郎だ、|その|笑う馬が|木場6に|いるから、|甲州屋へ|行くついでに|案内しようという|話だろう、|落は|ちゃんと|解っているよ」


「へッ、|親分は|見通しだ」


八五郎は|なんとか|口実を|設けては、|親分の|平次に|跟いて行く|工夫を|しているのです。||

木場へ|行くと、|町内|大きな声で|物も|言わない|有様で、|その|不気味な|静粛の|底に、|甲州屋の|屋根が、|白々と|昼下りの|陽に|照されておりました。


「お、|銭形の」


何心なく|表の|入口から|顔を出した|洲崎の|金六は、|平次の|顔を|見ると、|言いようもない|悲愴な|表情を|するのでした。


「ちょいと|見せて|貰いに|来たよ、|八の|野郎の|修業に――」


平次は|さり気ない|笑顔を|見せます。


「笹野の|旦那の|言い付けじゃ|ねえのか」


「とんでもない、|旦那は|兄哥の|腕を|褒めていなさるよ、|年は|取っても、|金六のように|ありたいものだって」


「おだてちゃ|いけねえ」


金六は|ようやく|ほぐれたように|笑います。||近頃|むずかしい|事件というと、|八丁堀の|旦那方が、|すぐ|平次を|差向けたがるのは|相当|岡っ引仲間の|神経を|焦立たせて|いたのです。


「俺の|手柄なんかに|する気は|毛頭ねえ。||どんな|事だか、|ちょいと|教えて|貰えめえか」


あ「それはもう、|銭形のが|智恵を|貸してくれさえすれば、|半日で|埒が|明くよ。||証拠が|多過ぎて|困っている|ところなんだから」


根が|人の良い|金六は、|自分の|手柄にさえ|ケチを|付けられなければ――といった|心持で、|気軽に|平次と|八五郎を|案内しました。

店の中は、|ムッとするような|陰惨さ、|この|重っ苦しい|空気を|一と口|呼吸しただけで、|人間は|妙に|罪悪的に|なるのでは|あるまいかと|思うようです。


木場の|大旦那で、|万両|分限の|甲州屋|万兵衛は、|今朝、|卯刻半(七時)から|辰刻(八時)までの|間に、|風呂場の|中で|殺されていたのです。

取って|五十、|江戸一番の|情知りで、|遊びも|派手なら|商売も|派手、|芸人や|腕のある|職人を|可愛がって、|四方八方から|受けのいい|万兵衛が、|場所も|あろうに、|自分の|家の|風呂場で、|顔を|洗ったばかりの|ところを、|剃刀で|右の|頸筋を|深々と|切られ、|凄まじい|血の中に|崩折れて|死んでいたのです。

声を|立てたかも|知れませんが、|風呂場は|二重戸で|容易に|外へは|聴えず、|下女の|おさめが|行ってみて、|始めて|大騒動に|なったのでした。

家族というのは|本妻が|五年前に|死んで、|奉公人から|ズルズルに|直った|妾の|お直、|――三十五という|女盛りを、|凄まじい|厚化粧に|塗り立てているのを|始め、|先妻の|間に|出来た|一粒種の|倅、|万次郎と|言って|二十三、|親父の|万兵衛が|顔負けの|する|道楽者と、|主人|万兵衛の|弟で、|店の|支配をしている|伝之助という|四十男、|それに、|番頭の|文次を|始め、|手代|小僧、|十幾人の|多勢です。


「どんな|証拠が|あるんで、|金六兄哥」


風呂場の|血潮の|中から、|拾った|剃刀や、|先刻|居間に|運んだばかりの、|万兵衛の|死体を|見ながら、|平次は|まず|金六に|当ってみました。


「人は|見掛けに|寄らないと|言うが、|――こんな|騒ぎが|あって|驚いたことは、|甲州屋の|家の者で、|主人の|万兵衛を|殺し兼ねない|者が|四五人は|居るぜ」


「ヘエ――」



「世間体は|良い|男だったが、|――通人とか、|わけ知りとかいう|者は、|大方|こうしたものだろう。|お互に|野暮ほど|有難いものは|ねえ」


金六は|すっかり|感に|堪えた|姿です。


「どうしたんだ、|洲崎の|兄哥」


「妾の|お直は|二三日前から、|出るの|引くのという|大喧嘩だ。|――万兵衛は|他に|女が|出来て、|それを|家に|入れようとしているんだ」


「なるほど」


「倅の|万次郎は|恐ろしい|道楽者で、|昨夜も|帰らなかったと|言うが、|今朝の|騒ぎの|後で|気が付くと、|二階の|自分の|部屋へ|入って、|グウグウ|寝ていた」


「それから」


「番頭の|文次は|血の付いた|着物を|そっと|洗っているところを、|下女の|おさめに|見付けられ――」


「‥‥」


「主人の|弟の|伝之助は、|店を|支配しているから、|万兵衛が|死ねば|何万両の|身代が|自由になる、|それに、|内々の|借金も|かなり|持っているそうだ、|――第一、|動きの|取れない|証拠は、|万兵衛を|殺した|剃刀は|この|伝之助の|品で、|家中の|剃刀では|一番|よく|切れる。|伝之助は、|逢って|見れば|解るが、|――恐ろしい|毛深い|男で、|三日も|髯を|あたらないと|山賊みたいに|なるから、|自分の|剃刀だけは|人に|使わせないように、|町内の|髪結床の|親方に|磨がせて、|大切に|しまい込んであるのさ」


「フーム」


「その外、|一番先に|死骸を|見付けたのは|下女の|おさめで、|その時は|まだ|万兵衛に|息は|あったと|言うから、|これとても|下手人でないという|証拠は|一つもない」


「‥‥」


「もう一人、|万兵衛の|幼友達で、|今は|蒔絵師の|名人と|言われる、|尾張町の|藤吉の|娘、|お藤が|いる。|これは|並大抵でない|綺麗な|娘だから、|気の多い|万兵衛が|ちょっかいを|出していたかも|知れない」


「その娘が|何だって、|こんな|家へ|来ているんだろう」


「行儀見習という|名義だ、|――俺の|娘なら、|こんな|家で|行儀なんか|見習って|貰いたくは|ねえよ」


「有難う。|それで|大方|判った。|風呂場を|見て、|それから|一人一人|逢わせて|貰おうか」


平次は|死体の|側を|離れて|まだ|よく|掃除していない|風呂場を|見ました。


中は|惨憺たる|碧血、|――検死が|済んだばかりで、|洗い清める|暇も|なかったのでしょう。

金六が|説明した通り|二重戸で|ここで|大概の|物音を|さしても、|店や、|お勝手へは|聴えなかったのも|無理は|ありません。|万兵衛は|通人らしく|たしなみの|良い|男で、|外出でも|思い立って、|髯を|剃りに|入ったところを、|後ろから|忍び寄った|曲者に、|逆手に|持った|剃刀で|右の|頸筋を|やられたのでしょう。

風呂場の|構えは|大町人にしても|立派で、|外からの|たった一つの|入口は、|用心よく|内鍵で|厳重に|締めてあります。


「外から|入りようは|ないな」


平次は|自分へ|言い聴かせるように|駄目を|押しました。


「その通りだ、|下手人は|家の中に|居た者だ」


金六も|解りきったことを|合槌打ちます。


「親分、|――今朝、|朝飯が|済んでから|半刻(一時間)の|間、|主人の|弟の|伝之助は|どこに|居たか|誰も|知りませんぜ」


八五郎は|早くも|別の|方面に|手を付けて、|最初の|報告を|持って来ました。


「よしよし、|悪い事を|する奴に|限って、|自分の|居た場所などを、|念入りに|人に|知らせておくものだ。|伝之助は、|馬鹿で|なきゃア、|潔白だろう」


「ヘエ――」


こう|言われると、|勢い込んだ|八五郎も|ツイ|気が|抜けます。


「倅の|今朝|帰った姿を|誰も|見た者が|ないと|言ったが、|もう一度|よく|聴いてくれ。||それから、|皆んな|いつもの通り|仕事を|するように、|と|言ってくれ。||あっちこっちへ|固まって、|コソコソ|話しているのは、|褒めたことじゃねえ」


平次は|そう言いながら、|まだ|念入りに|家の中を|見廻っております。


「支配人の|伝之助は、|兄哥に|逢いたがっているぜ」


金六は|店の方を|指さしましたが、


「もう少し、|――今度は|外廻りを|見よう」


庭下駄を|突っかけて|外へ|出ると、|庭から、|土蔵の|あたり、|裏木戸の|材木を|漬けた|堀、|夥しい|材木置場から、|元の|庭へ|帰って来ました。


「倅の|部屋は|どこだろう。|――どこの|家でも、|息子は|一番|良い|部屋を|取りたがるものだが――」


「あれだよ」


金六の|指したのは、|裏木戸から|入って、|見上げる|形になった|二階でした。|厳重な|格子が|はまって、|人の|居る様子も|ありません。


「当人は|どこに|居るだろう」


と|平次。


「親父が|死んじゃ|遊びにも|出られない。|つまらなそうな|顔をして、|先刻まで|店にいたが」


何という|嫌な|空気の|家でしょう。


「銭形の|親分さん、|御苦労様で|ございます。|洲崎の|親分さんにも|お願いしましたが、|何とかして|一日も|早く、|兄の|敵を|討って|下さいまし」


たまり兼ねた|様子で、|主人の|弟――支配人の|伝之助は|庭に|迎えました。|なるほど|四十三四の|青髯、|人相は|凄まじいが、|その割には|腰の|低い|男です。


「お前さん、|いつ|髯を|剃りなすったえ」


平次の|問は|唐突で|予想外でした。


「ヘエ、|三日前で|ございました。|こんな|騒ぎが|なければ、|今日は|剃るはずでしたが――」


伝之助は|恐縮した|姿で|顎を|撫でております。


「剃刀は|どこへ|置きなさるんだ」


「風呂場の|剃刀箱の|中に|入れております」


そんな|事を|訊いたところで、|何の|足しに|なりそうも|ありません。


次に|平次が|逢ったのは、|番頭の|文次でした。||三十七八の|狐のような|感じのする|男で、|商売は|上手かは|知りませんが、|決して|人に|好印象を|与えるたちの|人間では|ありません。


「着物の|血を|洗っていたと|言うが、|そんな事を|しちゃ、|かえって|変に|思われるだろう」


平次の|言葉は|峻烈です。


「ヘエ、|――それも|存じておりますが、|血が|付いていちゃ、|気味が|悪うございます」


「どうして|付いた|血だ」


「主人を|介抱しようと|思いましたので、|ヘエ」


こう|言ってしまえば|何でも|ありませんが、|平次は|一脈の|疑念が|残っているらしく、|番頭が|向うへ|行ってしまうと、|ガラッ八に|言い付けて、|文次の|身持と、|金の|出入、|借金、|貯蓄等のことを|調べさせました。

三番目は|妾の|お直。



「親分さん、|お手数を|掛けて、|本当に|済みませんねえ」


主人が|死んでも、|化粧だけは|忘れなかった|様子で、|帯の上を|叩いて、|こう|流し眼に|平次を|見るといった、|世にも|厄介な|人種です。


「お前さん、|主人と|仲が|悪かったそうだね」


と|平次。


「とんでもない、|――主人は|本当に|よく|可愛がって|下さいましたよ」


「二三日前から、|出すとか、|出るとかいう|話が|あったそうだが」


「御冗談で|――三月に|なったら|箱根へ|湯治に|行く|約束は|しましたが、|その話を|小耳に|挟んで、|とんだことを|言い触らした|者が|あるのでしょう。|本当に|奉公人達というものは――」

自分が|元奉公人だった|お直は、|二た言目には、|このせりふが|出るのでした。


「主人から|貰う|手当は|どうなっているんだ」


「そんなものは|ございません。|給金を|貰えば|奉公人じゃ|ありませんか、|――主人は|よく|そう|申しました。|この家を|お前の|家と|思え、|不自由なことや、|欲しいものが|あったら、|何でも|言うように――って、|ホ、|ホ」


隣の|部屋に、|その|主人|万兵衛の、|怨みを|呑んだ|死体の|あるのさえ、|お直は|忘れている|様子です。

最後に|店から|呼出されたのは|息子の|万次郎でした。|――不眠と|不養生と、|酒精で、|眼の|血走った、|妙に|気違い染みた|顔は、|馴れない者には、|決して|好い|感じでは|ありません。


「お前さんの、|昨夜|帰った|時刻は、|誰も|知らないようだが、|本当のところは、|何刻だったろう」


平次は、|穏やかですが、|突っ込んだ|物の|訊きようを|します。


「今朝でしたよ、|辰刻(八時)頃で|しょうか――」


「誰も|見た者が|ないのは|おかしいが――」


「親父が|死んで、|大騒動していたんで、|気が|付かなかったのでしょうよ。|――私は|真っ直ぐに|二階へ|行って、|昨夜から|敷きっ放しの|床の中に|潜り込んでしまいました」


「誰にも|見られないというのは|可怪しい。|それに、|店には|お前さんの|履物も|無かったようだが」


平次は|一と押し|押してみました。


「雪駄は|いつでも|二階へ|持って|行きますよ。|店へ|置くと|誰かに|突っかけられて|かないません」


それは|ありそうなことでしたが、|二階へ|雪駄を|持って|行くのは、|決して|良い|趣味では|ありません。

が、|金六が|飛んで|行って|見ると、|雪駄――新しい|泥の|着いたのが、|二階の|格子の|内に、|間違いもなく|裏金を|上にして|並べてありました。

ちょうど|そんな事を|しているところへ、|ガラッ八の|八五郎が|帰って|来たのです。


「親分、|大変なことを|聞込みましたよ」


「何だ、|八?」


「支配人の|伝之助が、|小僧を|使いにやって、|三百両の|現金を|持出していますよ」


「いつだ、|それは?」


「今日、|――それも|二た刻ばかり|前」


「フーム」


「日頃、|兄の|物真似で、|遊びが|激しいから|借金こそあれ、|金の|あるはずは|ない|伝之助です。|それが|今日に|限って|三百両も|持出させたのは|不思議じゃ|ありませんか」


これは|幾通りにも|考えられますが、|一番|通俗な|解釈は、|騒ぎの|大きくなる|前に、|兄を|殺して|くすねておいた|金を|持出させ、|火の付くように|催促されている|借金の|一と口だけでも、|免れようと|いうのでしょう。||一番|小さい|小僧に|持出さしたのは|思い付きですが、|権柄ずくで|物を|言い付ける|習慣が|付いているので、|うっかり|心付けを|しておかなかったのが、|ガラッ八ごときに|してやられる、|重大な|失策に|なったのです。


「野郎、|神妙にせい、|兄などを|殺して、|太え|奴だ」


洲崎の|金六は、|もう|伝之助を|引立てて|来ました。|まだ|縄を|打ったわけでは|ありませんが、|物馴れた|鋼鉄のような|手が|伝之助の|手首を|ピタリと|押えているのです。


「あッ、|それは|間違いです。||叔父さんは、|下手人じゃ|ありません」


美しい声――少し|うわずっておりますが、|人の|肺腑に|透るような、|一番|印象づける|美しい声と|共に、|十八九の|娘が|飛び込んで|来ました。


「お前は|お藤、|――こんな|場所へ|入っちゃ|ならねえ」


金六は|そう言いながらも、|眼は|言葉の|調子を|裏切って、|微笑を|湛えております。|この娘だけが、|甲州屋中での、|美しい|明るい|存在だったのです。


「でも、|見す見す|間違いを|するのを|見ては|いられません」


娘は|全身を|金六と|平次の|前へ|晒しました。|死んだ|主人|万兵衛の|幼友達、|江戸一番と|言われた|蒔絵の|名人、|尾張町の|藤吉の|娘の|お藤というのは|これでしょう。

若く|美しく|健康と|幸福を|撒き散らして|歩くような|娘で、|この|陰惨な|家には、|一番|似つかわしくない|存在でも|あります。|それだけにまた、|主人|万兵衛が|可愛がっても|いたのでしょう。


「間違いとは|何だ、|お藤」
と|金六。


「でも、|伝之助叔父さんは|店中で|知らぬ者のない|左利きで、|箸と|筆を|右に|持つのが|不思議なくらいです。|旦那様の|疵は、|右の|頸筋で、|後ろから|右手に|剃刀を|持って|斬ったのでしょう。|――そんな事が|出来るものですか、|伝之助叔父さんは、|右手に|刃物を|持つと、|紙も|切れないくらいなんです」


「‥‥」


「それに、|伝之助叔父さんは|あの時、|土蔵の|中に|入っていました」


「えっ、|お前は|どうして|それを?」


驚いたのは|金六――いや、|それよりも|驚いたのは|伝之助自身でした。


「朝の|御飯が|済むと、|そっと|入って、|半刻ばかり|何かしていました。||多分、|お金を|取出したのでしょう。||金箱の|鍵は|むずかしいから、|旦那でないと、|なかなか|開かないそうです」


お藤の|言葉には、|寸毫も|疑いを|挟む|余地は|ありません。


「それは|本当か、|伝之助」と|金六。


「面目|次第も|ございません。|――今日に|迫った|内証の|払い、|どう|工面しても|三百両とは|纏まらなかったので、|兄には|済まないと|思いましたが、|朝の|忙しいところを|狙って、|そっと|蔵の中に|忍び込み、|違った|鍵と|釘で|大骨折りで|金箱を|開け、|三百両|取出したに|相違ございません。|その証拠は、|開けるには|どうやら|開けましたが、|あとを|閉める|工夫が|付かないので、|金箱は|そのまま|錠を|おろさずに|あります」


打ち萎れた|伝之助に|嘘が|ありそうも|ありません。


「三百両は|どこへ|やった」


「そのうちに|兄が|殺されて、|家中が|騒ぎに|なりました。||金を|持っていると|疑われる|基ですが、|私が|出掛けるわけにも|参りません。||工夫に|余って、|口の|堅い、|一番|小さい|小僧に|八幡前まで|持たしてやりました。||――金を|取出したのは|悪うございますが、|兄を|殺めるような|私では|ございません」


何という|ことでしょう。||平次の|明智を|働かせるまでも|なく、|たった|十九の|お藤が、|即座に|伝之助に|掛る|疑いを|解いてしまったのでした。

次は、|誰でしょう。


「親分、|この野郎が|逃出しましたよ」


ガラッ八の|八五郎が、|番頭の|襟髪を|取って|引立てて|来たのは|もう|申刻(午後四時)を|廻る|頃でした。


「何だ、|文次じゃ|ないか」


金六は|飛付くと、|八五郎の|手から|もぎ取るように、|その顔を|挙げさせます。

青い|やるせない|顔と、|狐のような|キョトキョトした|態度は、|金六の|心証を、|最悪の|方面へ|引摺り込みます。


「どこへ|逃げる|積りだ、|――手前|覚えが|あるだろう」


「‥‥」


「白状して、|お上の|お慈悲を|願え、|馬鹿野郎」


金六の|腕は、|腹立紛れに、|文次の|胸倉を|小突き廻します。


「私は|何にも|知りません」


「知らない者が|逃出すかい、|太い|野郎だ、|――着物の|血を|洗ったと|聞いたときから|変だとは|思ったが|まさか|逃出すとは|思わなかった。||とんでもねえ|奴だ」


金六は|すっかり|ムキに|なります。


「金六兄哥、|その番頭は|少し|臆病過ぎは|しないか、|――顫えてるじゃ|ないか」


平次は|注意しましたが、|金六|いっかな|聴くことでは|ありません。


「芝居だよ、|これは。|悪者も|これくらい|劫を|経ると、|いろいろな|芸当を|する」


金六は|双手を|掛けて|さいなみ|始めました。


「親分さん、|――こんな事を|言っちゃ|悪いでしょうか」


お藤は|たまり兼ねた|様子で、|薄暗い|部屋の|中へ、|邪念のない――が、|おろおろした|顔を|出します。


「お藤さん、|構わないから、|思い付いた|事は|みんな|言ってみるがいい、|――とんだ|人助けに|なるかも|知れない」


平次は|精一杯の|柔かい|調子で、|この|聡明そうな|処女を|小手招ぎました。

奉公人にしては|贅沢な|銘仙の|袷、|赤い|鹿の子の|帯を|締めて|洗ったばかりらしい|多い髪を、|無造作に|束ね、|脅えた|小鳥のように|逃げ腰で|物を|言う|様子は、|不思議な|魅力を|撒き散らします。


「文次どんは|下手人じゃ|ありません。|お店から|一寸も|動かなかったんですもの」


「それだけか」


「それに、|洗った|着物の|血は|裾へ|付いておりました。|後ろから|旦那を|斬ったのなら、|返り血は|顔か|肩か|胸へ|付くはずです。|あれは|やはり|騒ぎに|驚いて|駆けつけた|時、|裾へ|付いた|血です」


「‥‥」


「文次どんは、|店中の|評判に|なっているほど|臆病なんです。|着物の|血を|洗って|とがめられたので、|すっかり|脅えて、|今度は|縛られるに|相違ないと|思い込んだんでしょう。|――逃げ出したのは、|この人の|臆病の|せいで、|旦那を|殺したためじゃ|ありません。|嘘だと|思うなら、|店の|手代、|小僧さん達に|聞いて|御覧なさい。|――文次さんは|御飯の|後で|店から|少しも|動かないのは、|私も|よく|知っております」


銭形平次に|一句も|言わせないような|明察です。|この|不思議な|娘の|弁護を、|文次は|なんと|聴いたでしょう。|金六の|逞しい|腕の下に|さいなまれながらも、|両手を|合せて、|ポロポロと|泣いているのでした。


「娘さんの|言う通りだ。|金六兄哥、|その番頭さんは|人を|殺せないよ」
と|平次。


「チェッ、|忌々しい|野郎だ」


金六は|突き飛ばすように、|文次を|放してやりました。

「銭形の、|これじゃ|どうにも|なるまい、|一度|引揚げると|しようか」

家中に|灯が|入ると、|年寄りの|金六は、|里心が|付いたように、|こう|言うのでした。

「いや、|もう|一と息だ。|――俺は|何だか、|次第に|解ってくるような|気がする」

平次は|少し|瞑想的に|なっております。

店の|次の|八畳、|古い|道具の|多い|部屋ですが、|灯が|点くと、|それでも|少しは|華やかに|なります。

「八、|お直を|呼んでくれ」

「合点」

八五郎は|柄に似合わず|軽快に|飛んで行くと|まもなく|妾の|お直を|伴れて――いや、|お直に|引摺られるように|入って来ました。

「お前さんの|手文庫の|中から、|小判で|二百三十両ほど|出て来たが、|あれは|どうした|金だい」

平次は|この|念入りに|化粧した|顔を、|出来の悪い|人形でも|見るような|冷淡な|眼で、|ツクヅク|眺め入りながら|問いかけました。

「私の|お小遣ですよ」

「大層|多いようだが――」

「でも、|あれくらいは|持っていないと|心細いでしょう。|ホ、|ホ」

隣室に|万兵衛の|死骸の|あることを、|この女は|また|忘れた|様子です。

「お前さんは|万兵衛と|喧嘩を|していた、|どうかしたら|近いうちに|捨てられたかも|知れないぜ――」

「冗談でしょう、|親分さん」

「お前は、|この家の|跡取りの|万次郎とは|仲が|悪かったそうだね」

平次は|話題を|一転しました。

「継しい|仲ですもの、|それはね――」

白粉の|首を|襟に|埋めて、|妙に|感慨無量な|ポーズに|なります。

「主人には|嫌われ、|息子とは|仲が|悪い、|――お前の|行くところは|なくなっていた」

「そんな事は|ありませんよ、|親分」

「それじゃ|訊くが、|今朝は|主人と|睨み合って|朝飯も|そこそこに、|どこかへ|姿を|隠したそうだが、|――あの|騒ぎの|起るまで|四半刻(三十分)ばかりの|間、|どこに|居なすった」

「私の|部屋ですよ」

「誰か|見ていたのか」

「いえ」

「誰も|見ないとすると、|自分の|部屋に|居たか、|湯殿に|居たか|判るまい」

「親分、|そりゃ|可哀想じゃ|ありませんか。|私は、|そんな|大それた|女じゃ|ありません」

「気の毒だが、|疑いは|みんな|お前の|方へ|向っている」

「そんな、|そんな、|馬鹿なことが|あるものですか、|私は|口惜しいッ」||

お直は|とうとう|泣き出してしまいました。|白粉の|凄まじい|大崩落、|春雨に|逢った|大雪崩のようなのを、|平次は|世にも|真顔で|凝っと|見詰めております。

「親分さん、|――それじゃア、|お直さんが|可哀想じゃ|ありませんか、|そんなに|いじめて――」

お藤は|見兼ねた|様子で、|また|入って来たのです。

「お藤さんか、|気の毒だが、|主人殺しは|この女より|外にない」

「いえ、|大変な|間違いです。|お直さんは|良い|人です。|――それに|旦那が|死ねば、|この先|お直さんの|面倒を|見てくれる|人が|ありません、|万次郎さんとは|仲が|悪いし」

お藤は|やはり|一番|壺にはまった|事を|言いました。

「で――?」

「家中の者が|皆んな|疑われても、|お直さんだけには、|疑いが|掛らないはずです」

「居間に|一人で|居たのを|誰も|見た者は|ない」

「それだけは|嘘です、|親分さん、|――聴いて|下さい。|お直さんは|あの時、|裏口で|私と|愚痴を|言っていたんです。|御飯の|後|四半刻ばかり、|旦那の|事を|かれこれ|言ったので、|申上げ難かったのでしょう、|――ねえ、|お直さん」

お直は|うなずきました。|一言も|口は|ききませんが、|その眼には、|感謝らしい|光が|動きます。

「御飯の|後、|あの騒ぎの|あるまで、|私と|お直さんは|一緒でした。|どんな事が|あっても、|お直さんだけは|下手人じゃ|ございません」

屹としたお藤の|顔、|その|美しさも|格別ですが、|人に|疑わせるような|陰影は|微塵も|ありません。

  1. 岡っ引は、江戸時代の町奉行所の同心に雇われた非公式の捜査協力者です。
    正式な役人ではなく、町人身分のまま犯罪捜査や治安維持を手伝う存在でした。「目明し(めあかし)」「手先」とも呼ばれます。給金は奉行所からではなく、雇い主の同心や与力から個人的に支払われていました。
    十手を預かることで身分を示し、子分(下っ引)を使って情報収集や犯人の追跡などを行いました。平次のように優秀な岡っ引は与力から直接頼まれることもありましたが、あくまで非公式な立場でした。
    ↩︎
  2. 南町奉行所は、江戸幕府が設置した行政・司法機関です。
    江戸には「南町奉行所」と「北町奉行所」の二つがあり、一か月交代で江戸市中の治安維持、裁判、行政などを担当していました。南町奉行所は現在の東京都千代田区有楽町付近にありました。
    町奉行はその長官で、その下に与力・同心・岡っ引などが連なる組織でした。本作の笹野新三郎は「吟味与力」という役職で、犯罪の取調べを専門に担当する上級役人です。銭形平次のような岡っ引は、同心や与力に雇われた非公式の協力者という立場でした。
    ↩︎
  3. 溜(溜まり)とは江戸時代の|岡っ引や|その子分たちが|集まる|たまり場のことです。
    具体的には|次のような場所が選ばれていました。
    自身番(じしんばん) 町内の|自治的な|番所で、町人たちが|交代で|詰めている|場所。「番屋」とも。|岡っ引が|立ち寄りやすい|拠点でした。
    ・岡っ引の親分の家 平次のような|親分格の|岡っ引の|自宅が|子分たちの|たまり場に|なることが|多かったです。
    居酒屋・煮売屋 町の|情報が|自然と|集まる|飲食の場も|非公式の|溜として|機能しました。
    ・髪結床(かみゆいどこ) 江戸では|床屋が|情報交換の|場として|有名で、岡っ引も|よく|利用しました。
    ↩︎
  4. 洲崎(すさき)は、深川にある地名です。
    現在の東京都江東区東陽町あたりに位置し、江戸時代は隅田川河口に近い砂州の地域でした。江戸時代後期には洲崎弁天社(現在の洲崎神社)が有名で、門前町として栄えていました。
    金六が「洲崎の金六」と呼ばれるのは、その地域を縄張とする岡っ引であることを示しています。江戸の岡っ引は担当する縄張(地域)の名前を冠して呼ばれることが一般的でした。
    ↩︎
  5. 大川(おおかわ)は|隅田川の別名です。||
    江戸時代、|隅田川は|「大川」と|呼ばれており、|永代橋も|この大川に|架かる橋です。||
    鴎(かもめ)は|川や|海辺に|飛来する|白い鳥で、|江戸の|川沿いでは|よく|見られる|風景でした。||
    本文で|平次が|「馬鹿、大川の|鴎が|見て|笑っているぜ」と|言うのは、|こっそり|跟いてくる|八五郎を|からかった|言葉で、|「そんな|見え透いた|真似を|していると、|川の|鴎にまで|笑われるぞ」という|意味合いです。||江戸らしい|粋な|言い回しです。
    ↩︎
  6. 木場(きば)は|深川にある|材木の|集積地です。||
    江戸時代、|幕府が|材木を|管理するために|指定した|場所で、|全国から|運ばれてきた|材木を|川に|浮かべて|保管・売買する|大規模な|問屋街でした。||
    本作の|被害者|甲州屋万兵衛が|「深川木場の|甲州屋万兵衛」と|紹介されているのも、|材木問屋の|大旦那であることを|示しています。||
    現在も|東京都江東区に|「木場」という|地名が|残っており、|木場公園や|東京都現代美術館が|あります。||また|「木場の|旦那」といえば|江戸では|材木商の|大物を|指す|言葉でした。
    ↩︎