ゲ・ムーランの踊り子|第八章 ジャンヌの店

ゲ・ムーランの踊り子

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月23日現在未作成)

82


「じっとしててよ、|見られるでしょ」と|太った|娘が|下品な|笑いを|浮かべて|言った


そして|彼女は|立ち上がり、|レースの|カーテンで|隠された|大きな|窓へと|歩み寄り、|尋ねた


「ブリュッセル行きの|列車を|待ってるの?」


そこは|ギユマン駅の|裏手にある|小さな|カフェだった||部屋は|かなり|広く、|清潔で、|床の|明るい|タイルは|水で|しっかり|洗われ、|テーブルは|丁寧に|磨かれていた。


「こっちへ|来て|座れ」と、|ビールの|グラスを|前にした|男が|低く|言った。


「おとなしく|してる?」


女は|腰を|下ろし、|ベンチの上に|だらりと|置かれていた|男の|手を|取って、|テーブルの上に|置いた||


「商売の|旅?」


「どうして|そう|思う?」


「別に……|なんとなく……|いや、|違う!||じっとしてなきゃ、|店の前に|行くわよ……|それより|何を|飲むの?||同じもの?||私のも?」


この|カフェが|どこか|いかがわしく|感じられるのは、|その|清潔さや、|整った|様子や、|そして|どこか|店というより|家庭の|気配に|近いものが|漂っている|せいかもしれない。

カウンターは|とても|小さく、|ビールの|注ぎ口も|なく、|その|背後の|棚にも|グラスは|せいぜい|二十個ほどしか|並んでいなかった。

窓の|そばの|テーブルには|裁縫の|手仕事が|置かれ、|別の|場所には|筋を|取りかけた|インゲン豆の|籠が|見えた。

すべてが|きちんと|していた||匂いも|酒では|なく、|スープの|香りだった。

中に|入ると、|まるで|どこかの|家庭の|内側に|踏み込んでしまったような|気がした。

83


女は、|三十五くらいに|見え、|どこか|食欲を|そそる|魅力がありながら、|同時に|きちんとした|感じと|母親のような|雰囲気を|併せ持っていた。

彼女は、|ひっきりなしに、|客の|おどおどした|手が、|しょっちゅう|自分の|膝に|置かれるのを、|払いのけていた。


「食料品の|商売かい?」


そのとき、|ふと、|彼女は|耳を|そばだてた。||部屋から|直接|二階へ|通じる|階段が|あり、|その|上で|誰かが|起き上がったような|物音が|したのだ。


「ちょっと|待ってていい?」||


彼女は|聞き耳を|立てに|行き、|やがて|廊下へ|出て、|叫んだ。


「アンリさん!」


彼女が|客の|もとへ|戻ってくると、|客は|不安げで、|戸惑っていた。||さらに、|奥の|部屋から、|シャツ姿で、|付け襟もしていない|男が|現れ、|音もなく|階段へ|向かっていったため、|なおさらだった。||やがて|見えるのは|その|脚だけになり、|ついには|何も|見えなくなった。


「どうした?」


「何でもない。|昨夜、|酔っぱらっていた|若い男がいて、|上で|寝かせてあるのさ」


「それで……|アンリさんは……|あなたの|ご主人?」


女は|笑い、|その|豊かで|やわらかな|胸を|揺らした。


「店の|主人よ。|私は、|ただの|ウェイトレス、|気をつけて……|見られるわよ」


「でも……|その……」


「何?」


男は|顔を|真っ赤に|していた。||何を|してよくて、|何が|いけないのか、|もう|分からなくなっていた。||太っていて|生き生きとした|相手を、|目を|光らせて|見つめていた。


「少し|二人きりに|なれないかな」と、|彼は|ささやいた。


「ばかなの?|何を|するつもり?|ここは|まともな|店よ」


彼女は|言葉を|切り、|また|耳を|すました。||二階で|言い争いが|起きていた。||アンリが、|激しく|非難する|相手に、|落ち着いた|乾いた|声で|応じていた。


「ほんとに|子どもみたいな|やつよ」と、|太った|娘は|説明した。
「かわいそうなくらい。|まだ|二十にも|なっていないのに、|酒に|溺れて……|そのうえ|みんなに|おごったりして、|いい気に|なってたものだから、|いろんな|連中に|いいように|利用されたのよ」

84


ドアが|ひらき、|上の方で|声が|だんだん|はっきりしてきた。


「おれは|ポケットに|何百フランも|入ってたんだ!|それを|盗まれたんだ!||返せ、|おれの金を返せ」


「落ち着け!||落ち着け!||ここには|泥棒なんか|いない!||おまえが|豚みたいに|酔っぱらって|いなければ……」


「飲ませたのは|あんただろ」


「客に|酒を|出すのは、|自分の|財布くらい|見張れる|分別が|あると|思うからだ。||それにしても!||おまえを|止めなければ|ならなかった。||通りで|女を|引っかけに|行ったのは|おまえだ、|給仕の|女が|気に入らないという|理由でな。||それに|部屋まで|欲しがって、|ほかにも|何やら」


「金を|返せ」


「おまえの|金なんか|持っていない。||これ以上|騒ぐなら、|警察を|呼ぶぞ」


アンリは|まったく|動じて|いなかった。||動揺して|いたのは|若い|男の|ほうで、|言い争いを|続けながら|後ずさりで|階段を|降りていった。

顔は|やつれ、|目の|下には|くま、|口元は|いやな|形に|歪んでいる。


「おまえら|みんな|泥棒だ!」


「もう|一度|言ってみろ」


アンリは|数段|駆け下りると、|相手の|襟首を|つかんだ。


その|瞬間、|ほとんど|一場の|悲劇だった。||若い|男は|ポケットから|リヴォルヴァーを|引き抜き、|叫んだ。


「離せ、|さもないと」


セールスマンは|ベンチに|身を|押しつけ、|おびえながら|隣の|女の|腕に|しがみついた。||女は|前に|飛び出そうと|したが。

無駄だった。||アンリは|喧嘩に|慣れた|男らしく、|相手の|前腕を|鋭く|一撃し、|リヴォルヴァーは|手から|落ちた。



「ドアを|開けろ!」|と|彼は|息を|切らしながらも|女に|命じた。

85


それが|済むと、|彼は|その|若い男を|思いきり|突き飛ばし、|そいつは|歩道の|真ん中に|転がっていった。||それから|彼は|リボルバーを|拾い上げ、|それを|相手の|ほうへ|投げてやった。


「こんな|ガキどもが|家に|押しかけてきて|侮辱するとはな!||昨日は|いい気になって、|そこらの|やつに|金を|見せびらかしていたくせに」


彼は|髪を|整えながら、|ドアの|ほうへ|目を|やり、|巡査の|制服を|見つけた。


「こいつが|俺を|脅したって、|証人になるな?」と|彼は|気まずそうな|客に|言った。||「それに、|警察は|この|店を|知ってる」


歩道の|上では、|ルネ・デルフォスが|立ったまま、|服を|汚し、|怒りで|歯を|鳴らしながら、|何を|言っているのか|自分でも|わからないまま、|巡査に|答えていた。


「盗まれたと|言うのか?||まず、|君は|誰だ?||身分証を|見せろ……||それから、|この|武器は|誰のものだ?」


数人の|人だかり。||路面電車の|窓に|身を|乗り出す|連中。


「それから、|署まで|来てもらおう」


署に|着くと、|デルフォスは|激しい|怒りの|発作を|起こし、|警官の|すねを|蹴りつけた。||警部に|尋問されると、|彼は|まず、|自分は|フランス人で、|昨日|リエージュに|着いたばかりだと|語り始めた。


「この|カフェで、|連中に|酔わされて、|金を|全部|奪われたんだ」


だが、|一人の|巡査が|隅で|彼を|観察していた。||その男は|警部の|ところへ|行き、|小声で|何かを|耳打ちした。||署長は|満足そうに|微笑んだ。


「それより|君は、|ルネ・デルフォス|という|名前じゃないのか?」


「そんなことは|関係ない」


これほど|怒り狂った|客は、|めったに|見たことがなかった。||頭は|傾き、|口は|歪んでいた。


「それに、|盗まれたという|その|金は、|ある|踊り子から|盗んだ|金じゃないのか?」


「違う!」


「おとなしくしろ!||落ち着け!||話は|司法警察で|聞く!||デルヴィーニュ警部に|電話して、|この|いかれた野郎を|どうするか|指示を|仰げ……」

86


「腹が|減った!」||と|デルフォスは|相変わらず|不平たらたらの|子供みたいな|顔で|うなった。


肩を|すくめた。


「食わせないままに|しておく|権利なんか|ないぞ、|訴えてやる、|俺は」


「隣で|サンドイッチを|取って来い」


デルフォスは|二口|かじると、|残りを|嫌そうに|地面へ|投げた。


「もしもし、|ああ、|こいつは|ここに|いる、|いいだろう!||すぐに|そっちへ|送る、|いや、|何もない」


車の中で、|二人の|巡査に|はさまれた|デルフォスは、|最初は|頑なに|黙っていた。

やがて、|何も|聞かれていないのに、|つぶやいた。


「でも|殺したのは|俺じゃない、|シャボだ」


周りの者たちは|相手に|しなかった。


「親父が|州知事に|訴えるぞ、|あの人は|友達なんだ、|俺は|何も|していない!||財布を|盗まれて、|今朝は|カフェの|主人に|一文なしで|追い出されそうに|なったんだ」


「だが|その|拳銃は|お前のだろう?」


「あいつのだ、|騒いだら|撃つと|脅された、|そこに|いた|客に|聞けばいい」


司法警察の|建物に|入ると、|彼は|頭を|上げ、|偉そうな|顔を|しようとした。


「おう、|こいつか!」||と|一人の|刑事が|同僚と|握手しながら、|デルフォスを|頭から|足まで|眺めて|言った。


「警部に|知らせてくる」


彼は|すぐに|戻って来て、|吐き捨てた。


「待たせておけ!」


若者の|顔には|いらだちと|不安が|浮かび、|すすめられた|椅子を|拒んだ。

煙草に|火を|つけようとしたが、|手から|取り上げられた。


「ここでは|だめだ」


「自分たちは|吸ってるくせに!」


立ち去る|刑事が|ぶつぶつと|何か|言うのが|聞こえた。


「妙に|威勢のいい|小僧だ」


まわりでは、|人々が|相変わらず|煙草を|吸い、|書き、|書類を|調べながら、|ときどき|言葉を|交わしていた。

87


呼び鈴が|鳴った。||刑事は|じっとしたまま|デルフォスに|言った。


「警部の部屋に|入れ、|奥の|扉だ」


部屋は|広くは|なかった。||室内は|煙で|青く|かすみ、|秋になって|初めて|火を入れた|ストーブが、|風が|吹くたびに|ごうごうと|音を立てていた。

警視デルヴィーニュは|椅子に|ふんぞり返っていた。||奥の|窓際、|逆光の中に、|誰かが|椅子に|座っていた。


「入れ、|座れ」


座っていた|影が|立ち上がった。

薄暗い中に、|ジャン・シャボの|青白い顔が|ぼんやりと|見え、|友人のほうへ|向けられていた。

すると|デルフォスが、|皮肉に|言った。


「何の用だ」


「何もないさ。||若いの、|ちょっと|いくつか|答えてもらうだけだ」


「俺は|何も|してない」


「まだ|何も|責めてはいない」


シャボのほうへ|向き直って、|ルネは|うなった。


「こいつ|何を|しゃべった|嘘に|決まってる」


「まあ、|落ち着け。||質問に|答えるんだ。||おまえは|座ったままだ」


「だけど」


「座っていろと|言ってる。||さて、|デルフォス、|ジャンヌの|店で|何をしていた」


「盗まれたんだ」


「それだけか。||昨日の|午後に|あそこへ|来て、|もう|酔っていたな。||二階へ|女給を|連れていこうとして|断られると、|通りで|女を|拾ってきた」


「俺の|勝手だ」


「皆に|酒を|おごったな。||何時間も|ひどく|酔ってて、|テーブルの下に|転がりこんだ。||店主が|哀れに思って、|ベッドに|寝かせてやった」


「盗まれたんだ」

88


「つまり、|おまえは|自分の|ものでもない|金を|あちこちに|ばらまいた|というわけだ。||まさに、|その朝に|アデルの|バッグから|取られた|金だ」


「違う!」


「その|金で、|まず|この|拳銃を|買ったな。||何のためだ」


「拳銃が|欲しかったからだ!」


シャボの|顔つきは、|見ものだった。
彼は|友人を|言いようのない|驚きで|見つめていた。||まるで|自分の|耳を|疑っているかのように。
まるで|今、|突然|別人の|デルフォスを|見ているようで、|それが|恐ろしかった。
口を|はさんで、|黙らせたいと|思っている|様子だった。


「なぜ|アデルの|金を|盗んだ?」


「彼女が|くれたんだ」


「本人は|まったく|逆の|証言をしている。||おまえを|告発しているぞ」


「嘘だ!||あいつが|くれたんだ。||切符を|買うために、|二人で|出るつもりだったから」


言葉を|思いつくままに|投げつけていて、|考えもせず、|矛盾も|気にしていないのが|はっきりと|わかった。


「では、|おとといの夜、|ゲ・ムーランの|地下室の|階段に|隠れていたことも、|否定するのか」


シャボは|身を|乗り出した。||まるで|『気をつけろ、否定できるはずがない、|認めるしかなかったのだ』と|言っているかのように。

だが|その時には|もう、|デルフォスは|立ち上がり、|仲間のほうへ|向き直って、|叫んでいた。


「それも|こいつが|しゃべったんだ!||嘘だ!||俺を|引き止めたかっただけだ!||俺は|金なんか|いらない!||親父は|金持ちだ!||頼めば|いいだけだ!||最初に|言い出したのは|こいつだ!」


「それで、|すぐに|出ていったのか」


「そうだ」


「家に|帰ったのか」


「そうだ」


「ポン=ダヴロワ通りで、|フリットと|ムールを|食べたあとでな」


「そうだ…|たぶん」


「だが、|その時は|シャボと|一緒だった。||ウェイターが|そう|証言している」

89


シャボは、|両手を|ぎゅっと|握りしめ、|その目は|懇願するように|相手を|見続けていた。


「おれは|何も|してない!」と|デルフォスが|言い張った


「君が|何か|したとは|言っていない」


「じゃあ?」


「何もしてない!」


デルフォスは|息を|整え、|斜めに|視線を|向けた。


「地下室から|出る|合図を|出したのは|お前か?」


「違う」


「いずれにせよ、|先頭を|歩いていたのは|お前で、|最初に|死体を|見つけたのも|お前だ」


「違う」


「ルネ!」と|シャボが|叫んだ。


警部は|再び|彼を|座らせ、|黙らせた。||だが、|その直後、|彼は|力なく|つぶやかずには|いられなかった。


「どうして|嘘を|つくのか|わからない。||おれたちは|殺してない。||盗む|時間すら|なかった。||お前が|先に|歩いていた。||マッチを|擦ったのも|お前だ。||おれは|トルコ人を|ほとんど|見てない。||床に|何か|あると|感じただけだ。||あとで|お前が|『片目が|開いてて|口が』|と、|言ったんだ」


「それは|興味深いな」と|デルフォスが|皮肉に|言った


そのとき、|シャボは|友人より|五歳は|若く|見え、|しかも|はるかに|頼りなく|見えた。||彼は|何を|考えていいか|わからなかった。||自分が|相手を|説得|できていないこと、|自分のほうが|弱いことを|感じていた。

デルヴィーニュ警部は|二人を|交互に|見つめた。


「話を|合わせろ、|君たち|怖くなって|あわてて|出てきたから、|扉を|閉め忘れた。||そのあと、|ムール貝と|フライドポテトを|食べに|行った」


そして、|突然、|デルフォスの|目を|見た。


「おい!||死体に|触ったのか?」


「おれが?||そんなわけ|ない!」


「近くに|柳の|荷物入れは|あったか?」


「いや、|何も|見てない」


「叔父の|引き出しから|金を|取ったことは|何度ある?」


「それは|シャボが|そう|言ったのか?」


そして、|拳を|握りしめた。

90


「この|ばか!||図々しいやつだ!||でたらめを|でっちあげてる!||あいつこそ、|『小口現金』の|金を|くすねてたんだ!||それを|埋め合わせる|金を|出してやってたのは|おれだ!」


「やめてくれ!」と|シャボが|両手を|合わせて|懇願した


「おまえが|嘘を|ついてるんだ!」


「違う!||ルネ、|聞け!||犯人は……」


「何だ?」


「犯人は……|もう|捕まってる……|おまえ……」


デルフォスは|デルヴィーニュ警部を|見て、|戸惑った声で|尋ねた。


「何を|言ってるんだ……|犯……|犯人が……」


「新聞を|読んでいないのか?||もっとも、|酔いを|抜くのに|手いっぱいだったんだろうな。||では、|あの夜|ゲ=ムーランに|いて、|翌日|おまえのあとを|つけてきた男を、|覚えているかどうか|答えてもらおう」


ルネは|汗を|ぬぐい、|もはや|友人の|いる|隅を|見ることが|できなかった。

隣の|部屋で|呼び鈴が|鳴った。||隣室から|メグレを|呼びに|行かねば|ならなかった。||扉が|開き、|彼は|ジラール刑事に|伴われて|入ってきた。


「さっさとしろ!||明るいところ|立ってくれ。||さあ、|デルフォス、|この男を|覚えているか?」


「こいつだ!」


「以前に|見たことは|なかったのか?」


「ない!」


「話しかけられた|ことも|ないな?」


「ないと|思う……」


「だが、|たとえば|ゲ・ムーランを|出たとき、|近くを|うろついては|いなかったか?||よく|思い出してみろ……」


「待て……|ああ……|いたかもしれない……|角に|誰か|立っていて、|今|考えると|あいつだったのかもしれない……」


「かもしれない?」


「いや、|そうだ……|間違いない……」


小さな|執務室に|立つ|メグレは、|ひどく|大きく|見えた。||だが、|口を|開いたときに|聞こえてきたのは、|かすかな、|とても|柔らかい|声だった。

91


「お前は|懐中電灯は|持っていなかった、|そうだろう?」


「はい。||なぜです?」


「それに、|広間の|電気も|つけなかった。||つまり、|お前は|マッチを|一本すっただけだ。||死体から|どれほど|離れていたか、|言ってみろ」


「でも……。|わかりません……」


「この|部屋の|壁から|壁までより、|遠かったか」


「だいたい|同じくらいです」


「すると、|四メートルだ。||しかも|お前は|動転していた。||初めての|本物の|押し込みだったからな。||横たわった|影を|見て、|すぐに|死体だと|思いこんだ。||近づきもしなかった。||触れもしなかった。||だから、|その男が|もう|息を|していなかったか|どうか、|お前には|確信がない。||マッチを|持っていたのは|誰だ」


「僕です!」


デルフォスは|白状した。


「長く|燃えていたか」


「すぐに|落としました……」


「すると、|例の|死体は|ほんの|数秒しか|照らされていない|わけだ!||デルフォス、|お前は|グラフォプロスだと|見分けたと、|本当に|言い切れるのか」


「黒い|髪を|見ました……」


彼は|驚いたように|あたりを|見回した。||自分が|本格的な|尋問を|受け、|しかも|うまく|操られていたことに、|今になって|ようやく|気づいたのだった。||彼は|うなった。


「もう|警部にしか|答えません!」


警部は|すでに|電話の|受話器を|取っていた。||デルフォスは、|警部が|求める|番号を|聞いて、|身を|震わせた。


「もしもし!||デルフォス氏ですか?||五万フランの|保釈金を|まだ|出す気が|あるか、|それだけ|伺いたい。||予審判事には|話してあります。|検察にも|回してあります。||ええ……。|わかりました……。||いや!|わざわざ|来なくていい。||直接|済ませたほうが|いいでしょう……」


ルネ・デルフォスには、|まだ|事情が|のみこめなかった。||隅にいた|ジャン・シャボは|身じろぎもしなかった。


「まだ|言い張るのか、|デルフォス。||全部|やったのは|シャボだと」

92


「ああ」


「ではな、|お前たちは|自由だ……|帰れ……|父親が|約束してくれた、|お前たちを|責めたりは|しないと……|ちょっと待て……|シャボ、|お前は|まだ|言い張るのか、|金を|盗んだのは|デルフォスで、|お前は|それを|隠そうと|しただけだと?」


「あいつです……|僕は……」


「なら|話は|お前たち同士で|つけろ。|さっさと|行け、|二人ともだ……|いいか、|騒ぎは|起こすなよ、|なるべく|目立たないように|しろ……」


メグレは|無意識に|ポケットから|パイプを|取り出した。||だが|火は|つけなかった。||彼は|途方に暮れ、|何を|すべきか、|何を|言うべきかも|わからずにいる|若者たちを|見つめていた。||警部デルヴィーニュは|立ち上がり、|彼らを|外へ|押し出さねば|ならなかった。||


「いいか、|揉めるなよ!」||「司法の|呼び出しには|いつでも|応じられるようにしておけ」||


二人は|足早に|刑事たちの|部屋を|横切り、|すでに|その|出口の|ところで、|デルフォスは|振り返り、|険しい顔で|仲間に|向かって、|激しい|言葉を|吐き始めたが、|それは|聞き取れなかった|

電話の|ベルが|鳴った。


「もしもし!|デルヴィーニュ警部ですか?|お邪魔して|すみません、|警部……|こちらは|シャボの|父ですが……|何か|新しいことは|ありますでしょうか?」||


警部は|微笑み、|泡石の|パイプを|机に|置き、|メグレに|目配せした。


「デルフォスは|今しがた、|あなたの|息子と|一緒に|ここを|出たところです?||ええ、|そうです!|おそらく|数分もすれば|ご自宅に|着くでしょう……|もしもし!|ひとつ|忠告させてください、|あまり|厳しくなさらないように……」


雨が|降っていた。||通りでは、|シャボと|デルフォスが|歩道を|足早に|進み、|彼らを|知らない|群衆を|かき分けていた。

二人の|会話は|まとまった|ものでは|なかった。||だが|百メートルほど|進むごとに、|どちらかが|わずかに|顔を|向け、|刺すような|一言を|投げつけ、|それに|苛立った|返事が|返ってきた。||

ピュイ=アン=ソック通りの|角で、|二人は|分かれた。||一人は|右へ、|もう一人は|左へ、|それぞれ|自分の|家へと|帰っていった。

93


「聞いてください!||息子は|もう|自由です!||無実だと|認められました」


そして|シャボ氏は|自分の|事務室を|出て、|四番電車1を|待ち、|何年も|顔なじみの|運転手の|そばへ|乗りこんだ。


「気をつけてくれよ!||故障なんか|するなよ!||うちの|息子は|自由なんだ!||警部じきじきに|電話してきて、|自分の|間違いを|認めたと|言ったんだ」


彼が|笑っていたのか、|泣いていたのかは|わからなかった。||とにかく、|見慣れた|通りが|流れていくのを|見えなくするほど、|目には|涙の|曇りが|あった。


「まさか、|息子より|先に|家へ|着くかも|しれんとはな!||そのほうが|いいだろう。||女房は|あいつを|ひどく|迎えかねんからな。||女ってものは、|わからんことが|ある。||あんたは|ほんの|一度でも、|あいつが|犯人だと|思ったか?||内緒で|言ってくれ」


彼は|痛ましいほどだった。||運転手に|「いいえ」と|言ってくれと|懇願していた。||


「私ですか、|まあ……」


「あなたにも|考えは|あったろう」


「娘が、|ろくでなしの|男に|子どもを|つくられて、|そのまま|結婚するはめに|なってから、|私は|いまどきの|若い者を|あまり|信用しなくなりましてね」


メグレは|ジャン・シャボが|さっきまで|座っていた|肘掛け椅子に|腰をおろし、|デルヴィーニュ警部の|机の|向かいに|陣取っていた。||そして|机の|上に|置かれていた|相手の|煙草を|つまみあげた。


「パリからの|返事は|来ましたか」


「どうして|わかった?」


「それは!||あなただって|私と|同じように|見抜きますよ。||それより、|あの|籐の|荷物入れは?||どうやって|モデルヌ・ホテルの|外へ|出たか、|突き止められましたか?」


「さっぱりだ!」


デルヴィーニュ警部は|不機嫌だった。||パリから|来た|同業者に|腹を|立てていた。


「実を言うと、|あなたは|われわれを|からかって|いるんでしょう?||白状|してください。||何か|知っているんでしょう」


「では|こちらも|答えましょう。||何も|知りません!||本当です!||捜査材料は、|あなたと|ほぼ|同じだけです。||もし|私が|あなたの|立場なら、|同じように|あの|二人の|若造を|釈放していたでしょう!||ただし、|私なら|グラフォプロスが|ゲ・ムーランで|いったい|何を|盗んだのか、|それを|調べようとしますね」

94


「盗まれたのか?」


「いや、|盗もうとしたんです!」


「あいつが?||死んだ|男が?」


「それとも、|あいつが|誰かを|殺したのかも|しれません」


「もう、|わけが|分かりません!」


「待ってください!||殺したのか、|殺そうとしたのか」


「あまたが|私の|知らない|情報を|握っている|ことだけは|分かります」


「ほんの|少しです!||いちばん|大きな|違いは、|あなたが|ここ数時間、|あちこち|駆け回り、|検事局へ|行き、|人に|会い、|電話を|受けていたことです。||そのあいだ|私は、|サン=レオナールの|留置場で、|この上なく|静かな|時間を|過ごしていたのです」


デルヴィーニュ氏は、|わずかな|苦味を|にじませて|言い返した。


「あの|十三項目について|考えていたですね!」


「まだ|全部では|ありません。|いくつかだけです」


「たとえば|あの|柳の|荷物入れ!」


メグレは、|満ち足りたような|笑みを|浮かべた。


「また|それですか?||では、|すぐ|全部|お話し|したほうが|よさそうですね。||あの|荷物入れを|ホテルから|運び出したのは、|私です」


「空っぽで?」


「とんでもない。||中には|死体が|入っていました!」


「すると|あなたは|犯行は|そこで|行われたと?」


「オテル・モデルヌ、|グラフォプロスの|部屋で|行われたと|言うのです。||そして、|それこそが|この話で|いちばん|厄介な|点なんです。||マッチは|ありませんか」

  1. tram 4(四番電車) は、リエージュ市内を走る4番系統の路面電車です。||1930年代のリエージュには、市街地を結ぶ番号付きトラム路線網があり、行先や経路ごとに番号で呼ばれていました。息子の無実を知らされて興奮した父親が、事務所を飛び出し、いつもの四番電車に飛び乗って家へ急ぐ場面です。
    ↩︎