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「新聞記者が押しかけて来ることはないでしょうね?鍵をかけてください、いいですか?静かに話すほうがいいでしょう」
デルヴィーニュ警部は、同業者を見つめていた。それは、地方で、とりわけベルギーでは、パリから来た者に向けられる、あの無意識の敬意だった1。さらに、彼はさっき自分がしでかした失態に気まずさを感じていて、弁解しようとした。

「そんなことはない」メグレが言い切った。
「私はぜひとも逮捕される必要があった。もっと言うと、これからあなたは私を牢屋に送るんだ。そして、必要な間、私はそこにいるつもりだ。あなたの部下たちにも、私の逮捕が本当だと信じてもらう必要がある」

ベルギー人の顔つきがあまりにおかしかったので、彼は抑えきれず、思わず吹き出してしまった。相手は、上目づかいにメグレを見て、どういう態度を取るべきか考えていた。自分が滑稽に見えることを恐れているのが分かった。そして、相手が冗談を言っているのかどうかを見極めようとしていたが無駄だった。
メグレの笑いが、相手の笑いも引き出した。

「おやおや、なかなか面白いことを言うじゃないですか。あなたが牢に入るだって!ははは!」

「本気でそうしたいんだが」

「ははは!」
彼は、長いあいだ冗談だと思っていた。そして、相手が本気で話していると分かったとき、さすがに動揺した。
二人は、いま、向かい合って座っていた。書類でいっぱいの机が、そのあいだを隔てていた。ときどき、メグレは同僚の海泡石のパイプ2に、いまだに感心したまなざしを向けていた。
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「すぐに分かりますよ。もっと早く事情を話さなかったことはお詫します。しかしあとで分かると思いますがそれは不可能だったんです。犯行は水曜日に起きた、そうですね?よし。さてその前の月曜日、私は<オルフェーブル河岸>の自分の執務室にいたんです。そこへ<グラフォプロス>」という男の名刺が回されてきた。

いつものように、面会する前に外国人係へ電話してそいつの身元を当たらせた。だが、何も出てこない。実はグラフォプロスはパリに着いたばかりだったのです。執務室で会ってみると、そいつは一時的に動揺している男という印象だった。彼は自分は各地を旅している、命を狙われている心当たりがあると言う。そして最後に、刑事を一人昼夜つけてもらうといくらかかるかと聞いてきた。よくある話だ3。私は料金を伝えた。そいつは腕のいい者を強く望んだが、自分がどんな危険にさらされているのか、敵が誰なのかについては、はっきり答えなかった。グラン・ホテルの住所を聞き、その日の夜のうちに希望どおりの刑事を送り込んだ。翌朝、私は改めて身元を調べた。ギリシャ大使館からの返答では、そいつはアテネの大銀行家の息子で、ヨーロッパ中を遊び歩く貴族気取りの生活をしている男だという。あなたもどうせただの遊び人だと思ったでしょう」


「そのとおりです。しかし、本当に間違いないのですか…」

「聞いてください。火曜の夜、そのグラフォプロスを護衛していた刑事が、驚いた様子で報告してきた。あの男は道々、ずっと自分をまこうとしていたというんだ。出入口が二つある家を使ったり、タクシーを何度も乗り継いだり、誰でも知っている小細工ばかりだ。しかも水曜の朝のロンドン行きの飛行機の切符を買っているという。正直に言うと、仕事でロンドンへひとっ走り、それも飛行機でというのは、悪くないなと思った。そこで私が直接尾行を引き受けた。そして水曜の朝、グラフォプロスはグラン・ホテルを出た。だがル・ブルジェ4へは向かわず、北駅へ行き、ベルリン行きの列車の切符を買った。

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同じサロン車5に乗っていた。向こうが私に気づいたかどうかは分からない。いずれにせよ、話しかけてはこなかった。リエージュであいつは降り、私はそのあと降りた。<オテル・モデルヌ>に部屋を取り、私はその隣の部屋を選んだ。王立劇場の裏手のレストランで食事をした」

「ベカス6だ!」とデルヴィーニュが口をはさんだ。「あそこはうまい!」

「とくにリエージュ風の腎臓料理7はいい、確かに。だが私の感じでは、グラフォプロスはリエージュに来たのが初めてのようだった。駅でオテル・モデルヌを教えられ、ホテルでベカスを勧められた。さらにべカスのウェイターからゲ・ムーランの話を聞いていた」


「つまり、偶然そこへ流れ着いたわけですな」とデルヴィーニュがぼんやりと言った。

「偶然かそこまでは分からない。私は少しあとからキャバレーに入った。店の踊り子がすでに彼のテーブルについていたが、それ自体は珍しくない。正直ひどく退屈だった。私はああいう夜の店が嫌いでね。最初は女を連れて出るだろうと思った。だが女が一人で帰る様子だったので、少し一緒に歩いて二、三聞いてみた。女は、あの外国人に会うのは初めてで、約束はされたが行くつもりはないと言った。それに、退屈な男だとも付け加えた。それだけだった。

私は引き返した。店の主人がウェイターといっしょに外へ出ていくところだった。そのすきにあいつは店を出たのだろうと思い、近くの通りを少し探した。ホテルへ行って、戻っていないことを確かめた。ゲ・ムーランへ戻ると、扉はもう閉じられていて、中にも明かりはなかった。要するに、これ以上ないほど空振りだ。とはいえ、深刻に考えていたわけでもない。巡査にほかに開いている店がないか聞いて、四つか五つ教えられたので、順に回ってみたが、あのギリシャ人は見つからなかった」

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「それは、たいしたものです」と、デルヴィーニュ警部はつぶやいた。

「まあ聞いてくれ。私はあなたたちに名乗り出て、リエージュ警察と協力して捜査を続けることもできた。だが、私がゲ・ムーランにいたことを見られている以上、犯人に警戒させるのは避けたかった。要するに、犯人の範囲はかなり絞られている。私はまず、あの二人の若者に目をつけた。あの落ち着きのなさは見逃せなかった。そこからアデルへ、そして被害者の煙草入れへとつながった。あなたたちは事を急ぎすぎた。ジャン・シャボの逮捕、デルフォスの逃亡、一同に介して対決‥‥そうしたことは私は新聞で知った。そのついでに、私自身が有力な容疑者として捜されていることも知った。それだけだ。だから、それを利用した」

「利用した?」

「では一つ聞きたい。あの二人の若者が有罪だと思うか?」

「正直に言えば……」

「わかった。やはりそうは思っていない。誰も思っていない。そして犯人も、それをよく分かっている。いつかは別の方面を探られると感じている。だから用心している。これでは犯人が軽率な行動をしてくれるとは思えない。だがその一方で、新聞が書き立てている『肩幅の広い男』に強い嫌疑がかかっている。そこで、その『肩幅の広い男』は芝居がかった状況で逮捕されたことにする。世間では、今夜、真犯人が捕まったと思われる。この印象を広める必要がある。すると明日には、私が<サン=レオナール刑務所>にいる、そしてまもなく自白が得られると期待されている、こう書き立てるでしょう」

「本当に刑務所へ行くつもりですか?」

「いけませんか?」
デルヴィーニュ警部は、その考えにどうしてもなじめなかった。

「もちろん、行動の自由は保障しますが……」

「いや、それでは困ります。むしろ、いちばん厳しい待遇にしてください」
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「パリではずいぶん妙なやり方をするもんですな?」

「そんなことはありません。たださっき言ったとおり、犯人を安心させる必要があるのです。犯人がいればですが‥‥」
こんどは赤い口髭の警部がぎょっとした。

「どういう意味です?まさかグラフォプロスが自分で棍棒で頭を叩き割って、それから柳の荷物入れに自分で入り、動物園まで運ばせたとでも言うつもりですか?」
メグレの大きな目は妙に素朴そうだった。

「どうですかな?」
そう言いながらパイプにタバコを詰める。

「そろそろ私を牢屋へ連れていってください。その前に、いくつかの点で話を合わせておいたほうがいいでしょう。書いてください」
口調はごく単純だった。むしろ控えめですらあった。だがそれでもいつのまにか彼が捜査の主導権を握っていた。

「聞きましょう」

「第一に、月曜日、グラフォプロスはパリ警察に保護を求めた」
「第二に、火曜日、彼は自分を見張っている刑事を出し抜こうとした」
「第三に、水曜日、ロンドン行きの切符を買ったあと、ベルリン行きの切符も買い、リエージュで降りた」
「第四に、彼は町に不案内らしく、結局ゲ・ムーランに入り、とくに目立ったことはしなかった」
「第五に、私が踊り子と一緒に外へ出たとき、店には四人いた。シャボとデルフォスは地下室の階段に隠れており、店主とヴィクトールはホールにいた」
「第六に、私が戻ると、店主とヴィクトールは出て行き、店を閉めた。連中の話では、シャボとデルフォスはまだ中にいた。」
「第七に、若い二人は、閉店後十五分ほどして地下から出てきたと言い、そのときにはグラフォプロスはすでに死んでいた」
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「第八に、それが事実なら、犯行は私が踊り子と少し歩いているあいだに行われた可能性がある。その場合、犯人はジェナロとヴィクトールだ」
「第九に、それが偽りなら、その時点で犯行はデルフォスとシャボ自身によって行われた可能性がある」
「第十に、シャボは嘘をついているかもしれず、その場合、事件がゲ・ムーランで起きたという証拠は何もない」
「第十一に、犯人が自分で死体を運んだ可能性もあるが、その運搬は別の誰かによって行われた可能性もある」
「第十二に、翌日、アデルは煙草入れを持っているが、それはデルフォスにもらったと言っている」
「第十三に、ジェナロ、踊り子、ヴィクトールの証言は一致して、ジャン・シャボの主張を否定している」
メグレは口をつぐみ、パイプを二、三ふかした。その相手は不安そうな目を彼に向けた。

「これは、とんでもないことだ」と彼はつぶやいた。

「何がとんでもない?」

「この事件の複雑さですよ。よく見れば見るほど」
メグレは立ち上がった。

「それでは、寝ることにします。サン=レオナールのベッドは悪くないでしょうな?」

「本当にあそこへ行くつもりですね」

「そういえば、あの若造の隣の牢屋にしてもらえるとちょうどいい。明日、あいつと対決させてくれと頼むことになるでしょう」

「その前に、仲間のデルフォスが見つかるかもしれませんが」

「それは気にしなくてもいいでしょう」

「二人が完全に無関係だと思いますか?予審判事は釈放の話など聞く耳はありませんよ。ところで、あなたのことはどう説明すればいいんです?」

「できるだけ後にしてもらえませんか?隣では何が起きてます?」

「おそらく新聞記者です。彼らに発表しなければなりません。あなたの身元はどうしましょう?」

「身元不明。名前もわからない。私からは何も見つかっていないと」
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デルヴィーニュ警部はまだ完全には納得していなかった。彼はなおも横目でメグレをうかがい、不安と驚きの入りまじった視線を向けていた。

「さっぱり分かりません!」

「私もです」

「まるでグラフォプロスは殺されるためだけにリエージュに来たようなものです。そうだ、そろそろ家族に知らせなければ。明日の朝、ギリシャ領事に会うことにしましょう」
メグレは山高帽を手に取っていた。もう出る用意ができていた。

「記者の前ではあまり丁重に扱わないように」と彼は言った。
相手が扉を開けた。大きな刑事部屋には、半ダースほどの記者が一人の男を取り囲んでいるのが見えた。デルヴィーニュ警部はその男に見覚えがあった。

それはホテル・モデルの支配人で、その日の午後にも来ていた男だった。彼は激しい調子で記者たちに話し、記者たちはメモを取っていた。突然、男は振り向き、メグレに気づき、顔を真っ赤にして指さした。

「こいつだ!間違いない!」

「分かっている。この男はあなたのホテルに泊まったと白状している」

「それに荷物入れを持ち出したことも認めましたか?」
デルヴィーニュ警部は訳が分からなかった。

「どんな荷物入れだ?」

「柳で編んだ荷物入れに決まっています!いまどきの使用人では、気づかずに長いこと放っておくところでした」

「わかるように説明しろ」

「こういうことです。ホテルの各階の廊下には、汚れたリネンを入れておく柳のトランクが置いてあります。ところが、さっき洗濯屋が来たときに、トランクが一つ足りないことに気づきました。三階のものです。女中に聞いたところ、ふたの具合が悪かったので、修理に出したのだと思ったらしい」


「中のリネンはどうした?」

「そこが妙なんです。中に入っていたリネンは、二階のトランクの中で見つかったんです」
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「それが死体を運ぶのに使われたトランクだと確かか?」

「いま遺体安置所から来たところで、そこで見ましたので」
男は息を切らしていた。こんな事件にこれほど深く関わっていることがまだ信じられなかった。
だが、いちばん動揺していたのはデルヴィーニュ警部のほうで、メグレの方を振り向くことすらできなかった。記者たちの存在も、メグレとの事前の取り決めも忘れてしまっていた。

「これはどういうことですか!」

「別に言うことはない」とメグレは平然と答えた。

「聞いてください」と、ホテル・モデルヌの支配人は続けた。
「あの男はわからないよう荷物入れを持ち出すこともできたはずです。夜、部屋に入るにはベルを鳴らさなければなりません。門番は寝床から起きずに紐を引いて開けます。ですがホテルを出るときは、自分でノブを回すだけでいいのです」

絵のうまい記者が一人、メグレの素早いスケッチを描いていた。頬はふくらみ、できるだけ不気味な顔に描かれていた。
デルヴィーニュ警部は髪に手をやり、口ごもった。

「少し私の執務室に戻っててくれませんか」
彼はどこに目を向けていいか分からなかった。一人の記者が尋ねた。

「自白したのか?」

「放っといてくれ!」
メグレは落ち着いて言った。

「これ以上質問には答えない」

「ジラール!車を回せ!」

「供述書に署名する必要はありませんか」と支配人が言った。

「あとでだ」

場は混乱していた。ただメグレだけがパイプをくゆらせながら、その場の人々を一人ずつ見渡していた。

「手錠ですか?」と戻ってきたジラールが尋ねた。

「いや……いや、いい。さあ、こっちへ!」
彼は警部と二人きりで車に乗るのを急いでいた。人気のない通りを走りながら、ほとんど懇願するように尋ねた。

「これはどういうことですか?」

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「何が?」

「あの荷物入れの話です。つまり支配人はホテルから荷物入れを持ち出したのはあなただと言っています。死体が見つかったあの荷物入れです!」

「たしかにそう言いたそうな様子でしたね」
その『言いたそう』という言い方は、支配人がはっきり断言したあとでは、なんとも皮肉な響きがこもっていた。

「本当なんですか?」
答えるかわりに、メグレは話を整理した。
「要するにその荷物入れを運び出したのはグラフォプロスかそれとも私か、ということです。もしグラフォプロスだとしたら、これはずいぶん妙な話だ。自分の棺桶を自分で運んだ男ということになる!」

「失礼だが……さっきあなたが身分を名乗ったとき、その……身分証を拝見するのを忘れていました……」
メグレはポケットを探り、やがて警部のバッジを相手に差し出した。


「いや……失礼しました……その荷物入れの件ですが……」
そして暗い車内に助けられて、急に大胆になって言った。

「ご存じですか。たとえあなたが何も言わなかったとしても、あの男のはっきりした供述のあとでは、私はあなたを逮捕せざるをえません」

「もちろんです!」

「この嫌疑がかかることを予想していたのですか?」

「私が?いいえ」

「ではグラフォプロスが自分でそのトランクを運び出したとでも?」

「まだ何も考えてませんよ」
デルヴィーニュはいら立ち、頬を紅潮させ、黙り込み、隅に身を沈めた。
刑務所に着くと、彼は連れの顔を見ないようにしながら、手早く収監の手続きを済ませた。


「看守が案内します……」と別れの言葉のように言った
彼はその直後、これを良心の問題として考えざるをえなかった。通りに出ると、同業者に対してあまりにも冷たすぎるのではないかと自問していた。
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「本人が、俺に、厳しくやれと頼んできたんだ!」
だが、一対一の本気の場ではなかった。それに、それはオテル・モデルヌの支配人の供述の前の話だ。パリから来たからといって、メグレが、自分をからかっているのではないか?

「そういうことなら、あいつの勝手だ」
ジラールは、事務室で待っていて、メグレ警部が口述した項目を読んでいた。

「順調に進んでいますね」と、上司の到着に満足げに言った。

「ああ?これが進んでると思うのか?」
その言い方に、ジラールは目を見開いた。

「ですが……あの逮捕は……それに、あの荷物入れが……」

「トランクが、だと……ああ!そうだな!その荷物入れの話でもしていろ……電報をつないでくれ」
そして、回線がつながると、次の電文を読み上げた。
パリ司法警察局あて。
至急、詳細な人物特徴、および、可能なら指紋カードを送られたし。
対象、警部メグレ。
リエージュ保安警察。

「これは、どういう意味ですか」と、ジラールがおそるおそる尋ねた。
それがまずかった。デルヴィーニュは、凶暴な目つきで彼をにらみつけた。

「何の意味もない、分かるか?意味はこうだ、お前のくだらん質問にはもううんざりだということだ!放っておいてほしいということだ!それは……」
だが、自分の怒りのばかばかしさに気づき、最後はひと言で切り上げた。

「くそっ!」
そして、自分の部屋に閉じこもり、メグレ警部の十三の項目と一対一で向き合った
- 当時の一般的な傾向として、そうした空気はあったと考えられます。
19世紀から20世紀前半にかけて、Parisはフランス語圏における政治・文化・行政の中心であり、地方都市や隣国のフランス語圏――たとえばリエージュ(Liège)のような地域――から見ると、強い影響力を持つ存在でした。とくに行政や警察の分野では、パリは制度や人材の中枢であり、そこから来た人物は「中央のやり方を知っている者」と見なされやすかったのです。
そのため、地方の警察官がパリから来た同業者に対して、意識せずとも一種の敬意や遠慮を示すという描写は、当時の感覚として不自然ではありません。これは単なる個人の性格ではなく、中央(パリ)と地方の距離、経験や情報の集中、権威の象徴としての首都といった背景から生まれるものです。
ただし、それは制度上の上下関係ではなく、あくまで心理的・文化的な序列感です。この場面でも、デルヴィーニュがメグレに対して感じているのは、命令に従う義務ではなく、無意識に生じる「中央から来た人間への構え」と言えます。
↩︎ - 「泡石のパイプ」とは、海泡石という鉱物で作られたパイプのことです。フランス語の pipe d’écume に対応する表現で、この「écume(泡)」は、白く軽い見た目から海の泡にたとえられた名称です。海泡石は非常に細かい多孔質の素材で、煙をまろやかにする性質があり、昔から上質なパイプの材料として知られていました。
使い込むうちに色が白から琥珀色へと変わっていくのも特徴で、持ち主の使い方によって風合いが育っていきます。そのため単なる喫煙具というより、持ち主の趣味や品の良さを感じさせる道具でもあります。
↩︎ - この場面でメグレが「よくある話だ」と言っているのは、当時の警察実務の感覚として、こうした依頼自体が特別なものではなかったという意味です。
1930年代のフランスでは、公式の捜査とは別に、一定の条件のもとで警察官が個人の護衛につくことがあり、とくに外国人や裕福な人物が「身の危険」を理由に申し出るケースは珍しくありませんでした。
ただし、それが本当に切迫した危険に基づくものかというと、必ずしもそうとは限りません。不安や疑心から来るものや、体裁として護衛をつけたがるような場合も含まれており、現場の警察官にとっては「またか」という程度の出来事だったわけです。
現在は警察の役割がより明確に区分されていて、警察官が特定の個人のために常時護衛を行うのは、政治家や証人保護の対象者など、公的に必要と認められた場合に限られます。個人が不安だからといって費用を払って警察官をつけてもらう、という運用は基本的には行われていません。
その代わりに、同じような需要は民間の警備会社が担っています。
↩︎ - ル・ブルジェ(l’avouer)とは、パリの北東にある飛行場の名前で、当時はパリの主要な空港として使われていました。現在のシャルル・ド・ゴール空港ができる以前、国際線の発着はこのル・ブルジェ空港が中心でした。
1920年代から30年代にかけては、まだ航空機による移動が珍しく、飛行機に乗ること自体が特別な体験とされていた時代です。そのため「ル・ブルジェへ行く」というのは、単に移動するという以上に、「飛行機で国外へ向かう」という意味合いを持っていました。
↩︎ - サロン車とは、。通路をはさんで座席が並び、乗客が同じ空間を共有する、 ↩︎
- リエージュ王立劇場の|裏手に|かつて|「La Bécasse(ラ・ベカス)」という|レストランが|あった可能性はあります。
実在を|証明する|確実な|史料は|見つかって|いませんが、|根拠となる|資料には|ジョルジュ・シムノンの|自伝的|小説|「血統(Pedigree)」や|リエージュ市の|観光ガイド|「シムノン・ルート(Parcours Simenon)」が|あります||
シムノンの|作品には|彼が|十代の|頃に|記者として|活動していた|リエージュの|実在の|風景が|色濃く|反映されて|います||リエージュの|王立劇場の|裏に|あった|「La Bécasse」は|彼が|若き|日に|通った|場所の|一つであり|作中では|記者が|集まる|たまり場として|描かれて|います||
また|リエージュ市|公式の|シムノンゆかりの|地を|巡る|マップや|研究者による|「シムノンの|リエージュ」に|関する|文献でも|この|レストランの|存在が|記録されています||当時の|新聞記者たちが|議論を|交わした|歴史的な|場所として|言及されて|いることが|多いです||
↩︎ - 腎臓料理とは、牛や子牛などの腎臓(内臓)を使った料理のことです。フランス語の rognons がそれにあたり、当時のヨーロッパではごく普通に食べられていた食材です。
腎臓は独特の香りとコクがあり、下処理をしてからバターやワイン、マスタードなどで調理されることが多く、濃厚で力強い味になります。日本ではあまり一般的ではありませんが、フランスやベルギーでは伝統的な料理の一つです。
ここで出てくる「リエージュ風の腎臓料理」は、その土地の名物のような位置づけで、デルヴィーニュがすぐに店の名前を出すのも、それがよく知られた料理だからです。単なる食事の描写というより、その町らしさや空気を伝える細部になっています。
↩︎


