銭形平次捕物帖  巻一|一 赤い紐

銭形平次捕物控

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登場人物

銭形の平次 — 神田の岡っ引、主人公

ガラッ八(八五郎) — 平次の子分 

笹野新三郎 — 吟味与力1、平次の上役

湯浅鉄馬 — 同心2 

お春 — 油屋の娘、手古舞  

長吉 — お春の許嫁、酒屋の倅 、好い男

市五郎 — 荒物屋の主人

辰蔵 — 畳屋の男 

お勢 — 質屋の娘、お春の親友 、手古舞

お雪 — 市五郎の娘、故人


神田祭は|九月十五日、|十四日の|宵宮は、|江戸半分|煮えくり返るような|騒ぎでした。||御城内に|牛に|牽かれた|山車が|練り込んで、|将軍の|上覧に|供えたのは、|少し|後の|事、|銭形の|平次が|活躍した|頃は、|まだ|それは|ありませんが、|天下祭|または|御用祭と|言って、|江戸ッ児らしい|贅を|尽した|ことに|何の|変りも|ありません。

銭形の|平次も、|御多分に|漏れぬ|神田ッ子でした。||一と風呂|埃を|流して|サッと|夕飯を|掻込むと、|それから|祭の|渦の中へ|繰り出そうという|矢先、――



「親分、|た、|大変」


鉄砲玉のように|飛込んで来たのは、|例の|ガラッ八の|八五郎です。


「ああ|驚いた。||お前と|付き合っていると、|寿命の|毒だよ。||また|按摩が|犬と|喧嘩しているとか|何とか|言うんだろう」


そう|言いながらも|平次は、|大して|驚いた|様子も|なく、|ニヤリニヤリと|この|秘蔵の|子分の|顔を|眺めやりました。

全く|ガラッ八は、|少し|調子ッ外れですが、|耳の|早いことは|天稟で、|四里四方の|ニュースは、|一番|先に|嗅ぎ付けて|来て|くれます。


「そんな|馬鹿な|話じゃ|ねえ、|正真正銘の|大変だ、|親分|驚いちゃ|いけねえ」


「驚きも|どうも|しないよ」


「金沢町の|お春――|あの|油屋の|一粒種の|小町娘が、|夕方から|見えなくなって|大騒ぎだ。||ちょいと|行って|みて|やっておくんなさい」


「馬鹿だな。||お前は。||三日も|帰らなきゃア|騒ぐのも|もっともだが、|夕方から|見えなくなったのなら、|まだ|一と刻とも|経っちゃ|いめえ。||今頃は|雪隠から|出て|手を|洗っているよ、|行ってみな」


平次は|相手にも|せず、|どうした|ことか、|ガラッ八は|妙に|絡み付いて|動きません。


「ところが、|町内中の|雪隠も|押入も|みんな|探したんだ」


「何だって|そんな|大袈裟な|ことを|するんだ」


「だから|大変なんだ、|親分、|お春坊は|二日ばかり|前から、――|祭の|済むまでには、|私は|キッと|殺されるだろう――って|言っていたんだ|そうだ」


「えッ」


「そればかりじゃ|ねえ、|日が|暮れて|間もなく、|誰か|男の人が|お春の|厭がるのを|無理に|引っ張って、|聖堂裏3の|森ん中へ|入ったのを|見た者が|あるんだ」


「誰が|見たんだい」


「困ったことに|町内の|樽御輿4を|担いでいる|小若連中の|一人だが、|お祭へ|夢中に|なっているから、|その|男の|人相を|突き止めなかった。||お揃いを|着て5、|手拭で|頬冠りを|していた|ことだけは|確かだが――」


「よし、|行ってみよう。||お春坊は|無事平穏に|生きながらえるにしちゃ|少し|綺麗過ぎらア、|こいつは|なるほど、|臭い事が|あるかも|知れないよ」


平次は|ガラッ八を|促し立てて、|一と走り|金沢町へ、|何やら|第六感を|おののかせながら|飛んで|行きました。

金沢町の|油屋の|一人娘|お春というのは、|今年|十九の|厄、|あまり|綺麗過ぎるのと、|美人に|ありがちの|気位の|高いのが|災して、|その頃に|しては|縁遠い|方でした。||もっとも、|早くから|許した|仲の|男があるとも|言われ、|とにかく、|噂の|種の|尽きない|性質の|娘だったのです。


平次が|金沢町へ|駆け付けた時は、|もう|行列を|揃えて、|近辺を|練り廻そうという|間際、|何分|肝腎の|花形、|油屋の|お春が|姿を|見せないので、|町内の|人達も|ひどく|心配しておりました。||その頃は|ことに、|綺麗な|娘を|すぐって、|いろいろに|装わせることが|流行りましたが、|お春は|金沢町の|ピカ一だけに、|今年は|思い切って|手古舞姿6に|なり、|町内の|若い|師匠や、|容貌自慢の|娘達|三四人と、|山車の|先登に|花笠を|背負って|金棒を|鳴らしました。

抜けるような|色白、|多い毛を|男髷に|あげて、|先を|ザブリと|剪ったのが|見得、|双肌を|脱いで、|縮緬の|長襦袢一つに|なり、|金沢町自慢の「坂上田村麿」の|山車の|先登に|立つと、|全く|活きた|人形が|揺ぎ出したようで、|わけても|お春の|美しさというものは|ありませんでした。

それに|並んで|評判に|なったのは、|町内の|荒物屋7の|親爺で|市五郎と|言う|五十男、|葛西から|婿に|来る前は、|大神楽の|一座8に|いたそうで、|道化は|天稟の|名人、|潮吹の面を|冠って、|倶利迦羅紋々の|素肌を|自慢の|勇みの|間に|交り、|二つの|扇を|持って、|一日中|山車を|煽ぎながら|踊っております。

それはともかく、|時刻は|次第に|移りますが、|どうした事か|美しい|お春は|帰って来ません。||平次は|御神酒所9に|陣取った|顔見知りの|人達の|懇望で、|ともかくも、|町内|隈なく|あさることに|なりました。

が、|明神様の|人ごみから|町内を、|一と通り|歩いたところで、|花笠を|背負った|手古舞姿の|お春が、|誰にも|知れずに|潜り込んでいそうな|場所も|ありません。

男と|逢引――|そんな事も|考えられないでは|ありませんが、|お春が|居なければ、|事を欠くのを|承知で、|留め置く|人間も|あるはずはなく、|第一|逢引のために、|人に|騒がれるなど|いうことは|気位の|高い|お春の|やりそうな事では|なかったのです。

平次は、|町内の|人達|二三人と、|ガラッ八を|伴れて、|三度目に|聖堂裏へ|行ったのは、|もう|かれこれ|亥刻(十時)でした。


「親分、|この辺じゃ|ありませんね。||外を|探したら|どうでしょう」


「いや、|私は|どうしても、|この辺のような|気がして|ならないんだが、――|聖堂の|前へ|廻って|みましょう」


平次は|そう言って、|迷子でも|探すように、|提灯を|振り照して、|淋しい|聖堂前へ|足を|延ばしました。||明神様を|中心に、|煮えこぼれるような|賑わいですが、|この辺は|さすがに|人通りも|なく、|お茶の水の|夜の|静けさが、|遠音の|祭を|背景に、|妙に|身に|沁みます。


「これは|何だ」


平次は、|道傍の|崖から、|何やら|白いものを|拾い上げました。


「お、|そいつは|揃いの|手拭だ」


提灯に|すかして|見るまでも|ありません。||町内で|揃いに|染めさした、|波に|千鳥と|桜を|あしらった|手拭、|少し|お花見手拭|染みますが、|派手な|図柄を|選った、|若い人達の|好みだったのです。


「これが|あるようじゃ、|この辺が|一番|臭い。||提灯を|上から|見せて|下さい」


二つ三つの|提灯を、|崖から|差出すと、|その頃は|まだ、|藪も|段々も|あった|お茶の水の|崖の下に、|夜目にも|白々と|手古舞姿の|女の|死体が|横たわっているのでした。||

「あッ、|お春さんだ」


騒ぎは|それから、|火の付いた|鼠花火のように|飛び交いました。||綱を|おろして、|引上げて|見ると、|紛れもない|お春、|手古舞姿のまま、|背後に|背負った|花笠の|赤い緒で、|見るも|無慚に|絞め殺されていたのでした。

縮緬の|長襦袢が、|藪と|杭に|裂かれて、|上半身の|美しい|肌が|半分|はみ出した上、|男髷が|泥に|塗れて、|怨みの|眼を|剥いた|相好は、|女が|美しいだけに、|凄まじさも|一入です。


「何奴が|こんな|虐たらしい|事を|しあがったんだ」


祭の|人数は、|止めても、|止めても、|潮のように|崖の上へ|殺到して|平次も|ガラッ八も|手の付けようが|ありません。


間もなく、|お春を|誘い出して、|聖堂裏の|木立の|中へ|入った|相手が|わかりました。||町内の|酒屋の|倅で、|長吉という|好い男。


「長吉、|手前だろう、|お春坊を|殺めたのは。||お慈悲を|願ってやるから、|お役人が|見える前に、|みんな|申上げてしまいな」


平次は、|これも|祭の|扮装のままの|長吉を、|明神下の|自身番10に|引入れると、|暑いにも|構わず、|表の|油障子を|締めさして、|こう|当ってみました。||物柔かい|うちにも、|退引させぬ|手厳しさが|あります。


「親分、|御冗談でしょう。||私は、|親の|許した仲で、|この秋は|お春と|祝言することに|なっているんですぜ、|殺すわけなんか|ありゃしません。||どうか|下手人を|捜し出して、|敵を|討ってやって|下さい」


少し|気は|弱そうですか、|一生懸命なことは|確かで、|おろおろしながらも、|自分の|危ない|地位より、|お春の|敵を|討ちたさに|顫えているようです。


「それじゃ、|何だって|お春を|木立の|中なんかへ|誘い出したんだ」


「祝言前の|若い者ですもの、|折さえ|ありゃ|二人っきりで|居たいのは|無理も|ないでしょう。||それくらいのことは、|親分――」


長吉は――|察して|貰いたい――といった顔で、|平次を|見上げました。||少し|ノッペリしているが、|お春の|夫には|打って付けの|好い男で、|人一人|殺せそうな|様子は|微塵も|ありません。


「お前の|手拭は|どうした」


「ここに|持っていますよ」


長吉は|そう言って、|懐から|畳んだ|手拭を|出しました。||波に|千鳥と|桜、|先刻|崖の|ふちで|拾ったのと|全く|同じ品で、|長吉が|落したもので|ないことは|明らかです。


「お春と|何をしていたんだ」


「ヘエ――」


「何を|していたんだよ」


「この次に|逢う|日と|場所を|決めました」


「それっきりか」


「ヘエ」


「どれほど|話していた」


「四半刻(三十分)とも|かかりは|しません。||私が|御神酒所へ|引返した時は、|まだ|明るかったのですから――|証人は|いくらでも|ありますよ」


「よしよし、|明るい内に|お春を|絞めて、|お茶の水の|崖まで|引摺っても|行けまいから、|お前さんには|罪は|ないだろう」


平次は|この男を|帰してやろうか――と|考えていました。||滅多に|人を|縛らない|平次で、|これくらいのことでは|長吉を|疑う気には|なれません。

しかし|それは|無駄な|思いやりでした。


「平次、|殺しが|あったそうだな」


「あ、|旦那」


同心、|湯浅鉄馬、|この時|祭の|警固に|出張していたのが、|騒ぎを|聴いて、|自身番へ|やって来たのでした。



「下手人は|挙がったのか」


「下手人という|わけじゃ|ございません。||殺された|娘の|許嫁が|この男で、|何かの|足しにとも|思って、|いろいろ|聴いておりました」


「そうか。||俺は|また、|その|長吉とかいう|男が、|死んだ|娘と|一緒に|聖堂裏へ|隠れたように|聞いたが――」


湯浅鉄馬が|こう言うと、|どうも|話が|むずかしくなりそうです。||この男は、|それだけ、|執拗で|大胆な、|科人狩の|名人だったのです。


「親分、|湯浅の|旦那は|とうとう|長吉を|縛って|行ったようですね。||あの|ノッペリした|男が|やはり|下手人ですかねえ」
と|同心|湯浅鉄馬と|入れ違いに、|子分の|ガラッ八が|入って来ました。



「俺には|判らねえが、|どうも、|そうらしくは|思われないよ。||あの男は|女など|殺せるような|柄じゃない」


「それじゃ、|誰が|やったんでしょう」


「それが|解りゃ|文句は|ないよ。||ね、|ガラッ八、|揃いの|手拭を|落した人が|ないか、|落したら、|目印が|なかったか、|これだけの|事を|訊いて|来てくれ」


「ヘエ、|そんな|事なら|わけは|ありません」


ガラッ八は|気軽に|飛んで行きましたが、|間もなく、|巌丈な|三十男を|伴れて、|自身番へ|帰って来ました。


「親分、|この人が|手拭を|落したんだ|そうですよ」


「どこで、|いつ頃」


「どこで|落したか|わかりませんが、|一刻ばかり|前に|気が付いて、|あっちこっち|探したが|見えません。||手拭が|どうかしましたか、|親分」


男は|およそ|怪訝な|顔を|して、|マジマジと|平次を|眺めました。||お茶の水の|崖で、|揃いの|手拭を|拾ったことは、|その時|立会った|二三人の|主立った|人に|厳重に|口留めして|ありますから、|この男は|知っているはずも|ありません。


「お前さんは?」


「畳屋の|辰蔵と|申します。||あっしの|手拭が|どこかに|ありましたか」


眼の|鋭い、|四角な|顔をした|辰蔵は、|少し|平かでない|様子で|切口上に|平次へ|突っかかります。


「いや、|そんなわけじゃない。||辰蔵さん、|つまらない|事を|訊くようだが、|その|手拭には|何か|目印が|ありましたか」


「ありますよ。||御神酒所で|休んでいる時、|今日の|昼頃、|当り箱を|玩弄にしていて、|ツイ|手拭の|端へ、|たという字を|書きました。||たたみやの|たつぞうの|頭文字の|積りです」


「なるほど」


平次は|腕を|拱きました。||崖で|拾った|手拭には|そんなものは|書いて|ありません。


「それで|いいんだね、|親分、|あっしは|もう|帰らなきゃア|ならないんだが――」


「親方、|御苦労だったね、|もう|帰っても|構いませんよ。||ところで、|お春の|死体の|側に、|手拭が|一本|落ちていたことを|知っていなさるかい」


「ヘエ――、|そ、|その|手拭が、|あっしのだったとでも|言うんですかい」


「いや、|そうじゃないようだ。||とにかく、|この事は|黙っていて|下さいよ、|下手人は|どんな|細工を|するかも|解らないから」


「ヘエ――」


辰蔵は|少し|恐れ入った|様子で、|ピョコリと|お辞儀を|すると|黙って|外へ|飛出して|しまいました。


「親分、|あの男を|逃がして|やっていいんですかい」
とガラッ八、|辰蔵の|態度が|よっぽど|気に入らなかったものか、|平次の|掛け声|一つで、|追っかけて、|捕えてやりそうな|勢いです。


「放っておけ。||お春殺しの|下手人なら、|落した|手拭を|吹聴して|歩くような|事は|あるめえ」


「だって|親分、|人に|何とか|騒がれる前に、|手拭を|落したと|気が付けば、|自分で|名乗って|出た方が、|疑われずに|済むわけじゃ|ありませんか」


「おや、|お前は|恐ろしく|悧巧に|なったんだね。||それくらいだと、|良い|御用聞に|なれるよ」


「馬鹿にしちゃ|いけねえ」


「誰が|馬鹿に|するものか。||ついでに|御神酒所へ|行って、|辰蔵が|本当に|手拭の|端っこへ|たの字を|書いたかどうか、|訊いて|来てくれ。||それが|済んだら、|お前は|辰蔵から|目を|離さずに|見張っているが|いい。||もっとも、|何にも|あるまいとは|思うが」


「へえ、|そんな|事なら|訳は|ありません」


ガラッ八は|またすっ飛んで|行きました。


ガラッ八の|報告は、|辰蔵の|言葉を|立派に|裏書しました。||御神酒所に|いる人達の|話を|総合すると、|辰蔵は|今日の|昼頃|やって来て、|一と休みしながら、|寄付の|帳面を|付ける|当り箱を|引寄せて、|手拭の|端へ、|小さく|たという字を|書いたことは|疑いも|ありません。


「墨が|馴染まなくて、|うまく|書けないので、|何べんも|何べんも、|上から|なするもんだから、――|辰兄哥、|畳屋を|廃して、|提灯屋に|なるがいい、――って|町内の|旦那方に|冷やかされたって|言いますよ。||あの野郎、|人相が|悪いから、|つまらないところで|疑われるんですね」


ガラッ八は|こう言って、|それとなく|自分の|不明を|弁解しております。


「人相が|悪くて|一々|疑われた|日にゃ、|手前なんかも|物騒だぜ。||これから|変なところへ|立ち廻らねえ|方が|いいよ」


「親分、|からかっちゃ|いけねえ」


「ところで、|冗談は|冗談として、|町内から|祭の|行列に|出ている|人達に|一応|逢っておきたいことが|あるんだ。||しばらく|家へ|帰らずに、|御神酒所の|前で|待っているように、|世話人に|頼んで|来てくれ。||お前ばかり|歩かせるようだが、|俺が|顔を|曝しちゃ|まずい事が|あるんだ。――|余計な|事を|言うんじゃないぞ。||手拭の|手の字も|口へ|出しちゃ|いけねえ。||解ったか」


「へえ」


ガラッ八は|もう一度|飛んで行きましたが、|しばらくすると、|自身番へ|帰って来て、|居眠りでも|するように|腕を|拱いて|考え込んでいる|平次を|ゆり動かしました。


「親分、|人が|揃いましたぜ」


「よし、|今行くよ」


平次は|ようやく|身を|起しました。||御神酒所の|前まで|行くと、|山車を|真ん中に、|往来に|床几と|水桶とを|持ち出して、|揃いを|着た|町内の衆が|一パイ、|そこから|ハミ出して、|右隣の|菓子屋や|左隣の|道化の|巧い|荒物屋|市五郎の|店先までも|占領しております。


平次は|羽織を|着た|世話人に、|何事か|囁くと、|その人は、|店先に|立出でて、

「皆さん、|済みませんが、|銘々の|お手拭を|見せて|下さい。||銭形の|親分の|お頼みですから、|どうぞ|悪しからず」

と言うと、|揃いを|着た|男女の|人波が、|何やら|わけのわからぬ|動揺を|打ちます。||たぶん|夜更けまで|止められて、|こんな|馬鹿なことを|されるのが|不平だったのでしょう。


「唯今、|世話人の|方から|お願い|申上げたように、|これから|皆さんの|お手拭を|見せて|頂きます。||御迷惑でしょうが、|それだけの|事で、|お春さん|殺しの|下手人の|見当が|付くかも|知れません。||どうぞ、|そのお積りで」


平次に|そう言われると、|さすがに|嫌とは|言えません。||頬冠りを|取るもの、|鉢巻を|抜くもの、|襟や|肩へ|掛けたのを|外すもの、|銘々の|手拭を|持って、|潔白を|示すように、|平次の|前へ|押寄せて来ました。


「あ、|そんなに|突っ掛けちゃ|いけない、|一人ずつ|願います」


世話人に|整理して|貰って、|平次は|一人ずつ|揃いの|手拭を|見せて|貰いました。

五人、|十人、|二十人、|と見て|行きましたが、|たの字を|書いた|手拭などは|どこにも|なく、|それに|似寄りの|文字を|書いたのも|ありません。


「もう|これだけかな、|手拭を|見て|貰わない方は|ありませんか」


「おい、|こっちに|まだ|多勢いるぞ」


世話人の|声に|応じて、|両隣、|菓子屋と|荒物屋の|店先からも|声が|掛かりました。

「ちょいと|こっちへ|来て|貰おうか」

と|世話人が|言うのを|押えて、


「いや、|こっちから|行ってみましょう」


平次は|草履を|突っかけて、|菓子屋の|店の|五六人を|調べ、|最後に|荒物屋の|店へ|来ました。||ここは|若い|男達を|避けて、|女達が|五六人、|荒物屋の|主人の|剽軽な|市五郎を|中心に、|キャッキャッと|騒いでいるのでした。


「おや、|銭形の|親分、|ここには、|男殺しは|多勢いますが、|女殺しは|いそうも|ありませんよ。||もっとも|私は|別だが、|何分|こう|年を|取っちゃ――」


市五郎は|そう言いながら、|すっかり|禿げ上がった|前額を|ツルリと|撫で上げました。


「ホ、|ホホホホホ」

と|笑いの洪水、――|先刻、|お春が|殺されたと|聞いて、|青くなったことも|忘れて、|もう|若い女らしく|浮かれ調子に|なっております。


「念のために、|ともかく、|ザッと|見ておきましょう」


平次は|素気もなく、|一人一人、|女の手拭――|脂粉に|染んで|少し|艶くのを|見ておりましたが、|三人目の|手拭を|手に取ると、|ギョッとした|様子で、|店先の|提灯の|下へ|持って|行きました。||端っこには、|紛れもなく、|墨で|書いた|たの字。


「私の|手拭が|どうかしましたか、|親分」


そう言って|顔を|挙げたのは、|同じ|金沢町の|質屋の|娘|お勢、|殺された|お春とは|無二の仲で、|負けず|劣らず|美しい、|十八娘の、|少し|物に|怯えた|顔だったのです。


「いや、|そう言うわけでも|ないが――|お勢さん、|この|端っこの|たの字は、|お前さんが|書いたのかえ」


「あらッ、|そんな|字なんか――|私、|何にも|知りませんよ。||誰かの|手拭と|変ったのかしら」


お勢は|愕然として|顔色を|変えました。||日頃から|気象者で|通った|お勢ですが、|何となく|ただならぬ|空気の|圧迫と、|思いも寄らぬ|手拭の|文字に|驚いたのでしょう。


「とにかく、|この手拭は|私が|預かっておくよ。||いいかえ、|お勢さん」


「え」


恐怖と|疑惑に|打ちひしがれた|お勢は、|美しい|顔を|硬張らせて|こう言うより|外には|なかったのです。


「親分、|もう|手拭調べは|ようがすかい」


しばらくたって|ガラッ八は、|化石したような、|恐ろしい|沈黙の|中から|声を|かけました。


「いや、|まだ|三四人|残ってるよ」


そう言うと|平次は、|お勢から|借りた|手拭を|畳んで|懐に|仕舞い込んだまま、|大急ぎで|片付けます。||一番の|最後は、|道化者の|市五郎、|それで|何もかも|済んでしまいました。


「辰蔵、|これは|お前が|書いた字に|違いあるまいな」


と平次。|一同を|帰した後、|辰蔵を|呼止めて、|お勢の|手拭を|見せてやりました。


「違いますよ、|親分、|あっしの字は、|もう少し|拙いし、|こんなに|上の方じゃ|なかったはずですよ」


「確かに|そうか」


「ヘエ」


「お前、|お勢を|庇っちゃ|いけないよ」


平次は|妙なところから、|チラリと|捜りを|入れます。


「とんでもない、|親分、|あの娘に|怨みこそあれ、|庇ってやる|義理なんか|あるもんですかい」


「怨みと|言うと|何の|怨みだ」


辰蔵は|語るに|落ちた形で、|眼を|白黒させます。


「極りは|悪いが、|言ってしまいましょう、|実は――|あの娘へ|ちょいちょい|当ってみたんですが、|容貌自慢で|ツンツンしやがって、|こちとらへは|鼻汁も|引っかけませんよ」


「そんな事だろうと|思った。||もういい」


「帰っても|いいんですかえ」


「いいよ」


辰蔵は|虎の|顎を|逃れた|心持で、|飛んで|帰りました。


「親分、|帰してもいいんですかい、|お勢に|怨みが|あるという|野郎を」


ガラッ八は|歯痒そうに|辰蔵を|見送りました。


「いいよ」


「長吉でなく、|辰蔵でもないとすると、|下手人は|やっぱり|お勢ですか、|親分」


「お勢は|一番|怪しくないよ、――|と言うのは、|あの|たの字が|偽筆で、|その上、|お春と|お勢が|仲の|よかった|事も|解ったし、|第一|娘の|細腕で、|笠の緒で|人一人|殺せるわけも|なく、|死体を|聖堂裏から|お茶の水の|崖まで|引摺って|行けるわけも|ない」


「すると――」


「解らないな。||まるで|見当も|付かない」


「ヘエ――」


平次が|こんな事を|言っていると、|自身番の|前へ、|ノソリと|立った者が|あります。


「あっ、|旦那、|こんなところへ」


「いや、|お祭の|様子を|見に|来ると、|なにか|騒ぎが|あると|言う|話を|聞いたが、|どうしたのだ、|一体」


それは、|平次のためには、|大事の|上役で、|その頃|吟味与力の|利け者、|笹野新三郎だったのです。||江戸中を|騒がせるほどの|大捕物には、|ずいぶん|与力が|出張することも|ありますが、|つまらぬ|人殺しの|現場へ、|吟味与力が|顔を|出すというのは|滅多に|ないことです。


「話は|大概|聴いたが、|酒屋の|倅も|疑いは|晴れたそうだな」


「ヘエ」


あれは|同心の|湯浅鉄馬が、|無理に|縛って|行った、とは|平次は|言いません。||恐れ入った|様子で、|首を|垂れました。


「外に|心当りが|あるか」


「何にも|ございません」


「困ったものだな。||外ならぬ|御用祭に、|涜れがあっては|恐れ入る。||平次、|今日中と|言いたいが、|せめて|明日は|下手人を|挙げなければ|ならぬぞ、|町方の|名折れに|ならぬよう――」


「ヘエ――」


「確と|申付けるぞ」


「ヘエ――」


銭形の|平次も|すっかり|恐れ入って|しまいました。||こうまで|言われると、|日頃|世話に|なっている|笹野新三郎の|顔の|立つよう、|どんな|事をしても|下手人を|挙げなければ|なりません。


翌る日は|九月十五日、|日本晴の|上天気、|いよいよ|神田祭の|当日でした。

神輿に|続いて|三十六番の|山車、――|その頃は|まだ|城内へ|入る|慣わしは|ありませんが、|それぞれ|趣向を|こらして、|行列は|氏子の|町内を|一と廻りします。

金沢町の|山車の|前には、|手古舞姿の|美しい|娘が|五人、|お勢を|ピカ一にして、|今日を|晴れと|押出し、|その間を|縫って|潮吹の面を|冠った|道化が|一人、|紅白の|扇子を|両手に|持って、|前から、|後ろから、|宙を|踏むように|踊り歩いて、|山車と|手古舞の|娘と、|手を|牽く|若い衆を|煽ぎました。

その日は、|昨夜までは|行列に|見えなかった、|お多福の面を|冠った|男が|一人、|潮吹の面を|冠った|市五郎の|向うに|廻って、|これが|また|実に|よく|笑わせます。||踊りが|うまいわけでも|何でも|ありませんが、|ひどく|巧妙に|要領を|掴んで、|さんざん|潮吹に|踊らせた上、|毎度|落を|さらって|行くのです。

潮吹は|この|好敵手を|迎えて、|全く|大車輪でした。||囃子の|陽気な|笛太鼓に|つれて、|二つの|扇が|胡蝶のごとく|もつれ、|少し|猫背に|なって、|足を|挙げ、|尻を|振り、|首を|すくめ、|縦横無尽に|踊り抜き、|巫山戯散らします。

その頃の|神田祭、|二百六七十年後の|今とは、|まるっきり|違ったものに|相違ありませんが、|人々の|浮き立つ|心と、|引っ掻きまわすような|賑わいには|変りは|ありません。

行列が|神田橋外を|通る時|一度、|一と廻りして、|本町通りを|帰る時|一度、|潮吹の|踊りが、|少し|悪巫山戯と|思うほど|猛烈に|なった時、|お多福は|何気ない|様子で|近付いて、|その面を|グイと|剥ぎ取りました。

中から|現われたのは、|言うまでもなく|薄禿の|市五郎の|顔。


「何、|何をするんだ。||冗談じゃねえ」


猛烈な|剣突を|食わせて、|あわてて、|揃いの|袖で|汗を|拭きながら、|四方を|見廻しましたが、|お多福は|もう|その辺には|おりません。


「何を|しあがるんだ。||畜生ッ」


市五郎は、|口汚く|罵ると、|剥がれた|面を|引下げて|冠り、|前にも|まして|また|猛烈に|踊り狂うのでした。

祭は|こうして|恙なく|終りました。||最後に|町内を|一繞りした|一団は、|元の|御神酒所の|前へ|帰って、|ホッとした|心持で|くつろぎます。

その辺の|床几、|店框、|捨石の|上に、|腰を|おろして、|汗を|入れたり、|水を|飲んだりする|人の|中に、|まだ|止まぬ|遠音の|囃子に|つれて、|潮吹は、|ほとんど|疲れを|知らぬ|機械人形のように、|滅茶滅茶に|踊り続けているのでした。

その前に|半円を|描いた|手古舞姿の|娘達は、|それを、|面白いものというよりは、|むしろ|不気味なものに|眺めて、|そぐわない|心持で、|黙りこくっております。


「お勢さん、|ちょっと|来て|貰おうか」


不意に|どこからともなく|姿を|現わした|ガラッ八は、|手古舞姿の|お勢の|華奢な|肩へ、|むずと|手を|置きました。


「えッ」


お勢は|サッと|顔色を|変えると、|ヘタヘタと|大地に|崩折れてしまったのです。||辰蔵の|手拭が|盗まれたこと、|その|手拭を|盗んだ者は、|お春殺しの|下手人の|疑いを|受けていること、|お勢の|手拭には、|辰蔵の|手拭と|同じ|たの字が|書いてあったこと――などを、|お勢は|一夜のうちに|誰からともなく|聞き込んで、|自分の|上に|黒雲のように|蔽いかぶさる、|恐ろしい|疑いに、|一日一杯、|生きた|心地も|なく|歩いていたのでした。

御用聞きの|ガラッ八に、|肩へ|手を|掛けられて、|ヘタヘタと|崩折れたのも|無理は|ありません。||お勢は|勝気で|通った|娘ですが、|さすがに、|もう|この上|堪える|気力が|なかったのです。

潮吹は、|またも|猛烈に|踊りました。||自分の|身体を|掻きむしるような、|滅茶滅茶な|潮吹踊りが、|お勢が|ガラッ八に|引立てられて|行く|後ろ姿を、|恐ろしい|不安で|眺める|人達にとって、|何という|そぐわないものだったでしょう。


「お前さんは|誰だえ、|どこへ|俺を|伴れて|行くんだい」


潮吹の面を|禿げた|前額へ|上げた|市五郎は、|黙って|自分を|導いて行く、|お多福の面を|冠った|男を|見詰めました。


「黙って|来るがいい」


面の中に|籠って、|何という|不気味な|声でしょう。||月は|かなり|高くなって、|お茶の水の|川が|キラキラと|光ります。


「お前さんは|誰だい。||今日は|俺の|邪魔ばかり|しているようだが――」


「誰でもいい。||ここは|ちょうど|お春の|死骸を|投げ込んだ|ところだ。||ここで|ちょいと|お前に|話したいことが|あるんだよ、|まあ|掛けるがいい」


お多福の面の|男は、|声の|調子も|変えずに、|こう言って、|崖の上の|捨石の上に|腰を|おろしました。


「御免蒙るよ。||俺は|急ぐんだ、|そんな|人間に|付き合っちゃ|いられない」


市五郎は|そのまま、|踵を|返そうとすると、


「まあ|待ちな、|面白い|話を|して|聞かせる」


お多福の男は|自信あり気に|腰も|起しません。


「早く|言ってしまえ」


「急ぐな、|市五郎。||お春が|死んでいたのは|ここだ、|お春の|亡霊|立ち合いの|上で、|話したいことが|ある」


「…………」


何という|不気味な|言葉でしょう。


「お春は|聖堂裏で|笠の|赤い紐で|絞殺され、|ここまで|引っ担いで来て|投り込まれたんだ。||昨夜は|全く、|鼻を|つままれても|解らない|闇だった」


「俺は|そんな事を|聞きたくは|ない」


「酒屋の|長吉が、|お春を|つれ出したというので|疑われたが、|あれは|お春と|近々|一緒に|なるはずだったから、|どう|間違っても|お春を|殺すはずは|ない」


「…………」


市五郎は|モジモジしましたが、|妙に|引付けられて、|振り切って|逃げることも|出来ません。||青白い|月が|横半面を|照して、|こう|語り進む|男の、|お多福の面が、|妙に|物凄く|見えます。


「死体の|側には|手拭が|落ちていた。||下手人が|落したんだ、|それには|何の|印も|なかった。||間もなく|畳屋の|辰蔵が|手拭を|なくしたと|名乗って出た。||辰蔵は|きかん気の|男だが、|嘘を|つく|人間じゃない。||それに、|その|手拭の|端に、|たの字を|書いたことは、|多勢の人が|見て|知っている」


「…………」


「本当の|下手人は、|辰蔵の|手拭を|盗んだが、|たの字が|書いてあることに|気が付いて、|驚いて|そこだけ|割いて|捨てた、|手拭の|端っこを|五分や|一寸|割いても、|誰にも|わかる|道理は|ない」


「…………」


「ところが、|すぐ、|手拭調べが|始まった――|本当の|下手人は|お勢に|罪を|被せたかったが、|証拠の|手拭の|端を|割いて|捨てたので、|お勢の|手拭と|取換えても|何にも|ならない。||そこで、|急に|思い付いて、|お勢が|置き忘れて|立ち上がった|手拭を|そっと|隠して、|その端へ|たの字を|書いた――、|間もなく|手拭を|取りに|来た|お勢は、|そんな|細工を|されたとも|知らずに、|恐ろしい|手拭を|自分の|身に|つけていた」


「…………」


市五郎は|次第に|引付けられて、|もう|立ち上がろうとも|しません。||少し|離れた|捨石の上に|腰を|おろして、|ワナワナと|顫えてさえ|おります。


「お勢の|手拭を|調べた時、|端っこに|書いた|たの字が|まだ|濡れていた。||辰蔵は|昼頃|書いたと|言うから|夜中まで|乾かずに|いるはずは|ない。||それに、|筆蹟も|違っている」


「嘘だ|嘘だ、|そんな|出鱈目な|事を|言って、|俺を|罪に|落そうたって――」


市五郎は|不意に|立ち上がると、|サッと|逃げ出そうとしましたが、|それより|早く|身を|起した|お多福の男は、|飛付いて|確と|襟髪を|掴んでしまいました。


「馬鹿ッ。||もう|免れぬ|ところだ、|神妙にしろ」


左手で|面を|かなぐり捨てると、|言うまでもなく、|銭形の平次、|市五郎を|膝の下に|押えたまま、|こう|続けました。


「俺は|昨夜のうちに|縛ろうと|思ったが、|少し|腑に落ちない|事があって、|お前の|様子を|もう一日|見ることに|した。||お前には|どう|考えても、|お春を|殺す|怨みも、|お勢に|罪を|被せる|怨みも|ないはずだと|思ったからだ」


「…………」


「ところが、|お前は|潮吹の面を|冠って、|滅茶滅茶に|踊っているくせに、|面を|剥いで|見ると|いつでも|泣いていた。||それから|お勢が|ガラッ八に|引立てられると、|気違いのように|踊り出した。||あれは|どういう|わけだ」


「知らない|知らない。||俺には|そんな|覚えは|ない。||何を|証拠に|お春を|殺したなんて、|言い掛りを|付けやがるんだ」


市五郎は|猛然として|突っ掛りましたが、|平次は、|静かに|市五郎を|引起して、


「そんな事を|言ったって、|免れようは|ない。||市五郎、|俺は|無闇に|人を|縛らない|事を、|お前も|知っているだろう」


「証拠を|見せろ、|証拠を」


市五郎は|なおも|たけり立って、|平次の|言葉を|耳にも|入れません。


「俺は、|あの時|手拭を|二筋ずつ|比べて|行ったんだ、|お前|気が付かなかったろうが――、|すると、|お前の|手拭は|一寸ほど|短かった。||端っこを|割いた|証拠だ」


「親分、|済まねえ、|恐れ入った、――|お春は|たしかに、|この|市五郎が|殺したに|違えねえ」


「どうして|殺した。||そのわけを|言え、|それを|知りたいばかりに|お前を|ここへ|伴れ出したのだ」


平次は|縄も|かけず、|市五郎の|水を|浴びたように|打ち萎れた|姿を|見下ろしました。


「親分、|あの|お春と|お勢の|阿魔が、|二人で|俺の|娘の|お雪を|殺したんだ」


「何?||お前の|娘の|お雪?||あれは|去年の秋、|首を|縊って|死んだという|話じゃ|なかったか」


「そうだ、|親分、|その通りだ。||緋縮緬の|扱帯で|首を|縊って|死んだが、|手を|下さなくとも、|お春と|お勢が|下手人だ」


「わけを|話せ、|わけを」


「こうだ|親分、|聞いて|下さい」


市五郎は|涙ながらに|語りました。

お雪というのは|市五郎の|一人娘、|お春にも|お勢にも|劣らず|美しく|育ったのが、|お針友達で|懇意に|なって、|互いに|往来まで|しているうち、|お春が、|お雪の|許嫁、|酒屋の|倅の|長吉に|心を|寄せるように|なったのが|間違いの|因でした。

去年の|神田祭に、|お春が|言い出して、|縮緬の|揃いを|拵えることを|約束しましたが、|親一人|子一人の|貧乏な|荒物屋の|娘の|お雪が、|父親の|苦労を|見兼ねて、|明らさまに|ねだり兼ね、|木綿の|似寄りの|柄を|着て|お祭へ|出ると、|待ち設けた|お春と|お勢から、|さんざんに|恥を|かかされたのでした。

その|侮辱は、|女らしく|執拗で、|底意地が|悪くて、|傍で|聞いている者も、|胸が|悪くなるほどだったと|言いますから、|お雪が|小さい|胸を|痛めたことは|言うまでも|ありません。

とうとう、|辛抱が|しきれなく|なりましたが、|細い|荒物屋を|営む|親にも|打ち明け兼ね、|自分の|小遣を|貯めて|ようやく|買った、|たった一本の|緋縮緬の|扱帯を|梁に|かけて、|十八の|花を|無慚にも|散らしてしまったのです。


「親分、|これが|怨まずに|いられるでしょうか。||その上|お春は、|酒屋の|倅の|長吉と|好い仲に|なって、|近いうちに|祝言まで|すると|聞いて、|私は|腸が|煮えくり返るようだ、|親分」


「…………」


平次は|黙って|うなずきました。||斑々たる|老の|涙は、|夜の|大地に|落ちて、|祭の|遠音も|身内を|かきむしるように|響きます。


「親分、|察して|下さい。||手古舞姿の|美しいのを|見ても、|私は|腹が立って|腹が立って、――|その上|長吉と|一緒に|聖堂裏で|逢引しているのに|出会わすと、|矢も|楯も|たまらなかった。||娘の|敵、|この時ばかりは|鬼に|なって、|あんな|むごたらしい|事をして|退けました。||親分、|察して|下さい」


大地に|身を|擲った|市五郎は、|身も|浮くばかりに|泣いて|泣いて|泣き入ります。


「市五郎、|お前の|心持は|よくわかる。||さぞ|口惜しかったろうが、|お上の|法は|曲げられない。||それに、|お勢までも|罪に|落そうとした|細工が|悪かった」


「…………」


「俺からも|お慈悲を|願ってやる。||が、|今さら|命を|惜しんで|卑怯な|真似を|してはならぬぞ、|来い」


肩を|叩いて|市五郎を|起すと、|膝の|土まで|払ってやった|平次は|縄も|かけずに|そのまま|引立てました。||水のような|月の|光の|中を――

  1. 吟味与力とは、江戸時代の役職で、町奉行所において犯罪の取調べ(吟味)を担当する与力のことです。現代でいえば検察官に近い役割で、容疑者を尋問し罪状を判断する権限を持っていました。与力の中でも筆頭格の重要なポストです。
    ↩︎
  2. 同心とは、与力の下に位置する役人で、実際に現場へ出て犯人の逮捕や捜査にあたりました。現代でいえば刑事に近い存在です。岡っ引(平次のような民間の協力者)を使って情報を集めさせるのも同心の仕事でした。
    ↩︎
  3. 聖堂裏(せいどうら)とは、湯島聖堂(ゆしませいどう)の裏手のことです。
    湯島聖堂は江戸時代の学問所で、孔子を祀った建物です。現在も東京の湯島(文京区)に残っています。神田明神(かんだみょうじん)のすぐ近くにあり、お茶の水にも隣接しています。
    「赤い紐」の舞台となった金沢町、神田明神、聖堂裏、お茶の水の崖は、すべて互いに近い場所にあります。祭の賑わいから少し外れた聖堂裏は、人目につきにくい暗がりで、犯人がお春を連れ込むのに都合の良い場所だったわけです。
    ↩︎
  4. 樽御輿(たるみこし)とは、酒樽の形をかたどった小型の御輿のことです。
    本格的な神輿とは異なり、若い衆や子供たちが担ぐ簡易な御輿で、祭の賑やかしとして町内を練り歩きました。酒屋や町内の若者グループが中心になって担ぐことが多く、庶民的な祭の楽しみのひとつでした。
    「赤い紐」では、この樽御輿を担いでいた小若連中の一人が、お春が男に引っ張られて聖堂裏へ入るのを目撃しています。ただし祭に夢中だったため、男の人相をきちんと確認していませんでした。
    ↩︎
  5. お揃いとは、男が金沢町の祭の揃いの法被(はっぴ)を着ていたということです。
    つまり「お揃い」とは手拭だけでなく、町内で統一した揃いの法被(はっぴ)を指しており、祭の参加者であることを示す衣装です。手拭で頬冠りをして顔を隠していたため、人相が確認できなかったという証言です。
    これが重要な手がかりで、犯人が町内の祭の関係者であることを示しています。 ↩︎
  6. 手古舞(てこまい)とは、江戸時代の祭礼行列で山車や神輿の先導を務める女性の装束・役割です。
    具体的な姿は、男髷(おとこまげ)に髪を結い上げ、双肌(もろはだ)を脱いで長襦袢一枚になり、花笠を背負い、金棒を手に持ちます。男装に近いいでたちで、祭の華やかな花形として注目を集めました。
    本文でお春が「抜けるような色白」で「活きた人形が揺ぎ出したよう」と描写されているのは、この手古舞姿で山車の先頭に立っている場面です。
    ↩︎
  7. 荒物屋(あらものや)とは、江戸時代の雑貨屋のことです。
    ほうき、ざる、たわし、縄、桶、箕(み)など、日常生活で使う竹細工・木製品・わら製品などを売る店です。現代でいえばホームセンターの日用雑貨コーナーに近い存在です。
    市五郎はこの荒物屋の主人で、五十男ながら葛西から婿に来る前は大神楽の一座にいたという異色の経歴の持ち主です。 ↩︎
  8. 大神楽(だいかぐら)とは、江戸時代の大道芸・曲芸の一座のことです。
    伊勢神宮や熱田神宮などの御師(おし)が各地を廻り、獅子舞や曲芸を披露しながら神札を配る神事芸能が起源です。江戸時代には次第に純粋な芸能として独立し、以下のような演目を行う専門の一座になりました。
    獅子舞、皿回し、傘の上での曲芸、ひょっとこ・おかめなどの道化面をつけた踊り、扇を使った踊りなどが主な演目です。
    市五郎が「道化は天稟の名人」でひょっとこの面をつけ、二つの扇で一日中踊れるのは、この大神楽の一座で鍛えた芸があったからです。葛西から婿に来る前のこの経歴が、祭の道化役として町内一番の人気者だった理由です。
    ↩︎
  9. 御神酒所(おみきしょ)とは、祭の際に町内に設けられる休憩所・拠点のことです。
    神様にお供えする御神酒(おみき)を置く場所が原義ですが、実際には祭の運営本部のような役割を果たしていました。具体的には、祭の世話人や顔役が陣取って祭の進行を取り仕切り、参加者が休憩したり水を飲んだりする場所で、寄付の帳面なども置かれていました。
    「赤い紐」では平次がここに陣取った顔見知りの人々に頼まれてお春を探し始め、また辰蔵が昼頃ここで休みながら手拭の端に「た」の字を書いたことが、重要な証拠になります。
    ↩︎
  10. 明神下の自身番(みょうじんしたのじしんばん)とは、神田明神の門前下にあった自身番屋のことです。
    自身番(じしんばん)とは、江戸時代に町内ごとに設置された番所・詰所のことです。町内の自警組織が交代で詰めて、治安維持や火の番、迷子や行き倒れの保護などを行いました。現代でいえば交番に近い存在です。
    江戸時代には町内ごとに自身番が設置されていました。
    江戸の町は数百の町(まち)に分かれており、それぞれの町に一箇所ずつ自身番屋が置かれていました。つまり江戸全体では数百箇所あったことになります。
    規模は町の大きさによって異なりますが、一般的には小さな木造の詰所で、町内の住人が交代で番をしました。大きな町では常駐の番人を雇うこともありました。
    「明神下」とは神田明神の参道下あたりの地名で、祭の中心地である神田明神のすぐそばにあったため、平次が長吉をここへ連れ込んで尋問したのは、騒ぎの現場から近く都合が良かったからです。 ↩︎