#Raymond Thornton Chandler,
#The big sleep
#Philip Marlowe
『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月17日現在未完成)
5

十月の|半ば、|午前|十一時ごろの|ことだった。||太陽は|顔を|出さず、|丘陵地帯の|澄んだ|空気には、|冷たい雨の|気配が|漂っていた。||私は|パウダーブルーの|スーツに、|濃紺の|シャツと|ネクタイ、|胸ポケットには|チーフを|差していた。||靴は|黒の|ブローグ、|靴下は|濃紺の|クロック柄入り1の|黒いウール。||身なりは|整い、|清潔で、|髭も|剃り、|しらふだった。||それを|誰かに|知られても|一向に|構わない。||私は|どこから|見ても|きちんとした|私立探偵だった。||そして|今、|四百万ドルの|屋敷2を|訪ねていた。

<スターンウッド>邸3の|正面ホールは|二層の|吹き抜けだった。||玄関の|扉は|象の|群れでも|通れそうなほど|大きく、|その上には|広い|ステンドグラスが|はめ込まれていた。||描かれていたのは、|黒い|甲冑を|まとった|騎士が|木に|縛られた|女を|助けようとしている|場面だった。||女は|服を|身につけておらず、|長い|髪だけが|かろうじて|体を|隠していた。||騎士は|愛想よく|兜の|バイザーを|押し上げ、|縄の|結び目を|いじっていたが、|いっこうに|ほどける|気配が|なかった。
私は|立ち止まって|考えた。||もし|この屋敷に|住んでいたら、|いずれ|あそこに|登って|手を|貸さなければならない|気分になるだろう。||どう見ても|本気で|やっているようには|見えなかった。

ホールの|奥には|フランス窓があり、|その|先には|エメラルド色の|芝生が|広がって|白いガレージへと|続いていた。||ガレージの|前では|、|細身で|黒髪の|若い|運転手が|ぴかぴかの|黒い|レギンス姿4で|、|マルーン色(暗い茶色)の|パッカード・コンバーティブル5を|拭いていた。||ガレージの|奥には|プードルのように|丁寧に|刈り込まれた|装飾用の|木々が|並び、|さらにその|奥に|丸屋根の|大きな|温室が|あった。||そして|また|木々が|続き、|すべての|向こうに|なだらかで|どっしりとした|丘陵地帯の|稜線が|横たわっていた。

ホールの|東側には|タイル敷きの|独立した|階段が|あり、|鍛鉄の|手すりが|つく|回廊へと|続いていた。||回廊にも|またステンドグラスが|はめ込まれていた。||壁際には|赤い|ビロードの|丸座面を|持つ|硬そうな|大きな|椅子が|並んでいたが|、|誰かが|座った|ことが|あるとは|とても|思えなかった。||西の|壁の|中央には|大きな|暖炉が|あり、|四枚の|蝶番つきパネルで|できた|真鍮の|スクリーンが|前に|立てられていた。||暖炉の|上の|マントルピースは|大理石で|、|四隅には|キューピッドの|彫刻が|施されていた。||その|上には|大きな|油絵の|肖像画が|掛かり、|さらに|その|上には|弾丸か|虫に|食われた|騎兵隊の|ペナントが|二本、|ガラスの|額縁の|中で|交差していた。
肖像画は|メキシコ戦争6ごろの|時代の|正装に|身を|包んだ|将校を|硬い|ポーズで|描いたものだった。||その|将校は|きちんと|整えた|黒い|顎髭と|黒い|口髭を|蓄え、|石炭のように|黒く|鋭い|目を|していた。||逆らわないほうが|賢明だと|一目で|わかる|男の|顔だった。
おそらく|スターンウッド将軍の|祖父だろうと|私は|思った。||将軍本人では|まずないだろう。||もっとも|将軍が|かなりの|高齢だとは|聞いていたが|、|それでも|二十代の|危うい|盛りの|娘が|ふたりいるのだから。
6

私は|まだ|その|熱い|黒い|目を|見つめていた。||すると、|階段の|奥のほうで|扉が|開いた。||戻ってきた|執事では|なかった。||女だった。
二十歳前後で、|小柄で|繊細な|造りだったが、|しっかりした|印象を|与えた。||淡いブルーの|スラックスを|はいていて、|それが|よく|似合っていた。||歩き方は|まるで|浮いているようだった。||髪は|きれいな|黄褐色の|ウェーブで、|当時流行りの|ページボーイスタイル7より|ずっと|短く|切られていた。||目は|スレートグレーで、|私を|見る|ときも|ほとんど|表情が|なかった。||彼女は|近づいてきて|口元だけで|笑った。||小さく|鋭い|肉食獣のような|歯が|見えた。||新鮮な|オレンジの|白い|果肉のように|白く、|磁器のように|光っていた。||薄く|張りつめた|唇の|間で|きらめいていた。||顔には|血の|気が|なく、|あまり|健康そうには|見えなかった。

「背が|高いのね」と|彼女は|言った。

「そのつもりは|なかったんだが」
彼女は|目を|丸くした。||困惑していた。||考えていた。||その|短い|つきあいで|すでに|わかった。||この女に|とって、|ものを|考えることは|いつも|面倒なことに|なるだろうと。

「ハンサムでも|あるわね」と|彼女は|言った。||「自分で|わかってるでしょ、|きっと」
私は|低く|唸った。

「名前は?」

「ライリーだ」と|私は|言った。
「ドッグハウス・ライリー」

変わった|名前ね」

彼女は|唇を|噛み、|少し|頭を|傾けて|目の|端で|私を|見た。||それから|まつ毛を|ゆっくりと|伏せ、|ほとんど|頬に|触れるほどに|なってから、|また|ゆっくりと|上げた。||まるで|劇場の|幕のように。||私は|やがて|このしぐさを|覚えることに|なる。||そのしぐさで|私を|子犬のように|仰向けにさせる|つもりだったのだろう


「ボクサーなの?」と|彼女は|私が|反応しないのを|見て|聞いた。

「そうでも|ない。||探偵だ」

「な、|なに‥‥」
彼女は|ぷいと|そっぽを|向いた。||大ホールの|やや|薄暗い|光の|中で、|髪の|豊かな|色が|輝いた。

「からかってるのね」

「いや」
7

「何?」

「よしてくれ」と|私は|言った。||「聞こえたろう」

「あなた|何も|言ってないわ。||からかってばかり」

彼女は|親指を|立てて|噛んだ。||奇妙な|形の|親指だった。||細くて|狭く、|まるで|余分な|指のようで、|第一関節に|カーブが|なかった。||彼女は|それを|噛み、|ゆっくりと|口の|中で|くるくると|回しながら|吸った。||まるで|おしゃぶりを|くわえた|赤ん坊のように。

「ほんとに|背が|高いのね」と|彼女は|言った。
それから|ひそかな|おかしさを|こらえきれないように|くすくすと|笑った。||そして|足を|動かさずに、|ゆっくりと|しなやかに|体を|回した。||両手が|だらりと|脇に|垂れた。||つま先立ちで|私の|ほうへ|体を|傾けてきた。||そのまま|まっすぐ|私の|腕の|中へ|倒れ込んできた。||受け止めるか、|モザイク張りの|床に|頭を|ぶつけさせるか、|どちらかしか|なかった。||私は|両脇の|下から|彼女を|支えたが、|たちまち|足から|力が|抜けて|ぐにゃりと|なった。||支えるには|ぴったりと|引き寄せるしか|なかった。||頭が|私の|胸に|当たると、|彼女は|それを|ねじって|私を|見上げ、|くすくすと|笑った。


「あなたって|かわいいのね」と|彼女は|笑いながら|言った。||「私も|かわいいでしょ」
私は|何も|言わなかった。||するとその|絶妙な|タイミングで、|執事が|フランス窓から|戻ってきて、|私が|彼女を|抱えているのを|目にした。
気にした|様子は|なかった。||背が|高く|細い、|銀髪の|男だった。||六十歳前後か、|少し|過ぎたくらい。||目は|青く、|これ以上|ないほど|冷淡な|目だった。||肌は|なめらかで|つやがあり、|筋肉の|しっかりした|男の|動きを|していた。||ゆっくりと|こちらへ|歩いてきた。||すると|女は|私から|飛び離れた。||部屋を|横切り、|階段の|下まで|走ると、|鹿のように|駆け上がっていった。||私が|深呼吸を|一つする|間も|なく、|消えていた。
執事は|抑揚なく|言った。

「将軍が|お会いになります、|ミスター=マーロウ」
私は|顎を|持ち上げて|うなずいた。

「あれは|誰だ?」

「カーメン=スターンウッド|お嬢様です」

「乳離れ|させたほうが|いい。||もう|十分|大きいでしょう」
彼は|おごそかな|礼儀正しさで|私を|見て、|同じ|言葉を|繰り返した。
- 「クロック柄」とは、|靴下の|足首から|上に|向かって|入っている|装飾的な|刺繍や|織り柄のことです。
時計の|文字盤を|意味する|「clock」が|語源という|説も|ありますが|、|正確な|由来は|不明です。
原文の|“dark blue clocks on them”の|「clocks」が|これに|あたります。||アンクル(くるぶし)部分に|入った|細い|模様で|、|1930年代の|紳士靴下には|よく|見られた|上品なデザインです。||
現代では|なじみが|薄いので|、|「濃紺の|刺繍入り」や|「濃紺の|アンクル模様入り」と|訳しても|わかりやすいかもしれません。||どちらが|よいですか? ↩︎ - 「I was calling on four million dollars.」
これは|直訳すると|「私は|四百万ドルに|会いに|行った」です。||
「四百万ドル」は|スターンウッド将軍の|財産の|総額を|指しています。||屋敷の|値段ではなく、|依頼人の|富を|象徴する|表現です。||
つまり|「四百万ドルの|資産家を|訪ねた」という|意味で、|マーロウらしい|乾いた|皮肉の|効いた|言い回しです。
1930年の|100ドルは|2026年現在の|約1,977ドルに|相当します。||つまり約20倍です。
これを|もとに|計算すると:400万ドル(1939年)|×|約20倍|=|約8,000万ドル
日本円に|換算すると|(1ドル=約145円として):約116億円
つまりスターンウッド将軍は|現在の|価値で|約100億円超の|大富豪ということです。
1930年代の|大恐慌時代に|これほどの|資産を|持つ|人物が|いかに|突出した|存在だったか、|想像できます。
人を|金額で|表現することで|、|二つの|効果が|あります。
ひとつは|依頼人との|圧倒的な|経済格差を|一言で|示すこと。||もうひとつは|マーロウが|金持ちに|媚びず、|冷めた|目で|見ていることを|示すことです。
↩︎ - スターンウッド将軍は|架空の|人物ですが、|実在のモデルが|あります。
チャンドラーは|2本の|短編小説から|素材を|組み合わせて|創り出しました。
「大いなる眠り」の|核となる|2本の|短編は|、|1935年発表の「雨の中の殺し屋」と|1936年発表の「カーテン」です。||両作品に|共通するのは|、|問題を|抱えた|子を|持つ|有力な|父親の|存在でした。||チャンドラーは|この|2人の|父親を|統合して|スターンウッド将軍を|生み出し、|娘も|同様に|合成しました。
スターンウッド邸は|、|ビバリーヒルズの|グレイストーン・マンションを|モデルにしたと|広く|信じられています。||1928年に|石油王エドワード・L・ドヘニーが|建てた|55部屋・4万6千平方フィートの|チューダー・リバイバル様式の|大邸宅です。
ドヘニー家と|同様に|、|スターンウッド家も|石油で|財を|成した|一族という|設定です。
チャンドラー自身|かつて|石油会社に|勤めており、|そうした|業界の|内情を|よく|知っていました。
つまり、|将軍本人は|架空ですが|、|屋敷・財産の|出所・家族の|雰囲気は|当時の|実在する|ロサンゼルスの|石油富豪を|強く|意識して|描かれています。
↩︎ - 細みの黒いレギンス(shiny black leggings)1930年代の|運転手(ショーファー)が|着用する|乗馬風の|制服ズボンのことです。
膝から|下を|ぴったりと|覆う|光沢のある|黒い|革製または|布製の|脚絆(きゃはん)で、|乗馬ズボンに|似た|デザインです。||現代の|スパッツや|レギンスとは|異なり、|正式な|制服の|一部でした。
この時代は、自動車が|馬車から|発展した|時代の|名残りで、|高級家の|運転手は|馬丁(ばてい)の|制服を|引き継いだ|スタイルを|着用していました。||ぴかぴかに|磨かれた|黒い|レギンスは、|スターンウッド家の|格式と|富を|示す|演出です。
↩︎ - パッカード(Packard)とは、1930年代の|高級アメリカ車です。
デトロイトに|本拠を|置いた|アメリカの|高級自動車メーカーで、|1930年代には|ロールス・ロイスと|並ぶ|最高級車の|代名詞でした。||大統領専用車にも|使われた|ほどの|格式を|持つ|ブランドです。
コンバーティブルとは、幌(ほろ)を|開閉できる|オープンカーのことです。||当時は|富裕層の|ステータスシンボルでした。
スターンウッド家の|運転手が|磨いている|「マルーン色の|パッカード・コンバーティブル」は|、|一家の|圧倒的な|富と|華やかさを|一言で|示す|小道具です。||マーロウが|「四百万ドルに|会いに|行った」と|言った|直後に|この|車が|登場するのは|、|チャンドラーの|計算された|演出です。
後に|カーメン・スターンウッドの|車として|登録されていることが|判明し、|物語の|重要な|手がかりにも|なります。
↩︎ - 米墨戦争(メキシコ戦争)1846〜1848年
1845年にアメリカがテキサスを併合したことが直接の引き金です。テキサスはもともとメキシコ領でしたが、アメリカ系移民が独立を宣言し、アメリカに併合を求めていました。さらにアメリカは「明白な運命(Manifest Destiny)」という西部への領土拡張思想に突き動かされており、カリフォルニアを含む西部全土の獲得を狙っていました。
ポーク大統領がメキシコに宣戦布告し、アメリカ軍はメキシコ本土に侵攻、1847年にはメキシコシティまで占領しました。
1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコはカリフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナなど現在のアメリカ西部の広大な領土を割譲しました。代償はわずか1500万ドルでした。
「大いなる眠り」のスターンウッド家の祖先はこの戦争で戦った軍人であり、その勝利によってアメリカが獲得したカリフォルニアの土地で、後に石油を掘り当てて大富豪になったわけです。玄関ホールの一枚の肖像画が、スターンウッド家の富の起源をすべて物語っています。
↩︎ - ページボーイスタイルは、1930年代に流行した女性の髪型です。
1930年代を代表するスタイルのひとつで、スウェーデン出身の大女優グレタ・ガルボが好んで取り入れたことで広く知られました。 当時はハリウッドのスター文化がファッションをリードしており、アメリカ発のトレンドがヨーロッパにも波及していました。
肩の辺りで切りそろえ、毛先を内側にカールさせたスタイルで、全体的に丸みを帯びたシルエットが特徴です。名前の由来は中世ヨーロッパの「小姓(ページボーイ)」が似たような髪型をしていたことからきています。
原文では「current fashion of pageboy tresses curled in at the bottom」とあり、カーメンの髪はこの流行スタイルより「ずっと短く」切られていると描写されています。つまりカーメンの髪型は当時の流行よりも短めの、より個性的なスタイルだったということです。
現代でも「ボブ」に近いイメージですが、毛先の内巻きカールがより強調されている点が特徴的です。
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