男の首|第四章 総司令部

男の首

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月29日現在未作成)

La tête d’un homme(1931)

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メグレは|一度も|顔色を|変えず、|抗議や|苛立ちの|素振りも|見せなかった。

険しい顔で、|疲れた|表情のまま、|謙虚に|最後まで|聞いた。||コメリオ判事が|最も|厳しく、|最も|激しい|言葉を|使う|瞬間に、|のど仏が|かすかに|動いただけかもしれない。

細身で|神経質で|張り詰めた|予審判事は|執務室を|行ったり来たりし、|廊下で|待つ|被疑者たちにも|言葉の|断片が|聞こえるほど|大声で|しゃべった。

時折|何かを|つかんで|しばらく|いじり回し、|乱暴な|しぐさで|机に|戻した。

書記は|居心地が|悪そうに|よそを|向いていた。||メグレは|立ったまま|待ち、|頭一つ|分だけ|判事を|見下ろしていた。

判事は|最後の|叱責を|終えると、|相手の|顔を|うかがい、|顔を|そむけた。||なにしろ|メグレは|四十五歳の男で、|二十年間|あらゆる|種類の|微妙な|警察の|案件を|扱ってきた|人物なのだから。

何より|彼は|一人の|人間だった。


「しかし|何も|言わないのですか?」


「十日以内に|犯人を|引き渡せなければ、|辞表を|提出すると|上司に|伝えました」


「つまり|ジョゼフ・ウルタンを|再び|逮捕するということですね」


「犯人を|引き渡すと|言いました」|と|メグレは|ごく|淡々と|繰り返した。


判事は|悪魔のように|飛び上がった。


「では|まだ|そう|信じているのですか?」

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メグレは|黙っていた。||コメリオ判事は|指を|鳴らして|早口に|言った。


「ここまでに|しましょう。||あなたは|私を|怒らせてしまいそうだ。||何か|新しいことが|あれば|電話してください」


警部は|一礼して|慣れ親しんだ|廊下を|歩いた。||しかし|通りへ|下りる|代わりに、|司法庁の|屋根裏へ|向かい、|科学捜査研究所の|扉を|押した。

専門家の|一人が|突然|目の前に|現れた|警部の|様子に|驚き、|手を|差し伸べながら|聞いた。


「具合が|悪いですか?」


「いや、|元気だ」


目は|どこも|見ていなかった。||黒い|大きな|外套を|着たまま、|ポケットに|手を|入れていた。||長い|旅の後に|新鮮な|目で|慣れ親しんだ|場所を|見回す|人のような|様子だった。

そうして|前日に|空き巣に|入られた|アパートで|撮られた|写真を|いじり、|同僚が|取り寄せた|カードを|読んだ。

片隅では|髭のない|長身で|痩せた|若い男が、|厚い|眼鏡で|保護された|近視の目で、|感動した|様子で|驚きながら|警部を|見守っていた。

彼の|机には|あらゆる|大きさの|虫眼鏡、|へら、|鑷子、|インクや|試薬の|瓶、|そして|強い|電灯で|照らされた|ガラスの|スクリーンが|並んでいた。

これが|紙、|インク、|筆跡の|研究を|専門とする|モエルスだった。

メグレが|自分に|会いに|来たと|わかっていた。||それでも|警部は|彼を|見ようともせず、|あてもなく|行ったり来たりしていた。

やがて|ポケットから|パイプを|取り出して|火を|つけ、|わざとらしい|声で|言った。


「さあ、|仕事だ!」


モエルスは|警部が|どこから|来たか|知っていたので|察したが、|何も|気づかない|ふりを|した。

メグレは|外套を|脱ぎ、|あくびをして|顔の|筋肉を|動かした。||まるで|自分自身に|戻ろうとするように。||椅子を|背もたれごと|つかんで|若い男の|そばに|引き寄せ、|またがるように|座って|親しみを|込めた|口調で|言った。


「どうだ、|モエルス?」

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終わった。||ようやく|肩の荷が|下りた。


「話せ」



「一晩かけて|メモを|調べました。||大勢の人に|触られてしまったのが|残念です。||今となっては|指紋を|探しても|無駄ですから」


「期待していなかった」


「今朝|早く|クーポールへ|行きました。||インク壺を|全部|調べました。||あの店を|ご存知ですか?||いくつかの|部屋に|分かれています。||まず|大きなブラッスリー、|食事の時間には|一部が|レストランになります。||それから|二階の|部屋。||テラス。||最後に|左側に|常連客が|集まる|小さな|アメリカン・バーが|あります」


「知っている」


「メモを|書いたのは|バーの|インクです。||左手で|書かれています。||左利きでは|なく、|左手で|書くと|ほとんどの|筆跡が|似てしまうと|知っている|人物です」


シフレに|宛てた|手紙は|まだ|モエルスの|前の|ガラスの|スクリーンに|置かれていた。


「確かなことが|一つ|あります。||差出人は|知識人で、|数か国語を|流暢に|話し|書けると|断言します。||筆跡学の|話を|すると、|厳密な|科学の|領域を|外れますが」


「続けろ」


「そうですね、|私が|大きく|間違っていなければ、|私たちは|並外れた|人物に|直面しています。||まず|平均を|はるかに|超える|知性。||しかし|最も|不可解なのは、|意志と|弱さ、|冷静さと|感情の|混在です。||男性の|筆跡です。||それでも|明らかに|女性的な|性格の|特徴が|見られます」


モエルスは|得意な|分野に|いた。||喜びで|顔が|赤らんでいた。||思わず|メグレが|軽く|微笑むと、|若い男は|戸惑った。

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「これが|あまり|明確でなく、|予審判事は|最後まで|聞いてくれないと|わかっています。||それでも。||警部、|この手紙を|書いた男は|重い|病気を|患っていて|それを|知っていると|断言します。||右手を|使っていれば|もっと|詳しく|言えるのですが。||あ、|一つ|忘れていました。||紙に|染みが|ありました。||印刷所で|ついたものかも|しれませんが。||一つは|カフェ・クレーム1の|染みです。||紙の上を|切るのに|ナイフでは|なく、|スプーンのような|丸い|ものを|使っています」


「つまり|このメモは|昨日の朝、|クーポールの|バーで、|カフェ・クレームを|飲みながら|数か国語を|流暢に|話す|客が|書いたということだ」


メグレは|立ち上がり、|つぶやきながら|手を|差し伸べた。


「ありがとう。||手紙を|返してくれ」


全員に|向けて|うなり声で|挨拶して|出て行き、|扉が|閉まると|誰かが|感心したように|言った。


「それにしても。||あれだけの|叱責を|受けて」


しかし|メグレへの|崇拝で|知られる|モエルスが|そちらを|見つめたので、|その男は|黙って|続けていた|分析に|戻った。


パリは|十月の|悪天候の|日の|うんざりした|様相だった。||汚れた|天井のような|空から|白々しい|光が|降り注いでいた。||歩道には|夜の|雨の|跡が|残っていた。

通行人たちも|まだ|冬に|慣れていない|人々の|渋い|顔を|していた。

一夜中、|警視庁では|指令が|打たれ、|各警察署に|伝令が|運び、|全国の|憲兵隊、|税関、|駅の|警察に|電報が|送られた。

そのため|群衆の中に|いる|すべての|警官、|制服の|巡査も|私服の|風紀警察、|旅館担当、|風俗担当の|刑事も|同じ|人物像を|頭に|入れ、|同じ|一人の男を|見つけようと|人々の|顔を|じっと|見ていた。

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パリの|端から|端まで|同じだった。||郊外でも|同様だった。||憲兵が|幹線道路で|すべての|旅人に|書類を|求めた。

列車の中でも|国境でも、|人々は|いつもより|入念に|尋問されて|驚いていた。

探しているのは|ジョゼフ・ウルタン、|セーヌ重罪院で|死刑判決を|受け、|サンテから|脱走し、|シタンゲットで|デュフォール刑事と|乱闘の末に|姿を|消した|男だった。

『逃走時、|所持金は|約二十二フランと|推定される』と|メグレが|書いた|指令書に|あった。

当の|メグレは|一人で|オルフェーヴル河岸の|自分の|執務室にも|寄らずに|司法庁を|出て、|バスで|バスティーユへ|向かい、|シュマン=ヴェール通りの|建物の|三階の|ベルを|鳴らした。

ヨードホルムと|鶏の|煮込みの|匂いが|漂っていた。||まだ|身支度が|できていない|女性が|言った。


「あら、|あなたが|来たら|きっと|喜びますよ」


部屋では|デュフォール刑事が|悲しげで|不安そうな|顔で|横になっていた。


「元気か?」


「まあ、|そんなとこです。||傷跡の上には|髪が|生えないから|鬘を|かぶらなければ|ならないと|言われました」


研究室と|同じように、|メグレは|どこに|落ち着けばよいか|わからない|男のように|部屋の中を|うろうろした。||やがて|ぼそりと|言った。


「怒っているか?」


デュフォールの妻は|まだ|若くて|きれいな|女性で、|扉の|枠の中に|立っていた。


「彼が|あなたを|恨む?||今朝から|ずっと、|あなたが|どうやって|切り抜けるか|心配だと|言っています。||郵便局から|電話を|かけさせてくれと|言っていたくらいです」


「まあ|いい。||またな」|と|警部は|言った。
「なんとか|なるさ」


自宅は|五百メートルも|離れていない|リシャール=ルノワール大通りに|あったが、|帰らなかった。||歩く|必要が|あった。||無関心に|すれ違う|群衆の|中に|いる|自分を|感じる|必要が|あった。

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パリを|そうして|歩くうちに、|朝の|叱られた|子供のような|曖昧な|様子が|消えていった。||表情が|引き締まった。||調子の|よい日のように|パイプを|次々と|吸った。

コメリオ判事は|きっと|驚き、|おそらく|憤慨したことだろう。||メグレの|最も|小さな|心配事が|ジョゼフ・ウルタンを|見つけることだと|知ったなら。

メグレにとって|それは|副次的な|問題だった。||死刑囚は|数百万人の|人々に|紛れて|どこかに|いる。||しかし|必要な|ときに|探せば|すぐ|見つかると|確信していた。

そうではなく!||彼が|考えていたのは|クーポールで|書かれた|手紙のことだった。||そして|おそらく|もっと|気になっていたのは、|最初の|捜査で|見落としていた|ことへの|自責だった。

しかし|七月には|誰もが|ウルタンの|有罪を|確信していた。||予審判事が|すぐ|事件を|掌握し、|警察を|締め出してしまったのだ。

「犯行は|サン=クルーで|午前二時半ごろ。||ウルタンは|四時前に|ムッシュー=ル=プランス通りに|戻っている。||電車にも|路面電車にも|公共交通機関にも|乗っていない。||タクシーにも|乗っていない。||三輪車は|セーヴル通りの|雇い主の|もとに|あった」

歩いて|帰ることは|できなかった。||走り続けなければ|ならなかったはずだ。

モンパルナスの|交差点では|正午半の|活気が|溢れていた。||秋にも|かかわらず、|ラスパイユ大通り近くに|並ぶ|四つの|大カフェの|テラスは|客で|あふれ、|その|八割は|外国人だった。

メグレは|クーポールまで|歩き、|アメリカン・バーの|入口を|見つけて|中に|入った。

テーブルが|五つあり、|すべて|埋まっていた。||客の|大半は|バーの|高い|スツールに|腰かけるか、|バーの|周りに|立っていた。

警部は|誰かが|注文するのを|聞いた。

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「マンハッタンを」


メグレは|つぶやいた。


「同じものを」


彼は|ブラッスリーと|ビールジョッキの|世代だった。||バーテンダーが|オリーブの|小皿を|前に|押しやったが、|手を|つけなかった。


「失礼」|と|金髪というより|黄色に|近い|髪の|小柄な|スウェーデン人女性が|言った。


ごった返していた。||奥の|壁に|設けられた|小窓が|絶えず|開いては|閉まり、|厨房から|オリーブ、|チップス、|サンドイッチ、|温かい|飲み物が|送り出されていた。

四人の|ウェイターが|同時に|叫び、|皿と|グラスの|音が|響き、|客たちが|様々な|言語で|呼び合っていた。

そして|支配的な|印象は、|客も|バーテンダーも|ウェイターも|内装も|一つの|均質な|世界を|形成しているというものだった。

人々は|親しげに|肩を|寄せ合い、|小柄な|女性も、|リムジンから|陽気な|友人たちと|降り立った|実業家も、|エストニアの|駆け出し|画家も、|みんな|チーフ・バーテンダーを|「ボブ」と|呼んだ。

紹介もなしに|仲間のように|話しかけた。||ドイツ人が|アメリカ人と|英語で|話し、|ノルウェー人が|スペイン人に|わかってもらおうと|少なくとも|三か国語を|混ぜていた。

誰もが|知っていて|誰もが|挨拶する|女性が|二人いた。||その一人に|メグレは|見覚えがあった。||太り、|老けたが|毛皮を|まとっていた。||かつて|ラ・ロケット通りの|手入れで|サン=ラザール女子刑務所に|連行したことが|あった|小娘だった。

しゃがれた声、|疲れた目で、|通り過ぎる人々に|手を|握られていた。||テーブルの後ろに|君臨するその姿は、|まるで|この|ごった煮の|混沌を|一身に|体現しているかのようだった。


「筆記用具は|ありますか?」|と|メグレは|バーテンダーに|聞いた。


「食前酒の|時間は|ないですね。||ブラッスリーへ|行けば|ありますが」

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騒がしい|グループの|間に|一人でいる客が|何人か|いた。||それが|この場所の|最も|絵になる|特徴かもしれなかった。

一方では、|大声で|しゃべり、|動き回り、|次々と|注文し、|豪華で|奇抜な|服を|見せびらかす|人々がいた。

他方では、|あちこちに、|この|華やかな|群衆に|溶け込むためだけに|世界の|果てから|やってきたような|人々が|いた。

たとえば|二十二歳に|なっていないであろう|若い女性が|いた。||きちんと|仕立てられた|黒い|小さな|スーツを|着ていたが、|百回は|アイロンを|かけたに|違いない|代物だった。

疲れた|神経質な|奇妙な|顔だち。||そばに|スケッチブックを|置いていた。||一杯十フランの|食前酒を|飲む|人々の|中で、|牛乳を|一杯と|クロワッサンを|食べていた。

一時に!||明らかに|昼食だった。||その|合間に|店が|客に|提供している|ロシア語の|新聞を|読んでいた。

何も|聞こえず、|何も|見えない|様子だった。||ゆっくりと|クロワッサンを|かじり、|時々|牛乳を|一口|飲み、|同じ|テーブルで|四杯目の|カクテルを|飲んでいる|グループに|まったく|無関心だった。

同じくらい|目を|引いたのは|その|髪だけで|人目を|引かずには|いられない|男だった。||赤くて|縮れた|異様に|長い|髪だった。

くすんで|くたびれた|黒い|スーツを|着て、|ネクタイなしの|青い|シャツの|襟を|胸まで|開けていた。

バーの|奥に|誰も|邪魔しようとしない|古参の|常連のような|姿勢で|陣取り、|スプーンで|一口ずつ|ヨーグルトを|食べていた。

ポケットに|五フランが|あるのか?||どこから|来たのか?||どこへ|行くのか?||そして|おそらく|唯一の|日々の|食事である|このヨーグルトの|わずかな|代金を|どう|工面しているのか?

ロシア人女性と|同じように、|燃えるような|目つき、|疲れた|まぶたを|していたが、|その|顔つきには|無限に|軽蔑的で|傲慢な|何かが|あった。

誰も|彼に|握手しに|来ず、|話しかけにも|来なかった。

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回転扉が|突然|一組の|カップルを|通し、|メグレは|鏡の中で|二十五万フランは|くだらない|アメリカ車から|降りてくる|クロスビー夫妻を|見つけた。

車体が|全面|ニッケルメッキで|覆われているため、|歩道の|縁に|止まった|車は|一段と|目立っていた。

ウィリアム・クロスビーは|脇に|よける|二人の|客の|間から|マホガニーの|バーカウンターに|手を|伸ばし、|バーテンダーの|手を|握りながら|言った。


「元気か、|ボブ?」


クロスビー夫人は|小柄な|金髪の|スウェーデン人女性に|駆け寄り、|抱擁して|矢継ぎ早に|英語で|しゃべりはじめた。

二人は|注文する|必要も|なかった。||ボブが|クロスビーに|ウィスキーソーダを|押し出し、|夫人には|ロゼを|作りながら|聞いた。


「もう|ビアリッツ2から|戻ったんですか?」


「三日しか|いませんでした。||ここより|雨が|多くて」


クロスビーは|メグレに|気づき、|軽く|うなずいた。||三十代の|黒髪の|大柄な|男で、|しなやかな|歩き方だった。

その場に|いた|全員の中で、|彼の|エレガンスは|最も|品が|よかった。

ゆるやかに|握手し、|友人たちに|聞いた。


「何を|飲む?」

裕福だった。||気まぐれに|ニース、|ビアリッツ、|ドーヴィル、|ベルリンへ|乗り回す|スポーツカーが|ドアの外に|あった。||ジョルジュ五世大通りの|高級ホテルに|数年|住んでおり、|叔母から|サン=クルーの|別荘の|ほかに|一千五百万から|二千万フランを|相続していた。

クロスビー夫人は|小柄で|元気いっぱい、|休みなく|しゃべり、|英語と|フランス語を|独特の|アクセントと|頭声で|混ぜて|話し、|声を|聞くだけで|誰だか|わかるほどだった。

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客たちが|メグレと|クロスビー夫妻の|間に|いた。||メグレが|顔を|知っている|代議士が|入ってきて、|若い|アメリカ人の|手を|親しげに|握った。


「一緒に|昼食でも?」


「今日は|だめだ。||市内に|招待されている」


「明日は?」


「いいよ。||ここで|待ち合わせよう」


「ムッシュー=ヴァラシーヌに|お電話です!」|と|ウェイターが|叫んだ。


誰かが|立ち上がり、|電話ボックスへ|向かった。

「ロゼを|二つ!」

皿の|音。||高まる|ざわめき。

「ドルを|両替してくれますか?」

「新聞で|レートを|見てください」

「スージーは|いませんか?」

「今|出て行きました。||マキシム3で|昼食の|はずです」


メグレは|水頭症のような|頭で|長い腕を|した|男のことを|考えていた。||二十フランあまりを|ポケットに|入れて|パリの|雑踏に|紛れ込み、|今この瞬間も|フランス中の|警察が|追っている|男のことを。

サンテの|暗い|壁を|じわじわと|上っていった|青白い|顔を|思い出した。

それから|デュフォールからの|電話が。

『寝ています』

丸一日|眠り続けていた!

今|どこにいるのか?||そして|なぜ、|そう、|なぜ|知りもしない|ヘンダーソン夫人を|殺し、|しかも|何も|盗まなかったのか?


「ここで|よく|食前酒を|飲みますか?」


ウィリアム・クロスビーが|話しかけてきた。||メグレに|近づき、|煙草入れを|差し出した。


「ありがとう。||パイプだけで」


「何か|飲みますか?||ウィスキーは?」


「見てのとおり|もらっています」


クロスビーは|不満そうな|顔をした。


「英語、|ロシア語、|ドイツ語は|わかりますか?」4


「フランス語だけです」

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「では|クーポールは|あなたには|バベルの塔5ですね。||ここで|お見かけしたことは|なかった。||ところで、|噂は|本当ですか?」


「どういう|意味ですか?」


「殺人犯の|ことです。||ご存知でしょう」


「まあ、|心配することは|ありませんよ」


クロスビーは|一瞬、|じっと|メグレを|見つめた。


「さあ、|一緒に|一杯|どうぞ。||妻も|喜びます。||ミス・エドナ・ライヒベルクを|ご紹介します。||ストックホルムの|製紙業者の|娘さんです。||去年の|シャモニーの|スケート|チャンピオン。||メグレ警部です、|エドナ」


黒い|服の|ロシア人女性は|まだ|新聞を|読み続けており、|赤髪の男は|最後の|一欠片まで|ヨーグルトを|かき出した|素焼きの|鉢を|前に|半眼で|夢想していた。

エドナは|口先だけで|言った。


「はじめまして」


メグレと|力強く|握手してから、|クロスビー夫人と|英語で|会話を|続けた。||一方|ウィリアムは|詫びた。


「失礼。||電話が|来ています。||ウィスキーを|二つ、|ボブ。||すみません」


外では|ニッケルメッキの|車が|灰色の|光の中で|輝いていた。||みすぼらしい|人影が|車を|回り込み、|足を|引きずりながら|クーポールに|近づき、|バーの|回転扉の前で|一瞬|立ち止まった。

赤みがかった目が|内部を|のぞき込んでいたが、|ウェイターが|すでに|その|みじめな|男を|追い払おうと|近づいていた。

警察は|パリでも|その他の場所でも|まだ|サンテの|脱走犯を|探していた。

男は|そこに|いた。||警部の|声が|届く|距離に!

  1. カフェ・クレームとは、フランスの|カフェで|よく|飲まれる|コーヒーです。エスプレッソに|温めた|クリームや|ミルクを|加えたもので、日本の|カフェオレに|近い|飲み物です。
    1930年代の|パリでは|朝の|定番の|飲み物で、|クロワッサンや|バゲットと|一緒に|朝食として|飲まれることが|多かったです。
    ↩︎
  2. ビアリッツとは、フランス南西部の|バスク地方に|ある|高級リゾート地です。大西洋に|面した|美しい|海岸で|知られており、|19世紀から|ヨーロッパの|王族や|貴族、|富裕層が|集まる|避暑地として|知られていました。
    1930年代当時は|パリの|社交界の|人々が|夏や|秋に|訪れる|定番の|リゾートで、|カジノや|豪華ホテル、|サーフィンでも|有名でした。
    物語の文脈では、|クロスビー夫妻が|気まぐれに|三日間だけ|ビアリッツへ|行って|戻ってきたという|場面で|登場します。||パリから|ビアリッツまでは|かなりの|距離がありますが、|裕福な|クロスビー夫妻には|週末旅行のような|感覚だったことが|わかります。
    ↩︎
  3. マキシムとは、パリの|有名な|高級レストランです。正式名称は「マキシム・ド・パリ(Maxim’s de Paris)」で、ロワイヤル通り3番地に|位置しています。
    1893年に|開業し、|ベル・エポック時代から|パリの|社交界の|中心として|知られています。||アール・ヌーヴォー様式の|豪華な|内装で|有名で、|王族、|貴族、|芸術家、|実業家など|各界の|著名人が|集まる|場所でした。
    1930年代当時は|パリで|最も|格式の|高い|レストランの|一つで、|ここで|昼食を|とるということは|かなりの|富裕層か|社交界の|人物であることを|示しています。
    物語の文脈では|「スージー」という|人物が|マキシムで|昼食を|とっているという|会話で|登場し、|クーポールに|集まる|人々の|華やかな|生活ぶりを|さりげなく|示しています。
    ↩︎
  4. これは、クロスビーの唐突な|質問です。前の|流れでは|煙草や|ウィスキーを|勧めていたのに、突然|言語の|話に|なっています。
    考えられる解釈としては:
    クーポールの|バーでは|英語、|ロシア語、|ドイツ語など|様々な|言語が|飛び交っています。||クロスビーが|メグレに「この店の|会話が|わかりますか?」という|意味で|聞いたのかもしれません。
    しかし|この質問には|別の|深読みも|できます。||メグレが|この場所で|誰かを|監視しているとしたら、|クロスビーが|それを|察して「あなたは|ここで|何を|聞いているのですか?」と|遠回しに|探りを|入れている|可能性も|あります。
    メグレの|答え「フランス語だけです」は|ぶっきらぼうで、|それ以上の|会話を|遮断する|意図が|感じられます。 ↩︎
  5. バベルの塔とは。旧約聖書に|登場する|有名な|話です。
    人類が|天まで|届く|塔を|建てようとしたところ、神が|怒って|人々の|言葉を|バラバラにしてしまい、互いに|意思疎通が|できなくなったという|物語です。これが|世界に|様々な|言語が|存在する|起源だと|説明されています。
    「バベルの塔」は|今日では|様々な|言語が|飛び交う|混沌とした|場所を|指す|表現として|使われます。
    クロスビーが|「クーポールは|あなたには|バベルの塔ですね」と|言ったのは、フランス語しか|わからない|メグレには、英語、ロシア語、ドイツ語など|多くの|言語が|飛び交う|クーポールは|まるで|バベルの塔のようで、何も|わからないでしょう、という|皮肉交じりの|軽口です。 ↩︎