翻訳研究|ヨーロッパの独特の表現?

翻訳研究

アガサ・クリスティや、ジョルジュ・シムノンを翻訳していると、日本人には馴染みのない独特の表現が出てきます。

「歯の間からつぶやく」「肩をすくめた」などです。これは一体どういう感情表現でしょうか?

歯の間からつぶやく

フランス語

Les traits de Belloir se crispèrent. Il s’avança vers le commissaire :
— Jef Lombard, un camarade !… dit-il du bout des dents.

ベロワールの|表情が|こわばった。|メグレの|ほうへ|一歩|進み出て、|歯の|隙間から|絞り出すように|言った。
「ジェフ・ロンバール、|友人です」


『サン・フォリアン教会の首吊り男 第四章』

Dès l’entrée du commissaire, elle marcha vers lui, en même temps que l’homme se levait avec un soupir de soulagement, grommelait même entre ses dents :
— Ce n’est pas trop tôt !…

警部が入ってくるなり、|女は|彼の|方に|歩み寄った。||同時に|男も|安堵の|溜め息を|つきながら|立ち上がり、|歯の間から|ぼそっと|つぶやいた。
「やっと|来たか!」


『ニューファンドランドの漁師の酒場 第五章』

フランス語の慣用表現で、grogner entre ses dents(歯の間で唸る)と同じ用法です。
声に出さず、口の中で低く不満げにつぶやく様子を表します。日本語では「歯の間から|言葉を|絞り出すように」「ぶつぶつと」「口の中で|もごもごと」などと訳せます。
フランス語や日本語でも「歯を食いしばって言う」「歯の間から絞り出す」という表現があるように、口をほとんど開けずに小声で言う様子を体の動作で描写しているからです。

意味合い

具体的には三つの意味合いが重なっています。
一つ目は「声の小ささ」です。口をほぼ閉じたまま発声するので、周りに聞こえるかどうかギリギリの音量になります。
二つ目は「感情の抑制」です。本当は大きな声で言いたいのに、場所や状況をわきまえてこらえている。ビュジエの場合、警察署という場所で本音をあからさまに出せないもどかしさが表れています。
三つ目は「軽蔑や不満」のニュアンスです。相手に正面から言うのではなく、独り言のように吐き捨てる言い方で、皮肉や苛立ちを含みます。
日本語で言えば「舌打ちしながらぼそっと」「口の中でもごもごと」「かみしめるように」といった感じに近いです。

前者のベロワールは、タイミングの悪い時にロンバールが来たなという、「感情の抑制」でしょう。

ベロワールの|表情が|こわばった。|メグレの|ほうへ|一歩|進み出て、|舌打ちしながら、ぼそっと言った。
「ジェフ・ロンバール、|友人です」

後者の、ガストン・ビュジェは、メグレが来るのを待ちかねて、「軽蔑や不満」でしょうか。

警部が入ってくるなり、|女は|彼の|方に|歩み寄った。||同時に|男も|安堵の|溜め息を|つきながら|立ち上がり、|小声で|吐き捨てるように|言った。
「やっと|来たか!」

英語では

英語では “muttered through his teeth” または “grumbled through clenched teeth” と表現します。
“through his teeth” は日本語の「歯の間から」とほぼ直訳で対応していて、英語でも同じ発想の慣用表現として自然に使われます。
似た表現をいくつか挙げると——

  • “muttered under his breath”(息の下でぼそりと)
  • “said between his teeth”(歯の間から言った)
  • “hissed through his teeth”(歯の間からシューッと吐き出した)
  • “growled through clenched teeth”(歯を食いしばりながら唸るように言った)

声の小ささ、感情の抑制、不満や軽蔑という三つのニュアンスはフランス語とほぼ完全に一致します。
これは偶然ではなく、人間が感情を抑えて小声で言う時の普遍的な身体動作——口をほぼ閉じたまま発声する——を、フランス語や英語は『歯の間から』と言語化しているだけです。
言語が違っても、人間の体の動きと感情表現の結びつきは共通しているということの好例と言えます。


肩をすくめる

これも、よく出てくる表現ですが、日本人はあまりやらない動作です。

Puis soudain il haussa les épaules avec l’air de conclure :
― C’est idiot !.…

そして|突然、|彼は|これで|終わりだと|いうように|肩を|すくめた。
「ばかばかしい!」


『オランダの殺人 第三章』

Poirot shrugged his shoulders.
“Surely, it is obvious!”

ポワロは|肩をすくめた。
「どう|考えても|明らかだよ!」


『スタイルズ荘の怪事件 第十章』

「肩をすくめる」は、両肩を上に引き上げて、すぐに落とす動作です。
英語では “shrug”、フランス語では “hausser les épaules” と言い、三言語とも同じ動作を指します。
意味合いとしては——
無関心(「知らない、どうでもいい」)、諦め(「しょうがない」)、軽蔑(「くだらない」)、否定(「そんなことない」)、困惑(「分からない」)など、文脈によって様々なニュアンスを持ちます。

言葉を使わずに気持ちを伝える万国共通のボディランゲージで、ポワロのような西洋人のキャラクターが使うと、いかにもヨーロッパ的な仕草として描写されることが多いです。
しかし、日本人はあまりしない動作です。
翻訳では「肩をすくめた」とそのまま訳すよりも、文脈によって「手を広げて」など意訳した方がいいかもしれません。

ポワロは、やれやれというように言った。
「どう|考えても|明らかだよ!」

そして|突然、|彼は|これで|終わりだというように|手を広げて|言った。
「ばかばかしい」

日本人には馴染みのない動作

ウィンク

ウィンクも日本人には馴染みの薄い動作です。
欧米では非常に一般的なボディランゲージで、意味合いは文脈によって大きく変わります。

仲間意識・共犯感——「ここだけの話だよ」「分かってるよな?」という秘密の共有です。
『ニューファンドランドの漁師の酒場』でもレオンがメグレに向かってウィンクする場面があり、「あいつのことは俺たちだけで知っておこう」というニュアンスで使われています。

冗談・からかい——「本気じゃないよ」「冗談だよ」と相手に伝える合図です。

色気・誘惑——異性に向けたウィンクは誘いかけのサインになります。

励まし——「大丈夫、任せろ」という意味でも使われます。

日本でウィンクが馴染みにくい理由は、日本文化では感情や意図を表情で直接表現することを控える傾向があるからです。欧米では顔全体でコミュニケーションをとることが当たり前で、ウィンクはその典型的な例と言えます。

フランス語では “faire un clin d’œil”(目をパチンとする)と表現し、1930年代のフランス小説にもよく登場します。

その他の動作

フランス文学や欧米の小説によく出てくる、日本人には馴染みのない動作をいくつか挙げます。

顔の動作
  • 眉を上げる (raise an eyebrow)——驚き、疑い、皮肉を表します。片眉だけ上げるのはとくに欧米的です。
  • 鼻を鳴らす (snort)——軽蔑や嘲笑を表します。
  • 口をすぼめる (purse one’s lips)——不満や考え込む様子です。
手や腕の動作
  • 両手を広げる (spread one’s hands)——「どうしようもない」「お手上げ」の意味です。
  • 指を鳴らす (snap one’s fingers)——思い出した時や人を呼ぶ時に使います。
  • 拳で机を叩く (bang one’s fist on the table)——怒りの表現で、ビュジエもやっていました。
体全体の動作
  • 椅子に深くもたれる (lean back in one’s chair)——くつろぎや余裕を示します。
  • 地面に唾を吐く (spit on the floor)——軽蔑の極端な表現で、アデルもやっていました。
  • 肘をつく (lean on one’s elbows)——考え込む時の典型的な姿勢です。

これらは欧米では自然なボディランゲージですが、日本の文化的文脈では無作法とされるものも多く、翻訳時に動作をそのまま訳すか意訳するか、訳者が判断を迫られる部分でもあります。