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La tête d’un homme(1931)
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判事コメリオとの|短い|面会を|終えたメグレが|オートゥイユ1に|着いたのは|十一時だった。||コメリオは|なかなか|落ち着かない|様子だった。||空は|どんよりと|曇り、|石畳は|汚れ、|屋根すれすれに|雲が|垂れこめていた。

警部が|歩く|河岸には|立派な|建物が|並んでいた。||一方、|対岸は|すでに|郊外の|風景で、|工場、|空き地、|資材の山が|積まれた|荷揚げ場が|続いていた。
その二つの|景色の間を、|鉛色の|セーヌ川が|タグボートの|往来に|揺れながら|流れていた。
シタンゲットは|遠くからでも|すぐに|わかった。||煉瓦の山、|古い|車のフレーム、|アスファルト紙、|果ては|鉄道のレールまで|散らかった|空き地の|真ん中に、|ぽつんと|一軒だけ|建っていたからだ。
一階建ての|みすぼらしい|赤い|建物で、|三つの|テーブルを|並べた|テラスに、|「ワイン・軽食」と|書かれた|おなじみの|日よけが|張られていた。

セメントを|荷降ろしして|いるのだろう、|頭から|足まで|白く|なった|荷役人夫たちが|見えた。||出がけに|青い|エプロン姿の|男、|ビストロの|主人と|握手して、|急ぐでもなく|埠頭に|係留された|はしけの方へ|歩いていった。
メグレの|顔は|疲れ、|目は|うつろだった。||しかし|それは|徹夜の|せいでは|なかった。
目標を|ひたむきに|追い続けて|ようやく|手の届く|ところに|来たとき、|いつも|こうして|気が|抜けてしまうのが|彼の|癖だった。
ある種の|嫌気で、|抗おうとも|しなかった。
シタンゲットの|真向かいに|ホテルを|見つけ、|フロントに|入った。

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「河岸に|面した|部屋を|一つ|欲しい」

「月極めで?」
メグレは|肩を|すくめた。||今は|逆らわれる|場合では|ない。

「好きな|だけいる。||司法警察だ」

「空き部屋が|ございません」

「よし、|宿帳を|見せろ」

「それが、|少々|お待ちを。||18号室が|空いているか|フロアの|係に|電話して|確かめないと」

「馬鹿者が」|と|メグレは|歯の間から|うなった。
もちろん|部屋は|もらえた。||ホテルは|高級だった。||係が|聞いた。

「お荷物は|お取りしましょうか?」

「何も|ない。||双眼鏡だけ|持ってこい」

「でも、|あるかどうか」

「いいから。||どこからでも|双眼鏡を|探して|来い」
ため息を|つきながら|外套を|脱ぎ、|窓を|開け、|パイプに|煙草を|詰めた。||五分も|しないうちに|真珠母の|双眼鏡が|届いた。

「女主人の|ものです。||大切に|扱うよう|申しておりました」

「わかった。||消えろ」

すでに|彼は|シタンゲットの|正面を|細部まで|把握していた。
二階の|窓が|一つ|開いていた。||乱れた|ベッドが|見え、|巨大な|赤い|羽毛布団が|横向きに|置かれ、|羊の皮の上に|タペストリーの|スリッパが|あった。

「主人の|部屋だ」
隣に|もう一つ|窓が|あった。||こちらは|閉まっていた。||その隣の|三つ目の|窓は|開いており、|シュミーズ姿の|太った|女が|髪を|とかしていた。

「女将か、|それとも|女中か」
下では|店主が|テーブルを|拭いていた。||テーブルの一つに|デュフォール刑事が|赤ワインの|小瓶を|前に|座っていた。
二人が|話しているのは|明らかだった。

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石の埠頭の端に、|レインコートを|着て|グレーの|キャップを|かぶった|金髪の|若い男が、|セメントの|はしけの|荷降ろしを|監視しているように|見えた。
司法警察の|最も|若い刑事の|一人、|ジャンヴィエ刑事だった。
メグレの|部屋の|ベッドの頭側に|電話機が|あった。||警部は|受話器を|取った。

「もしもし、|フロントか?」

「何か|ご用でしょうか?」

「対岸の|シタンゲットという|ビストロに|つないでくれ」

「かしこまりました」|と|かん高い声が|答えた。
しばらくして、|メグレは|窓から|主人が|雑巾を|放り出して|ドアの方へ|歩くのを|見た。||それから|部屋の|電話が|鳴った。

「おつなぎしました」

「もしもし、|シタンゲットですか?||店内の|お客様を|電話口に|呼んでください。||一人しか|いないから|間違いは|ありません」

窓から|呆然とした|主人が|デュフォールに|話しかけ、|デュフォールが|電話ボックスに|入るのが|見えた。

「お前か?」

「警部ですか?」

「向かいの|ホテルに|いる。||そこから|見えるだろう。||あの男は|どうだ?」

「寝ています」

「確認したか?」

「さっき|ドアに|耳を|当てました。||いびきが|聞こえたので、|扉を|少し|開けると|見えました。||丸まって|服を|着たまま|寝ています」

「主人に|知らせていないか?」

「警察を|怖がっています。||昔|もめたことが|あって、|免許を|取り上げると|脅されたことが|あるんです。||だから|おとなしくしています」

「出口は|いくつだ?」

「二つ。||表の|入口と、|中庭に|通じる|扉。||ジャンヴィエが|いる場所から|その出口が|見えます」

「二階に|誰か|上がったか?」
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「誰も。||階段は|ビストロの|カウンターの|後ろに|あるので、|私の|そばを|通らずに|上がることは|できません」

「よし。||そこで|昼飯を|食え。||後で|電話する。||船会社の|事務員らしく|見えるよう|努力しろ」

メグレは|受話器を|置き、|肘掛け椅子を|開いた窓まで|引きずっていった。||寒くなって|外套を|取ってきて|羽織った。

「終わりましたか?」|と|ホテルの|交換手が|聞いた。

「終わった。||ビールと|刻み煙草を|持ってこい」

「煙草は|ございません」

「では|買いに|行かせろ」
午後三時、|彼は|まだ|同じ場所に|いた。||双眼鏡を|膝の上に、|空の|グラスを|手元に、|窓が|開いているにも|かかわらず|部屋には|強いパイプの|煙の匂いが|漂っていた。

警察の|発表に|基づいた|朝刊が|床に|落ちていた。||『死刑囚、|サンテ刑務所から|脱走』と|書かれていた。
メグレは|時折|肩を|すくめ、|足を|組んだり|ほどいたりし続けた。||三時半、|シタンゲットから|電話が|入った。

「何か|あったか?」

「何も。||男は|まだ|寝ています」

「それで?」

「オルフェーヴル河岸から|電話が|あって、|警部の|居場所を|聞かれました。||予審判事が|すぐ|話したいとのことです」

今度は|メグレは|肩を|すくめずに|一言|言い放ち、|受話器を|置いて|交換手を|呼んだ。

「検察庁に|つないでくれ。||急ぎだ」
コメリオが|何を|言うか|わかりすぎるほど|わかっていた。

「もしもし、|警部ですか?||やっと。||どこに|いるか|誰も|教えてくれなくて。||オルフェーヴル河岸に|聞いたら、|シタンゲットに|部下を|張りこませていると|わかって、|そちらに|電話させました」

「何ですか?」

「まず、|何か|新しいことは?」

「何も。||男は|寝ています」
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「確かですか?||逃げていませんか?」

「少し|大げさに|言えば、|今この瞬間も|眠っているのが|見えます」

「私は|だんだん|後悔しはじめています」

「私の|言うことを|聞いたことを?||法務大臣も|同意して|いるではないですか」

「待ってください。||朝刊が|あなたの|発表を|載せました」

「見ました」

「昼刊も|読みましたか?||いいえ?||シフレ紙を|手に|入れてください。||ゆすり新聞と|わかっていますが、|それでも。||少し|そのままで。||もしもし、|いますか?||読みます。||「国家の都合」という|題の|シフレ紙の|囲み記事です。||聞こえますか、|メグレ?||では」
今朝の|各紙は、|セーヌ重罪院で|死刑判決を|受け、|サンテ刑務所|厳重監視棟に|収監中の|ジョゼフ・ウルタンが|不可解な|状況の下で|脱走したと|伝える|半公式の|発表を|掲載した。
我々は|この|状況が|すべての人に|とって|不可解では|ないことを|付け加えることができる。
実際、|ジョゼフ・ウルタンは|脱走したのではなく、|脱走させられたのだ。||しかも|予定されていた|処刑の|前夜に。
今夜|サンテで|演じられた|卑劣な|茶番劇の|詳細を|今すぐ|伝えることは|まだ|できないが、|脱走の|見せかけを|取り仕切ったのは|司法当局と|グルになった|警察自身である|ことを|我々は|断言する。
ジョゼフ・ウルタンは|それを|知っているのか?
知らないとすれば、|犯罪の|年代記に|おいて|ほぼ|前例のない|この|作戦を|言い表す|言葉が|見つからない。
メグレは|身じろぎも|せずに|最後まで|聞いた。||電話口の|判事の声が|弱々しく|なった。

「どう|思いますか?」

「私が|正しいことの|証明です。||シフレ紙が|独自に|嗅ぎつけた|わけでも|ない。||内情を|知っていた|六人の|役人の|誰かが|しゃべった|わけでも|ない。||それは」

「それは?」
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「今夜|お話しします。||大丈夫ですよ、|コメリオさん」

「そうでしょうか?||他の|新聞が|この情報を|取り上げたら?」

「スキャンダルに|なるでしょう」

「ほらご覧なさい」

「一人の男の|命が|スキャンダルより|大事では|ないですか?」
五分後、|彼は|警視庁に|電話した。

「リュカか?||いいか。||モンマルトル通りの|シフレ紙の|編集部へ|行け。||編集長と|二人きりで|話せ。||脅しを|かけてでも、|サンテ脱走に|関する|情報を|どこから|得たか|聞き出せ。||今朝|手紙か|速達を|受け取ったはずだ。||その文書を|探し出して|ここへ|持ってこい。||わかったか?」
交換手が|聞いた。

「終わりましたか?」

「まだだ。||シタンゲットに|つないでくれ」
少しして|デュフォール刑事が|報告した。

「寝ています。||さっき|十五分ほど|ドアに|耳を|当てていました。||悪夢の中で|うめいているのが|聞こえました。||『お母さん!』と」
シタンゲットの|二階の|閉まった窓に|双眼鏡を|向けながら、|メグレは|枕元に|いるかのように|はっきりと|生々しく|眠る男の姿を|思い浮かべることが|できた。
それでも|実際に|知り合ったのは|七月、|サン=クルーの|事件から|わずか|四十八時間後に|肩に|手を|置いて|こう|ささやいた|あの日だけだった。


「騒ぐな。||ついてこい」
それは|ムッシュー=ル=プランス通りの|安下宿で、|ジョゼフ・ウルタンは|六階の|部屋を|借りていた。
下宿の|女主人は|こう|言っていた。

「きちんとした、|おとなしい、|働き者の|青年です。||ただ|時々|少し|変わった|様子に|見えることが|ありますが」

「誰も|訪ねて|来なかったですか?」
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「誰も。||最近まで|真夜中過ぎに|帰ることも|ありませんでした」

「最近は?」

「二、三度|遅く|帰りました。||一度、|水曜日でしたが、|午前四時少し前に|開錠を|頼んできました」
その水曜日こそ|サン=クルーの|犯行当日だった。||法医学者たちは|二人の女性の|死亡時刻を|午前二時ごろと|断定していた。
さらに|ウルタンの|有罪を|示す|確かな|証拠が|あった。||その証拠の|大半は|メグレ自身が|発見したものだった。
別荘は|サン=ジェルマン街道2沿いの|パヴィヨン=ブルー3から|一キロと|離れていない|場所に|あった。||真夜中、|ウルタンは|一人で|この店に|入り、|立て続けに|グロッグを|四杯|飲んだ。||代金を|払う際に|ポケットから|パリ=サン=クルーの|三等片道切符を|落とした。

ヘンダーソン夫人は|アメリカ人外交官の|未亡人で、|金融界の|名家と|縁続きだった。||夫の|死後、|一階を|使わずに|別荘に|一人で|住んでいた。
女中というより|話し相手に|近い|使用人が|一人いた。||エリーズ・シャトリエという|フランス人で、|子供時代を|イギリスで|過ごし、|優れた|教育を|受けていた。
週二回、|サン=クルーの|庭師が|別荘を|囲む|小さな|公園の|手入れに|来ていた。
訪問者は|少なかった。||時折|老夫人の|甥の|ウィリアム・クロスビーと|その妻が|来る|程度だった。
その七月の夜、|七日だったが、|ドーヴィルへと|続く|幹線道路を|いつもどおり|車が|行き交っていた。
午前一時、|パヴィヨン=ブルーや|他の|レストランや|ダンスホールが|閉まった。

ある|ドライバーが|後に|証言した。||二時半ごろ、|別荘の|二階に|明かりが|灯り、|奇妙な|動きをする|人影が|見えたと。
六時、|庭師が|やってきた。||その日が|彼の|担当日だった。||いつもの|習慣で|音も|なく|門を|押し開け、|八時に|エリーズ・シャトリエが|朝食を|出すために|呼びに|来るのを|待っていた。

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しかし|八時に|なっても|物音が|しなかった。||九時に|なっても|別荘の|扉は|まだ|開いていなかった。||不安に|なった庭師は|ノックしたが|返事が|なく、|最寄りの|交差点に|いた|警官に|知らせに|行った。
しばらくして|悲劇が|発見された。||ヘンダーソン夫人の|寝室で、|老婦人の|遺体が|カーペットの上に|横たわっていた。||ナイトガウンは|血に|染まり、|胸には|十数か所の|刺し傷が|あった。

エリーズ・シャトリエも|同じ|運命を|たどっていた。||夜中に|具合が|悪くなることを|恐れた|女主人の|頼みで|占領していた|隣の|部屋で。

二重の|凶悪な|殺人、|警察が|言う|いわゆる|卑劣な|犯罪の|極みだった。
至る所に|痕跡が|あった。||足跡、|カーテンに|残された|血まみれの|指の|跡。
通常の|手続きが|始まった。||検察の|臨場、|司法身元確認局の|専門家の|到着、|各種の|分析と|解剖。
メグレは|警察の|捜査指揮を|任され、|二日と|かからず|ウルタンの|手がかりを|見つけた。
手がかりは|あまりにも|はっきりと|示されていた。||別荘の|廊下には|じゅうたんが|なく、|床には|ワックスが|かけられていた。
数枚の|写真で|例外的な|鮮明さの|足跡が|得られた。

まったく|新しい|ゴム底の|靴だった。||雨の日に|ゴムが|滑らないよう、|特殊な|溝が|刻まれており、|中央には|メーカー名と|製品番号が|読めた。
数時間後、|メグレは|ラスパイユ大通りの|靴屋に|入り、|その種の靴の|その|サイズ、|44番が|過去二週間で|一足しか|売れていないことを|知った。

「そうです。||三輪車で|配達に|来た|男です。||近所でよく|見かけます」
さらに|数時間後、|警部は|セーヴル通りの|花屋|ジェラルディエを|訪ね、|配達人の|ジョゼフ・ウルタンが|履いていた|例の|靴を|見つけた。

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あとは|指紋を|照合するだけだった。||作業は|司法宮の|司法身元確認局で|行われた。
専門家たちが|器具を|手に|かがみこみ、|結論は|即座だった。
「この男です」

「なぜ|やった?」

「殺していない」

「ヘンダーソン夫人の|住所を|誰から|聞いた?」

「殺していない」

「午前二時に|別荘で|何を|していた?」

「知らない」

「サン=クルーから|どうやって|戻った?」

「サン=クルーに|行っていない」

顔は|大きく|青白く、|ひどく|でこぼこしていた。||まぶたは|何日も|眠っていない|男のように|赤みを|帯びていた。
ムッシュー=ル=プランス通りの|部屋から|血のついた|ハンカチが|見つかった。||化学者たちは|それが|人血であると|断定し、|ヘンダーソン夫人の|血液から|検出された|バチルスと|同じものを|発見した。

「殺していない」

「弁護士は|誰に|頼む?」

「弁護士は|いらない」
国選弁護人として|三十歳の|ジョリー弁護士が|選ばれ、|必死に|奔走した。

精神科医たちは|七日間|ウルタンを|観察して|こう|述べた。
「退化の|兆候なし。||現在の|意気消沈は|激しい|神経的衝撃の|結果であるが、|この男は|自分の|行為に|責任能力が|ある」
夏休みの|季節だった。||メグレは|ドーヴィルの|事件に|呼ばれた4。||予審判事コメリオは|事件が|十分|明白だと|判断し、|起訴審査部も|起訴を|認める|決定を|下した。
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それでも|ウルタンは|何も|盗んでおらず、|ヘンダーソン夫人と|女中の|死に|明らかな|利害関係が|なかった。
メグレは|できる限り|遡って|彼の|生涯を|調べた。||肉体的にも|精神的にも、|あらゆる|年齢の|彼を|知り尽くしていた。
彼は|ムランで|生まれた。||父は|セーヌ・ホテルの|ウェイター、|母は|洗濯婦だった。
三年後、|両親は|中央刑務所の|近くの|ビストロを|引き継いだが|うまくいかず、|セーヌ=エ=マルヌの|ナンディに|宿屋を|開いた。
ジョゼフ・ウルタンが|六歳のとき、|妹の|オデットが|生まれた。

メグレは|水兵服を|着た|彼の|写真を|持っていた。||熊の皮の上に|手足を|ばたつかせて|ぽっちゃりと|寝転ぶ|赤ちゃんの|前に|しゃがんでいる姿だった。
十三歳のとき、|ウルタンは|馬の|世話をし、|父の|給仕を|手伝っていた。
十七歳で、|フォンテーヌブローの|上品な|宿屋で|ウェイターとして|働いた。
二十一歳で|兵役を|終えて|パリに|出てきて、|ムッシュー=ル=プランス通りに|住み、|ジェラルディエの|もとで|配達人に|なった。
「本を|よく|読んでいました」|と|ジェラルディエは|言った。
「唯一の|楽しみは|映画に|行くことでした」|と|下宿の|女主人は|断言した。
しかし|彼と|サン=クルーの|別荘との間に|見える|つながりは|何も|なかった。

「以前に|サン=クルーに|行ったことは?」

「ない」

「日曜日は|何を?」

「本を|読んでいた」
ヘンダーソン夫人は|花屋の|客では|なかった。||泥棒が|入るなら|別荘より|もっと|ふさわしい|場所が|あるはずだった。||しかも|何も|盗まれていなかった。

「なぜ|しゃべらないんだ?」

「言うことは|何も|ない」

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メグレは|一か月間|ドーヴィルで|国際詐欺団を|追っていた。
九月、|サンテ刑務所の|独房に|ウルタンを|訪ねた。||そこに|いたのは|抜け殻のような|男だった。


「何も|知らない。||殺していない」

「しかし|サン=クルーに|いたことは|確かだ」

「ほっといてくれ」
「ありふれた|事件だ」|と|検察は|判断した。||「秋まで|待とう」

十月一日、|ウルタンは|重罪院の|開廷式の|最初の|被告として|法廷に|立った。
ジョリー弁護士が|見つけた|唯一の|弁護方針は、|依頼人の|精神状態に|関する|再鑑定を|求めることだった。||彼が|選んだ|医師は|こう|証言した。
「限定的な|責任能力」
これに対して|検察は|こう|反論した。
「卑劣な|犯罪だ。||ウルタンが|盗まなかったのは|何らかの|事情で|阻まれたからだ。||合計十八か所を|刺している」
被害者の|写真が|回覧され、|陪審員たちは|嫌悪感を|示しながら|押し返した。
「すべての|問いに|イエス(有罪)の|答えが|返った」5
死刑。||翌日、|ジョゼフ・ウルタンは|他の|四人の|死刑囚と共に|厳重監視棟へ|移送された。

「何か|言うことは|ないか?」|と|メグレは|毎日|訪ねに|来た。||彼自身|この|事件に|納得が|いかなかった。

「ない」

「処刑されることは|わかっているか?」
ウルタンは|泣いた。||相変わらず|青白い顔、|赤い目で。

「共犯者は|誰だ?」

「いない」
正式には|もはや|この|事件に|関わる|権限が|なかったにもかかわらず、|メグレは|毎日|訪ねた。||毎日、|ぐったりと|しながらも|落ち着いた|ウルタンを|見つけた。||震えも|せず、|時には|目に|皮肉な|光さえ|浮かべていた。
- オートゥイユは、パリ16区に|ある|地区の名前です。||セーヌ川の|右岸に|位置し、|パリの|西端に|あたります。
1930年代当時は|裕福な|住宅街として|知られており、|立派な|建物が|並ぶ|高級な|エリアでした。||しかし|シタンゲットが|ある|セーヌ川沿いの|一帯は|対岸の|イシ=レ=ムリノーの|工業地帯と|向き合う|形で、|荷揚げ場や|倉庫なども|混在していました。
つまり|同じ|オートゥイユでも、|内陸側は|高級住宅街、|川沿いは|労働者や|船頭たちの|場末の|雰囲気という|対照的な|二面性を|持っていた|エリアです。||シムノンが|シタンゲットを|この場所に|設定したのも、|そうした|対比を|意識してのことかもしれません。
↩︎ - サン=ジェルマン街道は、パリから|西へ|向かう|実在の幹線道路です。パリ中心部から|サン=ジェルマン=アン=レーを|結ぶ道で、|セーヌ川沿いに|走っています。サン=クルーは|その途中に|あり、|パリから|車で|二十分ほどの|距離です。
1930年代当時は|週末に|ドーヴィルや|ノルマンディーへ|向かう|裕福な|パリジャンの|車が|行き交う|道として|知られていました。沿道には|ヘンダーソン夫人の|別荘のような|富裕層の|邸宅が|点在していました。 ↩︎ - パヴィヨン=ブルーは、サン=クルー近くの|セーヌ川沿いに|実在した|高級レストランです。正式名称は「Le Pavillon Bleu」で、1930年代当時は|パリの|富裕層や|社交界の|人々が|週末に|訪れる|人気の|料理店でした。
テラスから|セーヌ川を|眺めながら|食事が|できる|優雅な|雰囲気で|知られており、|夜には|ダンスも|楽しめる|社交の場でも|ありました。
物語の文脈では、|ウルタンのような|貧しい|配達人が|真夜中に|一人で|訪れて|グロッグを|四杯も|飲むという|場面が|非常に|不自然で|怪しいと|いうことを|示しています。彼が|なぜ|そこに|いたのか、|誰かと|会う|約束でも|あったのか、|という|疑問が|浮かび上がります。
↩︎ - ドーヴィルの|事件は、|本文には|詳しい|説明が|ありません。ドーヴィルは|ノルマンディー海岸の|高級リゾート地で、|パリの|富裕層が|夏に|訪れる|場所として|知られています。
ここでの|言及は、|メグレが|ウルタン事件の|審理の間、|別の|捜査のために|ドーヴィルに|出張していたという|事実を|示すだけです。つまり|メグレが|ウルタンの|裁判に|直接|関与できず、|事件が|自分の|目の届かない|ところで|進んでいったことを|示唆しています。この|ことが|後に|メグレが|ウルタンの|無実を|疑う|一因に|なったかもしれません。
↩︎ - 陪審員たちが|評決を|下す|場面です。
フランスの|重罪院では|陪審員に|いくつかの|質問が|提示されます。例えば「被告は|殺人を|犯したか?」「計画的だったか?」などです。
「すべての|質問に|イエス」とは、陪審員が|すべての|問いに|対して|有罪を|認める|答えを|出した、つまり|完全な|有罪評決を|下したという|意味です。
結果として|死刑判決に|つながりました。
↩︎

