『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月8日現在未完成)
79
メグレが|病院を|出たのは|深夜少し|前だった。||大きな|白い|シルエットを|乗せた|担架が|手術室から|運び出されるのを|見届けてから|出てきたのだ。
外科医は|手を|洗っていた。||看護師が|器具を|片づけていた。

「助けられるよう|努力します」と|警部に|答えた。||「腸が|七か所も|穿孔しています。||ひどい|傷ですよ!||きれいに|整えました」
そう言いながら、|血と|脱脂綿と|消毒液で|満ちた|たらいを|指さした。

「大変な|仕事でしたよ、|本当に」

医師も|助手も|看護師も|みんな|上機嫌だった。||これ以上|ないほど|ひどい|状態の|負傷者が|運ばれてきた。||汚れ放題で、|腹は|開き、|焼け焦げ、|衣服の|切れ端が|肉に|食い込んでいた。
それが|今、|担架に|乗って|運ばれていったのは|清潔な|体だった。||腹は|丁寧に|縫い合わされていた。
あとは|時間の|問題だ。||ル・クランシュが|意識を|取り戻すかどうか|わからない。||病院では|彼が|何者かを|詮索しようとは|しなかった。


「本当に|助かる|見込みが|ありますか?」

「なぜ|ないと|言えますか?||戦争中は|もっと|ひどいのも|見てきましたよ」
メグレは|すぐに|プラージュ・ホテルに|電話して、|マリー・レオネックを|安心させた。||今は|一人で|歩いていた。||病院の|扉が|よく|手入れされた|器具のような|音を|立てて|後ろで|閉まった。||夜だった。||人気のない|通り、|こじんまりした|ブルジョワの|家々。

80

十歩も|歩かないうちに、|壁から|人影が|離れ、|街灯の|明かりの|中に|アデルの|顔が|現れ、|とげとげしい|声が|問いかけた。

「死んだの?」
何時間も|待っていたに|違いない。||顔は|こけ、|こめかみの|巻き毛も|カールが|解けていた。

「まだだ」と|メグレは|同じ|口調で|答えた。

「死ぬの?」

「かもしれないし、|そうじゃないかもしれない」

「わざとだと|思ってるんでしょう?」

「何も|思っていない」

「だって、|そんなつもりじゃ|なかったんだから」
警部は|歩き続けた。||彼女は|後を|ついてきた。||そのために|彼女は|速足で|歩かなければ|ならなかった。

「結局、|あいつの|せいだって|認めるでしょう?」

メグレは|聞いていない|ふりを|したが、|彼女は|しつこく|食い下がった。

「わかってるでしょう、|私が|言いたいことは。||船の中では、|結婚したいとまで|言っていたのに、|陸に|上がったら」
めげる|様子も|なかった。||話さずには|いられないという|切迫した|衝動に|駆られているようだった。

「私が|悪い女だと|思ってるなら、|それは|私を|知らないからよ。||でも|ときどきは、|ねえ、|聞いてください、|警部。||本当のことを|言ってくれなきゃ|困る。||銃弾が|どういうものか|知ってるわ。||ましてや|至近距離で|腹に|撃ち込まれたら。||開腹手術を|したんでしょう?」
病院を|渡り歩き、|医者の|話を|聞き、|銃撃など|慣れっこの|人間と|つきあってきた|女だと|いうことが|わかった。

「手術は|うまくいったの?||術前の|食事に|よるって|聞いたけど」
激しい|苦悩では|なかった。||何ものにも|めげない|しぶとい|執念だった。


「答えて|くれないの?||でも|あなたには|わかってるはずよ。||さっき|私が|なぜ|あんなに|怒り狂っていたか。||ガストンは|ろくでなしで、|好きになったことなんか|ない。||でも|あの人は」
81

「生きられるかも|しれない」と|メグレは|女の|目を|見ながら|言った。
「しかし|オセアンの|事件が|解明|されなければ、|それも|意味が|ないだろう」
メグレは|アデルが|何か言うのか|反応を|待った。
彼女は|頭を|下げた。


「そうよね、|私が|知ってると|思ってるんでしょう。||二人とも|私と|関係が|あったんだから。||でも|誓って|言うけど。||いいえ、|あなたは|ファルー船長を|知らない。||だから|わからないのよ。||好きだったのは|確かよ。||ル・アーブルに|会いに|来ていた。||あの年で|あれほどの|熱情、|少し|頭に|きていたのかもしれない。||でも|それでも|何事にも|きちょうめんで、|自制心が|強く、|秩序を|愛する|あまり|偏執的な|人だった。||私が|船に|隠れて|乗ることを|よく|承知したものだと|今でも|不思議に|思う。||ただ|わかってるのは、|沖に|出るや|すぐに|後悔しはじめて、|後悔するうちに|私を|憎むように|なったということ。||性格が|すぐに|変わった」


「しかし|電信係は|最初は|まだ|あんたに|気づいていなかった!」

「ええ!||四日目の|夜に|なってから|なの、|もう|言ったでしょう」

「ファルーが|それより|前から|様子が|おかしかったのは|確かか?」

「そこまでは|なかったかも。||その後は|幻を|見ているようで、|本当に|気が|狂ったんじゃないかと|思う日も|あった」

「その|態度の|理由に|心当たりは|まったく|ないのか?」

「ないわ。||考えたけど。||ときどき|船長と|電信係の|間に|何か|秘密が|あるんじゃ|ないかと|思った。||密輸でも|してるんじゃないか|とまで|思った。||もう|漁船には|懲りたわ!||三か月も|続いて、|あんな|結末で。||一人は|到着と同時に|殺され、|もう一人は。||でも|本当に|死んでないのよね?」
二人は|埠頭に|たどり着き、|若い女は|それ以上|進むのを|ためらっていた。

「ガストン・ビュジエは|どこにいる?」

「ホテルよ。||今は|うるさく|しないほうが|いいって|わかってる。||ちょっとした|ことで|捨ててやるから」

「奴の|ところへ|戻るのか?」
彼女は|肩を|すくめた。||その|仕草は|こう|言っていた。


「他に|どこへ|行けというの?」
82
それでも|彼女は|一瞬、|女の|色気を|取り戻した。||メグレと|別れる|際に、|ぎこちない|微笑みを|浮かべながら|ささやいた。

「ありがとう、|警部さん。||優しく|してくれて。||私、|あの‥‥」
最後まで|言えなかった。||誘いであり、|約束だった。


「いいんだ、|いいんだ!」と|メグレは|立ち去りながら|ぼやいた。

そして|テール・ヌーヴァ・ランデヴーの|扉を|押した。||ドアノブに|手を|かけた|瞬間、|中から|十数人が|一度に|しゃべっているような|騒めきが|はっきりと|聞こえた。
扉を|開けると、|一転して|突然、|これ以上ない|静寂が|訪れた。||それでも|室内には|十人以上が|二、三の|グループに|分かれて|いて、|さっきまで|テーブル越しに|声を|かけ|合っていたはずだった。
店主が|メグレを|迎えに|来て、|少し|気まずそうに|握手した。

「本当ですか、|噂に|聞いたことは?||ル・クランシュが|拳銃で|自分を|撃ったって?」
客たちは|きまり|悪そうに|飲んでいた。||プチ・ルイ、|黒人、|ブルトン人、|トロール船の|機関長、|それに|他にも|何人か、|警部が|顔だけは|知るようになった|連中が|いた。

「本当だ」と|メグレは|言った。
すると|機関長が|急に|落ち着かなさそうに|モレスキンの|ソファで|モゾモゾしているのに|気づいた。

「とんでもない|航海だったな!」と|誰かが|隅で|強い|ノルマンディー訛りで|ぼやいた。
その言葉が|大方の|意見を|よく|代弁していたようで、|頭を|下げる者が|いれば、|大理石の|テーブルを|拳で|叩く者も|いた。||そして|ある|声が|こだました。
「不運な|航海だった、|まったく!」
しかし|レオンが|咳払いをして|客たちに|用心するよう|促し、|隅で|一人で|飲んでいる|赤い|セーターを|着た|水夫を|目で|示した。

83
メグレは|カウンターの|そばに|腰を|下ろし、|ブランデーの|水割りを|注文した。
誰も|しゃべらなくなった。||皆が|きまりを|つけようと|していた。||レオンは|腕の|いい|演出家のように、|一番|大きな|グループに|声を|かけた。

「ドミノは|どうですか?」
音を|立て、|手を|動かす|ための|口実だった。||黒い|裏の|ドミノが|テーブルの|大理石の上で|かき混ぜられた。||店主が|警部の|そばに|座った。


「黙らせたのは」と|小声で|言った。||「左の|窓際の|隅に|いる|男が、|あの子の|父親だからです。||わかりますか?」

「どの子?」

「見習い船員の|ジャン=マリーです。||三日目に|海に|落ちた子|ですよ」

男は|耳を|そばだてていた。||言葉まで|は|聞こえなくても、|自分の|話を|されているのは|わかったようだった。||ウェイトレスに|目で|合図して|グラスを|満たさせ、|嫌悪の|身震いとともに|一気に|飲み干した。
すでに|酔っていた。||飛び出した|目は|澄んだ|青色で、|どんよりと|濁っていた。||タバコの|噛みかすが|左の|頬を|膨らませていた。

「彼も|ニューファンドランドに|行くのか?」

「昔は|行っていました。||今は|七人|子どもが|いるので、|冬は|ニシン漁を|しています。||航海が|短いですから。||最初は|一か月、|魚が|南へ|下るにつれて|どんどん|短くなる」

「夏は?」

「自分で|漁を|して、|刺し網1や|ロブスターの|籠を|仕掛けています」

男は|メグレと|同じ|ソファに|座っていたが、|反対の|端だった。||警部は|鏡越しに|観察した。
背が|低く、|肩幅が|広かった。||北の|漁師の|典型で、|ずんぐりして|ぽっちゃりし、|首が|なく、|肌は|ピンク色、|髪は|金色だった。||漁師の|ほとんどが|そうであるように、|手は|おできの|傷跡で|覆われていた。

「いつも|あんなに|飲んでるのか?」
84

「みんな|飲みますよ。||でも|特に|あの子が|死んでから|酔うように|なった。||オセアン号に|また|乗ったのが|こたえたんです」

男は|今や|ふてぶてしい|目つきで|二人を|見ていた。

「何の|用だ?」と|メグレに|向かって|どもりながら|言った。

「何でもない」
ドミノの|ゲームを|続けながら、|水夫たちが|みんな|成り行きを|見守っていた。

「だったら|そう|言え!||俺が|酒を|飲んじゃ|いけないのか?」

「かまわん!」

「酒を|飲む|権利が|ないと|言え」と|酔っぱらいの|しつこさで|繰り返した。

警部の|目が|赤い|セーターの上に|つけた|黒い|喪章に|落ちた。

「だったら|なんで|二人して|うろついて|俺の|話を|してるんだ?」
レオンが|メグレに|答えないよう|合図して、|客の|方へ|向かった。

「さあ!||騒ぎを|起こすな、|カニュ。||警部が|話してたのは|お前の|ことじゃない。||自分で|自分を|撃った|男の|ことだ」

「当然だ!||死んだのか?」

「いや、|助かるかもしれない」

「残念だ!||みんな|くたばれば|いい!」

この|言葉は|強烈な|印象を|与えた。||全員の|顔が|カニュの|方を|向いた。||カニュは|さらに|大声で|叫ばずには|いられなかった。

「そうだ、|お前ら|全員|くたばれ!」
レオンは|不安げだった。||哀願するような|目で|全員を|見回し、|メグレに|向かって|お手上げの|身振りを|した。

「さあ!||寝ろ。||女房が|待ってるぞ」

「知るか!」

「明日、|刺し網を|上げる|気力も|なくなるぞ」
酔っぱらいは|せせら笑った。||プチ・ルイが|その隙に|ジュリーを|呼んだ。
85

「いくらだ?」

「二回の|おごり分ですか?」

「ああ、|ツケに|しておいてくれ。||明日、|出発前に|前払いを|もらえる|はずだから」
立ち上がると、|片時も|離れない|ブルトン人が|自動的に|後に|続いた。||帽子に|手を|触れた。||メグレの|方に|向けても|もう一度|同じことを|した。

「腰抜けめ!」と|酔っぱらいが|二人が|前を|通り過ぎる|ときに|ぼやいた。||「みんな|腰抜けだ」
ブルトン人は|拳を|握り、|反論しかけたが、|プチ・ルイが|引っ張っていった。

「寝ろって」と|レオンが|繰り返した。||「それに|もう|閉める|時間だ」

「みんなが|帰るまで|帰らないぞ。||俺だって|他の|奴と|同じくらいの|権利が|あるだろう?」
そして|目で|メグレを|探した。||議論を|吹っかけたいようだった。

「あの|でぶも|そうだ。||何が|わかるって|いうんだ?」
警部の|ことを|言っているのだった。||レオンは|気が気では|なかった。||最後の|客たちが|何かが|起きると|確信して|待ち構えていた。

「ええい、|俺が|出て|行ってやる。||いくらだ?」
セーターの|下を|探って|革の|財布を|取り出し、|脂で|よれよれの|紙幣を|テーブルに|放り投げて|立ち上がり、|よろめきながら|扉へ|向かった。||扉を|開けるのに|ひと苦労した。

聞き取れない|ことを|ぶつぶつ|言っていた。||悪口か|脅しか。||外に|出ると、|まず|ガラスに|顔を|押しつけて|メグレを|もう一度|見た。||鼻が|曇った|ガラスに|べちゃりと|ひしゃげた。

「こたえてるんですよ」と|レオンが|自分の|席に|戻りながら|ため息を|ついた。||「息子が|一人しか|いなかった。||他の|子どもは|みんな|女の子で、|いないも|同然だと|思ってるんでしょう」

「ここでは|何と|言ってるだ?」と|メグレが|聞いた。

「電信係の|ことですか?||みんな|知らないから、|作り話を|する。||荒唐無稽な|話ばかりです」

「どんな?」

「よく|わかりません。||いつもの|祟りの|話ですよ」

86

メグレは|鋭い|視線が|自分に|注がれているのを|感じた。||真向かいの|テーブルに|座っている|機関長だった。

「奥さんは|もう|やきもちを|焼いていないか?」と|メグレは|聞いた。

「明日|出発するんだから、|イポールで|俺を|閉じ込めてみろって|話ですよ!」

「オセアンは|明日|出港するのか?」

「満潮に|合わせて。||船主が|港に|腐らせておくと|思いますか?」

「船長は|見つかったのか?」

「八年も|航海して|いなかった|退役者ですよ!||それも|三本マストの|帆船を|操縦していた|人間で!||これは|大変だ」

「電信係は?」

「学校から|引っ張ってきた|ひよっこです。||工芸学校とか|いうところから」

「二等航海士は|戻ったのか?」

「電報で|呼び戻しました。||明日の朝|着きます」

「乗組員は?」

「いつもと|同じです!||港に|転がっている|連中を|かき集める。||まあ|使えますよ」

「見習い船員は|見つかったか?」
相手は|鋭い|目を|向けた。

「見つかりましたよ」と|ぶっきらぼうに|言った。

「出発が|楽しみか?」
返事は|なかった。||機関長は|グロッグを|もう一杯|注文した。||レオンが|小声で|言った。

「今週|帰港する|はずだった|パシフィックの|知らせが|入りました。||オセアンと|同じ|シリーズ2の|船です。||岩礁に|乗り上げて|三分も|しないうちに|沈んだ。||乗組員は|全員|行方不明です。||二等航海士の|妻が|夫を|迎えに|ルーアンから|来て|上に|泊まっています。||一日中|防波堤で|過ごしている。||まだ|何も|知らないんです。||会社は|確認を|待ってから|知らせる|つもりで」

「呪われた|シリーズだ!」と|聞こえていた|機関長が|ぼやいた。
黒人は|あくびを|して|目を|こすっていたが、|帰ろうとは|しなかった。||放り出された|ドミノが|テーブルの|灰色の|長方形の上に|複雑な|模様を|作っていた。
87

「つまり」と|メグレは|ゆっくり|言った。||「電信技師が|なぜ|自殺を|図ったか、|誰も|知らないと|いうわけだな?」
この|言葉は|頑固な|沈黙に|ぶつかるだけだった。||この|男たちは|みんな|知っているのか?||陸の|人間が|自分たちの|問題に|口を|出すのを|嫌う、|海の|男たちの|一種の|秘密結社的な|連帯を|ここまで|押し通すのか?

「ジュリー、|いくらだ?」
立ち上がり、|勘定を|払い、|重い|足取りで|扉へ|向かった。||十の|視線が|後を|追った。||振り返ると、|無表情か|険しい|顔ばかりだった。||レオンまでも、|居酒屋主人としての|善意に|もかかわらず、|客たちと|一体に|なっていた。
潮が|引いていた。||トロール船は|煙突と|荷役用の|マストしか|見えなかった。||貨車は|消えていた。||埠頭は|無人だった。

漁船が|マストの|先端で|白い|灯りを|揺らしながら|防波堤の|方へ|ゆっくりと|遠ざかっていき、|二人の|男が|話す|声が|聞こえた。
メグレは|最後の|一服を|詰め、|町を|眺めた。||ベネディクティンの|塔3と、|その|ふもとの|暗い|壁は|病院の|ものだった。

テール・ヌーヴァ・ランデヴーの|窓が|埠頭に|二つの|明るい|長方形を|穿っていた。
海は|穏やかだった。||砂利と|防波堤の|杭を|舐める|水の|かすかな|せせらぎしか|聞こえなかった。
警部は|埠頭の|端に|立っていた。||太い|係留索が、|オセアン号を|つなぎ|止めている|ものが、|青銅の|係船柱に|巻きつけられていた。
身を|かがめた。||男たちが|昼間|塩を|積み込んだ|船倉の|ハッチを|閉めていた。||その中に|ル・クランシュより|若い、|ひどく|若い|男が|一人、|背広姿で、|電信室に|肘を|ついて|水夫たちが|作業するのを|眺めていた。

さっき|腹に|弾丸を|撃ち込んだ|男の|後任に|違いなかった。||短く|せわしなく|タバコを|ふかしていた。
パリから、|学校から|来たばかりだった。||興奮していた。||冒険の|夢を|見ていたのかもしれない。
88
メグレは|立ち去れずにいた。||謎が|すぐそこに、|手の届くところに|あって、|もう|一息で|つかめるという|感覚に|引き留められていた。

突然、|背後に|人の|気配を|感じて|振り返った。||暗がりの|中に|赤い|セーターと|黒い|喪章が|見えた。
男は|メグレに|気づいていなかったか、|気に|とめなかった。||埠頭の|端ぎりぎりまで|歩いていき、|あの|状態で|落ちないのが|不思議なくらいだった。
警部には|男の|後ろ姿しか|見えなかった。||めまいに|襲われた|酔っぱらいが|トロール船の|甲板に|飛び込もうと|しているような|気がした。
しかし|違った。||独り言を|言っていた。||せせら笑っていた。||拳を|突き上げた。||それから|船に|向かって|唾を|吐いた。||一度、|二度、|三度。||全身の|嫌悪を|吐き出すように。

そうして|おそらく|すっきりしたのか、|立ち去った。||漁師町にある|自分の|家の|方向では|なく、|まだ|明かりの|ついている|飲み屋が|ありそうな|下町の|方へ。
- 刺し網(さしあみ)は、魚の通り道に垂直に張る網のことです。
魚が泳いでくると網の目に頭や鰓(えら)が引っかかって身動きが取れなくなる仕組みです。設置して一定時間後に引き上げるだけなので、小規模な沿岸漁業に向いています。フランス語ではtrémail(トレマイユ)といいます。
↩︎ - シリーズ「série」とは、同じ造船所で同じ設計・仕様で建造された姉妹船のグループのことです。
つまりオセアン号と|パシフィック号は|同じ|設計図で|作られた|姉妹船で、|その|シリーズの|船が|相次いで|不運に|見舞われている、|という|意味です。
機関長の「呪われたシリーズだ」という言葉は、迷信深い船乗りらしい|ぼやきです。
↩︎ - ベネディクティン(Bénédictine)は、ノルマンディー地方のフェカン(Fécamp)で生産される有名なリキュールです。
16世紀にベネディクト会の修道士が考案したとされ、27種類のハーブや香辛料を使った甘みのある薬草系リキュールです。フェカンにはベネディクティンの蒸留所と博物館があり、そのゴシック様式の塔が町のシンボルになっています。
この場面の舞台はフェカンがモデルとされており、メグレが眺めた「ベネディクティンの塔」はまさにその蒸留所の塔のことです。パレ・ベネディクティン(Palais Bénédictine)という建物で、フェカンの町の中心部にあります。1900年頃に建てられたネオゴシック・ネオルネサンス様式の豪華な建物で、蒸留所と博物館を兼ねています。尖塔がいくつも並ぶ印象的な外観で、町のどこからでも見える目立つランドマークです。
シムノンはこの作品の舞台をフェカンに設定しており、メグレが夜の埠頭からこの塔を眺めるシーンはとてもリアリティがあります。 ↩︎

