ニューファンドランド漁師の酒場|第八章 酔った水夫 

ニューファンドランド漁師の店

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メグレが|病院を|出たのは|深夜少し|前だった。||大きな|白い|シルエットを|乗せた|担架が|手術室から|運び出されるのを|見届けてから|出てきたのだ。

外科医は|手を|洗っていた。||看護師が|器具を|片づけていた。


「助けられるよう|努力します」と|警部に|答えた。||「腸が|七か所も|穿孔しています。||ひどい|傷ですよ!||きれいに|整えました」


そう言いながら、|血と|脱脂綿と|消毒液で|満ちた|たらいを|指さした。


「大変な|仕事でしたよ、|本当に」


医師も|助手も|看護師も|みんな|上機嫌だった。||これ以上|ないほど|ひどい|状態の|負傷者が|運ばれてきた。||汚れ放題で、|腹は|開き、|焼け焦げ、|衣服の|切れ端が|肉に|食い込んでいた。

それが|今、|担架に|乗って|運ばれていったのは|清潔な|体だった。||腹は|丁寧に|縫い合わされていた。

あとは|時間の|問題だ。||ル・クランシュが|意識を|取り戻すかどうか|わからない。||病院では|彼が|何者かを|詮索しようとは|しなかった。


「本当に|助かる|見込みが|ありますか?」


「なぜ|ないと|言えますか?||戦争中は|もっと|ひどいのも|見てきましたよ」


メグレは|すぐに|プラージュ・ホテルに|電話して、|マリー・レオネックを|安心させた。||今は|一人で|歩いていた。||病院の|扉が|よく|手入れされた|器具のような|音を|立てて|後ろで|閉まった。||夜だった。||人気のない|通り、|こじんまりした|ブルジョワの|家々。

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十歩も|歩かないうちに、|壁から|人影が|離れ、|街灯の|明かりの|中に|アデルの|顔が|現れ、|とげとげしい|声が|問いかけた。


「死んだの?」


何時間も|待っていたに|違いない。||顔は|こけ、|こめかみの|巻き毛も|カールが|解けていた。


「まだだ」と|メグレは|同じ|口調で|答えた。


「死ぬの?」


「かもしれないし、|そうじゃないかもしれない」


「わざとだと|思ってるんでしょう?」


「何も|思っていない」


「だって、|そんなつもりじゃ|なかったんだから」


警部は|歩き続けた。||彼女は|後を|ついてきた。||そのために|彼女は|速足で|歩かなければ|ならなかった。


「結局、|あいつの|せいだって|認めるでしょう?」


メグレは|聞いていない|ふりを|したが、|彼女は|しつこく|食い下がった。


「わかってるでしょう、|私が|言いたいことは。||船の中では、|結婚したいとまで|言っていたのに、|陸に|上がったら」


めげる|様子も|なかった。||話さずには|いられないという|切迫した|衝動に|駆られているようだった。


「私が|悪い女だと|思ってるなら、|それは|私を|知らないからよ。||でも|ときどきは、|ねえ、|聞いてください、|警部。||本当のことを|言ってくれなきゃ|困る。||銃弾が|どういうものか|知ってるわ。||ましてや|至近距離で|腹に|撃ち込まれたら。||開腹手術を|したんでしょう?」


病院を|渡り歩き、|医者の|話を|聞き、|銃撃など|慣れっこの|人間と|つきあってきた|女だと|いうことが|わかった。


「手術は|うまくいったの?||術前の|食事に|よるって|聞いたけど」


激しい|苦悩では|なかった。||何ものにも|めげない|しぶとい|執念だった。


「答えて|くれないの?||でも|あなたには|わかってるはずよ。||さっき|私が|なぜ|あんなに|怒り狂っていたか。||ガストンは|ろくでなしで、|好きになったことなんか|ない。||でも|あの人は」

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「生きられるかも|しれない」と|メグレは|女の|目を|見ながら|言った。
「しかし|オセアンの|事件が|解明|されなければ、|それも|意味が|ないだろう」


メグレは|アデルが|何か言うのか|反応を|待った。

彼女は|頭を|下げた。


「そうよね、|私が|知ってると|思ってるんでしょう。||二人とも|私と|関係が|あったんだから。||でも|誓って|言うけど。||いいえ、|あなたは|ファルー船長を|知らない。||だから|わからないのよ。||好きだったのは|確かよ。||ル・アーブルに|会いに|来ていた。||あの年で|あれほどの|熱情、|少し|頭に|きていたのかもしれない。||でも|それでも|何事にも|きちょうめんで、|自制心が|強く、|秩序を|愛する|あまり|偏執的な|人だった。||私が|船に|隠れて|乗ることを|よく|承知したものだと|今でも|不思議に|思う。||ただ|わかってるのは、|沖に|出るや|すぐに|後悔しはじめて、|後悔するうちに|私を|憎むように|なったということ。||性格が|すぐに|変わった」


「しかし|電信係は|最初は|まだ|あんたに|気づいていなかった!」


「ええ!||四日目の|夜に|なってから|なの、|もう|言ったでしょう」


「ファルーが|それより|前から|様子が|おかしかったのは|確かか?」


「そこまでは|なかったかも。||その後は|幻を|見ているようで、|本当に|気が|狂ったんじゃないかと|思う日も|あった」


「その|態度の|理由に|心当たりは|まったく|ないのか?」


「ないわ。||考えたけど。||ときどき|船長と|電信係の|間に|何か|秘密が|あるんじゃ|ないかと|思った。||密輸でも|してるんじゃないか|とまで|思った。||もう|漁船には|懲りたわ!||三か月も|続いて、|あんな|結末で。||一人は|到着と同時に|殺され、|もう一人は。||でも|本当に|死んでないのよね?」


二人は|埠頭に|たどり着き、|若い女は|それ以上|進むのを|ためらっていた。


「ガストン・ビュジエは|どこにいる?」


「ホテルよ。||今は|うるさく|しないほうが|いいって|わかってる。||ちょっとした|ことで|捨ててやるから」


「奴の|ところへ|戻るのか?」


彼女は|肩を|すくめた。||その|仕草は|こう|言っていた。


「他に|どこへ|行けというの?」

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それでも|彼女は|一瞬、|女の|色気を|取り戻した。||メグレと|別れる|際に、|ぎこちない|微笑みを|浮かべながら|ささやいた。


「ありがとう、|警部さん。||優しく|してくれて。||私、|あの‥‥」


最後まで|言えなかった。||誘いであり、|約束だった。


「いいんだ、|いいんだ!」と|メグレは|立ち去りながら|ぼやいた。


そして|テール・ヌーヴァ・ランデヴーの|扉を|押した。||ドアノブに|手を|かけた|瞬間、|中から|十数人が|一度に|しゃべっているような|騒めきが|はっきりと|聞こえた。

扉を|開けると、|一転して|突然、|これ以上ない|静寂が|訪れた。||それでも|室内には|十人以上が|二、三の|グループに|分かれて|いて、|さっきまで|テーブル越しに|声を|かけ|合っていたはずだった。

店主が|メグレを|迎えに|来て、|少し|気まずそうに|握手した。


「本当ですか、|噂に|聞いたことは?||ル・クランシュが|拳銃で|自分を|撃ったって?」


客たちは|きまり|悪そうに|飲んでいた。||プチ・ルイ、|黒人、|ブルトン人、|トロール船の|機関長、|それに|他にも|何人か、|警部が|顔だけは|知るようになった|連中が|いた。


「本当だ」と|メグレは|言った。


すると|機関長が|急に|落ち着かなさそうに|モレスキンの|ソファで|モゾモゾしているのに|気づいた。


「とんでもない|航海だったな!」と|誰かが|隅で|強い|ノルマンディー訛りで|ぼやいた。


その言葉が|大方の|意見を|よく|代弁していたようで、|頭を|下げる者が|いれば、|大理石の|テーブルを|拳で|叩く者も|いた。||そして|ある|声が|こだました。


「不運な|航海だった、|まったく!」


しかし|レオンが|咳払いをして|客たちに|用心するよう|促し、|隅で|一人で|飲んでいる|赤い|セーターを|着た|水夫を|目で|示した。

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メグレは|カウンターの|そばに|腰を|下ろし、|ブランデーの|水割りを|注文した。

誰も|しゃべらなくなった。||皆が|きまりを|つけようと|していた。||レオンは|腕の|いい|演出家のように、|一番|大きな|グループに|声を|かけた。


「ドミノは|どうですか?」


音を|立て、|手を|動かす|ための|口実だった。||黒い|裏の|ドミノが|テーブルの|大理石の上で|かき混ぜられた。||店主が|警部の|そばに|座った。


「黙らせたのは」と|小声で|言った。||「左の|窓際の|隅に|いる|男が、|あの子の|父親だからです。||わかりますか?」


「どの子?」


「見習い船員の|ジャン=マリーです。||三日目に|海に|落ちた子|ですよ」


男は|耳を|そばだてていた。||言葉まで|は|聞こえなくても、|自分の|話を|されているのは|わかったようだった。||ウェイトレスに|目で|合図して|グラスを|満たさせ、|嫌悪の|身震いとともに|一気に|飲み干した。

すでに|酔っていた。||飛び出した|目は|澄んだ|青色で、|どんよりと|濁っていた。||タバコの|噛みかすが|左の|頬を|膨らませていた。


「彼も|ニューファンドランドに|行くのか?」


「昔は|行っていました。||今は|七人|子どもが|いるので、|冬は|ニシン漁を|しています。||航海が|短いですから。||最初は|一か月、|魚が|南へ|下るにつれて|どんどん|短くなる」


「夏は?」


「自分で|漁を|して、|刺し網1や|ロブスターの|籠を|仕掛けています」


男は|メグレと|同じ|ソファに|座っていたが、|反対の|端だった。||警部は|鏡越しに|観察した。

背が|低く、|肩幅が|広かった。||北の|漁師の|典型で、|ずんぐりして|ぽっちゃりし、|首が|なく、|肌は|ピンク色、|髪は|金色だった。||漁師の|ほとんどが|そうであるように、|手は|おできの|傷跡で|覆われていた。


「いつも|あんなに|飲んでるのか?」

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「みんな|飲みますよ。||でも|特に|あの子が|死んでから|酔うように|なった。||オセアン号に|また|乗ったのが|こたえたんです」


男は|今や|ふてぶてしい|目つきで|二人を|見ていた。


「何の|用だ?」と|メグレに|向かって|どもりながら|言った。


「何でもない」


ドミノの|ゲームを|続けながら、|水夫たちが|みんな|成り行きを|見守っていた。


「だったら|そう|言え!||俺が|酒を|飲んじゃ|いけないのか?」


「かまわん!」


「酒を|飲む|権利が|ないと|言え」と|酔っぱらいの|しつこさで|繰り返した。


警部の|目が|赤い|セーターの上に|つけた|黒い|喪章に|落ちた。


「だったら|なんで|二人して|うろついて|俺の|話を|してるんだ?」


レオンが|メグレに|答えないよう|合図して、|客の|方へ|向かった。


「さあ!||騒ぎを|起こすな、|カニュ。||警部が|話してたのは|お前の|ことじゃない。||自分で|自分を|撃った|男の|ことだ」


「当然だ!||死んだのか?」


「いや、|助かるかもしれない」


「残念だ!||みんな|くたばれば|いい!」


この|言葉は|強烈な|印象を|与えた。||全員の|顔が|カニュの|方を|向いた。||カニュは|さらに|大声で|叫ばずには|いられなかった。


「そうだ、|お前ら|全員|くたばれ!」


レオンは|不安げだった。||哀願するような|目で|全員を|見回し、|メグレに|向かって|お手上げの|身振りを|した。


「さあ!||寝ろ。||女房が|待ってるぞ」


「知るか!」


「明日、|刺し網を|上げる|気力も|なくなるぞ」


酔っぱらいは|せせら笑った。||プチ・ルイが|その隙に|ジュリーを|呼んだ。

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「いくらだ?」


「二回の|おごり分ですか?」


「ああ、|ツケに|しておいてくれ。||明日、|出発前に|前払いを|もらえる|はずだから」


立ち上がると、|片時も|離れない|ブルトン人が|自動的に|後に|続いた。||帽子に|手を|触れた。||メグレの|方に|向けても|もう一度|同じことを|した。


「腰抜けめ!」と|酔っぱらいが|二人が|前を|通り過ぎる|ときに|ぼやいた。||「みんな|腰抜けだ」


ブルトン人は|拳を|握り、|反論しかけたが、|プチ・ルイが|引っ張っていった。


「寝ろって」と|レオンが|繰り返した。||「それに|もう|閉める|時間だ」


「みんなが|帰るまで|帰らないぞ。||俺だって|他の|奴と|同じくらいの|権利が|あるだろう?」


そして|目で|メグレを|探した。||議論を|吹っかけたいようだった。


「あの|でぶも|そうだ。||何が|わかるって|いうんだ?」


警部の|ことを|言っているのだった。||レオンは|気が気では|なかった。||最後の|客たちが|何かが|起きると|確信して|待ち構えていた。


「ええい、|俺が|出て|行ってやる。||いくらだ?」


セーターの|下を|探って|革の|財布を|取り出し、|脂で|よれよれの|紙幣を|テーブルに|放り投げて|立ち上がり、|よろめきながら|扉へ|向かった。||扉を|開けるのに|ひと苦労した。

聞き取れない|ことを|ぶつぶつ|言っていた。||悪口か|脅しか。||外に|出ると、|まず|ガラスに|顔を|押しつけて|メグレを|もう一度|見た。||鼻が|曇った|ガラスに|べちゃりと|ひしゃげた。


「こたえてるんですよ」と|レオンが|自分の|席に|戻りながら|ため息を|ついた。||「息子が|一人しか|いなかった。||他の|子どもは|みんな|女の子で、|いないも|同然だと|思ってるんでしょう」


「ここでは|何と|言ってるだ?」と|メグレが|聞いた。


「電信係の|ことですか?||みんな|知らないから、|作り話を|する。||荒唐無稽な|話ばかりです」


「どんな?」


「よく|わかりません。||いつもの|祟りの|話ですよ」

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メグレは|鋭い|視線が|自分に|注がれているのを|感じた。||真向かいの|テーブルに|座っている|機関長だった。


「奥さんは|もう|やきもちを|焼いていないか?」と|メグレは|聞いた。


「明日|出発するんだから、|イポールで|俺を|閉じ込めてみろって|話ですよ!」


「オセアンは|明日|出港するのか?」


「満潮に|合わせて。||船主が|港に|腐らせておくと|思いますか?」


「船長は|見つかったのか?」


「八年も|航海して|いなかった|退役者ですよ!||それも|三本マストの|帆船を|操縦していた|人間で!||これは|大変だ」


「電信係は?」


「学校から|引っ張ってきた|ひよっこです。||工芸学校とか|いうところから」


「二等航海士は|戻ったのか?」


「電報で|呼び戻しました。||明日の朝|着きます」


「乗組員は?」


「いつもと|同じです!||港に|転がっている|連中を|かき集める。||まあ|使えますよ」


「見習い船員は|見つかったか?」


相手は|鋭い|目を|向けた。


「見つかりましたよ」と|ぶっきらぼうに|言った。


「出発が|楽しみか?」


返事は|なかった。||機関長は|グロッグを|もう一杯|注文した。||レオンが|小声で|言った。


「今週|帰港する|はずだった|パシフィックの|知らせが|入りました。||オセアンと|同じ|シリーズ2の|船です。||岩礁に|乗り上げて|三分も|しないうちに|沈んだ。||乗組員は|全員|行方不明です。||二等航海士の|妻が|夫を|迎えに|ルーアンから|来て|上に|泊まっています。||一日中|防波堤で|過ごしている。||まだ|何も|知らないんです。||会社は|確認を|待ってから|知らせる|つもりで」


「呪われた|シリーズだ!」と|聞こえていた|機関長が|ぼやいた。


黒人は|あくびを|して|目を|こすっていたが、|帰ろうとは|しなかった。||放り出された|ドミノが|テーブルの|灰色の|長方形の上に|複雑な|模様を|作っていた。

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「つまり」と|メグレは|ゆっくり|言った。||「電信技師が|なぜ|自殺を|図ったか、|誰も|知らないと|いうわけだな?」


この|言葉は|頑固な|沈黙に|ぶつかるだけだった。||この|男たちは|みんな|知っているのか?||陸の|人間が|自分たちの|問題に|口を|出すのを|嫌う、|海の|男たちの|一種の|秘密結社的な|連帯を|ここまで|押し通すのか?


「ジュリー、|いくらだ?」


立ち上がり、|勘定を|払い、|重い|足取りで|扉へ|向かった。||十の|視線が|後を|追った。||振り返ると、|無表情か|険しい|顔ばかりだった。||レオンまでも、|居酒屋主人としての|善意に|もかかわらず、|客たちと|一体に|なっていた。

潮が|引いていた。||トロール船は|煙突と|荷役用の|マストしか|見えなかった。||貨車は|消えていた。||埠頭は|無人だった。

漁船が|マストの|先端で|白い|灯りを|揺らしながら|防波堤の|方へ|ゆっくりと|遠ざかっていき、|二人の|男が|話す|声が|聞こえた。

メグレは|最後の|一服を|詰め、|町を|眺めた。||ベネディクティンの|塔3と、|その|ふもとの|暗い|壁は|病院の|ものだった。

テール・ヌーヴァ・ランデヴーの|窓が|埠頭に|二つの|明るい|長方形を|穿っていた。

海は|穏やかだった。||砂利と|防波堤の|杭を|舐める|水の|かすかな|せせらぎしか|聞こえなかった。

警部は|埠頭の|端に|立っていた。||太い|係留索が、|オセアン号を|つなぎ|止めている|ものが、|青銅の|係船柱に|巻きつけられていた。

身を|かがめた。||男たちが|昼間|塩を|積み込んだ|船倉の|ハッチを|閉めていた。||その中に|ル・クランシュより|若い、|ひどく|若い|男が|一人、|背広姿で、|電信室に|肘を|ついて|水夫たちが|作業するのを|眺めていた。

さっき|腹に|弾丸を|撃ち込んだ|男の|後任に|違いなかった。||短く|せわしなく|タバコを|ふかしていた。

パリから、|学校から|来たばかりだった。||興奮していた。||冒険の|夢を|見ていたのかもしれない。

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メグレは|立ち去れずにいた。||謎が|すぐそこに、|手の届くところに|あって、|もう|一息で|つかめるという|感覚に|引き留められていた。

突然、|背後に|人の|気配を|感じて|振り返った。||暗がりの|中に|赤い|セーターと|黒い|喪章が|見えた。

男は|メグレに|気づいていなかったか、|気に|とめなかった。||埠頭の|端ぎりぎりまで|歩いていき、|あの|状態で|落ちないのが|不思議なくらいだった。

警部には|男の|後ろ姿しか|見えなかった。||めまいに|襲われた|酔っぱらいが|トロール船の|甲板に|飛び込もうと|しているような|気がした。

しかし|違った。||独り言を|言っていた。||せせら笑っていた。||拳を|突き上げた。||それから|船に|向かって|唾を|吐いた。||一度、|二度、|三度。||全身の|嫌悪を|吐き出すように。

そうして|おそらく|すっきりしたのか、|立ち去った。||漁師町にある|自分の|家の|方向では|なく、|まだ|明かりの|ついている|飲み屋が|ありそうな|下町の|方へ。

  1. 刺し網(さしあみ)は、魚の通り道に垂直に張る網のことです。
    魚が泳いでくると網の目に頭や鰓(えら)が引っかかって身動きが取れなくなる仕組みです。設置して一定時間後に引き上げるだけなので、小規模な沿岸漁業に向いています。フランス語ではtrémail(トレマイユ)といいます。
    ↩︎
  2. シリーズ「série」とは、同じ造船所で同じ設計・仕様で建造された姉妹船のグループのことです。
    つまりオセアン号と|パシフィック号は|同じ|設計図で|作られた|姉妹船で、|その|シリーズの|船が|相次いで|不運に|見舞われている、|という|意味です。
    機関長の「呪われたシリーズだ」という言葉は、迷信深い船乗りらしい|ぼやきです。
    ↩︎
  3. ベネディクティン(Bénédictine)は、ノルマンディー地方のフェカン(Fécamp)で生産される有名なリキュールです。
    16世紀にベネディクト会の修道士が考案したとされ、27種類のハーブや香辛料を使った甘みのある薬草系リキュールです。フェカンにはベネディクティンの蒸留所と博物館があり、そのゴシック様式の塔が町のシンボルになっています。
    この場面の舞台はフェカンがモデルとされており、メグレが眺めた「ベネディクティンの塔」はまさにその蒸留所の塔のことです。パレ・ベネディクティン(Palais Bénédictine)という建物で、フェカンの町の中心部にあります。1900年頃に建てられたネオゴシック・ネオルネサンス様式の豪華な建物で、蒸留所と博物館を兼ねています。尖塔がいくつも並ぶ印象的な外観で、町のどこからでも見える目立つランドマークです。
    シムノンはこの作品の舞台をフェカンに設定しており、メグレが夜の埠頭からこの塔を眺めるシーンはとてもリアリティがあります。 ↩︎