サン=フォリアン教会の首吊り男|第三章 ピクピュ通りの薬草店  

サン=フォリアン教会の首吊り男

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年2月18日現在未完成)

25

第三章 ピクピュ街の薬草店

 口が|きけるように|なると、|彼女は|まず|こう|言った。


「苦しみましたか?」


「いいえ。|即死でした。|ご安心ください」


 彼女は|手に|持った|新聞に|目を|やり、|やっとの|思いで|言葉を|絞り出した。


「口に?」


 警部が|黙って|うなずくと、|彼女は|急に|落ち着いた|ようすで|真剣な|顔つきになり、|床を|見つめながら、|やんちゃな|子供の|ことを|話すような|口調で|言った。


「あの人は|何も|人並みに|できなかった!」


 彼女は|恋人でも|なく、|妻でも|なかった。||三十にも|ならないのに、|母親のような|温かさと、|修道女の|ような|おだやかな|諦めを|たたえていた。

 貧しい人は|絶望を|表に|出すことに|慣れていない。||生活が|待っているから、|仕事が、|毎日|毎時間の|暮らしの|必要が。||ハンカチで|目を|ぬぐっていたが、|少し|赤くなった|鼻が|かわいらしさを|そいでいた。

 悲しげな|口元は、|ときに|くずれ、|ときに|かすかな|微笑みに|なりながら、|警部を|見ていた。


「いくつか|お聞きしても|よろしいですか」と|言いながら、|メグレは|自分の|机に|腰を|落ち着けた。
「ご主人は|確かに|ルイ・ジュネという|お名前でしたか?||最後に|あなたの|もとを|去ったのは|いつですか?」


 また|泣きそうに|なった。||まぶたが|潤んだ。||指が|ハンカチを|固く|丸めていた。

26

「二年前です。||でも|一度だけ、|ショーウインドーに|顔を|押しつけているのを|見かけました。||もし|母が|そこに|いなかったら」


 もう|彼女に|話させるしか|なかった。||彼女自身の|ためにも、|警部の|ためにも、|話すことが|必要だった。


「私たちの|ことを|全部|知りたいのでしょう?||それが|ルイが|なぜ|あんなことを|したか|わかる|唯一の|方法ですから。||父は|ボジョン病院1の|看護師でした。||<ピクピュ>通りに|小さな|薬草店を|開いて、|母が|切り盛りしていました。||六年前に|父が|亡くなり、|母と|ふたりで|店を|続けていました。||そこで|ルイと|知り合ったのです」


「六年前のことですか?||その頃から|もう|ジュネという|名前でしたか?」


「ええ」と|彼女は|不思議そうに|答えた。
「ベルヴィルの|工場で|旋盤工を|していました。||稼ぎは|よかった。||どうして|あんなに|急に|なったのか、|私に|はわかりません。||何かに|急き立てられて|いるような|人でした。||知り合って|一ヶ月も|しないうちに|結婚して、|うちに|来たのです。||店の|奥の|住まいは|三人には|狭すぎて、|母に|シュマン・ヴェール街の|部屋を|借りました。||母は|薬草店を|私に|任せてくれましたが、|貯金が|乏しかったので、|毎月|二百フランを|渡していました。||幸せでした、|本当に!||ルイは|朝、|仕事に|出かけていました。||母が|来て|話し相手に|なってくれました。||夜は|外に|出ませんでした。||うまく|言えないのですが、|何かが|うまくいっていないと、|いつも|感じていました!||たとえば、|ルイが|私たちの|世界とは|違う|人間で、|この|暮らしが|ときどき|重荷に|なっているような|そんな|感じ。||とても|優しい|人でしたが」


 表情が|くもった。||打ち明ける|言葉を|口にするとき、|彼女は|美しかった。


「あんな|男性は|なかなか|いないと|思います。||突然|抱き寄せてくれて、|目を|じっと|見つめるのです、|痛いくらいに。||そして|思いがけない|しぐさで|突き放して、|ひとりごとのように|ため息を|つくのです。

27

『それでも、|きみの|ことは|好きだよ、|ジャンヌ』
それで|終わり。||私に|目を|向けることも|なく、|何か|ほかの|ことに|取りかかるのです。||家具の|調整に|何時間も|かけたり、|便利な|道具を|作って|くれたり、|時計を|直したり。
母は|あまり|好きでは|なかった|のです。|ルイが|普通の|人では|ないと|わかっていたから」


「大切に|しまっていた|ものは|ありませんでしたか?」


 彼女は|少し|びくっとして、|早口に|言った。


「古い|スーツが!||あるとき、|洋服箪笥の|上の|段ボール箱から|取り出して|ブラシを|かけていたら、|ルイが|帰ってきたのです。||破れを|直そうと|していました。||家の|中で|着るには|まだ|使えそうでしたから。||ルイは|私の|手から|引ったくって、|怒って、|ひどい|ことを|わめきました。||あの|夜は、|まるで|私を|憎んでいるようでした。||結婚して|一ヶ月後の|ことです。||それからというもの」


 彼女は|ため息を|ついて、|貧しい|話しか|できなくて|申し訳ないと|いうような|顔で|メグレを|見た。


「前より|もっと|おかしく|なりましたか?」


「あの人の|せいでは|ないと|思います!||病気だったのでしょう。||自分を|苦しめていた。||一時間|台所で|楽しく|過ごした|と|思うと、|急に|変わるのです。||黙り込んで、|もの|や|私を|いやな|笑みを|浮かべて|見つめて、|それから|おやすみも|言わずに|寝床に|倒れ込んでいく」


「友達は|いませんでしたか?」


「いいえ!||誰も|来た|ことは|ありません。


「旅行を|したり、|手紙が|来たりは?」


「ありません!||うちに|人が|来るのも|嫌いで。||近所の|人が|ミシンを|借りに|来るだけで|ルイは|怒りました。||普通の|怒り方では|なくて、|内側に|こもった|もので。||苦しんでいるのは|あの人の|ほうでした!||

28

||子供が|できたと|知らせたとき、|あの人は|狂ったような|目で|私を|見ました。||その頃から、|特に|子供が|生まれてから、|飲み始めたのです。||発作的に、|周期的に。
でも|愛していたのは|わかっています!||ときどき|最初の|頃のように、|崇拝するような|目で|子供を|見ていましたから。||翌日には|酔って|帰ってきて、|寝床に|倒れ込み、|鍵を|かけて、|何時間も、|丸一日も|閉じこもっていました。||最初の|うちは|泣きながら|謝って|くれました。||母が|口を|出さなければ、|私は|なんとか|引き止められたかもしれません。||でも|母が|説教しようとして、|もめごとが|起きて。||特に|ルイが|二、三日|仕事に|行かない|ときは!||最後の|頃は|本当に|不幸でした。||おわかりでしょう?||ますます|ひどく|なっていって。||母が|二度も|追い出したのです、|ここはお前の|家では|ないと|言って。||あの人は|悪くないと|私は|信じています!||何かが|あの人を|駆り立てていたのです、|駆り立てていた!||ときどきまた|あの目で|私や|息子を|見ることも|ありました。||でも|だんだん|少なくなって。||長続きしなくて。||最後の|もめごとは|ひどかった。||母が|いるとき、|ルイが|レジから|お金を|使ったのです。||母が|泥棒呼ばわりして。||真っ青な|顔に|充血した|目で、|ひどい|日のような|ようすで。||狂人のような|目つきでした。||首を|絞めに|来るかのように|近づいてきたのが|今でも|目に|浮かびます。||


29


||怖ろしくて|叫びました。
『ルイ!』
あの人は|ドアを|ものすごい|力で|閉めて|出ていきました。||ガラスが|割れるほど。
それから|二年。||近所の人が|ときどき|通りを|歩く|のを|見かけたと。||ベルヴィルの|工場に|問い合わせると、|もう|働いていないと。
でも|誰かが|ロケット街2の|ビール|ポンプを|作る|小さな|工場で|見かけたと|言っていました。
私自身は|六ヶ月ほど前に|一度だけ、|ショーウインドー越しに|見ました。||母と|子供と|また|一緒に|暮らすように|なっていて、|母が|店に|いたのです。||ドアに|走り寄るのを|止められました。
苦しまなかったと|誓ってくれますか?||即死だったと?||かわいそうな|人だったのです。||今なら|わかって|くれますよね」


彼女は|あまりにも|強く|話の|中に|没入していて、|また|夫が|彼女に|大きな|影響を|与え続けていたので、|気づかない|うちに|話しながら|その|表情を|再現していた。

 メグレは|最初と|同様に、|この|女性と|ブレーメンで|指を|鳴らして|から|口に|銃を|突っ込んだ|男と|の|間の、|不思議な|似通いに|打たれた。||いや、|それ以上に、|彼女が|語った|あの|焼きつくような|熱が、|今や|彼女自身を|とらえているようだった。||話し終えても|神経が|震えつづけ、|息が|荒く|なり、|何かを|待っていた。||何を、|とも|知らずに。


「過去や|子供の頃の|ことを|話してくれた|ことは?」


「いいえ。||あまり|しゃべらない|人でした。||オーベルヴィリエ3生まれと|いうことしか|知りません。||自分の|境遇より|上の|教育を|受けていると|いつも|思っていました。||字が|きれいで、|植物の|ラテン名を|みんな|知っていて。||隣の|雑貨屋さんが|難しい|手紙を|書くときは|いつも|あの人に|頼んでいました」


「家族に|会った|ことは?」


「結婚前に、|孤児だと|言っていました。||もう|ひとつ|お聞きしたいのですが、|警部さん。||遺体を|フランスに|連れ帰ってもらえるのでしょうか?」


 彼が|返事に|迷うのを|見て、|彼女は|顔を|背けながら|続けた。


「今は|薬草店は|母の|ものですし。||お金も。||遺体を|引き取る|費用は|出して|くれないでしょうし、|見に|行くお金も|くれないでしょうから。||その場合は」


 喉が|詰まり、|床に|落ちた|ハンカチを|拾おうと|かがんだ。


「手配します、|遺体が|戻るように」

30

彼女は|胸に|迫る|微笑みを|浮かべ、|頬に|涙を|一粒|ぬぐった。


「わかって|くださいましたね、|感じます!||警部さんも|私と|同じように|思って|くださっている!||あの人は|悪くなかったのです!||かわいそうな|人でした!」


「まとまった|金を|持っていた|ことは?」


「給料だけでした。||最初の|うちは|全部|渡してくれていましたが、|飲むように|なってから」


 また|小さな|微笑み。||とても|悲しい、|でも|許しに|満ちた|微笑みだった。

 彼女は|少し|落ち着いた|ようすで|帰っていった。||細い|毛皮の|えりを|首に|巻きつけ、|左手に|バッグと|小さく|たたんだ|新聞を|しっかり|握ったまま。

 ロケット街十八番地に|メグレが|行くと、|最低級の|安ホテルが|あった。||この|通りの|この|あたりは|バスチーユ広場から|五十メートルも|ない。||ミュゼット・ダンスホールや|薄汚い|飲み屋が|並ぶ|ラップ街が|交差している。

 一階は|どこも|居酒屋で、|家ごとに|安ホテルが|あって、|浮浪者、|万年|無職者、|移民、|売春婦が|たむろしていた。||しかし|この|不穏な|裏社会の|溜まり場の|中に、|ドアを|全開にした|いくつかの|工場が|はさまっており、|ハンマーや|溶接機を|使いながら|大きな|トラックが|行き来していた。

 活気ある|働き者の|職人や、|伝票を|手に|せわしなく|立ち働く|従業員と、|あたりを|ぶらつく|薄汚い|または|図々しい|人影との|対比が|鮮烈だった。

「ジュネ!」と|メグレは|中二階に|あった|ホテルの|フロントの|ドアを|押しながら|うなるように|言った。


「いません!」


「まだ|部屋を|持ってるか?」


 警察と|気づいたのか、|不機嫌な|返事が|返ってきた。


「十九号室、|あります!」


「週払いか?|月払いか?」

31

「月払い!」


「郵便は|来ていたか?」


 最初は|しらを|きっていたが、|けっきょく|ジュネが|ブリュッセルから|自分宛てに|送った|小包を|メグレに|渡した。


「こんな|小包が|よく|来ていたか?」


「ときどき」


「ほかの|郵便は|来たことは?」


「ない!||全部で|三つか|そこらは|来たかな。||おとなしい|男だった。||警察が|なんで|あいつに|目を|つけるのか|わからない」


「働いていたか?」


「六十五番地の|工場で」


「定期的に?」


「まちまちだった。||週によって|違う」

 メグレは|部屋の|鍵を|要求した。||部屋に|あったのは、|靴底が|甲から|完全に|はがれた|履き古しの|靴一足と、|アスピリンの|空き瓶と、|隅に|放り投げられた|作業着だけだった。

 下りながら|支配人に|改めて|聞くと、|ルイ・ジュネは|誰も|部屋に|呼ばず、|女には|手を|出さず、|三、四日の|旅に|出ることが|ある|ほかは|ほとんど|単調な|生活を|していたと|わかった。

 しかし|この|界隈の|こんな|ホテルに|泊まる|からには、|何か|やましい|ことが|あるはずだ!||支配人も|メグレと|同じように|そう|思っていた。||最後に|こう|ぼやいた。


「あなたが|思っているような|ことはない。||あいつは|酒だ!||それも|発作的に|来る。||うちの|夫婦で|九日間の|荒行と|呼んでいた。||三週間は|まじめに|毎日|仕事に|行く。||そのあと、|しばらく|ひたすら|飲んで|ベッドに|倒れ込む。


「態度に|怪しいところは|なかったか?」


 男は|肩を|すくめた。||自分の|ホテルの|客は|みんな|怪しいと|言わんばかりに。

32

六十五番地では、|道路に|向かって|大きく|開いた|広い|工場で|ビールの|くみ上げ機を|製造していた。||メグレは|すでに|新聞で|ジュネの|顔写真を|見ていた|職長に|迎えられた。


「警察に|手紙を|書こうと|していた|ところです」と|職長は|言った。
「先週まで|ここで|働いていたのです。||時給|八フラン五十の|男だった!」


「働いていれば|の話だが!」


「知ってましたか?||まあ、|そうです、|働けばね!||こういう|男は|ほかにも|いますよ。||でも|普通は|一杯|多く|飲むとか、|土曜日に|どんちゃん騒ぎを|するとか|そんな|もんです。||あいつは|突然で、|予告なし|に、|八日間|ぶっつづけで|飲む|んです。||急ぎの|仕事が|あったとき、|部屋を|見に|行ったら、|床に|置いた|瓶を|直飲みして|ひとりで|飲んでいた。||気が|滅入りました、|本当に!」


 オーベルヴィリエでは|何も|わからなかった!||日雇い労働者の|ガストン・ジュネと|家政婦の|ベルト・マリー・デュフォワンの|息子|ルイ・ジュネという|名前が|戸籍に|あった。||ガストン・ジュネは|十年前に|死亡、|妻は|地域を|去っていた。

 息子の|ルイ・ジュネに|ついては、|六年前に|パリから|出生証明書の|取り寄せを|依頼した|という|こと|しか|わからなかった。

 それでも|パスポートは|偽造であり、|したがって|ブレーメンで|自殺した|男、|ピクピュ街の|薬草屋と|結婚して|息子まで|もうけた|男は|本物の|ジュネでは|なかった!

 警視庁の|前科者|ファイルにも|何も|なかった。||ジュネという|名前の|ファイルも、|ドイツで|採取した|死者の|指紋と|一致する|ファイルも|見つからなかった。

 つまり|この男は|フランスでも|外国でも、|かつて|司法と|関わった|ことが|なかった。||ほとんどの|ヨーロッパ諸国から|照会された|ファイルも|調べた上での|結論だった。

 遡れるのは|六年前まで|だった。||そこには|旋盤工の|ルイ・ジュネが|きちんと|働き、|まともな|職人として|暮らしていた|記録が|あった。

33

彼は|誰とも|つきあわず、|郵便も|来なかった。||ラテン語を|知っているらしく、|平均より|高い|教育を|受けていると|みられた。

 執務室で|メグレは|ドイツ警察に|遺体の|引き渡しを|求める|書類を|作成し、|通常業務を|いくつか|片づけてから、|不機嫌な|顔つきで|ブレーメンの|鑑識官が|丁寧に|タグを|つけた|中身の|入った|黄色い|スーツケースを|また|開けた。

 三十枚の|ベルギー紙幣の|束を|加え、|急に|思いついて|紐を|切り、|番号を|書き写し、|その|一覧を|ブリュッセルの|捜査局に|送って|出所を|調べるよう|依頼した。

 こうした|作業を|重い|気持ちで、|熱心な|ふりを|しながら|こなしていた。||まるで|自分が|役に立つ|仕事を|しているという|錯覚に|浸ろうとするかのように。

 しかし|ときどき、|テーブルに|広げた|写真に|うらめしそうな|目を|向け、|パイプの|くわえ口を|かじりながら|ペンを|宙に|止めていた。

 もう|帰ろうと、|気が|進まないまま|腰を|上げ、|翌日まで|捜査を|持ち越そうとした|とき、|ランスから|電話が|あると|知らされた。

 新聞に|載った|顔写真の|件だった。||カルノー街の|カフェ・ド・パリ4の|店主が、|六日前に|例の|男が|店に|来ていたと|言い、|すでに|酔っていた|客に|とうとう|酒を|断らざるを|えなかったから|覚えていると|いうことだった。

 メグレは|迷った。||ランスが|出てきたのは|これで|二度目だ。||死者の|靴の|産地でも|ある。

 しかもその|靴は|ひどく|傷んでいて、|数ヶ月前に|買われた|ものだった。||つまりルイ・ジュネが|ランスを|訪れたのは|偶然では|なかった。

 一時間後、|メグレは|ランス行きの|急行に|乗り込み、|夜の十時に|到着した。||カフェ・ド・パリは|それなりに|高級な|店で、|上流の|市民たちで|にぎわっていた。||三台の|ビリヤード台は|すべて|ふさがっていた。||いくつかの|テーブルでは|カードに|興じていた。

34

フランスの|地方都市の|典型的な|老舗カフェで、|客は|女性の|会計係と|握手を|交わし、|給仕は|客を|名前で|気さくに|呼ぶ。||地元の|名士たち。||商業の|外交員たち。

 あちこちに|クロスを|入れた|ニッケルめっきの|球が|置かれていた。


「先ほど|電話を|もらった|警部です」


 カウンターの|そばに|立って|従業員の|様子を|見守りながら、|ビリヤード客に|助言を|与えていた|店主が、|少し|当惑した|様子で|小声で|話した。


「ああ、|そうでしたか。||知っていることは|全部|お電話で|申し上げましたが。||あそこです、|三番目の|ビリヤード台の|そばに|腰かけて、|ブランデーを|一杯、|二杯、|三杯と|注文したのです。||今ごろの|時刻でした。||客たちが|横目で|見ていました。||なんと言うか、|うちの|店の|客層とは|少し|違う|感じでした」


「荷物は|持ってたか?」


「古い|スーツケースで、|留め金が|壊れていました。||出ていくとき、|スーツケースが|開いて|服が|床に|落ちたのを|覚えています。||しまうための|紐まで|借りていきました。


「誰かと|話したか?」


 店主は|ビリヤードの|客の|一人を|見た。||背が|高く|細身の、|身なりの|整った|男で、|愛好家たちが|尊敬の|目で|見守る|腕達者な|ビリヤードプレーヤー|そのものだった。


「それが|そうとも|言えなくて。||何か|飲みますか?||こちらに|座りましょう」


 店主は|皿が|積み上げてある|隅の|テーブルを|選んだ。


「真夜中ごろには|このマーブル5と|同じくらい|白い|顔に|なってて。||ブランデーを|八、九杯は|飲んでいました。||目つきが|気に|入らなかったですね。||酒で|あういう風に|なる|人間がいるんです。||暴れも|しないし、|わけの|わからない|ことも|言わない。||でも|ある|時点で|バタリと|倒れる。||みんな|わかってました。||もう|酒は|出せないと|言いに|行ったら、|文句も|言わなかった」


「まだ|客は|いたかのか?」


「あの|三番目の|ビリヤード台の|客たちです。||毎晩|来る|常連で、|仲間うちで|試合を|開いている|連中です。||その男は|連中より|先に|出ていきました。||そのとき|スーツケースが|開いて、|中身が|バラバラと|落ちる|騒ぎに|なったんです。||あれほど|酔っていて、|よく|紐が|結べたもんだと|思いましたよ。||三十分後に|店を|閉めました。||常連が|握手して|帰っていくとき、|誰かが|こう|言ったのを|覚えています。
『あいつには|路上の|排水溝で|また|会うことになるぞ!6』」

35

店主は|もう一度、|白くて|手入れの|行き届いた|手、|きちんとした|ネクタイ、|ビリヤード台の|まわりを|回るたびに|きしむ|エナメルの|靴の|エレガントな|プレーヤーを|見た。


「まあ、|全部|話して|しまいましょう。||偶然か|思い違いか|もしれませんし。||翌日、|毎月|来ている|外回りの|セールスマンが、|あの晩も|ここに|いたのですが、|夜の|一時ごろに|あの|酔っぱらいと|ベロワール氏が|並んで|歩いているのを|見かけたと|教えてくれたのです。||ふたりが|ベロワール氏の|家に|入るのも|見たと」


「あの|背の|高い|金髪の|男ですか?」


「そうです。||ここから|五分の|ところの|ヴェズル街に|きれいな|家を|持っています。||信用銀行の|副支配人です。


「その|セールスマンは|今|ここに?」


「いません!||いつもの|東部の|巡回中で。||十一月の|中旬まで|戻りません。||思い違いだろうと|言ったのですが、|本人は|譲らなくて。||ベロワール氏に|冗談めかして|話そうかと|思ったこともありました。||でも|気分を|害されると|困るので|やめたんです。||今|お話ししたことは、|表に|出さないで|いただけますか。||少なくとも、|私から|聞いた|ようには|見えないように。||この|商売では」


 四十八点の|連続得点を|決めた|プレーヤーは、|あたりを|見まわして|反応を|確かめ、|キューの|先に|緑色の|チョークを|塗りながら、|メグレと|店主が|一緒に|いるのを|見て|かすかに|眉を|ひそめた。

 店主は|さりげない|ふりを|しようとして、|かえって|不安げな|密謀者の|顔に|なっていた。


「エミールさん、|あなたの|番ですよ!」と|遠くから|ベロワールが|声を|かけた。

  1. Beaujon(ボジョン) は、パリにある実在の公立病院です。正式名称は **病院ボジョン(Hôpital Beaujon)**で、パリ北部に位置する歴史ある大きな総合病院です。
    物語の中では、ジューネ夫人の父親がそこで看護師として働いていたと語られており、彼女の家庭の社会的な背景(労働者階級・庶民層)を示す伏線として機能しています。その後、父が亡くなると、母と彼女はパリのピクピュス通りでハーブ薬局を営んで生計を立てていたと述べられます。
    要約すると、ボジョン病院はこの章で主人公の伝記的背景を語る一場面に登場する実在のパリの病院であり、登場人物の出自の「貧しさ」や「労働者らしさ」を示す小道具です。
    ↩︎
  2. ロケット街(rue de la Roquette)は、パリ11区に実在する通りです。
    この小説では、ジュネが偽名で暮らしていた安ホテルの住所「ロケット街十八番地」として登場します。バスチーユ広場からほど近く、当時はミュゼット・ダンスホールや安酒場が並ぶラップ街(rue de la Lappe)が交差する、労働者階級や浮浪者、移民などが集まる庶民的な地区でした。
    同じ通りの六十五番地には、ジュネが不定期に働いていたビール・ポンプを製造する小さな工場もあり、メグレはこの通りを中心にジュネの素性を調べていきます。
    また、ジュネはブリュッセルから三万フランの紙幣包みをこの住所宛てに自分自身に送りつけていたという、奇妙な習慣も明らかになります。
    つまりロケット街は、ジュネが家族と別れた後の、孤独で荒廃した隠れた生活の舞台となった場所です。 ↩︎
  3. オーベルヴィリエ(Aubervilliers)は、パリ北部に隣接する実在のコミューン(市町村)です。
    この小説では、ルイ・ジュネが身分証明書に「オーベルヴィリエ生まれ」と記載していました。ただし彼のパスポートは偽造品であることがすでに判明しており、後の捜査でメグレがオーベルヴィリエを調べると、確かにルイ・ジュネという人物の出生記録は存在するものの、それは別人のものでした。
    つまりジュネ(実はレコック・ダルヌヴィル)は、実在するオーベルヴィリエ生まれのルイ・ジュネという人物の身元を借りて偽の戸籍を作り上げていたわけです。妻のジャンヌは夫がオーベルヴィリエ生まれだと信じていましたが、それも偽りでした。 ↩︎
  4. カルノー街(rue Carnot)はランス市内にある通りです。ランスは実在するフランス北部の都市で、カルノー街も実在します。「カフェ・ド・パリ」という名前自体は、フランス各地に実在する非常に一般的なカフェの名称です。
    ↩︎
  5. ここでの「マーブル」(marbre)は、カフェのテーブルの大理石の天板のことです。
    フランスの伝統的なカフェでは、テーブルの天板に大理石(マーブル)を使ったものが多く、その白みがかった冷たい色合いが特徴的です。店主はジュネの顔色が、そのテーブルの白い大理石と同じくらい青白くなっていたと表現しているわけです。
    つまり「このマーブルと同じくらい白い顔」というのは、ジュネが真夜中ごろには死人のように青白い顔色になっていたということを、目の前にある大理石のテーブルを指しながら語っている場面です。 ↩︎
  6. フランス語の原文では「dans le ruisseau」(ル・リュイソー)で、直訳すると「溝」「小川」「排水溝」です。
    ここでの意味は文字通りの溝ではなく、**「路上に倒れている」「泥酔して道端に転がっている」**という慣用的な表現です。つまり常連客が半ば冗談めかして、「あんな状態じゃ、どこかの路上か溝に倒れているのを見つけることになるだろう」と言ったわけです。
    フランス語で「tomber dans le ruisseau」(溝に落ちる)は、身を持ち崩す、落ちぶれるという意味にも使われます。ここでは泥酔した男が夜の街で倒れているだろうという予想を、皮肉を込めて言い放った一言です。
    ↩︎