メグレとフランドル人たち|第五章 メグレの夜 (一般版)

メグレとフランドル人たち

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月24日現在)

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雨は正午ごろから降り始めていた。夕暮れには石畳の上でいっそう激しくはじいていた。八時には土砂降りになっていた。

ジヴェの通りは人気がなかった。はしけが岸壁に沿って光っていた。メグレは外套の襟を立ててフランドル人の家へ突き進み、扉を押してすっかり馴染んだ呼び鈴を鳴らし、食料品店の温かい匂いを吸い込んだ。

一月三日にジェルメーヌ・ピエドブフが店に入った時刻だった。それ以来、誰も彼女を見ていない。

警部は初めて気づいた。台所と店を隔てているのはガラス扉だけだということを。扉にはレースのカーテンがかかっていて、人影がぼんやりと透けて見えた。

誰かが立ち上がった。


「おかまいなく!」とメグレは叫んだ。


台所に入ると、日常の様子がそのままあった。ペーテルス夫人が店に向かおうと立ち上がったところだった。夫は籐の肘掛け椅子に座り、相変わらずストーブにぴったりくっついていて、燃え出すのではないかと思うくらいだった。長いサクランボ材の柄の海泡石のパイプを手に持っていたが、もう吸ってはいなかった。目は閉じられていた。半開きの唇から規則正しい寝息がもれていた。

アンナは砂で磨かれ長年使い込まれてつやの出た白木のテーブルに向かって座り、小さな手帳に計算をしていた。


「アンナ、警部さんを食堂に案内して」


「いや、結構です」とメグレは手を振った。
「ちょっと寄っただけですから」

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「外套をどうぞ」


メグレはペーテルス夫人の声が美しい低音で、深みがあり温かみがあることに気づいた。フランドル語のわずかななまりがそれをいっそう味わい深くしていた。


「コーヒーを一杯いかがですか?」


彼女が来る前に何をしていたか見たかった。彼女の席にはスチール製の眼鏡と今日の新聞があった。

老人の寝息が家の暮らしに拍子を刻んでいるようだった。アンナは手帳を閉じ、鉛筆にキャップをはめて立ち上がり、棚からカップを取った。


「失礼します」と彼女はつぶやいた。


「お姉さんのマリアに会えると思っていたのですが」


ペーテルス夫人は悲しそうに首を振った。アンナが説明した。


「数日はお会いできません。ナミュールに会いに行かれるなら別ですが。ジヴェに住んでいる同僚の先生がさっき来て。今朝、マリアが列車を降りたとき足首を捻挫して」


「今はどこに?」


「学校に。先生には部屋があてがわれているので」


ペーテルス夫人は首を振り続けながらため息をついた。


「神様に何か悪いことをしたのでしょうか!」


「ジョゼフは?」


「土曜まで戻りません。もう明日ですね」


「いとこのマルグリットは来ませんでしたか?」


「いいえ。夕べの礼拝で会いました」


沸きたてのコーヒーがカップに注がれた。ペーテルス夫人が出ていって、小さなグラスとジュネヴァの瓶を持って戻った。


「古いスキーダム1です」


メグレは腰を下ろした。何も得られるとは思っていなかった。ここに来たのは半分は事件と無関係な理由からかもしれなかった。

この家はオランダで行った捜査(『オランダの殺人』)を思い出させた。違いはあるのだが、うまく言葉にできなかった。同じ静けさ、同じ空気の重さ、同じ感覚——空気が流動的でなく、動くと壊れそうな固い塊になっているような。

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老人が動かないのに籐の椅子がときどききしんだ。そして彼の寝息が相変わらずこの家の生活と時を刻んでいた。

アンナがフランドル語で何か言った。デルフゼイル2で少し覚えたメグレには大体わかった。


「もっと大きいグラスにすればよかったのに」


ときどき木靴を履いた男が岸壁を通った。店の窓ガラスに雨のはじく音が聞こえた。


「あの夜も雨だったとおっしゃいましたね?今日と同じくらい強く?」


「ええ。たぶん」


二人の女性はまた腰を下ろして、メグレがグラスを手に取り口元に運ぶのを眺めていた。

アンナには母のような繊細な顔立ちもやさしい微笑みもなかった。いつものように、目をメグレから離さなかった。

部屋から写真がなくなっているのに気づいただろうか?おそらく気づいていない。気づいていれば動揺していたはずだ。


「ここに来て三十五年になります、警部さん」とペーテルス夫人が言った。
「主人は最初かご職人としてここに腰を落ち着けました。この同じ家に後から二階を足しただけなんです」


メグレは別のことを考えていた。五年若いアンナがジェラール・ピエドブフとロシュフォールの洞窟に行ったことを。何が彼女をその男の腕の中に押し込んだのか?なぜ身を任せたのか?その後どんなことを考えたのか?

それが彼女の生涯で唯一の冒険だったに違いない。もう二度とこういうことはないだろうと思った。

この家の生活のリズムは人を魔法にかけるようだった。ジュネヴァがじわじわとメグレの頭に回ってきた。あらゆる小さな音が聞こえた。椅子のきしみ、老人のいびき、窓の出っ張りに当たる雨粒。


「今朝弾いてくれた曲をまた弾いてくれますか?」と彼はアンナに言った。


アンナがためらうと、母親が勧めた。


「そうよ!上手でしょう?ジヴェで一番いい先生に週三回、六年間習ったんですよ」

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若い女は台所を出た。彼女と家族との間の扉が二枚とも開いたままだった。ピアノの蓋がバタンと開いた。

右手でのんびりと何音か。


「歌えばいいのに」とペーテルス夫人がつぶやいた。
「マルグリットの方が歌は上手で。音楽院に通わせようという話まであったんですよ」


音符ががらんとしたよく響く家の中に散っていった。老人は目を覚まさなかった。夫人はパイプを落とさないか心配して、そっと手から取って壁の釘にかけた。

メグレはなぜまだここにいるのか?得られることは何もなかった。ペーテルス夫人は新聞を手に取り直す勇気もなく、ただ耳を傾けていた。アンナは少しずつ左手も加えていった。いつもはマリアがこの同じテーブルで生徒たちの宿題を添削しているとわかった。

それだけだ!

ただ町中が、こんな夜にジェルメーヌ・ピエドブフを殺したとペーテルス一家を非難していた!

店の呼び鈴の音にメグレははっとした。一瞬、三週間前に若返ったような気がした。ジョゼフの愛人が入ってきて、毎月子供の養育費として払われる百フランを請求するのではないかと。

雨合羽を着た船乗りが小さな瓶をペーテルス夫人に差し出し、夫人がジュネヴァを満たした。


「八フランです!」


「ベルギーフランで?」


「フランスフランです!ベルギーフランなら十フラン」


メグレは立ち上がり、店を通り抜けた。


「もうお帰りですか?」


「明日また来ます」


外に出ると、船乗りが自分の船に戻っていくのが見えた。振り返ると店の明かりのついたショーウィンドウが、流れ続ける甘く感傷的な音楽と相まって、まるで劇場の舞台の背景画のようだった」

アンナの声が混じっていないだろうか?

でもあなたは戻ってくる 愛しきあなた

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メグレは泥の中を歩いていた。雨があまりに激しくてパイプの火が消えた。

今やジヴェ全体が劇場の舞台の背景のように感じられた。船乗りが船に戻ってしまうと、外には人影がなかった。いくつかの窓に薄明かりがあるだけ。増水したムーズ川の音がピアノの歌声を少しずつかき消していった。

二百メートル歩くと、奥にフランドル人の家、手前にピエドブフ一家の家が同時に見えた。

二階に明かりはなかった。しかし廊下は明るかった。助産婦が一人で子供といるに違いない。

メグレは気が重かった。これほど努力のむなしさを感じたのはまれだった。

そもそもここで何をしているのか?正式な任務でもない!フランドル人が若い女を殺したと人々は言っている。しかし彼女が死んでいるかどうかさえ確かではない!

ジヴェのみじめな生活に嫌気がさして、ブリュッセルか、ランスか、ナンシーか、パリで、行きずりの友人たちとビールでも飲んでいるのではないか?

たとえ死んでいたとしても、殺されたのか?食料品店を出た後、がっかりして濁った川に引き寄せられたのではないか?

証拠なし!手がかりなし!マシェールは懸命に動いているが何も見つからないだろう。そうなれば検察もいつか事件を棚上げにするだろう。

ではなぜメグレはこの見知らぬ舞台でずぶ濡れになっているのか?

正面のムーズ川の対岸に電灯一つで照らされた工場の庭が見えた。門のすぐそばに明かりのついた詰め所があった。

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父ピエドブフは勤務についていた。あそこで一晩中何をしているのだろう?

気がつくと、なぜかわからないまま、警部は両手をポケットに突っ込んで橋の方へ向かっていた。朝にグロッグを飲んだカフェでは船乗りや引き船の船長たちが十数人、岸壁まで聞こえるほどの大声で話していた。しかし立ち止まらなかった。

風が戦時中に壊された石橋の代わりに架けられた鉄橋の桁を震わせていた。

対岸の岸壁は石畳さえ敷かれていなかった。泥の中を歩かなければならなかった。うろついていた犬が石灰で塗られた壁に身を寄せた。

閉まった鉄柵に小さな通用口があった。するとすぐ、ピエドブフが詰め所の窓ガラスに顔をくっつけてくるのが見えた。


「ボンソワール!」


男は黒く染めた古い軍の上着を着ていた。彼もパイプをくわえていた。部屋の中央には小さなストーブがあり、煙突が二度曲がって壁に消えていた。


「ここには入れないはずですが」


「夜は入ってはいけないんだろ!わかった!」


木の長椅子。藁の座面の椅子。メグレの外套がもう湯気を立て始めていた。


「一晩中この部屋に?」


「いいえ!庭と工場を三回見回りに出ます」


遠くからは太い灰色の口ひげで立派に見えたが、近くで見ると内気で引っ込み思案な男だった。自分の身分の低さをこの上なくわきまえていた。メグレが怖かった。何を言えばいいかわからなかった。


「つまりいつも一人で。夜はここ、朝は自分のベッド。午後は?」


「庭仕事です!」


「助産婦さんの庭か?」


「ええ。野菜を分けっこして」

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メグレは灰の中に丸い形を見つけた。火かき棒の先でかき回すと、皮をむいていないジャガイモが出てきた。合点がいった。男が一人で、夜中に、虚しい空を眺めながらジャガイモを食べている姿が目に浮かんだ。


「息子さんは工場に会いに来ないのか?」


「来ません!」


ここでも雨粒が一つずつ扉の前に落ちて、生活に不規則なリズムを刻んでいた。


「娘さんは本当に殺されたと思っているのか?」


男はすぐには答えなかった。どこに目を向けていいかわからなかった。


「ジェラールがそう言っているから、自殺はしなかったはずです。出て行きもしなかった」

思いがけない悲しさだった。男は無意識にパイプにタバコを詰めていた。


「あの連中がやったと信じなければ」


「ジョゼフ・ペーテルスをよく知っていたのか?」


ピエドブフは顔をそむけた。


「結婚しないと思っていました。金持ちですから。それに私たちは」


壁には立派な電気時計がかかっていた。この詰め所の唯一のぜいたく品だった。向かいには黒板があり、チョークでこう書かれていた。


『求人なし』

扉のそばには大きな回転車で従業員の出退勤を記録する複雑な機械があった。


「見回りの時間です」


メグレはこの男の生活にもっと踏み込むために一緒に回ろうかと思いかけた。ピエドブフは踵まで届くだぼだぼの雨合羽を羽織り、隅からすでに火のついた嵐よけランタンを手に取り、芯を上げるだけでよかった。


「なぜ私たちに敵対するのかわかりません。まあ仕方ないかもしれませんが。ジェラールが言うには」


しかし庭に出たところで雨が遮った。ピエドブフは客を鉄柵まで案内し、見回りの前に閉めようとした。

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また一つ驚きがあった。そこから鉄格子で等間隔に切り取られた風景が見えた。対岸に係留されたはしけ船、明かりのついたショーウィンドウのフランドル人の家、五十メートルおきに電灯が光の輪を描く岸壁。

税関の建物も、カフェ・デ・マリニエもよく見えた。

特によく見えたのは路地の角で、左から二軒目がピエドブフ一家の家だった。

一月三日。3


「奥さんが亡くなって長いのか?」


「来月で十二年になります。肺で逝きました」


「今ごろジェラールは?」


ランタンがピエドブフの腕の先で揺れていた。すでに大きな鍵を錠前に差し込んでいた。遠くで列車が汽笛を鳴らした。


「街にいると思います」


「どの辺かわかるか?」


「若い連中は市役所前のカフェによく集まっています!」


メグレはまた雨と暗闇の中に踏み込んだ。捜査でも何でもなかった。出発点もなく、土台もなかった。

風に吹きさらされた小さな町で、一握りの人間がそれぞれの生活を送っているだけだ。みんな本当のことを言っているかもしれない!しかしその中の一人が苦しみおびえた魂を隠しているかもしれない。その夜、通りを歩き回る大きな人影を思うだけで、極度におびえている魂を。

メグレは自分のホテルの前を通り過ぎた。窓ガラス越しに、マシェール警部補が主人も交えた一団の中で演説しているのが見えた。四杯目か五杯目のアルコールの雰囲気だった。主人が自分のおごりで一杯やろうとしていた。

マシェールは非常に興奮して、身振りを交えながら、おそらくこう言っていた。


「パリから来た警部というのは自分が思うに」

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そしてフランドル人の話になっていた!ぼろくそに言われていた!

細い路地の突き当たりにかなり広い広場がある。角に白い外壁のカフェ、よく照らされた三つのショーウィンドウ。カフェ・ド・ラ・メリー。

扉を開けるとどよめきが迎えた。亜鉛のカウンター。テーブル。赤いクロスの上でカードに興じる客。パイプと煙草の煙、ぬるくなったビールの酸っぱい匂い。


「ビールを二杯!」


レジの大理石の上でコインが鳴る音。白いエプロンのウェイター。


「こちらへ!」


メグレは手近なテーブルに座り、まず曇った鏡の中にジェラール・ピエドブフを見つけた。彼もマシェール同様、ひどく興奮していた。警部に気づくとぴたりと口を閉じ、足で連れの足を突いたに違いない。

連れは一人の男と二人の女。四人で同じテーブルにいた。若い男たちは同じくらいの年齢だった。女たちはおそらく工場の女工だろう。

全員が黙った。ほかのテーブルのカード遊びの客も声を落として点数を告げ、視線が新参者に向けられた。


「ビールを一杯!」


メグレはパイプに火をつけ、水滴のしたたる山高帽を茶色いモレスキンの長椅子に置いた。


「ビール一杯!」


ジェラール・ピエドブフは皮肉な侮蔑の笑みを浮かべ、低い声でぼやいた。


「フランドル人のお友達だ」


彼も飲んでいた。瞳がギラギラしすぎていた。紫の唇が青白い顔色を際立たせていた。ひどく興奮しているのがわかった。周りを見渡し、女たちを驚かせることを言おうと探していた。


「ニニー、わかるか、金持ちになれば警察なんか怖くない」


連れの男が黙らせようと肘で突いたが、かえって逆効果だった。

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「何が悪い?思ったことを言っちゃいけないのか?繰り返すが、警察は金持ちの味方だ。貧乏人は」


顔が青ざめていた。内心では自分の言葉に怯えていたが、この態度が与えてくれる輝きを手放したくなかった。

メグレはグラスの泡をかき分けてビールをぐっと飲んだ。沈黙を破ろうとカード遊びの客がつぶやくのが聞こえた。


「テルス」

「ジャックのフォーカード」

「あなたの番!」

「切ります!」


二人の若い女工は警部の方を振り返る勇気もなく、鏡越しに何とか見ようとしていた。


「フランスでフランス人であることが罪だと言わんばかりだ!おまけに貧乏となればなおさら」


レジで主人が眉をひそめ、若い男が酔っているのをわかってほしいと言わんばかりにメグレの方を向いたが、メグレは見ていなかった。


「スペードだ!またスペードだ!これは予想外だろう!」


「密輸で稼いだ連中だ!」とジェラールは店全体に聞こえるように続けた。
「ジヴェじゃ誰でも知っている!戦前は葉巻とレースだった。今はベルギーで酒が禁止されているから、フランドル人の船乗りにジュネヴァを出している。おかげで息子を弁護士にできる!ははは!自分の弁護にいずれ使うことになるだろう!」


メグレは一人でテーブルに座り、客全員の視線を浴びていた。外套も脱いでいなかった。肩が雨で光っていた。

主人はそわそわして、事件が起きると感じて警部に近づいた。


「どうか気にしないでください。飲んでいるんです。それに悲しみもあって」

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「帰ろう、ジェラール!」と隣の小さな女が怯えてささやいた。


「帰れば俺がビビっていると思われるだろう?」


彼は相変わらずメグレに背を向けていた。二人は鏡越しにしか見ていなかった。

ほかの客たちは格好だけでカードを続け、スレートに点数をつけるのも忘れていた。


「ブランデーを一杯!テイスティング!」4


主人は断りかけたが、メグレが相変わらず気づかないふりをしていたので断り切れなかった。


「ひどいことだ!そういうことだ!あいつらは俺たちの娘を手に入れて、飽きたら殺す。それで警察は」


警部は黒く染め直した軍服を着た老人ピエドブフが、嵐よけランタンを手に工場の作業場を見回って、温かい自分の居場所に戻ってジャガイモを食べている姿を思い浮かべていた。

向かいにはピエドブフ一家の家。助産婦は子供を寝かしつけて、新聞か編み物で寝る時間を待っているだろう。

そしてもっと先にはフランドル人の食料品店。老ペーテルスが起こされて寝室に連れていかれ、ペーテルス夫人が鎧戸を下ろし、アンナが一人で自分の部屋で着替えている。

眠るように係留されたはしけたち。流れに引っ張られたもやい綱がぴんと伸びきり、舵をきしませ、小舟どうしをぶつけ合わせていた。


「もう一杯!」


メグレの声は穏やかだった。ゆっくりと煙草を吸い、天井に向かって煙を吐いていた。


「みんな見てくれ、あいつは俺をからかっている!そうだ、からかっているんだ!」


主人は途方に暮れて、手の打ちようがなかった。騒ぎになっていた。最後の言葉とともにジェラールが立ち上がり、メグレの方を向いた。顔はこわばり、唇は怒りでゆがんでいた。

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「あいつは俺たちをからかいに来ただけだと言ってるんだ!見ろよ!グラス一杯飲んだからって馬鹿にしてやがる。いや、むしろ俺たちが貧乏だからだ」


メグレは動かなかった。呆気にとられるほどだった!テーブルの大理石と同じくらい微動だにしなかった。手はグラスの上に。相変わらず煙草を吸っていた。

「ダイヤの切り札!」と誰かが善意で、場を和まそうとして言った。

するとジェラールはそのカード遊びの客のテーブルからカードをつかんで店中に投げつけた。

たちまち客の半数が立ち上がった。まだ前には出られないが、いつでも割って入れるように。

メグレは座ったまま。パイプを吸ったまま。


「見ろよ!からかっているんだ!俺の妹が殺されたのをわかっているくせに!」


主人はどこにいればいいかわからなかった。ジェラールのテーブルの二人の小さな女たちは顔を見合わせて怯え、すでに扉までの距離を測っていた。


「何も言えないんだ!口が開けられないだろう!怖いんだ!そうだ、真実が明るみに出るのが怖いんだ!」


「飲んでいるんです、お願いです!」と主人はメグレが立ち上がるのを見て叫んだ。


遅かった!この場で一番怖かったのはおそらくジェラールだった。

ずぶ濡れの黒い大きな影が自分に向かってくる。

彼は素早く右手をポケットに入れた。その動作と同時に女の大きな叫び声が上がった。

若い男が取り出したのは拳銃だった。しかし警部の手が空中でそれをひったくっていた。同時に前に踏み出した足でジェラールをつまずかせた。

何が起きたか理解した客は三人に一人もいなかっただろう。それでも今や全員が立ち上がっていた。拳銃はメグレの手の中に。ジェラールは立ち直ったが、顔は険しく、負けた屈辱にまみれていた。

警部が全く自然な落ち着いた仕草で拳銃をポケットにしまう間、若い男は息を切らして言った。


「逮捕するんだろう!」

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まだ立ち上がれていなかった。両手をついて体を起こしていた。哀れな姿だった。


「帰って寝ろ!」とメグレはゆっくりと言った。


相手がわかっていないようだったので付け加えた。


「扉を開けろ!」


息の詰まるような空気の中に冷たい外気がひとすじ入った。メグレはジェラールの肩をつかんで歩道に押し出した。


「帰って寝ろ!」


扉が閉まった。店の中から一人減っていた。ジェラール・ピエドブフ。


「完全に酔っぱらいだ!」とメグレは飲みかけのビールの前に腰を下ろしながらぼやいた。


客たちはどうすればいいかまだわからなかった。何人かは席に戻っていた。ほかの人は迷っていた。

メグレはビールを一口飲んでからため息をついた。


「大したことではない!」


それから隣の客に、その客には何のことかさっぱりわからなかったが、こう付け加えた。


「ダイヤの切り札と言ってたな」

  1. スキーダム(Schiedam)とは、オランダの|ジュネヴァ(ジン)の一種です。
    オランダの|スキーダム市(ロッテルダム近郊)で|盛んに|製造されていた|ことから|この名が|つきました。
    ・ジュネヴァより|モルト(麦芽)の風味が強い
    ・どっしりとした|重厚な味わい
    ・色は|透明または|わずかに|黄みがかっている
    ・「古い(vieux)スキーダム」は|長期熟成したもので|上質とされる
    ペーテルス夫人が|「古い|スキーダムです」と|出してくるのは|上等なもてなしの|証です。|店で|船乗りたちに|出す|普通の|ジュネヴァとは|別の|大切に|取っておいた|一本です。
    メグレへの|特別な|敬意と|信頼を|示す|さりげない|場面です。
    ↩︎
  2. デルフゼイル(Delfzijl)とは、オランダのフローニンゲン州にある町で、エムス川三角州の左岸に位置し、ドイツと境を接しています。
    メグレが初めて登場する作品は、シムノンがオランダのデルフゼイル近辺を航海中に書かれたものと考えられており、メグレが初めて書かれた場所であることを記念してデルフゼイルにはメグレの像が建てられています。
    メグレシリーズ「オランダの犯罪」の舞台がデルフゼイルで、フランスの犯罪学の教授が殺人事件に巻き込まれたため、メグレが非公式にオランダへ派遣されます。
    この場面では、メグレが|「デルフゼイルで|フランドル語を|少し|覚えた」と|言っているのは、|オランダでの|以前の|捜査を|指しています。|フランドル語と|オランダ語は|非常に|近い言語なので、|オランダで|覚えた言葉が|役に立ったわけです。
    ↩︎
  3. 一月三日」という唐突な一行の意味
    メグレが|工場の|鉄格子越しに|見た|風景から|気づいたことです。
    そこから|見えたのは:
    ・フランドル人の家(ペーテルス一家)
    ・ピエドブフ一家の路地の角
    ・カフェ・デ・マリニエ
    ・岸壁
    つまり|一月三日の夜、ジェルメーヌが失踪した夜の|すべての舞台が|一望できる場所だったのです。
    ↩︎
  4. カフェでの「dégustation」
    フランスの|カフェでは|試飲用の小さいグラスで|出すことが|あり、|通常の一杯より|少量で安いという|意味合いが|あります。
    つまりジェラールの意図
    「ブランデーを|一杯!||試飲サイズでいい!」
    →|少量だから|安い|→|貧乏な|俺でも|払える
    主人が|断りかけた理由
    酔っているのに|さらに|強い酒を|出すのは|危険
    しかし|「試飲サイズ」と|言われると|断りにくい
    ↩︎