『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月22日現在)
14
マルグリット・ヴァン・デ・ウェールトは何かを見せたくてたまらない様子で、ハンドバッグの中をせわしなく探っていた。

「まだ『ジヴェ通信』を受け取っていないわよね?」
そして彼女は新聞の切り抜きをアンナに差し出した。唇には控えめな微笑が浮かんでいた。アンナはその紙をメグレに渡した。

「誰がその考えをあなたに教えたの?」

「私よ。昨日、たまたま思いついたの」

それはただの広告だった。
一月三日夜、ムーズ河岸道路を通過したオートバイの方は、名乗り出てください。相応の謝礼あり。連絡先、ペーテルス食料品店。

「自分の住所を出す勇気はなかったけれど」
メグレには、アンナが少しいらだちをにじませていとこを見ながら、つぶやいたように思えた。

「一つの考えではあるわね。でも誰も来ないわ」
マルグリットはあれほど胸を高鳴らせて、ほめられるのを待っていたのに!

「どうして来ないの?もしオートバイが通ったのなら、来ない理由はないでしょう。ジョゼフではないのだから」
扉は開いていた。台所のやかんで、湯が音を立てはじめていた。ペーテルス夫人は夕食の食卓を整えていた。店の敷居のあたりから話し声が聞こえてきた。そのとたん、二人の若い娘は耳をそばだてた。

「お入りください。私から申し上げることは何もありませんが」

「ジョゼフ!」
マルグリットは立ち上がりながら、そう呟いた。

その声には愛情よりも、むしろ崇拝がこもっていた。彼女はそれですっかり別人のように輝き出した。もう一度腰を下ろすこともできず、息を止めるようにして待っていた。その様子は、まるである種の神でも現れるかのように思われた。
15
声は今度は台所の方から聞こえてきた。

「やあ、母さん」
そして、メグレの知らない別の声がした。

「失礼します、マダム。いくつか確認したいことがありまして、ご子息が通りかかったついでに伺わせていただきました」

やがて二人の男が、食堂のほうを向いて立った。ジョゼフ・ペーテルスはごくわずかに眉をひそめ、困るほどやわらかな声でつぶやいた。

「やあ、マルグリット」
彼女のほうは、彼の手を自分の両手で包みこんだ。

「あまり疲れていない、ジョゼフ?気持ちは大丈夫?」
だがアンナは、もっと落ち着いていて、もう一人の人物に向かい、メグレを紹介した。

「メグレ警部です。ご存じのはずですが」

「マシェール警部補です」と、相手は手を差し出して言った。「たしかに、あなたが」
しかし、扉とまだ食卓の片づいていないテーブルとのあいだで、全員が立ったまま、こんなふうに話を続けることはできなかった。

「俺はここにまったく非公式の立場で来ているだけだ」と、メグレは低く言った。「とくに、俺がいないものとしてやってくれ」
誰かが彼の腕に触れた。

「弟のジョゼフです。こちらがメグレ警部」
そしてジョゼフは、長く骨ばった冷たい手を差し出した。身長一メートル八十のメグレより、彼は頭半分ほど高かった。だがあまりに細かったので、二十五歳になっているにもかかわらず、まだ成長が終わっていないような印象を与えた。
小鼻の締まった鼻。疲れた目。ひどい隈。短く切った金髪。視力が悪いのだろう。ランプの光から逃げるように、まぶたが絶えず瞬いていた。


「お目にかかれて光栄です、警部さん。恐縮です」
彼は上品でさえなかった。脂じみたレインコートを脱いでいたが、その下に着ていたのは、何の特徴もない仕立ての、くすんだ灰色の背広だった。
16

「橋の近くで彼に会いましてね!」と、マシェール警部補が言った。
「それで、オートバイの後ろに乗って、ここまで連れてきてもらったんです」
ついで彼はアンナのほうを向いた。それからは彼女に話しかけた。まるで彼女こそがこの家の本当の女主人であるかのようだった。ペーテルス夫人も、台所の籐椅子に沈みこんだ夫も、姿は見えなかった。

「屋根へは簡単に上がれるんでしょうか?」
みなが顔を見合わせた。

「屋根裏の天窓からです」と、アンナが答えた。
「ご覧になりますか?」

「ええ!上をちょっと見ておきたいんです」
それはメグレにとって、家の中を見て回るいい機会になった。階段はニス塗りで、丁寧に磨かれたリノリウムが敷かれていたので、滑らないように注意しなければならなかった。

二階には、踊り場があり、三つの部屋の扉が並んでいた。ジョゼフとマルグリットは下に残っていた。アンナが先頭で歩き、警部は彼女が腰をわずかに降りながら歩くのに気づいた。

「お話ししなければならないことがあります、警部」と、警部補が低い声で言った。

「あとだ!」
そして彼らは三階に着いた。片側には、屋根裏部屋があり、寝室に改造されていたが、使われてはいなかった。反対側には、梁がむき出しの広大な屋根裏倉庫があり、商品を詰めた箱や袋が積み上げられていた。天窓に辿り着くには、マシェールは二つの箱の上に登らなければならなかった。

「明かりはないんですか?」

「懐中電灯があります」
若い丸顔の男で、陽気で休みなく動きまわっていた。メグレは屋根には登らず、天窓から外をのぞいた。風が激しく吹きつけていた。川のうなりが聞こえ、夜の闇の中で波立つ水面が見えた。その水面には、いくつかのガス灯が点々と光を落としていた。

左手の軒先の上には、亜鉛製の貯水槽があった。少なくとも二立方メートルはありそうで、警察官はためらわずにそちらへ向かった。雨水を溜めるためのものに違いなかった。
17

マシェールは身を乗り出したが、がっかりした様子だった。それからなおしばらく屋根の上を歩き回り、何かを拾おうとしてかがんだ。
アンナは何も言わず、暗がりの中で、メグレの後ろに待っていた。ふたたび警部補の脚が見え、ついで胴体が見え、最後に顔が現れた。

「隠し場所です。今日の午後、私の泊まっているホテルの連中が雨水しか飲まないと気づいて、ようやく思いついたんです。しかし、死体はありません」

「何を拾った?」

「ハンカチです。女物のハンカチです」

彼はそれを広げ、電灯で照らし、頭文字を探したが、見つからなかった。その汚れたハンカチは、長いあいだ雨風にさらされていた。

「これはあとで調べましょう!」
警部補はそうため息をつき、扉のほうへ歩いていった。

ふたたび食堂の暖かな空気の中へ入ると、ジョゼフ・ペーテルスはピアノの丸椅子に腰かけ、マルグリットがいま見せた広告を読んでいた。彼女は彼の前に立っていた。つばの広い帽子と、小さなフリルで飾られた外套が、彼女のふわりとしたところをいっそう目立たせていた。

「今夜、ホテルへ俺に会いに来てくれるか?」と、メグレは若い男に言った。

「どのホテルですか?」

「ムーズ・ホテルです!」と、アンナが口をはさんだ。
「もうお帰りですか、警部さん?夕食にお引き止めしたかったのですが」
メグレは台所を横切っていた。ペーテルス夫人は驚いたように彼を見た。

「お帰りになるのですか?」
老人のほうは、目がうつろだった。海泡石のパイプをくわえ、ほかのことは何も考えていないようだった。挨拶さえしなかった。
外には、風があり、増水したムーズ川の水音があり、横に並んで係留された船同士のぶつかる音がしていた。マシェール警部補は、メグレの右側に出てしまったため、急いで位置を変えた。1

18

「彼らは無実だとお思いですか?」

「知らん。タバコは持っているか?」

「安物しか、パイプ用は持っていません。ナンシーではあなたのことがずいぶん話題になっているんです。それが私には気がかりでして。というのも、あのペーテルス家は」

メグレは船の前で足を止め、その上に視線を漂わせていた。ジヴェは、航行を止めている増水のおかげで、大きな港のように見えた。ライン川の平底船が何隻もあり、千トン級で、全体が黒い鋼鉄でできていた。そのそばでは、木造の北部地方のはしけが、ニスを塗った玩具のように見えた。

「帽子を一つ買わなきゃならん!」と、山高帽を押さえていなければならない警部がぶっきらぼうに言った。

「いったい何を聞かされたんです?彼らは無実だ、もちろんそうでしょう!」
風の轟音のために、大声で話さなければならなかった。五百メートル先のジヴェは、明かりの集まりにすぎなかった。フランドル人たちの家は、荒れた空を背景に輪郭を浮かべ、柔らかな光で黄色く染まった窓を見せていた。


「彼らはどこの出身だ?」

「ベルギーの北部です。ペーテルスの父親は、リンブルフ2のさらに上のほう、オランダ国境で生まれました。妻より二十歳年上ですから、いまでは八十歳くらいになります。籠職人でした。数年前までは、家の裏にある作業場で、四人の職人を使って、まだその仕事をしていました。今ではすっかりぼけています」


「金持ちなのか?」

「そう言われています!家は彼らのものです。船を買いたがっていた貧しい船頭たちに、金を貸したことさえあります。わかりますか、警部、われわれとは考え方が違うんです。ペーテルスの婆さんは何十万フランも持っているのに、店に出て客に『ちょっと一杯』を出している。彼らはそういう言い方をするんです。ただ、息子は弁護士になる。長女はピアノを習った。もう一人はナミュールの大きな修道院学校でレジャンテ3をしています。小学校教師より上です。いわば、リセの教師みたいなものです」
そう言って、マシェールははしけを指さした。
19

「あの船の中の半分はフランドル人です。習慣を変えるのが好きではない連中です。ほかの者は橋の近くにあるフランス人のビストロへ行き、ワインや食前酒を飲みます。だがフランドル人は、ジュネヴァが飲みたい。自分たちの言葉をわかる者が欲しい。そういうすべてが欲しいんです。どの船も一週間分、それ以上の食料を買います。密輸の話はまだしていませんよ!あそこは密輸にはもってこいの場所ですから」

外套は体に張りついていた。水のぶつかる音があまりに激しく、積み荷を載せたはしけの甲板に水が跳ね上がっていた。

「あの連中はわれわれの考え方とは違います。彼らにとって、あれはビストロではないんです。カウンターで酒を出してはいても、あくまで食料品店です。女たち自身も、買い物をしながら一杯飲みます。それがいちばん儲かるらしいです」

「ピエドブフは?」と、メグレが尋ねた。

「庶民です。工場の守衛。娘は同じ会社でタイピストをしていました。息子は今もそこで働いています」

「まじめな若者か?」

「そうとは言えません。あまり働きません。市役所前カフェでビリヤードをするほうが好きなんです。いい男で、本人もそれをわかっています」

「娘は?」

「ジェルメーヌですか?恋人はいました。わかるでしょう、警部。夜になると、暗がりの隅で、男と一緒にいるような娘の一人です。それでも、子供はやはりジョゼフ・ペーテルスの子です。私は見ました。似ています。少なくとも否定できないのは、一月三日、夜の八時少し過ぎに、彼女があの家に入ったことです。そしてそれ以来、誰も彼女を見ていません」

マシェール警部補ははっきりと話していた。

「私はすべて見て回りました。建築士の助けを借りて、現場の詳しい見取り図まで作りました。ただ一つだけ忘れていたものがありました。屋根です。ふつう、屋根に死体を隠せるとは考えませんからね。さっきそこへ行ってきました。ハンカチを見つけましたが、それだけです」

「ムーズ川は?」
20

「そのことです!ちょうどお話ししようと思っていました。ご存じでしょうが、溺死者はたいてい堰で見つかります。ここからナミュールまでに八箇所あります。ただ、犯行の二日後、川があまりにも増水して、堰が流されてしまいました。毎冬起きることです。ですから、ジェルメーヌ・ピエドブフはオランダまで、いや海まで流されたとしても不思議ではありません」


「ジョゼフ・ペーテルスはその晩、ここにはいなかったと聞いたが」

「知っています!本人はそう言い張っています。彼のとよく似たオートバイを見た証人がいます。彼は自分ではないと誓っています」

「アリバイはないのか?」

「あるとも言えますし、ないとも言えます。私はそのためにわざわざナンシーへ戻りました。彼は家具付きの部屋に住んでいて、下宿の女主人に見られずに帰ることができます。そのうえ、学生たちが毎晩集まるカフェやバーに出入りしています。彼がそういうバーの一つで夜を過ごしたのが、三日だったのか、四日だったのか、五日だったのか、はっきり覚えている者はいません」

「ジェルメーヌ・ピエドブフが自殺した可能性は?」

「あの女はそういう女ではありませんでした。体は弱く、品行もあまりよくない小柄な女でしたが、息子をかわいがっていました」

「別の暴行の被害に遭った可能性もある」
このとき、マシェールは黙りこみ、岸から数メートルのところに小島のように集まっている船のほうへ視線を漂わせた。

「それは考えました。船頭を一人ひとり調べました。大半はまじめな連中で、家族や子供たちと船の上で暮らしています。気になったのはエトワール・ポレールだけです。上流側のいちばん端にある船です。いちばん汚れていて、いまにも沈みそうに見えるあの船です」


「何者だ?」

「リエージュ近くのティルール出身のベルギー人の船です。強制わいせつで二度訴追されたことのある年寄りの荒くれ者です。船は手入れされていません。保険会社も引き受けを拒んでいます。女や少女がらみの話が山ほどありました。しかしなぜそいつがやったといえますか?」
二人の男はふたたび橋のほうへ歩き出した。近づくにつれて、町の街灯の光の中へ入っていった。右手にはビストロが見えた。自動ピアノがけたたましく鳴っている、フランス人のビストロだった。

21

「そいつの見張りはつけています。それでも、オートバイについての証言が」

「君はどのホテルに泊まっている?」

「駅前ホテルです」
メグレは手を差し出した。

「また会おう、君。もちろん、捜査を続けるのは君だ。俺はここでは素人にすぎん」

「どうしろとおっしゃるんです?死体が見つからなければ、証拠は何もありません。そして、もし水に投げこまれたのなら、もう見つかりません」
メグレはぼんやりと彼の手を握り、二人が橋に着いたところで、ムーズ・ホテルに入った。
メグレは夕食をとりながら、手帳に書きつけていた。

ペーテルスについての意見。
マシェール。『彼らは店をビストロだとは思っていない』
ホテルの主人。『あれは大ブルジョワ気取りの連中ですよ。自分の息子を弁護士にしようなんて考えますか?』
船頭。『フランドル地方では、みんなあんなもんだ!』
別の船頭。『あいつらはフリーメーソンみたいに、仲間内で固まっている!』
そして、町から、つまりジヴェの中心にあたる橋から、フランドル人たちのほうを眺めるのは奇妙だった。こちらはフランスの町だった。小さな通り。ビリヤードやドミノ好きでいっぱいのカフェ。アニスの食前酒の匂いと、全体にただよう親しげな空気。

それから、川の一角。税関の建物。そして、いちばん奥、田園のはずれに、フランドル人たちの家があった。商品がぎっしりつまった食料品店。ジュネヴァを飲む者たちのための小さな亜鉛張りのカウンター。台所と、ストーブにぴったり寄せた籐椅子に座る、すっかりぼけた主人。食堂と、ピアノ、ヴァイオリン、座り心地のよい椅子、手作りのタルト、アンナとマルグリット、格子柄のテーブルクロス。そして周囲の称賛の中をバイクで現れるひょろりと背が高くやつれたジョゼフ!
22
ムーズ・ホテルは商用旅行者向けのホテルだった。主人は客の顔を全員知っていた。彼らにはそれぞれ自分のナプキンリング4があった。
ジョゼフ・ペーテルスは九時ごろ、よそ者のように、気後れしながらそこへ入ってきて、警部のほうへまっすぐ近づき、口ごもった。


「新しい情報です!」
ただ、みんなが二人を見ていたので、メグレはその若い男を自分の部屋へ連れていくことにした。

「何だ?」

「広告のことはご存じですね?オートバイの男が名乗り出ました。ディナンの自動車修理工で、あの晩、八時半ごろ、家の前を通ったそうです」

メグレの鞄はまだ開けられていなかった。警部はベッドの端に腰かけ、一つしかない肘掛け椅子を訪問者に譲っていた。


「君は本当にマルグリットを愛しているのか?」

「はい。つまり」

「つまり?」

「彼女は僕のいとこです!妻にしたいと思っていました。ずっと前から決まっていたことです」

「それでも、君はジェルメーヌ・ピエドブフに子供を産ませた」
沈黙があった。それから、かすかに口ごもるような、弱々しい声がした。

「はい」

「彼女を愛していたのか?」

「わかりません!」

「彼女と結婚するつもりだったのか?」

「わかりません」
メグレは明るい光の中で、痩せた顔、疲れた目、力のない顔立ちのジョゼフを見ていた。ジョゼフ・ペーテルスはメグレを正面から見ることができなかった。

「どうしてそうなった?」

「ジェルメーヌと僕は、つき合っていました」

「マルグリットは?」

「違います!あれは別のことでした」

「それで?」
23

「彼女が子供ができたと知らせてきました。僕はもうどうしていいかわからなくなって」

「そこで君の母親が」

「母と姉たちです。彼女たちは僕に証明してみせました。僕が最初ではなかったこと、ジェルメーヌにはほかにも」

「男がいた?」
窓は川に面していた。ちょうど水が橋脚にぶつかって砕ける場所だった。絶え間ない、力強い轟音がしていた。

「君はマルグリットを愛しているのか?」
若い男は立ち上がった。不安そうで、落ち着かなかった。

「どういう意味ですか?」

「マルグリットを愛しているのか、それともジェルメーヌか?」

「僕は。つまり」
額には汗のしずくが浮かんでいた。


「どうして僕がわかっていると?母はもうランスに、僕のための弁護士事務所を押さえました」

「君とマルグリットのためにか?」

「わかりません。あの女とはダンスホールで知り合いました」


「ジェルメーヌか?」

「行ってはいけないと言われていたダンスホールです。彼女を家まで送っていきました。その途中で」

「それでマルグリットとは?」

「それとは違います。僕は」

「一月三日から四日にかけての夜、君はナンシーを離れていないのか?」
メグレにはもう十分わかった。彼は扉のほうへ歩いていった。この男を見きわめることができた。骨ばった大柄な青年だが、性格は弱く、姉たちといとこからの崇拝によって、自尊心を支えられている男だった。

「その後は何をしている?」

「試験の準備をしています。最後の試験です。アンナがあなたに会いに行くようにと電報をくれました。それで」

「もういい!用は済んだ!ナンシーへ帰っていい」
メグレが忘れることのない顔だった。不安のために赤く縁取られた大きな明るい目。まっすぐすぎる上着。膝にポケットのついたズボン。
24
同じ服装のまま、ただレインコートを羽織っただけで、ジョゼフ・ペーテルスは規定速度を超えることもなく、オートバイでナンシーへ戻っていくことだろう。
どこかの生活に困った老夫人の家の、小さな学生部屋。一度も休んだことのない講義。昼のカフェ。夜のビリヤード。

「必要になったら、連絡する」
一人になったメグレは窓に肘をついた。谷から吹きつける風を受けながら、ムーズ川が平野へ向かって流れ下るのを見ていた。遠くに小さなかすかな灯りが見えた。フランドル人の家だ。
暗がりの中には、船のぼんやりしたかたまり、帆柱、煙突、はしけの丸い船首が見えた。
先頭にはエトワール・ポレール。
彼はパイプにタバコを詰めながら、外へ出た。外套のビロードの襟を立てたが、風はあまりに強く、あの大きな体格でも踏ん張らなければ吹き飛ばされそうだった。
- フランスの警察の階級上の礼儀です。
フランスでは|上位の人物は右側に立つのが|礼儀です。
つまり、メグレ(上位)→ 右側、マシェール(下位)→ 左側
マシェールは|うっかり|上官であるメグレの|右側に|立ってしまい、|気づいて|あわてて|左側に|移った、ということです。
↩︎ - リンブルフとペーテルス家
ペーテルスは|ベルギー北東部の|リンブルフ州、|オランダとの|国境付近の|生まれです。リンブルフは|典型的な|フラマン語圏で、|平坦な|農村地帯が|広がる|地方です。そこから|はるばる|フランスの|国境の町|ジヴェまで|移り住み、|かご職人として|身を|起こし、|食料雑貨店を|営むまでに|なりました。
つまり|ペーテルスは|オランダ、|ベルギー、|フランスという|三つの国の|国境地帯を|またいで|生きてきた|一家です。どの国にも|完全には|属さず、|どこへ行っても|よそ者である。|この「どこにも|属さない」という|宿命が、|ペーテルスの|出身地から|すでに|始まっていたのです。|そしてそれが|ジヴェの町で|疑惑の目を|向けられる|遠因にも|なっています。
↩︎ - ナミュール(Namur)
ベルギー南部の都市で、|フランス語圏(ワロン地方)の|主要都市です。ムーズ川と|サンブル川の|合流点に|位置し、|ジヴェから|川沿いに|約五十キロ|上流にあたります。ベルギーの|ワロン地方の|行政の中心地で、|教育機関も|多く|集まっていました。マリアが|ウルスラ修道院系の|学校で|教えているのが|ここです。
レジャント(Régente)
フランス語の|「régente」は、|ベルギー独自の|教員資格・称号です。
日本語に|訳しにくいのですが:
小学校教師より|上位、中等教育(中学・高校相当)を|担当できる|上級教員、ベルギーでは|régent(e) の資格は|専門の|師範学校で|取得する
マシェールが「普通の小学校教師より格上、フランスのリセ(高校)の教師みたいなもの」と説明しているのは|そのためです。マリアが|ナミュールの|名門修道院系学校で|レジャントとして|働いているのは、|ペーテルス家が|いかに|子供たちの|教育に|力を|注いできたかを|示しています。
↩︎ - ナプキンリングとは、布製の|テーブルナプキンを|丸めて|通しておく|輪っか状の|リングです。
ムーズ河畔ホテルは|商用客向けの|ホテルで、主人は|顔なじみの客全員を|知っていました。常連客には|それぞれ|自分のナプキンリングが|用意されていました。
ナプキンリングには、番号や名前が|入っており、常連であることの|証でした。
ジョゼフが|よそ者のように|気後れしながら|入ってきたのは、そういう|常連たちの|視線の中でした。
スキャンダルで|騒がしい町で、疑惑の一家の息子が|パリから来た警部に|会いに来た——それだけで|十分な|見世物なのです。
↩︎


