サン・フィアクル殺人事件|第三章 ミサの少年(一般版)

サン・フィアクル殺人事件

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景色を歪めて見せる太陽もなく、輪郭をぼかすどんよりした空もなかった。すべてが残酷なまでの鮮明さで切り取られていた。木の幹、枯れ枝、小石、そしてとりわけ墓地に集まった人々の黒い衣服。白いものは逆に、墓石や糊のきいた胸当て、老女たちのボンネットが、非現実的な不穏な輝きを帯びていた。白すぎる白が浮き上がり、場違いに際立っていた。

頬を切るような乾いた北風がなければ、うっすら埃をかぶったガラスの鐘の中にいるような気がしたことだろう。


「また後で会おう!」


メグレは墓地の門の前でサン・フィアクル伯爵と別れた。老女が持参した小さな腰掛けに座り、オレンジとチョコレートを売ろうとしていた。

オレンジだ!大粒で、まだ熟していなくて、しかも冷え切っている。歯が浮くようで、喉をひりひりさせる味だった。それでも十歳のころのメグレは夢中でかじった。オレンジだから。

メグレは外套のビロードの襟を立てた。誰にも目を向けず、左に曲がり、糸杉から三番目の墓が目指す場所だとわかっていた。

あたり一面、墓地は花で飾られていた。前日、女たちがブラシと石鹸で墓石を洗い、柵が塗り直されていた。


『ここに眠る<エヴァリスト・メグレ>』


「失礼、ここでは煙草はご遠慮ください」


警部は声をかけられたことにほとんど気づかなかった。鐘突き係だった。彼はは墓地の管理人も兼ねているのだ。メグレはその男をじっと見つめ、火のついたままのパイプをポケットに押し込んだ。

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思い出が次々と押し寄せた。父のこと、ノートルダムの池で溺れた友達のこと、立派な乳母車に乗った城の子どものこと。

人々がメグレを見た。メグレも見返した。見覚えのある顔ばかりだった。しかしあのとき、たとえば今子どもを抱いて妊婦を連れているあの男は、四、五歳のやんちゃ坊主だった。

メグレは花を持っていなかった。墓はくすんでいた。不機嫌な顔で墓地を出ながら、ひとりごとを呟いた。近くの一団が振り返るほどの声だった。


「まずミサ典書を見つけなければ」


城に戻る気にはなれなかった。あそこには何か胸のむかつくもの、腹立たしいものがあった。

人間に幻想を抱いたことはなかった。しかし子どものころの思い出を汚されるのは我慢がならなかった。とりわけ伯爵夫人は、絵本の中の人物のように気高く美しい存在としてずっと心にあった。

それが今や、若いツバメを囲う老いた物好きだったとは。いや、それさえもあからさまでないやり方で。あのジャンは秘書を演じていた。美男でもなく、さほど若くもなかった。

そして息子の言う「かわいそうな母」は、城と教会の間で引き裂かれていた。

そしてサン・フィアクル家最後の伯爵は、不渡り小切手を振り出したとして逮捕されることになるのだ。1

前を歩く男がいた。肩に猟銃を担いでいる。メグレはふと、その男が管理人の家に向かっていると気づいた。野原で遠くから見たあの人影だと思った。

二人の間は数メートル。中庭に入ると、何羽かの鶏が風を避けて壁に寄り添い、羽を震わせていた。


「おい!」


猟銃の男が振り返った。


「サン・フィアクルの管理人か?」


「あなたは?」


「司法警察のメグレ警部だ」


「メグレ?」


管理人はその名前にはっとしたが、記憶をはっきりたぐり寄せることができなかった。

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「話は聞いているか?」


「今聞いたところです。狩りに出ていたもので。しかし警察が何の用で?」


小柄でがっしりした体格の男で、髪は白髪交じり、皮膚には細かく深い皺が刻まれ、濃い眉の下から目が窺うように光っていた。


「心臓が止まったと聞きましたが」


「どこへ行く?」


「泥だらけの長靴と猟銃を持ったまま城には入れません」


袋から兎の頭が垂れていた。メグレは向かっている管理人の家を眺めた。


「ほう、台所が変わっている」


疑うような目がメグレに向いた。


「もう十五年になりますよ」と管理人はぼそりと言った。


「名前は?」


「ゴーティエです。伯爵が知らせもなく到着されたというのは本当で?」


すべてが歯切れ悪く、ぼかした言い方だった。ゴーティエはメグレを家に招き入れようとせず、自分だけ扉を押して入った。

それでもメグレは構わず中に入り、右手の食堂へ向かった。ビスケットと古いマール酒2の匂いがした。


「少し来てくれ、ゴーティエ。あっちはあなたがいなくても大丈夫だ。それにこっちは、いくつか聞きたいことがある」


「早く!」


台所から女の声がした。


「ひどいことらしいわよ」


メグレはライオンの彫刻が施された角を持つ樫のテーブルを手で触れた。自分が子どものころと同じテーブルだ。先代が亡くなったときに新しい管理人に売られたものだった。


「何か一杯いかがですか?」


ゴーティエは食器棚から瓶を選んだ。時間を稼いでいるのかもしれなかった。


「あのジャンをどう思う?ところで、苗字は何という?」


「メタイエです。ブールジュ3のなかなかいい家柄で」


「伯爵夫人に金がかかったのか?」


ゴーティエはグラスにブランデーを注ぎながら、頑なに黙っていた。


「城で彼は何をしていた?管理人として、あなたがすべてを取りしきっているのだろう4


「すべてです!」

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「それで?」


「彼は何もしていませんでした。個人的な手紙を少し書くぐらいで。最初は金融の知識で伯爵夫人の財産を増やすと言っていました。有価証券を買いましたが、数ヶ月で暴落して。それでも友人が発明した新しい写真技術で全部取り戻すと言い張り、伯爵夫人は十万フランほどつぎ込みましたが、友人は姿を消しました。最後は写真版の複製とかいう話で。私にはよくわかりませんが、フォトグラビュールかエリオグラビュールのようなもので、もっと安くできると言っていました5


「忙しかったわけだ」


「動き回ってはいましたが、何も成果はない。ムーラン・ジャーナル紙に記事を書いていましたが、伯爵夫人の手前、断れなかったようです。そこで写真版の試作もやっていて、編集長も追い出せずに困っていました。乾杯!」


そして急に不安そうな顔で:


「伯爵と何かもめごとはありませんでしたか?」


「ない」


「あなたがここにいるのは偶然でしょう。心臓の病気なら警察が来る理由もないはずで」


困ったことにゴーティエと目が合わなかった。口髭を拭い、隣の部屋へ入っていった。

「着替えてもいいですか?大ミサに行くつもりでいたのに、今となっては」


「また後で」


扉を閉める前に、姿を見せなかった女が尋ねる声が聞こえた:

「誰だったの?」


中庭には砂岩の石畳が敷かれていた。かつてメグレが土の地面でビー玉を転がして遊んだ場所だった。

礼拝用の服を着た人々が広場を埋め尽くし、教会からオルガンの音が漏れてきた。新しい服を着た子どもたちは遊ぶのを遠慮していた。あちこちでハンカチがポケットから出てきた。鼻が赤く、賑やかにかんでいた。

会話の断片がメグレの耳に届いた。


「パリから来た刑事がいるぞ」

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「先週マチューのところで牛が死んだから来たらしいな」


紺のサージの上着のボタン穴に赤い花を挿した、ひどく得意げな若者がいた。顔はきれいに洗われ、髪は整髪料で光っていた。その若者が思いきって警部に声をかけた。


「タタンのところで待ってますよ。盗みをした小僧のことで」


そして彼は仲間たちを肘でつつき、顔をそむけながらもこらえきれずに笑いをもらしていた。

彼が作り話をしたわけではなかった。マリー・タタンの店では、いまや空気がさらに暖かく、さらに重くなっていた。パイプが何本も何本も吸われていた。一つのテーブルでは、農家の一家が農場から持ってきた食べものを食べ、大きな椀でコーヒーを飲んでいた。父親はポケットナイフで乾いたソーセージを切っていた。

若者たちはレモネードを飲み、年寄りたちはマール酒を飲んでいた。そしてマリー・タタンは休む間もなく小走りに動きまわっていた。

片隅で、警部が入ってくると、一人の女が立ちあがり、取り乱し、ためらいながら、濡れた唇で一歩彼のほうへ進み出た。女は一人の少年の肩に手を置いていた。その少年の赤毛を見て、メグレは見覚えがあると思った。


「警部さんですか?」


みながそちらを見ていた。


「まず申しあげておきたいんです、警部さん。うちは昔からずっとまじめにやってきました。それでも貧乏なんです。おわかりでしょう?エルネストがあんなことをするとは思わなくて」」


少年は真っ青な顔で、まっすぐ前を見つめていた。少しの感情も表に出していなかった。


「ミサ典書を取ったのはお前か?」とメグレは身をかがめて聞いた。


返事がなかった。鋭く荒々しい目が返ってきただけだった。


「警部さんに返事をしなさい」


少年は口を開かなかった。あっという間だった。母親が平手打ちを食らわせ、左の頬に赤い跡が残った。頭がしばらく揺れた。目が少し潤み、唇が震えたが、動かなかった。


「返事をしなさい、この親不孝者!」


そしてメグレに言った。


「今どきの子どもはこれです!何か月も前から、ミサ典書を買ってくれって泣いていたんです。司祭さまの持っているような大きなやつを!そんなことができますか?だから、伯爵夫人のミサ典書の話を聞いたとき、私はすぐに思ったんです。それに、第二のミサと第三のミサのあいだにこの子が帰ってきたのも変だと思いました。いつもなら司祭館で食事をするんですから。それで部屋へ行って、これをマットレスの下で見つけたんです」

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母親の手がもう一度子どもの頬を打った。少年は避けようともしなかった。


「この子の年ごろには、あたしなんか字も読めなかった!たとえ読めたとしても、本を盗むような悪さはしなかったけどね」


宿の中に静かな空気が漂っていた。メグレはミサ典書を手に持っていた。


「ありがとうございます」


早く調べたかった。奥へ向かうふりをした。


「警部さん」


女が呼び止めた。戸惑った様子だった。


「お礼があると聞いていたのですが。エルネストがしたことだからというわけではなくて」


メグレは二十フランを渡した。女は丁寧に財布にしまった。それから息子を叱りながら扉の方へ引っ張っていった。


「この牢屋行きのろくでなし、家に帰ったらわかっているね」


メグレの目と少年の目が合った。ほんの数秒のことだった。それでも二人は互いにわかった。友達だと。

もしかするとそれは、かつてメグレ自身も金の縁取りのミサ典書を欲しくてたまらなかったからかもしれなかった。ついに手に入れることはなかったが、ミサの通常文だけでなくすべての典礼文がラテン語とフランス語の二段組で収められたあの典書を。


「昼食は何時に戻りますか?」


「わからない」


メグレは部屋に上がって典書を調べようかと思ったが、隙間風が吹き抜ける屋根のことを思い出し、街道に出ることにした。

城へ向かってゆっくりと歩きながら、サン・フィアクル家の紋章が入った装丁の本を開いた。いや、開いたのではなかった。典書がひとりでに開いた。二枚のページの間に紙が挟まれていた。

二百二十一ページ。聖体拝領後の祈り。

挟まっていたのは乱暴に切り取られた新聞の切れ端で、一目見ただけで妙な感じがした。印刷がひどく粗かった。

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パリ、十一月一日。今朝、ミロメニル通りのアパルトマンで、劇的な自殺事件が起きた。その部屋は、サン・フィアクル伯爵と、その愛人であるロシア人女性、マリー・Sが、数年来住んでいた場所である。

伯爵は、家族のある者が引き起こしたスキャンダルを恥じていると、愛人に告げたあと、ブローニング拳銃で自分の頭を撃ち、意識を取り戻すことなく、数分後に死亡した。

われわれの知るところでは、これはきわめて痛ましい家庭内の悲劇であり、上に述べた人物とは、ほかならぬこの自殺した男の母親である。

道をうろついていた一羽のガチョウが、怒りで大きく開いたくちばしを、メグレのほうへ突き出していた。鐘は一斉に鳴り響き、人々は足踏みするようにゆっくりと、小さな教会から出てきていた。そこからは、お香と、吹き消された蝋燭の匂いが流れ出していた。

メグレは、分厚すぎて外套の形をゆがめているミサ典書を、外套のポケットへ押し込んでいた。彼は立ち止まり、その恐ろしい紙切れを調べていた。

犯罪の凶器!縦七センチ、横五センチほどの新聞の切れ端!

サン・フィアクル伯爵夫人は第一ミサへ行き、二世紀にわたって一族の者たちのために取っておかれた聖職者席にひざまずいた。

夫人は聖体拝領を受けた。それは予定されていた。そして拝領後の祈りを読むために、ミサ典書を開いた。

凶器はそこにあった!メグレは紙切れをあらゆる向きにひっくり返した。そこにはどこかあやしげなところがあった。彼はとくに文字の並びを観察し、本物の新聞の場合のように、輪転機で刷られたものではないと確信した。

それは単なる校正刷りだった。台の上で手で刷られたものだった。その証拠に、紙の裏側にも、まったく同じ文章が載っていた。

手の込んだ細工をする手間をかけなかったのか、それともその時間がなかったのか。それに、伯爵夫人がその紙を裏返そうと思いついただろうか。その前に、衝撃、憤り、恥辱、不安で、死んでしまったのではないか。

メグレの顔つきは恐ろしかった。これほど卑劣で、しかもこれほど巧妙な犯罪を、彼は見たことがなかったからだ。

しかも犯人は、警察に知らせることまで考えついていた!

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仮にミサ典書が見つからなかったとしたら。

そうだ!それだった!ミサ典書は見つかってはならなかったのだ!そうなれば、犯罪だと言うことも、誰かを告発することも不可能だった!伯爵夫人は心臓が突然止まって死んだことになる!

彼は突然引き返した。マリー・タタンの店に着くと、みなが彼とミサ典書の話をしていた。


「エルネストの家を知っているか?」


「大通りの、食料品店から三軒先です」


彼はそこへ駆けつけた。平屋の粗末な家だった。食器棚の両側の壁には、父親と母親の引き伸ばし写真が掛かっていた。女はもうよそ行きを脱ぎ、牛肉のローストの匂いがする台所にいた。


「息子はここにいないのか?」


「着替えています。日曜の服を汚すことはありませんから。あたしがどれだけ叱ったか、ご覧になったでしょう!いい手本ばかり見て育っている息子なのに」


女は扉を開け、叫んだ。


「こっちへおいで、悪ガキ!」


すると下着姿の少年が、隠れようとしているのが見えた。


「着替えさせてやれ」とメグレは言った。「あとで話す」


女は昼食の支度を続けた。夫はマリー・タタンの店で食前酒を飲んでいるのだろう。

ようやく扉が開き、エルネストが入ってきた。人目を避けるような顔つきで、ふだん着を着ていたが、ズボンは長すぎた。


「一緒に散歩に来い」


「よろしいんですか?」と女は声をあげた。「それなら、エルネスト、早くよそ行きを着ておいで」


「その必要はない、奥さん。来い、坊主」


通りは人気がなかった。村の生活はすべて、広場と、墓地と、マリー・タタンの店に集まっていた。


「明日、もっと大きなミサ典書をおまえに贈ってやる。各節の頭文字が赤く刷ってあるやつだ」


少年はそれを聞いて驚いた。つまり、警部は、祭壇に置かれているあの本のように、赤い飾り文字の入ったミサ典書があることを知っているのだ。


「ただし、あのミサ典書をどこで取ったのか、正直に言うんだ。叱りはしない」


少年の中に、古い百姓らしい警戒心6が生まれてくるのは奇妙だった。彼は黙っていた!もう身構えていた!

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「祈祷台の上で見つけたのか?」


沈黙。頬と鼻の頭にそばかすが散っていた。厚い唇が無表情を装おうとしていた。


「俺がお前の大事な友達だとわかったか?」


「はい。お母さんに二十フランをくれましたよね」


「それが?」


少年はここぞとばかりにその後の話をした。


「家に帰ったら、お母さんが人前だから叩いただけだって言って、五十サンチームくれました」


やるじゃないか!細い体に不釣り合いな大きな頭の中で、いったい何を考えているのか。


「聖具係は?」


「何も言いませんでした」


「祈祷台から典書を持っていったのは誰だ?」


「知りません」


「お前はどこで見つけた?」


「聖具室で白衣の下に。司祭館に食事に行くつもりでいたのに、ハンカチを忘れて戻ったんです。白衣を動かしたら硬いものがあって」


「聖具係はいたか?」


「教会で蝋燭を消していました。あの、赤い頭文字のついた典書はとても高いんですよね?」


つまり、誰かが祈祷台から典書を持ち去り、後で取りに戻るつもりで一時的に聖具室の少年の白衣の下に隠していたのだ。


「開けてみたか?」


「時間がなくて。温泉卵が食べたかったし。日曜はいつも」


「わかってる」


エルネストはこの都会の男が日曜に司祭館で卵とジャムが出ることをどうして知っているのかと不思議に思った。


「もう行っていいぞ」


「本当にもらえますか?」


「典書な、明日。じゃあな」


メグレが手を差し出すと、少年は少しためらってから手を出した。


「どうせ嘘に決まっている!」と言いながら走り去った。

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三段階の犯罪。まず、誰かが新聞社か大きな印刷所にしかないライノタイプ7で記事を組んだか、組ませた。

次に、誰かがページを選んでその紙をミサ典書に挟んだ。

そして誰かが典書を持ち去り、一時的に聖具室の白衣の下に隠した。

同一人物がすべてをやったのか?それぞれ別の人間が別々に動いたのか?あるいは二つは同じ人物で一つだけ別の人間なのか?

教会の前を通りかかると、ちょうど神父が出てきてこちらに向かってきた。メグレはポプラの木の下、オレンジとチョコレート売りの老女の近くで待った。


「城へ行くところです」と神父は追いついて言った。
「今日のミサは何をしているのかわからないほどでした。犯罪だという考えが頭から離れなくて」


「犯罪です」とメグレはぼそりと言った。


二人は黙って歩いた。メグレは黙ったまま紙切れを神父に渡した。神父は読んで返した。

さらに百メートル、一言も交わさなかった。


「乱れは乱れを呼ぶ。それでも哀れな魂だった」


北風が激しさを増し、二人とも帽子を押さえながら歩いた。


「私には力がなかった」と神父は暗い声で続けた。


「あなたが?」


「毎日戻ってくるのです。主の道に帰る準備はできていた。しかし毎日、あそこには」


声に刺々しさが混じった。


「行きたくなかった。でもそれが私の務めだった」


二人は思わず立ち止まりそうになった。城の正面並木道を二人の男が歩いてくる。茶色い顎鬚の医者と、その隣で相変わらず熱っぽく喋り続ける細長いジャン・メタイエだった。黄色い自動車が中庭にあった。伯爵が城にいる限り、メタイエは中に入れずにいるのだろう。


ぼんやりした光が村の中に漂っていた。何もかもが曖昧だった。人々があてもなく行き来していた。

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「行きましょう!」とメグレは神父に言った。


医者も同じように声をかけたらしく、ジャンを連れてきた。やがて医師は神父に向かって言った。


「おはようございます、神父様。ご安心ください。私は信心はないが、教会で犯罪があったかもしれないというご不安はよくわかります。でも大丈夫です。科学は明確に言っています。伯爵夫人は心臓発作で亡くなりました」


メグレはジャン・メタイエの方へ近づいた。


「一つ聞く」


若者が不安で息が荒くなり神経質になっているのがわかった。


「ムーラン・ジャーナルに最後に行ったのはいつだ?」


「私が、ですか、ちょっと待ってください」


答えかけた。しかし警戒心が頭をもたげた。疑うような目を警部に向けた。


「なぜそんなことを?」


「どうでもいい!」


「答える義務があるんですか?」


「黙っていても構わん」


堕落した人間の顔つきとまでは言えないが、不安と苦悩に満ちた顔だった。神経質さは並外れていて、神父と話しているブシャルドンが見たら興味を持ったかもしれなかった。


「厄介ごとが私のところへ来るんでしょう!でも、私は拒否しますよ」


「わかった。拒否しろ」


「まず弁護士に会いたい。それが私の権利です。そもそもあなたは何の権限で」


「ちょっと待て。法律を勉強したのか?」


「二年!」


なんとか平静を取り戻そうと、薄笑いを浮かべようとした。


「告訴も現行犯もない。だからあなたには何の権限もない」


「満点だ」


「医師ははっきり言ってるでしょう」


「俺は言う。伯爵夫人は最低のクズに殺された。これを読め」


メグレは印刷された紙切れを差し出した。ジャン・メタイエは突然硬直し、唾を吐きかけそうな目で警部を睨んだ。

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最低のクズ……いま、最低のクズと言いましたね?そんな言い方は許しません」


すると警部は、彼の肩にそっと手を置いた。


「哀れな若造だな。俺はまだおまえのことだとは一言も言っていない。伯爵はどこにいる?とにかく読め。あとで返してもらう」


メタイエの目に、ほくそ笑むような光が浮かんだ。


「伯爵は管理人と小切手の話をしています!図書室に行けば会えます!」


神父と医者が前を歩いていた。メグレには、医者の声が聞こえた。


「いやいや、神父さま!これは人間的なことです!いたって人間的な!聖アウグスティヌスの言葉を読みあさるかわりに、生理学を少しでも学んでおられたら」

そして砂利が、四人の男たちの足もとできしんだ。彼らは寒さでいっそう白く硬くなった玄関前の石段を、ゆっくりと上っていった。

  1. フランスの|1930年代の|法律では、|不渡り小切手の|振り出しは|刑事犯罪でした。||現在の|日本でも|同様に|詐欺罪に|問われる|可能性が|あります。
    ただし|現代の|フランスでは|非犯罪化されており、|民事上の|問題として|扱われます。
    ↩︎
  2. マール酒(Marc)は|ワインを|醸造した|後に|残る|ぶどうの|搾りかす、|つまり|皮や|種や|茎を|再発酵させて|蒸留した|フランスの|蒸留酒です。||アルコール度数は|40〜50度と|高く、|荒々しく|土臭い|風味が|あり、|洗練された|酒とは|言えない|農民や|労働者の|庶民の|酒です。||イタリアの|グラッパや|フランスの|カルヴァドスと|同じ|系統です。
    この|場面で|食堂が|「ビスケットと|古い|マール酒の|匂い」に|満ちて|いるという|描写は、|ゴーティエの|暮らしが|質素で|土臭い|田舎の|管理人そのものであることを|さりげなく|示して|います。
    ↩︎
  3. ブールジュ(Bourges)は|フランス中部、|パリから|南に|約250キロの|都市です。
    中世から|続く|由緒ある|古都で、ゴシック様式の|サン=テティエンヌ大聖堂が|有名でユネスコの|世界遺産に|登録されています。
    かつては|フランス王国の|重要な|都市で|貴族や|富裕層が|多く|住んで|いました。
    「ブールジュの|なかなか|いい|家柄」という|ゴーティエの|言葉は、ジャンが|没落しては|いるが|元は|由緒ある|家の|出身だと|いうことを|示して|います。
    つまり、単なる|成り上がりの|ごろつきでは|なく|それなりの|教養と|社会的な|背景を|持つ|人物だという|ことです。
    サン=フィアクルの|舞台は|ムーランの|近郊で|ブールジュとは|比較的|近い|地域です。
    つまり|ジャンは|まったくの|よそ者では|なく|同じ|中部フランスの|出身という|ことに|なります
    ↩︎
  4. 管理人という|立場は|当時の|フランスの|大きな|領地では:
    ・農地の|管理
    ・小作人からの|小作料の|徴収
    ・領地の|収支管理
    ・使用人の|監督
    など|財務管理も|含むのが|通常でした。
    つまり|メグレの|父の|時代は|管理人が|お金も|含めて|すべてを|仕切るのが|当然だった。||それが|ジャンという|よそ者に|財務面を|奪われた|ことを|ゴーティエが|不満に|思って|いるのを、|メグレは|すぐに|見抜いた|はずです。
    だからこそ|メグレの|尋問は|鋭く|なります。||子どもの|ころから|管理人の|仕事を|身近で|見て|いた|メグレには、|ゴーティエの|言葉の|裏に|ある|不満と|プライドが|手に|取るように|わかった|はずです。
    ↩︎
  5. フォトグラビュールと|エリオグラビュールは、どちらも|1930年代に|実際に|あった|印刷技術です。
    フォトグラビュール(photogravure)は|写真を|銅版に|焼き付けて|印刷する|技術で、|非常に|精細で|美しい|仕上がりが|得られる|高級な|印刷方法です。||美術書や|高級雑誌の|写真印刷に|使われて|いました。
    エリオグラビュール(héliogravure)は|フォトグラビュールの|一種で、|太陽光を|使って|感光させる|方法です。||より|大量印刷に|向いて|おり、|新聞や|雑誌の|グラビア印刷の|原型と|なった|技術です。||日本語の|「グラビア」は|この|エリオグラビュールから|来て|います。
    この|場面での|意味は、|ジャンが|伯爵夫人に|「既存の|印刷技術より|安く|同じ品質で|印刷できる|新技術を|開発した|友人がいる」と|持ちかけて|出資させた|ということです。||典型的な|詐欺まがいの|投資話で、|ゴーティエが|呆れながら|説明して|いる|場面です。
    ↩︎
  6. 古い|百姓らしい|警戒心とは、封建制度の|時代から|農民は|領主や|役人に|搾取され続けた|歴史が|ありました。||そして、フランス革命後も|農民の|生活が|劇的に|改善された|わけでは|ありませんでした。
    フランス革命(1789年)から|この|物語の|舞台(1932年)まで|約百四十年|経って|いますが、|農村の|深いところでは|権力者への|不信感が|そのまま|生き続けて|いました。
    むしろ|革命後に|新たな|権力——警察、|司法、|税務——が|農民の|生活に|入り込んで|きた|ことで、|不信感の|対象が|増えた|とも|言えます。
    シムノンが|描く|フランスの|農村は|まさに|この|二重構造です。
    表面上は|近代化された|共和国
    しかし|内側では|何世紀も|前の|感覚が|生きて|いる
    エルネストという|十歳の|少年の|中に|その|歴史が|凝縮されて|いる|という|シムノンの|観察眼は|鋭いです。||だからこそ|メグレも|この|少年に|親しみを|感じるのかも|しれません。||メグレ自身も|農村出身で、|その|感覚を|骨の髄まで|知って|いるからです。
    ↩︎
  7. ライノタイプ(Linotype)は|1880年代に|発明された|活字自動鋳植機です。
    キーボードを|打つと|鉛合金を|溶かして|一行分の|活字を|自動的に|鋳造する|機械で、|それまでの|手作業による|一文字ずつの|活字拾いと|比べて|革命的に|速く|印刷できました。||名前の|由来は|「line of type」(一行分の|活字)から|来て|います。
    メグレは、活字の|並びの|観察から、 活字の|配列が|輪転機印刷では|なく、|手で|刷った|平台印刷だと|わかりました。||そして|裏面にも|同じ|文章が|印刷されて|いた|ことが|決定的な|証拠でした。||手で|一文字ずつ|拾う|古い|方法では|なく、|一行分|まとめて|鋳造する|ライノタイプの|特徴が|活字の|並びに|出て|いた|のです。
    ライノタイプは、1930年代には|新聞社や|大きな|印刷所にしか|置いて|いない|高価で|大型の|機械でした。||だからこそ|メグレは|この|偽記事が|ライノタイプで|印刷されて|いると|わかった|時点で、|犯人が|新聞社か|大きな|印刷所に|アクセスできる|人物だと|絞り込めたのです。
    そして|ジャンが|ムーラン・ジャーナル紙に|出入りして|いた|ことが|重要な|手がかりと|なります。||メグレが|「最後に|ムーラン・ジャーナルに|行ったのは|いつだ」と|真っ先に|聞いた|のも|そのためです。
    ↩︎