『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月29日現在未作成)
La tête d’un homme(1931)
3

どこかで|鐘が|二つ|鳴ったとき、|囚人は|寝台に|腰かけ、|節くれだった|大きな両手で|折り曲げた膝を|きつく|抱えていた。
一分ほど|じっと|動かずにいたが、|やがて|ため息をついて|突然、|手足を|伸ばし、|独房の中に|立ちあがった。||巨大で|ぶかっこうな体、|頭は|大きすぎ、|腕は|長すぎ、|胸は|くぼんでいた。

その顔には|何も|浮かんでいなかった。||ぼんやりとした|表情か、|さもなくば|人間離れした|無関心か。||それでも|のぞき穴の|閉まった|扉へ|向かう前に、|壁の一つへ向けて|こぶしを|突きだした。
その壁の|向こうには、|まったく|同じ|独房があった。||サンテ刑務所の|厳重監視棟の|独房だ。
そこでは、|他の四つの独房と|同じように、|死刑囚が|恩赦を|待つか、|あるいは|ある夜|無言で|やってきて|目を覚まさせる|厳粛な一団を|待っていた。
五日前から、|毎時間、|毎分、|隣の囚人は|うめいていた。||くぐもった|単調な声で、|あるいは|叫び声と|涙と|反抗の咆哮で。
11号は|その男を|見たことがなく、|何も|知らなかった。||せいぜい|声から|察するに、|隣の囚人は|ごく若い|男だと|わかるだけだった。
その瞬間、|うめき声は|疲れきって|機械的だった。||一方、|たった今|立ちあがったばかりの|男の目に|憎しみの|閃きが|よぎり、|骨の浮きでた|こぶしを|握りしめた。
廊下からも、|中庭からも、|運動場からも、|サンテという|この要塞全体からも、|周囲の通りからも、|パリからも、|何の物音も|聞こえてこなかった。

4

10号の|うめき声だけが|響いていた!
11号は|痙攣するように|指を|引っ張り、|二度|身震いしてから|扉を|手探りした。
独房には|明かりが|ともっていた。||厳重監視棟の|規則どおりだ。||本来なら|看守が|廊下に|立ち、|一時間ごとに|五人の|死刑囚の|のぞき窓を|開けるはずだった。
11号の両手が|極度の|苦悶から|厳粛さを|帯びた|しぐさで、|錠前を|なでた。

扉が|開いた。||看守の椅子は|そこに|あったが、|誰も|いなかった。
男は|体を|二つに|折り曲げ、|めまいに|とらわれながら、|猛烈な|速さで|歩きはじめた。||顔は|土気色の白で、|緑がかった目の|まぶただけが|赤みを|帯びていた。
三度|引き返した。||道を|間違えて|閉まった扉に|ぶつかったからだ。
廊下の|奥で|声が|聞こえた。||衛兵所で|看守たちが|煙草を|吸いながら|大声で|話していた。
やがて|男は|中庭に|出た。||闇の中に|ランプの|丸い光が|点々と|穿たれていた。||百メートル先の|通用門の前で、|歩哨が|足踏みしていた。
別の場所では|窓に|明かりが|灯り、|書類の山が|積まれた机に|かがみこんだ|パイプを|くわえた男の|姿が|見えた。

11号は|三日前に|食器の底に|貼りつけてあった|メモを|もう一度|読み返したかった。||しかし|差出人の|指示どおり、|かんで|飲み込んでしまっていた。||一時間前には|まだ|一言一句|そらんじていたのに、|今では|正確に|思い出せない|箇所が|あった。
「十月十五日、|午前二時に、|おまえの|独房の|扉が|開き、|看守は|別の場所に|いる。|以下に|示す道を|たどれば……」
男は|燃えるように|熱い手を|額に|当て、|恐怖で|光の輪を|見つめ、|足音を|聞いて|叫びそうに|なった。||しかし|それは|壁の向こう、|通りからの|音だった。

5
自由な通行人が|話しながら、|石畳に|かかとを|鳴らして|歩いていた。
「椅子一脚に|五十フランも|取るなんて、|信じられない」
女の声だった。
「まあ|いいじゃないか。|経費が|かかるんだよ」|と|男の声が|続いた。

囚人は|壁を|手探りし、|小石に|つまずいて|立ち止まり、|耳を|澄ました。||あまりに|青ざめ、|あまりに|異様で、|果てしなく|長い腕が|宙を|かいていたから、|他の場所なら|酔っぱらいと|思われたことだろう。
その一団は|見えない囚人から|五十メートルと|離れていない|窪みの中、|「経理課」と|書かれた扉の|そばに|いた。

警部メグレは|暗い煉瓦の壁に|もたれることを|潔しとしなかった。||外套の|ポケットに|両手を|突っこみ、|太い両足に|どっしりと|根を|張り、|微動だにしないその姿は|生命のない|塊のような|印象を|与えた。
しかし|規則正しい|間隔で|パイプの|くすぶる音が|聞こえた。||その視線には|消しきれない|不安が|宿っているのが|わかった。
落ち着きなく|そわそわする|予審判事コメリオの|肩を、|メグレは|十度も|押さえなければ|ならなかった。
判事は|夜会から|一時に|駆けつけたばかりで、|燕尾服姿、|細い口髭を|丁寧に|整え、|いつもより|顔色が|赤みを|帯びていた。
彼らの傍らに、|渋い顔で|上着の|襟を|立てた|サンテ刑務所長の|ガシエが|立ち、|成り行きに|無関心を|装っていた。
かなり|冷え込んでいた。||通用門そばの|看守は|足踏みし、|吐く息が|細い湯気の柱となって|空気に|漂った。
明かりを|避けて|動く囚人の姿は|見えなかった。||しかし|どれほど|物音を|立てまいと|努めても、|行き来する気配が|伝わり、|ひとつひとつの|動きが|手に取るように|わかった。
十分後、|判事が|メグレに|近づき、|口を|開こうとした。||しかし|警部が|あまりに|強く|肩を|つかんだので、|判事は|黙り、|ため息をつき、|無意識に|ポケットから|煙草を|取り出した。||それは|すかさず|取りあげられた。

6
三人には|すべて|わかっていた。||11号は|道が|見つからず、|いつ|巡回に|ぶつかっても|おかしくない。
どうすることも|できなかった!||壁の根元に|衣服の包みが|置かれ、|結び目のある縄が|垂れている|場所まで、|彼を|導くことは|できなかった。
時折|通りを|車が|通った。||時折|人々の|話し声が|して、|その声が|刑務所の中庭に|独特の|響きを|立てた。
三人は|目を|見交わすことしか|できなかった。||所長の目は|険悪で、|皮肉で、|凶暴だった。||判事コメリオは|不安と|焦りが|同時に|募るのを|感じていた。
メグレだけが|意志の力で|踏みとどまり、|信じ続けていた。||しかし|もし|明るい場所に|いたなら、|額に|汗が|光っているのが|見えたことだろう。
三十分の鐘が|鳴っても、|男は|まだ|漂流したままだった。||しかし|次の瞬間、|三人の|見張りに|同時に|衝撃が|走った。
ため息は|聞こえなかった。||感じ取ったのだ。||衣服の包みに|ようやく|行き当たり、|縄を|目にした男の|熱に浮かされたような|急ぎ足が|伝わってきた。
歩哨の|足音が|時の流れを|刻み続けていた。||判事が|小声で|思い切って|言った。

「確かですか」

メグレが|じっと|見つめると|判事は|黙った。||縄が|動いた。||壁沿いに|白っぽい|染みが|見えた。||両手の力だけで|よじ登る|11号の|顔だった。
長かった!||予想の|十倍、|二十倍も|長かった。||頂上に|たどり着いたとき、|もう|諦めたかと|思われた。||動かなくなったからだ。

今や|影絵のように|壁の上に|張りついた姿が|見えた。
めまいが|したのか。||通りへ|降りるのを|ためらったのか。||路地の隅に|身を|寄せ合った|通行人や|恋人たちが|邪魔したのか。

7

判事コメリオは|苛立って|指を|鳴らした。||所長が|小声で|言った。

「もう|私は|必要ないでしょう」
縄が|ようやく|引き上げられ、|反対側へ|垂らされた。||男は|姿を|消した。

「あなたを|こんなに|信頼していなければ、|警部、|こんな冒険に|引きずりこまれることは|なかったでしょう。||ウルタンは|やはり|有罪だと|思っていますよ。||もし|逃げられたら」

「明日|会えますか」|と|メグレは|ぶっきらぼうに|聞いた。

「十時から|執務室に|います」
二人は|無言で|握手した。||所長は|不承不承に|手を|差し出し、|立ち去りながら|聞き取れない|言葉を|ぶつぶつと|つぶやいた。
メグレは|しばらく|壁の|そばに|残り、|誰かが|全力で|走り去る足音を|聞いてから|通用門へ|向かった。||係員に|手を|振って|挨拶し、|がらんとした通りを|一瞥して、|ジャン=ドラン通り1の|角を|曲がった。


「行ったか」|と|壁に|張りついた|人影に|向かって|聞いた。
「アラゴ大通り2の方へ。||デュフォールと|ジャンヴィエが|尾行しています」

「帰って|寝ろ」
メグレは|うわの空で|刑事と|握手し、|重い足取りで|頭を|垂れながら|パイプに|火を|つけて|立ち去った。
午前四時、|彼は|オルフェーヴル河岸の|自分の|執務室の扉を|押した。||ため息をつきながら|外套を|脱ぎ、|書類の山の中に|放置されていた|ぬるいビールを|半分|飲み干し、|肘掛け椅子に|どっかりと|腰を|落とした。
目の前に|書類を|ぱんぱんに|詰めた|黄色い封筒があり、|司法警察の|書記が|丸みを|帯びた|美しい字で|こう|書いていた。

ウルタン事件
待つこと|三時間。||笠のない|電球が|煙の雲に|包まれ、|空気が|少し|動くたびに|煙が|たなびいた。||メグレは|時折|立ちあがって|ストーブを|かき混ぜ、|また|席に|戻った。||そのたびに|上着を|脱ぎ、|次に|硬い襟を|外し、|最後に|チョッキを|脱いだ。
8
電話機は|手の届く|場所に|あった。||六時ごろ、|市外線に|つながれているか|確かめるために|受話器を|取った。
黄色い封筒が|開かれていた。||報告書、|新聞の切り抜き、|調書、|写真が|机の上に|散らばり、|メグレは|遠くから|眺め、|時折|一枚を|手元に|引き寄せた。||読むためではなく、|思考を|固めるためだった。

全体を|支配していたのは、|新聞の|二段抜きの|雄弁な|見出しだった。
ジョゼフ・ウルタン、|ヘンダーソン夫人と|その女中を|殺害した|犯人、|今朝|死刑判決を|受ける
メグレは|休みなく|煙草を|吸い、|頑として|黙りこくる|電話機を|不安そうに|見つめた。
六時十分、|呼び出し音が|鳴ったが、|間違い電話だった。
席から|警部は|様々な|書類の|一節を|読むことが|できた。||もっとも|すべて|そらんじていたが。
ジョゼフ・ジャン=マリー・ウルタン、|ムランに生まれ、|二十七歳、|セーヴル通りの|花屋|ジェラルディエ氏の|もとで|配達人として|勤務
一年前に|ヌイイの|縁日の|写真館で|撮られた|写真が|あった。||腕が|異様に|長く、|三角形の頭、|色あせた顔色、|悪趣味な|洒落っ気が|にじむ|服装の|大柄な|男だった。
サン=クルーで|凄惨な|事件、|裕福な|アメリカ人女性と|女中が|刺される
それは|七月の|出来事だった。

メグレは|司法身元確認局の|不気味な|写真を|脇へ|やった。||あらゆる角度から|撮られた|二つの遺体、|至る所に|血、|歪んだ顔、|乱れ、|汚れ、|切り裂かれた|寝間着姿だった。
司法警察の|メグレ警部、|サン=クルーの|事件を|解決。||犯人は|収監された
目の前に|広げられた書類を|かき混ぜ、|わずか|十日前の|新聞の切り抜きを|見つけた。||
ジョゼフ・ウルタン、|ヘンダーソン夫人と|その女中を|殺害した|犯人、|今朝|死刑判決を|受ける

9

警視庁の|中庭では、|護送車が|一夜の|収穫を|吐き出していた。||大半は|女たちだった。||廊下から|足音が|聞こえはじめ、|セーヌ川の|上の|霧が|晴れていった。
電話の|呼び出し音が|鳴り響いた。

「もしもし、|デュフォールか?」

「私です、|警部」

「どうだ?」

「何も。||つまり、|よろしければ|私が|そちらへ|行きます。||今のところ|ジャンヴィエで|十分です」

「どこにいる?」

「シタンゲット3に」

「何だと?||どこだって?」

「イシ=レ=ムリノー4近くの|ビストロです。||タクシーで|飛んで行って|ご報告します」
メグレは|部屋の中を|行ったり来たりし、|給仕に|ドーフィーヌ・ブラッスリーで|コーヒーと|クロワッサンを|頼むよう|命じた。
食べはじめたころ、|刑事デュフォールが|入ってきた。||小柄で|こざっぱりとした|グレーのスーツに、|非常に|高くて|硬い|付け襟をして、|いつもの|神秘めかした|様子だった。


「まず、|シタンゲットとは|何だ?」|と|メグレは|ぼそりと|言った。
「座れ」

「グルネル5と|イシ=レ=ムリノーの間の、|セーヌ川沿いの|船頭相手の|ビストロです」

「まっすぐ|そこへ|行ったのか?」

「とんでもない!||ジャンヴィエと|私が|まかれなかったのが|奇跡です」

「朝飯は|食ったか?」

「シタンゲットで|食いました」

「では|話せ」

「出て行くのを|見ていましたよね?||まず|走りだしました。||捕まることを|ひどく|恐れているようでした。||ベルフォールの|ライオン像6の|ところで|ようやく|少し|落ち着いたようで、|呆然とした|様子で|眺めていました」


「尾行に|気づいていたか?」

「絶対に。||一度も|振り返りませんでした」

「それから?」
10

「目の見えない人か、|パリを|一度も|歩いたことの|ない人でも、|同じような|行動を|したと|思います。||突然、|モンパルナス墓地を|横切る|通りに|入りました。||名前は|忘れましたが。||人っ子一人|いませんでした。||陰気でした。||自分が|どこにいるか|わからなかったのでしょう。||鉄柵越しに|墓石が|見えると、|また|走りだしました」


「続けろ」
メグレは|口をもぐもぐさせながら、|より|落ち着いた|様子だった。

「モンパルナスに|着きました。||大きなカフェは|閉まっていました。||でも|まだ|開いている|店が|ありました。||ジャズが|外まで|聞こえる|一軒の前で|立ち止まりました。||花籠を|持った|小さな|売り子が|近づいてくると、|また|歩きだしました」


「どの方向に?」

「どこともなく、|と|いった感じです。||ラスパイユ大通り7を|歩き、|横道から|引き返して、|またモンパルナス駅の|前に|出ました」

「どんな様子だった?」

「様子なし、|です。||予審のときと|同じ、|重罪院のときと|同じ。||真っ青で、|ぼんやりとした|怯えた|目つきで。||何とも|言えません。||三十分後には|オ・アール8に|いました」

「誰も|声を|かけなかったか?」

「誰も」

「郵便ポストに|手紙を|入れなかったか?」

「誓います、|警部!||ジャンヴィエが|片側の歩道を、|私が|もう一方を。||一挙一動|見逃しませんでした。||そうそう、|焼きソーセージと|フライドポテトを|売る|屋台の前で|一瞬|立ち止まりました。||迷ってから|また|歩きだしました。||制服の|警官が|見えたからかも|しれません」

「何かの|住所を|探しているようには|見えなかったか?」

「まったく。||神様の|思し召しのままに|さまよう|酔っぱらいの|ようでした。||コンコルド広場で|セーヌ川に|出ました。||そこから|川沿いを|歩こうと|決めたようで。||二、三度|腰を|下ろしました」


「どこに?」
11

「一度は|石の欄干に。||別の時は|ベンチに。||断言は|できませんが、|このときは|泣いていたと|思います。||とにかく|頭を|両手に|うずめていました」

「ベンチに|誰かいたか?」

「誰も。||また|歩きました。||ムリノーまでの|道のりを|想像してみてください!||時々|立ち止まって|水を|眺めました。||タグボートが|動きはじめました。||それから|工場労働者たちが|通りに|あふれてきました。||それでも|歩き続けました。||これから|何を|するか|まったく|わからない人のように」

「それで|全部か?」

「ほぼ。||待ってください。||ミラボー橋9で|無意識に|ポケットに|手を|入れて、|何かを|取り出しました」


「十フラン札だな」

「ジャンヴィエと|私も|そう|見えました。||それから|周りを|見回しました。||きっと|ビストロを|探したのでしょう。||しかし|右岸には|開いている店が|なかった。||川を|渡りました。||運転手で|いっぱいの|小さなバーで|コーヒーと|ラム酒を|飲みました」

「シタンゲットか?」

「まだです。||ジャンヴィエと|私は|足が|くたくたでした。||それに|私たちは|温まるために|何も|飲めないのですよ。||また|歩きだしました。||あちこちと|うろつきました。||ジャンヴィエが|通りを|全部|メモしているので、|詳しい|報告書を|出します。||やっと|大きな|工場の|近くの|埠頭に|戻りました。||あのあたりは|荒野のようです。
古い|資材の山の間に|茂みと|田舎のような|草地が|あります。||クレーンの|そばに|二十隻ほどの|はしけが|係留されています。

シタンゲットは|こんなところに|あるとは|思えない|宿屋です。||食事も|出す|小さなビストロで、|右手には|自動ピアノの|ある|倉庫が|あり、|「土曜・日曜|ダンスパーティー」と|書かれた|立て札が|あります。
男は|また|コーヒーと|ラム酒を|飲みました。||長い間|待たされてから|ソーセージが|出てきました。||主人と|話して、|十五分後に|二人で|二階へ|消えるのが|見えました。

12

主人が|戻ってきたとき、|私は|中に|入りました。||部屋を|貸しているか|単刀直入に|聞きました。||主人は|こう|聞いてきました。
『なぜです?||あの人、|問題が|ありますか?』
警察と|やり取りに|慣れている|タイプです。||策を|弄するより、|脅した方が|早いと|思いました。||客に|一言でも|しゃべったら|店を|閉めさせると|告げました。
あの客を|知らないようです。||確かです。||あの店の|常連は|船頭たちで、|昼ごろには|近くの|工場の|労働者が|食前酒を|飲みに|来ます。
ウルタンは|部屋に|入るなり、|靴も|脱がずに|ベッドに|倒れこんだそうです。||主人が|注意すると、|靴を|床に|投げて、|すぐ|眠りこんだとのことです」

「ジャンヴィエは|そこに|いるか?」|と|メグレが|聞いた。

「います。||電話できます。||船頭たちが|船主と|連絡する|必要が|あるので、|シタンゲットには|電話が|あります」

警部は|受話器を|取った。||少しして|ジャンヴィエが|電話口に|出た。

「もしもし、|あの男は?」

「寝ています」


「不審な|人物は?」

「何も。||静かなものです。||階段から|いびきが|聞こえます」
メグレは|受話器を|置き、|デュフォールの|小柄な|体を|つま先から|頭まで|眺めた。

「見張りを|続けられるか?」|と|聞いた。
刑事が|口を開きかけた。||しかし|警部は|肩に|手を|置き、|より|重い声で|続けた。


「いいか、|兄弟。||できる限り|やってくれると|わかっている。||しかし|俺の首が|かかっているんだ。||それだけじゃない。||俺が|自分で|行けないのは、|あいつが|俺を|知っているからだ」

「誓います、|警部」

「誓うな。||行け」
メグレは|ぶっきらぼうな|しぐさで|書類を|黄色い封筒に|押しこみ、|引き出しの中に|しまった。
13

「それから、|人手が|必要なら|遠慮なく|頼め」
ジョゼフ・ウルタンの|写真が|机の上に|残っていた。||メグレは|しばらく|その骨張った顔、|出っ張った耳、|色のない|長い唇を|見つめた。
三人の|法医学者が|男を|診察していた。||二人は|こう|述べた。
『知能は|平均以下。||完全な|責任能力あり』
弁護側が|呼んだ|三人目は|おずおずと|こう|述べた
『不明瞭な|隔世遺伝。||限定的な|責任能力』
そして|ジョゼフ・ウルタンを|逮捕した|メグレは、|パリ警視総監、|検事総長、|予審判事に|こう|断言していた。


「こいつは|狂人か、|さもなければ|無実だ」
そして|それを|証明してみせると|請け合っていた。
廊下から|ぴょんぴょんと|跳ねながら|遠ざかる|デュフォール刑事の|足音が|聞こえた。
14
15
- ジャン=ドラン通りとはサンテ刑務所に|隣接する|実在の通りです。
パリ14区に|ある|短い通りで、|サンテ刑務所の|外壁に|沿って|走っています。||刑務所の|処刑場への|入口が|かつて|この通りに|面していたことから、|死刑囚や|刑務所と|深く|結びついた|場所として|知られています。
シムノンが|この通りを|具体的に|名指ししたのは、|読者に|リアルな|パリの|地理感覚を|与えるためです。||メグレシリーズは|パリの|実在の|地名を|多用することで|知られています。
↩︎ - アラゴ大通りも|パリの|実在の大通りです。
パリ14区に|ある|大通りで、|サンテ刑務所の|すぐ|そばを|通っています。||ジャン=ドラン通りから|ほんの|数十メートルの|距離です。||
つまり|ウルタンが|刑務所の壁を|乗り越えて|逃げた後、|まず|向かったのが|この|アラゴ大通りだったということです。||デュフォールと|ジャンヴィエが|その方向へ|尾行していると|報告しています。
地理的に|見ると、|サンテ刑務所・ジャン=ドラン通り・アラゴ大通りは|すべて|ほぼ|同じ|エリアに|集まっており、|シムノンが|いかに|正確に|パリの|地理を|描写しているかが|わかります。
↩︎ - シタンゲット(La Citanguette)は、セーヌ川沿いの|小さな|ビストロ(居酒屋兼食堂)です。
・グルネルと|イシ=レ=ムリノーの間に|位置する
・船頭や|水夫たちが|客の|常連店
・土曜、日曜には|隣の|倉庫で|ダンスパーティーが|開かれる
・周辺は|工場地帯で|人通りが|少ない|寂れた|場所
実在の|店かどうかは|不明ですが、|シムノンが|好んで|描く|パリの|庶民的で|薄暗い|場末の|雰囲気を|持つ|場所です。||ウルタンが|脱獄後に|たどり着いた|隠れ家として|機能しています。
↩︎ - Issy-les-Moulineaux(イシ=レ=ムリノー)は、パリの南西に隣接する自治体で、パリ15区のすぐ外側、セーヌ川に面しています。1930年代当時は工場や倉庫が立ち並ぶ労働者階級の工業地帯で、船の往来が盛んな埠頭もありました。パリの中心部から離れた薄暗い場末のエリアで、ウルタンのような逃亡者が身を隠すのに都合のよい場所としてシムノンが選んでいます。現在は再開発が進み、メディア企業などが集まる近代的な都市に変貌しています。
↩︎ - グルネルは、パリ15区に|ある|地区の名前です。||セーヌ川に|面した|エリアで、|イシ=レ=ムリノーの|すぐ|北側に|位置します。||1930年代当時は|同じく|工場や|倉庫が|集まる|労働者階級の|工業地帯で、|セーヌ川沿いに|多くの|船着き場や|埠頭が|ありました。||つまりシタンゲットは|グルネルと|イシ=レ=ムリノーの|ちょうど|境目あたり、|セーヌ川沿いの|人目につかない|場末に|あった|ということです。
グルネルとイシ=レ=ムリノーは|セーヌ川沿いに|隣り合った|エリアで、|どちらも|当時の|パリの|外れの|工業地帯という|同じ|性格を|持っています。 ↩︎ - ベルフォールのライオン像は、パリ14区の|ダンフェール=ロシュロー広場に|ある|巨大な|石造りのライオン像です。||1880年に|彫刻家バルトルディによって|制作されました。||バルトルディは|ニューヨークの|自由の女神像を|制作したことでも|知られています。||
このライオン像は|1870〜71年の|普仏戦争で|プロイセン軍に|包囲されながらも|英雄的に|戦い抜いた|ベルフォール要塞の|守備隊を|記念して|作られました。||
物語の文脈では、|サンテ刑務所から|脱獄した|ウルタンが|暗闇の中を|逃げ回り、|ふと|目の前に|この|巨大なライオン像が|現れて|呆然と|見上げた|場面です。||サンテ刑務所から|ダンフェール=ロシュロー広場まで|徒歩で|数分の|距離にあり、|地理的に|非常に|自然な|描写です。 ↩︎ - ラスパイユ大通りは、パリの|左岸を|南北に|走る|実在の|大通りです。||モンパルナス駅の|近くを|通り、|モンパルナス界隈の|中心的な|通りの|一つです。||
1930年代当時は|モンパルナスが|芸術家や|文人たちの|集まる|bohèmeな|雰囲気で|知られており、|ラスパイユ大通り沿いにも|カフェや|バーが|立ち並んでいました。||ピカソや|ヘミングウェイ、|モディリアーニなども|この界隈を|よく|歩いたと|言われています。||
物語の文脈では、|ウルタンが|方向感覚を|失ったまま|この大通りを|歩き、|横道から|引き返して|またモンパルナス駅の前に|出てしまう|場面で|登場します。||目的地も|なく|さまよう|ウルタンの|混乱した|心理を|よく|表しています。
↩︎ - オ・アールとは、パリの|中心部に|かつて|存在した|巨大な|中央市場です。||正式名称は|「レ・アール(Les Halles)」で、|「パリの|胃袋」と|呼ばれていました。||
1930年代当時は|深夜から|早朝にかけて|野菜、|果物、|魚、|肉などの|食料品が|全国から|集まり、|市場関係者や|労働者、|夜遊びを|終えた|人々が|混在する|独特の|活気が|ありました。||深夜でも|営業している|ビストロや|バーが|多く、|パリの|夜の|名所でも|ありました。
物語の文脈では、|ウルタンが|脱獄後に|あてもなく|さまよい|続けた|末に|たどり着いた|場所です。||サンテ刑務所から|モンパルナスを|経て|オ・アールまで|歩くのは|かなりの|距離で、|ウルタンが|いかに|長時間|パリの|街を|さまよったかが|わかります。||
現在は|取り壊されて|ショッピングセンター|「フォーラム・デ・アール」に|生まれ変わっています。
↩︎ - ミラボー橋は、パリを|流れる|セーヌ川に|架かる|実在の橋です。||パリ15区と|16区の|境界に|位置し、|イシ=レ=ムリノーの|すぐ|北側に|あります。||ウルタンが|サンテ刑務所から|逃げ出して|セーヌ川沿いを|ひたすら|歩き続けた|末に|たどり着いた|場所で、|地理的に|非常に|自然な|流れです。
この橋は|フランスの|詩人|ギヨーム・アポリネールの|有名な詩|「ミラボー橋」(1912年)で|広く|知られています。||「ミラボー橋の下を|セーヌが流れ|われらの恋も|流れ去る」という|冒頭が|有名で、|橋自体が|哀愁と|郷愁の|象徴として|フランス文化に|深く|根付いています。||シムノンが|この橋を|選んだのも|偶然では|ないかもしれません。
↩︎


