サン・フィアクル殺人事件|第三章 ミサの少年

サン・フィアクル殺人事件

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月10日現在)

24


景色を|歪めて見せる|太陽も|なく、|輪郭を|ぼかす|どんよりした|空も|なかった。||すべてが|残酷なまでの|鮮明さで|切り取られていた。||木の|幹、|枯れ枝、|小石、|そして|とりわけ|墓地に|集まった|人々の|黒い|衣服。||白いものは|逆に、|墓石や|糊の|きいた|胸当て、|老女たちの|ボンネットが、|非現実的な|不穏な|輝きを|帯びて|いた。||白すぎる|白が|浮き上がり、|場違いに|際立っていた。

頬を|切るような|乾いた|北風が|なければ、|うっすら|埃を|かぶった|ガラスの|鐘の|中に|いるような|気が|したことだろう。


「また|後で|会おう!」


メグレは|墓地の|門の|前で|サン・フィアクル伯爵と|別れた。||老女が|持参した|小さな|腰掛けに|座り、|オレンジと|チョコレートを|売ろうとして|いた。

オレンジだ!||大粒で、|まだ|熟していなくて、|しかも|冷え切っている。||歯が|浮くようで、|喉を|ひりひりさせる|味だった。||それでも|十歳の|ころの|メグレは|夢中で|かじった。||オレンジだから。

メグレは|外套の|ビロードの|襟を|立てた。||誰にも|目を|向けず、|左に|曲がり、|糸杉から|三番目の|墓が|目指す|場所だと|わかっていた。

あたり一面、|墓地は|花で|飾られて|いた。||前日、|女たちが|ブラシと|石鹸で|墓石を|洗い、|柵が|塗り直されていた。


『ここに眠る|<エヴァリスト・メグレ>』


「失礼、|ここでは|煙草は|ご遠慮ください」


警部は|声を|かけられた|ことに|ほとんど|気づかなかった。|||鐘突き係だった。||彼はは|墓地の管理人も|兼ねているのだ。||メグレは|その男を|じっと見つめ、|火のついたままの|パイプを|ポケットに|押し込んだ。

25


思い出が|次々と|押し寄せた。||父の|こと、|ノートルダムの|池で|溺れた|友達の|こと、|立派な|乳母車に|乗った|城の|子どものこと。

人々が|メグレを|見た。||メグレも|見返した。||見覚えのある|顔ばかりだった。||しかし|あのとき、|たとえば|今|子どもを|抱いて|妊婦を|連れている|あの男は、|四、五歳の|やんちゃ坊主だった。

メグレは|花を|持って|いなかった。||墓は|くすんで|いた。||不機嫌な|顔で|墓地を|出ながら、|ひとりごとを|呟いた。||近くの|一団が|振り返るほどの|声だった。


「まず|ミサ典書を|見つけなければ」


城に|戻る気には|なれなかった。||あそこには|何か|胸の|むかつく|もの、|腹立たしい|ものが|あった。

人間に|幻想を|抱いたことは|なかった。||しかし|子どものころの|思い出を|汚されるのは|我慢が|ならなかった。||とりわけ|伯爵夫人は、|絵本の|中の|人物のように|気高く|美しい|存在として|ずっと|心にあった。

それが|今や、|若いツバメを|囲う|老いた|物好きだったとは。||いや、|それさえも|あからさまで|ない|やり方で。||あの|ジャンは|秘書を|演じて|いた。||美男でも|なく、|さほど|若くも|なかった。

そして|息子の|言う|「かわいそうな|母」は、|城と|教会の|間で|引き裂かれて|いた。

そして|サン・フィアクル家|最後の|伯爵は、|不渡り小切手を|振り出したとして|逮捕されることに|なるのだ。1

前を歩く|男がいた。||肩に|猟銃を|担いで|いる。||メグレは|ふと、|その男が|管理人の|家に|向かって|いると|気づいた。||野原で|遠くから|見た|あの|人影だと|思った。

二人の|間は|数メートル。||中庭に|入ると、|何羽かの|鶏が|風を|避けて|壁に|寄り添い、|羽を|震わせて|いた。


「おい!」


猟銃の|男が|振り返った。


「サン・フィアクルの|管理人か?」


「あなたは?」


「司法警察の|メグレ警部だ」


「メグレ?」


管理人は|その名前に|はっとしたが、|記憶を|はっきり|たぐり寄せることが|できなかった。

26


「話は|聞いているか?」


「今|聞いたところです。||狩りに|出ていたもので。||しかし|警察が|何の用で?」


小柄で|がっしりした|体格の|男で、|髪は|白髪交じり、|皮膚には|細かく|深い|皺が|刻まれ、|濃い|眉の下から|目が|窺うように|光って|いた。


「心臓が|止まったと|聞きましたが」


「どこへ|行く?」


「泥だらけの|長靴と|猟銃を|持ったまま|城には|入れません」


袋から|兎の頭が|垂れていた。||メグレは|向かっている|管理人の家を|眺めた。


「ほう、|台所が|変わっている」


疑うような|目が|メグレに|向いた。


「もう|十五年に|なりますよ」と|管理人は|ぼそりと言った。


「名前は?」


「ゴーティエです。||伯爵が|知らせも|なく|到着されたというのは|本当で?」


すべてが|歯切れ|悪く、|ぼかした|言い方だった。||ゴーティエは|メグレを|家に|招き入れようとせず、|自分だけ|扉を|押して|入った。

それでも|メグレは|構わず|中に入り、|右手の|食堂へ|向かった。||ビスケットと|古い|マール酒2の|匂いが|した。


「少し|来てくれ、|ゴーティエ。||あっちは|あなたが|いなくても|大丈夫だ。||それに|こっちは、|いくつか|聞きたいことが|ある」


「早く!」


台所から|女の|声が|した。


「ひどいことらしいわよ」


メグレは|ライオンの|彫刻が|施された|角を|持つ|樫の|テーブルを|手で|触れた。||自分が|子どもの|ころと|同じ|テーブルだ。||先代が|亡くなった|ときに|新しい|管理人に|売られた|ものだった。


「何か|一杯|いかがですか?」


ゴーティエは|食器棚から|瓶を|選んだ。||時間を|稼いでいるのかも|しれなかった。


「あの|ジャンを|どう思う?||ところで、|苗字は|何という?」


「メタイエです。||ブールジュ3の|なかなか|いい|家柄で」


「伯爵夫人に|金が|かかったのか?」


ゴーティエは|グラスに|ブランデーを|注ぎながら、|頑なに|黙って|いた。


「城で|彼は|何をしていた?||管理人として、|あなたが|すべてを|取りしきって|いるのだろう4


「すべてです!」

27


「それで?」


「彼は|何も|していませんでした。||個人的な|手紙を|少し|書くぐらいで。||最初は|金融の|知識で|伯爵夫人の|財産を|増やすと|言っていました。||有価証券を|買いましたが、|数ヶ月で|暴落して。||それでも|友人が|発明した|新しい|写真技術で|全部|取り戻すと|言い張り、|伯爵夫人は|十万フランほど|つぎ込みましたが、|友人は|姿を|消しました。||最後は|写真版の|複製とかいう|話で。||私には|よく|わかりませんが、|フォトグラビュールか|エリオグラビュールの|ようなもので、|もっと|安くできると|言っていました5


「忙しかった|わけだ」


「動き回っては|いましたが、|何も|成果は|ない。||ムーラン・ジャーナル紙に|記事を|書いて|いましたが、|伯爵夫人の|手前、|断れなかったようです。||そこで|写真版の|試作も|やって|いて、|編集長も|追い出せずに|困って|いました。||乾杯!」


そして|急に|不安そうな|顔で:


「伯爵と|何か|もめごとは|ありませんでしたか?」


「ない」


「あなたが|ここに|いるのは|偶然でしょう。||心臓の|病気なら|警察が|来る|理由も|ないはずで」


困ったことに|ゴーティエと|目が|合わなかった。||口髭を|拭い、|隣の|部屋へ|入って|いった。

「着替えても|いいですか?||大ミサに|行くつもりで|いたのに、|今となっては」


「また|後で」


扉を|閉める前に、|姿を|見せなかった|女が|尋ねる声が|聞こえた:

「誰だったの?」


中庭には|砂岩の|石畳が|敷かれていた。||かつて|メグレが|土の|地面で|ビー玉を|転がして|遊んだ|場所だった。

礼拝用の服を|着た|人々が|広場を|埋め|尽くし、|教会から|オルガンの|音が|漏れてきた。||新しい服を|着た|子どもたちは|遊ぶのを|遠慮していた。||あちこちで|ハンカチが|ポケットから|出てきた。||鼻が|赤く、|賑やかに|かんで|いた。

会話の|断片が|メグレの|耳に|届いた。


「パリから|来た|刑事が|いるぞ」

28


「先週|マチューの|ところで|牛が|死んだから|来たらしいな」


紺の|サージの|上着の|ボタン穴に|赤い|花を|挿した、|ひどく|得意げな|若者が|いた。||顔は|きれいに|洗われ、|髪は|整髪料で|光っていた。||その若者が|思いきって|警部に|声を|かけた。


「タタンの|ところで|待ってますよ。|盗みをした|小僧のことで」


そして|彼は|仲間たちを|肘で|つつき、|顔を|そむけながらも|こらえきれずに|笑いを|もらしていた。

彼が|作り話を|したわけでは|なかった。||マリー・タタンの|店では、|いまや|空気が|さらに|暖かく、|さらに|重く|なっていた。||パイプが|何本も|何本も|吸われていた。||一つの|テーブルでは、|農家の|一家が|農場から|持ってきた|食べものを|食べ、|大きな|椀で|コーヒーを|飲んでいた。||父親は|ポケットナイフで|乾いた|ソーセージを|切っていた。

若者たちは|レモネードを|飲み、|年寄りたちは|マール酒を|飲んでいた。||そして|マリー・タタンは|休む間もなく|小走りに|動きまわっていた。

片隅で、|警部が|入ってくると、|一人の|女が|立ちあがり、|取り乱し、|ためらいながら、|濡れた|唇で|一歩|彼の|ほうへ|進み出た。||女は|一人の|少年の|肩に|手を|置いていた。||その少年の|赤毛を|見て、|メグレは|見覚えが|あると|思った。


「警部さんですか?」


みなが|そちらを|見ていた。


「まず|申しあげておきたいんです、|警部さん。|うちは|昔から|ずっと|まじめに|やってきました。||それでも|貧乏なんです。||おわかりでしょう?||エルネストが|あんなことを|するとは|思わなくて」」


少年は|真っ青な|顔で、|まっすぐ|前を|見つめていた。||少しの|感情も|表に|出していなかった。


「ミサ典書を|取ったのは|お前か?」と|メグレは|身をかがめて|聞いた。


返事が|なかった。||鋭く|荒々しい|目が|返ってきただけだった。


「警部さんに|返事を|しなさい」


少年は|口を|開かなかった。||あっという間だった。||母親が|平手打ちを|食らわせ、|左の|頬に|赤い|跡が|残った。||頭が|しばらく|揺れた。||目が|少し|潤み、|唇が|震えたが、|動かなかった。


「返事を|しなさい、|この|親不孝者!」


そして|メグレに言った。


「今どきの|子どもは|これです!||何か月も|前から、|ミサ典書を|買ってくれって|泣いていたんです。||司祭さまの|持っているような|大きな|やつを!||そんなことが|できますか?||だから、|伯爵夫人の|ミサ典書の|話を|聞いたとき、|私は|すぐに|思ったんです。||それに、|第二の|ミサと|第三の|ミサの|あいだに|この子が|帰ってきたのも|変だと|思いました。||いつもなら|司祭館で|食事を|するんですから。||それで|部屋へ|行って、|これを|マットレスの|下で|見つけたんです」

29


母親の|手が|もう一度|子どもの|頬を|打った。||少年は|避けようとも|しなかった。


「この子の|年ごろには、|あたしなんか|字も|読めなかった!||たとえ|読めたとしても、|本を|盗むような|悪さは|しなかったけどね」


宿の|中に|静かな|空気が|漂って|いた。||メグレは|ミサ典書を|手に|持っていた。


「ありがとうございます」


早く|調べたかった。||奥へ|向かうふりをした。


「警部さん」


女が|呼び止めた。||戸惑った|様子だった。


「お礼が|あると|聞いて|いたのですが。||エルネストが|したことだから|というわけでは|なくて」


メグレは|二十フランを|渡した。||女は|丁寧に|財布に|しまった。||それから|息子を|叱りながら|扉の|方へ|引っ張っていった。


「この|牢屋行きの|ろくでなし、|家に|帰ったら|わかっているね」


メグレの|目と|少年の|目が|合った。||ほんの|数秒の|ことだった。||それでも|二人は|互いに|わかった。||友達だと。

もしかすると|それは、|かつて|メグレ自身も|金の|縁取りの|ミサ典書を|欲しくて|たまらなかった|からかも|しれなかった。||ついに|手に|入れる|ことは|なかったが、|ミサの|通常文だけでなく|すべての|典礼文が|ラテン語と|フランス語の|二段組で|収められた|あの|典書を。


「昼食は|何時に|戻りますか?」


「わからない」


メグレは|部屋に|上がって|典書を|調べようかと|思ったが、|隙間風が|吹き抜ける|屋根のことを|思い出し、|街道に|出ることにした。

城へ|向かって|ゆっくりと|歩きながら、|サン・フィアクル家の|紋章が|入った|装丁の|本を|開いた。||いや、|開いた|のでは|なかった。||典書が|ひとりでに|開いた。||二枚の|ページの間に|紙が|挟まれていた。

二百二十一ページ。||聖体拝領後の|祈り。

挟まっていたのは|乱暴に|切り取られた|新聞の|切れ端で、|一目見ただけで|妙な|感じがした。||印刷が|ひどく|粗かった。

30


パリ、|十一月一日。||今朝、|ミロメニル通りの|アパルトマンで、|劇的な|自殺事件が|起きた。||その部屋は、|サン・フィアクル伯爵と、|その愛人である|ロシア人女性、|マリー・Sが、|数年来|住んでいた|場所である。

伯爵は、|家族の|ある者が|引き起こした|スキャンダルを|恥じていると、|愛人に|告げたあと、|ブローニング拳銃で|自分の|頭を|撃ち、|意識を|取り戻すことなく、|数分後に|死亡した。

われわれの|知るところでは、|これは|きわめて|痛ましい|家庭内の|悲劇であり、|上に|述べた|人物とは、|ほかならぬ|この|自殺した|男の|母親である。

道を|うろついていた|一羽の|ガチョウが、|怒りで|大きく|開いた|くちばしを、|メグレの|ほうへ|突き出していた。||鐘は|一斉に|鳴り響き、|人々は|足踏みするように|ゆっくりと、|小さな|教会から|出てきていた。||そこからは、|お香と、|吹き消された|蝋燭の|匂いが|流れ出していた。

メグレは、|分厚すぎて|外套の|形を|ゆがめている|ミサ典書を、|外套の|ポケットへ|押し込んでいた。||彼は|立ち止まり、|その恐ろしい|紙切れを|調べていた。

犯罪の|凶器!||縦七センチ、|横五センチほどの|新聞の|切れ端!

サン・フィアクル伯爵夫人は|第一ミサへ|行き、|二世紀に|わたって|一族の|者たちのために|取っておかれた|聖職者席に|ひざまずいた。

夫人は|聖体拝領を|受けた。||それは|予定されていた。||そして|拝領後の|祈りを|読むために、|ミサ典書を|開いた。

凶器は|そこに|あった!||メグレは|紙切れを|あらゆる|向きに|ひっくり返した。||そこには|どこか|あやしげな|ところが|あった。||彼は|とくに|文字の|並びを|観察し、|本物の|新聞の|場合のように、|輪転機で|刷られたものではないと|確信した。

それは|単なる|校正刷りだった。||台の上で|手で|刷られたものだった。||その証拠に、|紙の|裏側にも、|まったく|同じ|文章が|載っていた。

手の込んだ|細工をする|手間を|かけなかったのか、|それとも|その時間が|なかったのか。||それに、|伯爵夫人が|その紙を|裏返そうと|思いついただろうか。||その前に、|衝撃、|憤り、|恥辱、|不安で、|死んでしまったのではないか。

メグレの|顔つきは|恐ろしかった。||これほど|卑劣で、|しかも|これほど|巧妙な|犯罪を、|彼は|見たことが|なかったからだ。

しかも|犯人は、|警察に|知らせることまで|考えついていた!

31


仮に|ミサ典書が|見つからなかったとしたら。

そうだ!||それだった!||ミサ典書は|見つかっては|ならなかったのだ!||そうなれば、|犯罪だと|言うことも、|誰かを|告発することも|不可能だった!||伯爵夫人は|心臓が|突然|止まって|死んだことに|なる!

彼は|突然|引き返した。||マリー・タタンの|店に|着くと、|みなが|彼と|ミサ典書の|話を|していた。


「エルネストの|家を|知っているか?」


「大通りの、|食料品店から|三軒|先です」


彼は|そこへ|駆けつけた。||平屋の|粗末な家だった。||食器棚の|両側の|壁には、|父親と|母親の|引き伸ばし写真が|掛かっていた。||女は|もう|よそ行きを|脱ぎ、|牛肉の|ローストの|匂いがする|台所に|いた。


「息子は|ここに|いないのか?」


「着替えています。||日曜の|服を|汚すことは|ありませんから。||あたしが|どれだけ|叱ったか、|ご覧に|なったでしょう!||いい|手本ばかり|見て|育っている|息子なのに」


女は|扉を|開け、|叫んだ。


「こっちへ|おいで、|悪ガキ!」


すると|下着姿の|少年が、|隠れようとしているのが|見えた。


「着替えさせてやれ」と|メグレは|言った。||「あとで|話す」


女は|昼食の|支度を|続けた。||夫は|マリー・タタンの|店で|食前酒を|飲んでいるのだろう。

ようやく|扉が|開き、|エルネストが|入ってきた。||人目を|避けるような|顔つきで、|ふだん着を|着ていたが、|ズボンは|長すぎた。


「一緒に|散歩に|来い」


「よろしいんですか?」と|女は|声を|あげた。||「それなら、|エルネスト、|早く|よそ行きを|着ておいで」


「その必要は|ない、|奥さん。||来い、|坊主」


通りは|人気が|なかった。||村の|生活は|すべて、|広場と、|墓地と、|マリー・タタンの|店に|集まっていた。


「明日、|もっと|大きな|ミサ典書を|おまえに|贈ってやる。||各節の|頭文字が|赤く|刷ってある|やつだ」


少年は|それを|聞いて|驚いた。||つまり、|警部は、|祭壇に|置かれている|あの本のように、|赤い|飾り文字の|入った|ミサ典書が|あることを|知っているのだ。


「ただし、|あのミサ典書を|どこで|取ったのか、|正直に|言うんだ。||叱りはしない」


少年の中に、|古い|百姓らしい|警戒心6が|生まれてくるのは|奇妙だった。||彼は|黙っていた!||もう|身構えていた!

32


「祈祷台の|上で|見つけたのか?」


沈黙。||頬と|鼻の|頭に|そばかすが|散って|いた。||厚い|唇が|無表情を|装おうとして|いた。


「俺が|お前の|大事な|友達だと|わかったか?」


「はい。||お母さんに|二十フランを|くれましたよね」


「それが?」


少年は|ここぞとばかりに|その後の|話をした。


「家に|帰ったら、|お母さんが|人前だから|叩いただけだって|言って、|五十サンチーム|くれました」


やるじゃないか!||細い|体に|不釣り合いな|大きな|頭の|中で、|いったい|何を|考えて|いるのか。


「聖具係は?」


「何も|言いませんでした」


「祈祷台から|典書を|持って|いったのは|誰だ?」


「知りません」


「お前は|どこで|見つけた?」


「聖具室で|白衣の|下に。||司祭館に|食事に|行く|つもりで|いたのに、|ハンカチを|忘れて|戻ったんです。||白衣を|動かしたら|硬い|ものが|あって」


「聖具係は|いたか?」


「教会で|蝋燭を|消していました。||あの、|赤い|頭文字の|ついた|典書は|とても|高いんですよね?」


つまり、|誰かが|祈祷台から|典書を|持ち去り、|後で|取りに戻るつもりで|一時的に|聖具室の|少年の|白衣の下に|隠していたのだ。


「開けて|みたか?」


「時間が|なくて。||温泉卵が|食べたかったし。||日曜は|いつも」


「わかってる」


エルネストは|この|都会の男が|日曜に|司祭館で|卵と|ジャムが|出ることを|どうして|知っているのかと|不思議に|思った。


「もう|行って|いいぞ」


「本当に|もらえますか?」


「典書な、|明日。||じゃあな」


メグレが|手を|差し出すと、|少年は|少し|ためらって|から|手を|出した。


「どうせ|嘘に|決まって|いる!」と|言いながら|走り去った。

33


三段階の|犯罪。||まず、|誰かが|新聞社か|大きな|印刷所にしか|ない|ライノタイプ7で|記事を|組んだか、|組ませた。

次に、|誰かが|ページを|選んで|その|紙を|ミサ典書に|挟んだ。

そして|誰かが|典書を|持ち去り、|一時的に|聖具室の|白衣の|下に|隠した。

同一人物が|すべてを|やったのか?||それぞれ|別の|人間が|別々に|動いたのか?||あるいは|二つは|同じ|人物で|一つだけ|別の|人間なのか?

教会の|前を|通りかかると、|ちょうど|神父が|出てきて|こちらに|向かってきた。||メグレは|ポプラの|木の|下、|オレンジと|チョコレート売りの|老女の|近くで|待った。


「城へ|行くところです」と|神父は|追いついて|言った。
「今日の|ミサは|何を|しているのか|わからないほどでした。||犯罪だという|考えが|頭から|離れなくて」


「犯罪です」と|メグレは|ぼそりと言った。


二人は|黙って|歩いた。||メグレは|黙ったまま|紙切れを|神父に|渡した。||神父は|読んで|返した。

さらに|百メートル、|一言も|交わさなかった。


「乱れは|乱れを|呼ぶ。||それでも|哀れな|魂だった」


北風が|激しさを|増し、|二人とも|帽子を|押さえながら|歩いた。


「私には|力が|なかった」と|神父は|暗い声で|続けた。


「あなたが?」


「毎日|戻ってくるのです。||主の道に|帰る|準備は|できていた。||しかし|毎日、|あそこには」


声に|刺々しさが|混じった。


「行きたく|なかった。||でも|それが|私の|務めだった」


二人は|思わず|立ち止まりそうに|なった。||城の|正面並木道を|二人の男が|歩いてくる。||茶色い|顎鬚の|医者と、|その|隣で|相変わらず|熱っぽく|喋り続ける|細長い|ジャン・メタイエだった。||黄色い|自動車が|中庭に|あった。||伯爵が|城に|いる|限り、|メタイエは|中に|入れずに|いるのだろう。


ぼんやりした|光が|村の中に|漂っていた。||何もかもが|曖昧だった。||人々が|あてもなく|行き来していた。

34


「行きましょう!」と|メグレは|神父に|言った。


医者も|同じように|声を|かけたらしく、|ジャンを|連れてきた。||やがて|医師は|神父に|向かって|言った。


「おはようございます、|神父様。||ご安心ください。||私は|信心はないが、|教会で|犯罪が|あったかも|しれないという|ご不安は|よく|わかります。||でも|大丈夫です。||科学は|明確に|言って|います。||伯爵夫人は|心臓発作で|亡くなりました」


メグレは|ジャン・メタイエの|方へ|近づいた。


「一つ|聞く」


若者が|不安で|息が|荒くなり|神経質に|なっているのが|わかった。


「ムーラン・ジャーナルに|最後に|行ったのは|いつだ?」


「私が、ですか、|ちょっと|待ってください」


答えかけた。||しかし|警戒心が|頭を|もたげた。||疑うような|目を|警部に|向けた。


「なぜ|そんなことを?」


「どうでもいい!」


「答える|義務が|あるんですか?」


「黙っていても|構わん」


堕落した|人間の|顔つきとまでは|言えないが、|不安と|苦悩に|満ちた|顔だった。||神経質さは|並外れていて、|神父と|話している|ブシャルドンが|見たら|興味を|持ったかも|しれなかった。


「厄介ごとが|私のところへ|来るんでしょう!||でも、|私は|拒否しますよ」


「わかった。||拒否しろ」


「まず|弁護士に|会いたい。||それが|私の|権利です。||そもそも|あなたは|何の|権限で」


「ちょっと|待て。||法律を|勉強したのか?」


「二年!」


なんとか|平静を|取り戻そうと、|薄笑いを|浮かべようとした。


「告訴も|現行犯も|ない。||だから|あなたには|何の|権限も|ない」


「満点だ」


「医師は|はっきり|言ってるでしょう」


「俺は|言う。||伯爵夫人は|最低の|クズに|殺された。||これを|読め」


メグレは|印刷された|紙切れを|差し出した。||ジャン・メタイエは|突然|硬直し、|唾を|吐きかけそうな|目で|警部を|睨んだ。

34


最低のクズ……|いま、|最低のクズと|言いましたね?||そんな|言い方は|許しません」


すると|警部は、|彼の肩に|そっと|手を置いた。


「哀れな|若造だな。||俺は|まだ|おまえのことだとは|一言も|言っていない。||伯爵は|どこにいる?||とにかく|読め。||あとで|返してもらう」


メタイエの|目に、|ほくそ笑むような|光が|浮かんだ。


「伯爵は|管理人と|小切手の|話を|しています!||図書室に|行けば|会えます!」


神父と|医者が|前を|歩いていた。||メグレには、|医者の声が|聞こえた。


「いやいや、|神父さま!||これは|人間的な|ことです!||いたって|人間的な!||聖アウグスティヌスの|言葉を|読みあさるかわりに、|生理学を|少しでも|学んでおられたら」

そして|砂利が、|四人の|男たちの|足もとで|きしんだ。||彼らは|寒さで|いっそう|白く|硬く|なった|玄関前の|石段を、|ゆっくりと|上っていった。

  1. フランスの|1930年代の|法律では、|不渡り小切手の|振り出しは|刑事犯罪でした。||現在の|日本でも|同様に|詐欺罪に|問われる|可能性が|あります。
    ただし|現代の|フランスでは|非犯罪化されており、|民事上の|問題として|扱われます。
    ↩︎
  2. マール酒(Marc)は|ワインを|醸造した|後に|残る|ぶどうの|搾りかす、|つまり|皮や|種や|茎を|再発酵させて|蒸留した|フランスの|蒸留酒です。||アルコール度数は|40〜50度と|高く、|荒々しく|土臭い|風味が|あり、|洗練された|酒とは|言えない|農民や|労働者の|庶民の|酒です。||イタリアの|グラッパや|フランスの|カルヴァドスと|同じ|系統です。
    この|場面で|食堂が|「ビスケットと|古い|マール酒の|匂い」に|満ちて|いるという|描写は、|ゴーティエの|暮らしが|質素で|土臭い|田舎の|管理人そのものであることを|さりげなく|示して|います。
    ↩︎
  3. ブールジュ(Bourges)は|フランス中部、|パリから|南に|約250キロの|都市です。
    中世から|続く|由緒ある|古都で、ゴシック様式の|サン=テティエンヌ大聖堂が|有名でユネスコの|世界遺産に|登録されています。
    かつては|フランス王国の|重要な|都市で|貴族や|富裕層が|多く|住んで|いました。
    「ブールジュの|なかなか|いい|家柄」という|ゴーティエの|言葉は、ジャンが|没落しては|いるが|元は|由緒ある|家の|出身だと|いうことを|示して|います。
    つまり、単なる|成り上がりの|ごろつきでは|なく|それなりの|教養と|社会的な|背景を|持つ|人物だという|ことです。
    サン=フィアクルの|舞台は|ムーランの|近郊で|ブールジュとは|比較的|近い|地域です。
    つまり|ジャンは|まったくの|よそ者では|なく|同じ|中部フランスの|出身という|ことに|なります
    ↩︎
  4. 管理人という|立場は|当時の|フランスの|大きな|領地では:
    ・農地の|管理
    ・小作人からの|小作料の|徴収
    ・領地の|収支管理
    ・使用人の|監督
    など|財務管理も|含むのが|通常でした。
    つまり|メグレの|父の|時代は|管理人が|お金も|含めて|すべてを|仕切るのが|当然だった。||それが|ジャンという|よそ者に|財務面を|奪われた|ことを|ゴーティエが|不満に|思って|いるのを、|メグレは|すぐに|見抜いた|はずです。
    だからこそ|メグレの|尋問は|鋭く|なります。||子どもの|ころから|管理人の|仕事を|身近で|見て|いた|メグレには、|ゴーティエの|言葉の|裏に|ある|不満と|プライドが|手に|取るように|わかった|はずです。
    ↩︎
  5. フォトグラビュールと|エリオグラビュールは、どちらも|1930年代に|実際に|あった|印刷技術です。
    フォトグラビュール(photogravure)は|写真を|銅版に|焼き付けて|印刷する|技術で、|非常に|精細で|美しい|仕上がりが|得られる|高級な|印刷方法です。||美術書や|高級雑誌の|写真印刷に|使われて|いました。
    エリオグラビュール(héliogravure)は|フォトグラビュールの|一種で、|太陽光を|使って|感光させる|方法です。||より|大量印刷に|向いて|おり、|新聞や|雑誌の|グラビア印刷の|原型と|なった|技術です。||日本語の|「グラビア」は|この|エリオグラビュールから|来て|います。
    この|場面での|意味は、|ジャンが|伯爵夫人に|「既存の|印刷技術より|安く|同じ品質で|印刷できる|新技術を|開発した|友人がいる」と|持ちかけて|出資させた|ということです。||典型的な|詐欺まがいの|投資話で、|ゴーティエが|呆れながら|説明して|いる|場面です。
    ↩︎
  6. 古い|百姓らしい|警戒心とは、封建制度の|時代から|農民は|領主や|役人に|搾取され続けた|歴史が|ありました。||そして、フランス革命後も|農民の|生活が|劇的に|改善された|わけでは|ありませんでした。
    フランス革命(1789年)から|この|物語の|舞台(1932年)まで|約百四十年|経って|いますが、|農村の|深いところでは|権力者への|不信感が|そのまま|生き続けて|いました。
    むしろ|革命後に|新たな|権力——警察、|司法、|税務——が|農民の|生活に|入り込んで|きた|ことで、|不信感の|対象が|増えた|とも|言えます。
    シムノンが|描く|フランスの|農村は|まさに|この|二重構造です。
    表面上は|近代化された|共和国
    しかし|内側では|何世紀も|前の|感覚が|生きて|いる
    エルネストという|十歳の|少年の|中に|その|歴史が|凝縮されて|いる|という|シムノンの|観察眼は|鋭いです。||だからこそ|メグレも|この|少年に|親しみを|感じるのかも|しれません。||メグレ自身も|農村出身で、|その|感覚を|骨の髄まで|知って|いるからです。
    ↩︎
  7. ライノタイプ(Linotype)は|1880年代に|発明された|活字自動鋳植機です。
    キーボードを|打つと|鉛合金を|溶かして|一行分の|活字を|自動的に|鋳造する|機械で、|それまでの|手作業による|一文字ずつの|活字拾いと|比べて|革命的に|速く|印刷できました。||名前の|由来は|「line of type」(一行分の|活字)から|来て|います。
    メグレは、活字の|並びの|観察から、 活字の|配列が|輪転機印刷では|なく、|手で|刷った|平台印刷だと|わかりました。||そして|裏面にも|同じ|文章が|印刷されて|いた|ことが|決定的な|証拠でした。||手で|一文字ずつ|拾う|古い|方法では|なく、|一行分|まとめて|鋳造する|ライノタイプの|特徴が|活字の|並びに|出て|いた|のです。
    ライノタイプは、1930年代には|新聞社や|大きな|印刷所にしか|置いて|いない|高価で|大型の|機械でした。||だからこそ|メグレは|この|偽記事が|ライノタイプで|印刷されて|いると|わかった|時点で、|犯人が|新聞社か|大きな|印刷所に|アクセスできる|人物だと|絞り込めたのです。
    そして|ジャンが|ムーラン・ジャーナル紙に|出入りして|いた|ことが|重要な|手がかりと|なります。||メグレが|「最後に|ムーラン・ジャーナルに|行ったのは|いつだ」と|真っ先に|聞いた|のも|そのためです。
    ↩︎