影絵|第一章 影絵

影絵

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月5日現在未作成)


夜の|十時だった。||広場の|柵は|閉まり、|ヴォージュ広場1は|人気がなかった。||アスファルトの|上には|車の|轍が|光り、|噴水の|音が|絶えず|響いている。||葉の|落ちた|木々、|そして|空に|切り抜かれた|屋根の|単調な|連なり。

広場を|ぐるりと|囲む|壮麗な|アーケードの|下には|灯りが|少ない。||三、四軒の|店が|かろうじて|開いているだけだ。||メグレ警部は|その|一軒で|夕食を|とっている|家族の姿を|見た。||店の中は|ガラス玉の|葬儀用花環で|あふれていた。

ドアの上の|番地を|読もうとしていたが、|花環の|店を|通り過ぎた|とたんに、|小柄な|人影が|闇の中から|現れた。


「電話に|出られたのは|あなたですね?」


ずいぶん前から|見張っていたに|違いない。||十一月の|寒さの中、|エプロンの|上に|コートも|羽織っていない。||鼻は|赤く、|目は|不安そうだった。

百メートルと|離れていない|ベアルン通りの|角に、|制服の|警官が|立っていた。


「あの警官に|知らせなかったのか?」とメグレが|ぶっきらぼうに|言った。


メグレは|ぶっきらぼうに|言った。


「ええ!|サン=マルク夫人が|お産中なので。|ほら!||急病で|呼ばれた|お医者さんの|車です」


歩道沿いに|三台の|車が|止まり、|ランタンが|ともり、|後部に|赤い|ランプが|ついていた。||月に|洗われた|空を|雲が|流れ、|空は|不思議な|青白さを|帯びていた。||今にも|初雪が|降り出しそうな|気配だった。


管理人は|建物の|アーチ型の|門をくぐり、|中へ進んだ。||頭上には|二十五カンテラ2の|電球が|ひとつ、|埃で|くすんで|ぼんやりと|灯っていた。3


「説明しますね。|ここが|中庭です。||どの棟へ行くにも|この中庭を|横切らなければ|なりません。|ふたつの|店舗以外は|全部そうです。||こちらが|私の|管理人室、|左側です。||気にしないでください。||子供たちを|まだ|寝かしつけていなくて」


子供は|ふたり、|男の子と|女の子で、|散らかった|台所に|いた。||管理人は|そちらへは|入らず、|広くて|均整のとれた|中庭の|奥にある|長い建物を|指さした。


「あそこです。||わかりますよ」


メグレは|この|おかしな|小柄な|女を|興味深そうに|見ていた。||せわしなく|動く|手が、|興奮を|ありありと|物語っていた。


「警部さんを|お願いします!」


少し前、|オルフェーヴル河岸で|そう|言われていた。||こもった|声だった。||三、四度|繰り返した。


「もっと|大きな声で!|聞こえません!」


「できないんです。||タバコ屋から|かけているので。|それで」


途切れ途切れの|伝言だった。


「すぐに|ヴォージュ広場61番地に|来てください。||ええ。||事件だと|思います。||でも|まだ|知られては|困ります!」


今や|管理人は|二階の|大きな窓を|指さしていた。||カーテンの|向こうで|人影が|行き来しているのが|見えた。


「あれは」


「事件ですか?」


「違います!|サン=マルク夫人が|お産中なんです。||初めての|お産で。|あまり|丈夫な|方じゃなくて。||わかりますか?」


中庭は|ヴォージュ広場よりも|さらに|暗かった。||壁に|取りつけられた|ランプが|一灯、|辺りを|照らすだけだ。||ガラス戸の|向こうに|階段が|ぼんやりと|見え、|あちこちに|明かりのついた|窓が|点在していた。


「しかし|事件は?」


「それが!||六時に|クーシェの|従業員たちが|帰りました。」


「ちょっと待て。||クーシェとは|何だ?」


「奥の|建物です。||血清4を|製造している|研究所で。||ご存知じゃないですか。||リヴィエール博士の|血清です」


「あの|明かりのついた|窓か?」


「待ってください。||今日は|三十日です。||ムッシュークーシェは|あそこに|いました。||閉館後も|ひとりで|残るのが|習慣なんです。||窓越しに|見えました、|椅子に|座っているのが。||ほら、|見てください」


すりガラスの|窓。||机に|突っ伏した|男の|影のような、|奇妙な|影。


「あれが|彼ですか?」


「ええ。||八時ごろ、|ゴミを|捨てに|行ったとき|ちらっと|見ると、|字を|書いていました。||ペンか|鉛筆を|持った|手が|はっきりと|見えました」


「事件が起きたのは|何時……」


「少し|待って!||サン=マルク夫人の|様子を|見に|上がって、|降りてくるとき|また|見たんです。||さっきと|同じ格好で、|居眠りしているのかと|思いました」


メグレは|苛立ちはじめていた。


「それで、|十五分後には」


「ええ!||まだ|同じ場所に!||要点を|言ってください」


「それだけです。||確かめようと|思って、|事務所の|ドアを|ノックしました。||返事が|なかったので|入ったら、|死んでいました。||血だらけで」


「なぜ|警察署に|知らせなかった?||ベアルン通りに|すぐそこに|あるのに」


「制服の人たちが|全員|やって来るじゃ|ないですか!||家中が|大騒ぎに|なってしまいます!||サン=マルク夫人が|いると|申し上げたでしょう」


メグレは|両手を|ポケットに|突っ込み、|パイプを|くわえていた。||二階の|窓を|見上げると、|人の|動きが|激しくなっていた。||そろそろだと|感じた。||ドアが|開く音がして、|階段を|下りる|足音が|聞こえた。||大きな|がっしりした|人影が|中庭に|現れ、|管理人は|警部の|腕に|そっと|触れながら|うやうやしく|囁いた。


「サン=マルク様です。||元大使の方で。」


男の|顔は|闇に|紛れて|見えなかった。||立ち止まり、|また|歩き出し、|また|立ち止まり、|絶えず|自分の|部屋の|窓を|見上げていた。


「外に|出されたんでしょう。|さっきも|そうでした。|こちらへ。|ほら、|またあの人たちが|蓄音機を!||サン=マルクの|真上で!」


三階に|小さな|窓が|あった。||明かりは|薄く、|窓は|閉まっていた。||蓄音機の|音楽は|聞こえるというより、|むしろ|感じられる|程度だった。

管理人は|平べったい|体つきで、|神経質そうに、|目を|赤く|腫らし、|指を|せわしなく|動かしながら|中庭の|奥へと|歩いていった。||小さな|石段と、|半開きの|扉を|示した。


「左手に|見えます。||私は|もう|入りたくなくて」


ありふれた|事務室。||明るい色の|家具。||無地の|壁紙。

四十五歳の|男が|ひとり、|肘掛け椅子に|座ったまま、|頭を|目の前の|散らばった|書類の上に|伏せていた。||胸の|真ん中に|銃弾を|受けていた。

メグレは|耳を|澄ました。||管理人は|まだ|外で|待っており、|サン=マルク氏は|中庭を|行き来し続けていた。||ときおり|広場を|バスが|通り過ぎ、|その|騒音が|かえって|後に|続く|静寂を|深めた。

警部は|何にも|触れなかった。||凶器が|事務室に|残っていないことを|確かめると、|三、四分|パイプを|くゆらせながら|室内を|見回し、|不満げな|表情で|外へ出た。


「どうでした?」


管理人は|まだ|そこにいた。||小声で|話した。


「何も。||死んでいる」


「サン=マルク様に|上から|呼び出しが|かかりました」


アパルトマンの|中で|物音が|していた。||ドアが|バタンと|閉まり、|誰かが|走り回っていた。


「あの方は|とても|お体が|弱くて!」


「そうかい」とメグレは|首の後ろを|かきながら|ぶっきらぼうに|言った。

「だが|そういう|話じゃ|ない。||事務所に|入った人間に|心当たりは|あるか?」


「私に?|どうして?」


「管理人室から|住人が|通るのを|見られるだろう」


「見られるはずなんですが!||大家が|まともな|管理人室を|くれて、|照明を|けちらなければ。||足音が|かろうじて|聞こえるくらいで、|夜は|影が|見える|程度です。||足音なら|聞き分けられる|人も|いますが」


「六時から|何か|異常に|気づいたことは?」


「何も!||ほとんどの|住人が|ゴミを|捨てに|来ました。||ここ、|管理人室の|左側です。||ゴミ箱が|三つ|見えますか?||夜七時前は|来ては|いけないんですが」


「アーチ門から|誰も|入らなかったか?」


「どうやって|わかるんですか?||この建物を|ご存知ないんですね。||住人が|二十八世帯いるんです。||クーシェの|事務所は|別として、|あそこは|人の|出入りが|絶えないんですから」


玄関の|アーチで|足音がした。||山高帽を|かぶった|男が|中庭に|入ってきて、|左へ|曲がり、|ゴミ箱に|近づいて|空の|ゴミ箱を|手に|取った。||暗がりの中でも|メグレと|管理人に|気づいたらしく、|しばらく|立ち止まってから|やっと|口を|開いた。


「私宛ては|何も?」


「何も|ありません、|ムッシューマルタン」


メグレが|尋ねた。


「あれは誰だ?」


「登録局の|役人で、|マルタンさんと|いいます。||奥さんと|三階に|住んでいます」


「なぜ|ゴミ箱を?」


「ほとんどの方が|外出するとき|そうするんです。||出がけに|持って行って、|帰りに|引き取って。||聞こえましたか?」


「何が?」


「赤ちゃんの|泣き声みたいな。||上の|あのふたりが|あの|けたたましい|蓄音機を|止めて|くれさえすれば!」


「あのふたり、|サン=マルク夫人が|お産中だと|知ってるくせに!」


管理人は|誰かが|降りてくる|階段へと|駆け寄った。


「先生!||男の子ですか?」


「女の子です」


医者は|通り過ぎた。||車に|エンジンをかけ、|走り去る|音が|聞こえた。

建物は|いつもどおりの|日常を|続けていた。||暗い|中庭。||アーチ門と|そのみすぼらしい|電球。||明かりのついた|窓々と、|かすかな|蓄音機の|音楽。

死体は|まだ|事務室に|あった。||ひとりきりで、|散らばった|手紙の|上に|頭を|伏せたまま。

突然、|三階から|叫び声が|した。||絶望的な|叫びのような、|甲高い|声だった。||だが|管理人は|眉ひとつ|動かさず、|管理人室の|扉を|押しながら|ため息を|ついた。


「また|あの|気違いか」


今度は|管理人自身が|怒鳴った。||子供の|ひとりが|皿を|割ったのだ。||明かりの中で|メグレは|やつれた|疲れた|顔と、|年齢の|わからない|体つきを|見た。


「手続きは|いつから|始まるんですか?」と|彼女は|尋ねた。


向かいの|タバコ屋は|まだ|開いていた。||数分後、|メグレは|電話ボックスに|こもっていた。||彼も|小声で|指示を|出していた。


「ええ。||検察局を。||61番地。||チュレンヌ通りの|角近くです。||鑑識にも|連絡を。||もしもし!||ええ、|現場に|残ります」


歩道を|数歩|歩き、|無意識に|アーチ門を|くぐり、|中庭の|真ん中に|立った。||不機嫌な|顔で、|寒さから|肩を|すくめていた。

窓の|明かりが|ひとつ、|またひとつと|消えていった。||死体は|すりガラスの上に|中国の影絵のように|映し出され続けていた。

タクシーが|止まった。||検察官では|なかった。||若い女が|足早に|中庭を|横切り、|香水の|残り香を|漂わせながら|事務室の|扉を|押した。

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  1. ヴォージュ広場(Place des Vosges)は、パリのマレ地区にあるパリ最古の広場です。
    17世紀初頭、アンリ4世がオテル・デ・トゥルネルの跡地を改築することを決定し、工事は1605年に始まり、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの婚約を記念して1612年に完成しました。当初は「ロワイヤル広場(王の広場)」と名付けられ、瞬く間にフランス貴族の憩いの場となりました。
    フランス革命後の1800年、革命時に最初に税を納めたヴォージュ県にちなんで「ヴォージュ広場」と改名されました。
    広場を取り囲む36軒の邸宅には宮廷の高官や貴族たちが住んでおり、左右対称の庭園の中央にはルイ13世の騎馬像が鎮座しています。
    建物一階の回廊にはカフェやレストラン、アートギャラリーなどが入っており、6番地にはヴィクトル・ユーゴーが1833年から15年間住んでいたことで知られるヴィクトル・ユーゴー記念館があります。
    小説との関係で言えば、細い小道に歴史ある建物がひしめくマレ地区の中で、ここだけは広々としたオアシスのような存在であり、シムノンが舞台に選んだのも、その閑静で格式ある雰囲気が事件の背景として絶妙だったからでしょう。メグレが夜の広場を歩き、アーケードの下の灯りを頼りに番地を探す場面は、実際の広場の構造をそのまま使っています。
    ↩︎
  2. 25カンデラ(燭光)の明るさを持つ電球のことです。「燭光(しょっこう)」は、光の強さを表す旧来の単位です。
    「燭光」はもともと「ろうそく一本分の明るさ」を基準とした照度の単位で、現在の「カンデラ(cd)」に相当します。二十五燭光とは、25カンデラ相当の電球ということです。
    当時(1930年代)の25カンデラ電球は、現代の電球に換算するとおよそ25〜40ワット程度の薄暗い明かりです。現代の一般的な電球(60〜100ワット相当)と比べると、かなり薄暗い印象です。
    この作品(『メグレと中国の影』1932年)の文脈では、薄暗い部屋の描写に関係していると思われます。マルタン夫妻の部屋について、電球を厚い色付きの布で覆い、ほんのわずかな光しか通さないようにしていたという描写があり、当時のパリの庶民の家の薄暗さを表現するのに、こうした照度の単位が使われています。
    ↩︎
  3. これはパリのアパルトマン全般に共通する構造です。ヴォージュ広場に限りません。
    パリのアパルトマンは、建物から出入りする共有玄関はひとつで、その奥に中庭があり各住居へとつながっていくのが一般的です。
    建物は、表通りの入り口から入って、中庭の奥に建っているものも、同じ番地です。
    また窓についても興味深い記述があります。通りに面する主室の反対側の部屋にある窓の先に、アパルトマンの中庭がある。中庭に面する部屋は、台所や浴室やトイレ、子供部屋やクローゼットが多い。
    つまりこの小説の舞台は——
    表側 → ヴォージュ広場に面した|赤レンガの|格式ある|ファサード
    アーチ門 → そこをくぐると中庭
    中庭奥 → クーシェの研究所
    中庭に面した窓 → 各住人の|台所や|裏側の|部屋
    という、パリの典型的なアパルトマンの構造をそのまま使っています。||シムノンが|この構造を|巧みに|活かして、|中庭を|人々の|視線が|交差する|舞台として|使っているわけです。
    ↩︎
  4. 血清とはワクチンや治療薬の一種です。
    病気に|かかった|動物(主に馬)の|血液から|作る|治療薬です。||病原体と|戦う|抗体が|含まれており、|それを|患者に|注射して|病気を|治します。
    当時の|主な|用途——
    ・ジフテリア(子供に多い|致死的な|感染症)
    ・破傷風
    ・狂犬病
    1930年代は|抗生物質が|まだ|なかった時代で、|血清療法は|最先端の|医療でした。||パスツール研究所を|はじめとする|フランスは|この分野で|世界をリードしており、|クーシェの|「リヴィエール博士の血清」が|世界中に|知られているという|設定は|非常に|リアルです。
    ↩︎