Gallet décédé(1931)
第一章 厄介な仕事
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メグレ警部と死体との最初の対面は、一九三〇年六月二十七日におこなわれた。警部はその後何週間にもわたって、この不思議な死体と奇妙な親密さでつきあうことになるのだが、二人の出会いはありふれた、辛い、そして忘れがたい状況のもとでおこなわれた。
忘れがたかったのはまず、その一週間前から司法警察に次々と通達が届いていたからだ。二十七日にスペイン国王がパリを通過するので、必要な措置をとるよう求める内容だった。
ところが、司法警察長官はプラハで科学警察の国際会議に出席中だった。副長官も子供の病気のためにノルマンディーの海岸の別荘に呼びもどされていた。
メグレは最古参の警部だった。休暇で手薄になった人員で、息のつまるような暑さのなか、あらゆることを一人でこなさなければならなかった。
さらにその六月二十七日の夜明けに、ピクピュス通り1で女の行商人が殺されているのが発見された。
要するに、午前九時には手の空いた捜査員はみな、スペイン国王を出迎えるためにブーローニュの森の駅へ出払っていた。
メグレはドアと窓を全部開けさせた。風が吹き通ると、ドアはバタンバタンと鳴り、机の上の書類は舞いあがった。
九時すぎ、ヌヴェール2から電報が届いた。
エミール・ガレ、商業外交員、セーヌ=エ=マルヌ県サン=ファルジョー3在住。六月二十五日から二十六日にかけての夜、サンセール、オテル・ド・ラ・ロワール4にて殺害。不審な点多数。遺族に通知し遺体確認を依頼されたし。可能であればパリより捜査員を派遣のこと。

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メグレは自らサン=ファルジョーへ出向くしかなかった。一時間前まで、パリから三十五キロのところにそんな町があるとも知らなかったのだ。
列車の時刻もわからなかった。リヨン駅に着いてみると、今しも各駅停車が出るところだという。メグレは走りだし、ぎりぎりで最後尾の車両に飛びこんだ。
それだけでびっしょりと汗をかいた。太り気味の体をなんとか落ち着かせながら、汗をぬぐいながら、残りの道中をすごした。
サン=ファルジョーで降りたのは彼一人だった。駅の係員を見つけるのに、熱でやわらかくなったホームのアスファルトの上を何分もうろうろしなければならなかった。
「ムッシュー=ガレ(ガレ)?分譲地の中央大通りの突きあたりですよ。建物に表札が出ていて、『レ・マルグリット』と書いてあります。まあ、あのあたりで完成している建物はほとんどそこだけですから」
メグレは上着を脱いだ。首の後ろを守るために、帽子の下にハンカチをはさんだ。中央大通りとやらは幅が二百メートルほどもあり、真ん中以外は歩けない。しかも木陰は一つもなかった。
陽の光はくすんだ銅の色だった。ハエが猛烈に刺してくる。嵐の前触れだ。
あたりには人影一つない。
この分譲地はかつて貴族の広大な領地だったらしい。今は芝刈り機できれいに刈りこんだような幾何学的な並木道が整備され、将来建つ予定の一戸建てのために電線が引かれているだけだった。
駅の前にはモザイクの水盤5と噴水のある小さな公園があった。板張りの小屋には『土地販売事務所』とある。その隣には区画図があり、まだ誰も通らない並木道にはすでに政治家や将軍の名がついていた6。
五十メートルごとに、メグレはハンカチをはずして汗をぬぐい、またじりじりと焼けはじめた首の後ろにはさみなおした。
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あちこちに建てかけの建物の残骸が見えた。暑さに参ったレンガ職人たちが途中で放棄したらしい壁の断片だ。
駅から少なくとも二キロは歩いて、ようやく「レ・マルグリット」を見つけた。赤い瓦屋根に込み入った設計の、はっきりしないイギリス風の一戸建で、粗削りの石塀が庭とまだ森のままの土地とを仕切っていた。
二階の出窓から、二つ折りにしたマットレスをのせたベッドが見えた。毛布が窓枠に広げて干してある。
ベルを鳴らすと、三十歳くらいの斜視の女中が覗き穴からじろじろと眺めてから、やっとドアを開ける気になった。その間に、メグレは上着をはおった。

「ガレ夫人はいらっしゃいますか」

「どちら様で?」
だが、家の奥からもう声が聞こえた。

「エジェニー、何の用?」
ガレ夫人が自ら玄関先に現れ、あごを上げて来客の用件を待ち構えた。

「落としましたよ」と彼女は愛想もなく言った。
メグレが帽子を脱ごうとしてハンカチを落としたのだ。
メグレはもごもごと口の中でつぶやきながらそれを拾い、名乗った。

「第一機動捜査隊のメグレ警部です。少しよろしいですか」

「私に?」
そして女中に向かって。

「何してる?さっさとしなさい」
ガレ夫人については、メグレはもう十分わかった。五十代の、はっきり言って感じの悪い女だ。この時間に、この暑さで、この辺鄙な一軒家に一人でいるというのに、すでに紫色の絹のドレスに身を固め、一本も乱れないきっちりとした白髪。首元も胸元も手も、金のネックレスやブローチやじゃらじゃらと鳴る指輪であふれていた。

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夫人は渋々、客を応接間へ通した。開いたままの扉の前を通るとき、メグレは台所を覗きこんだ。白い壁に銅やアルミの鍋がきらきらと光っていた。

「ワックスがけを始めていいですか、奥様」

「もちろんよ。なぜダメなの?」

女中は隣の食堂に消えた。じきに膝をついて床に蜜蝋を塗る音が聞こえ、テレビン油のすがすがしい匂いが家じゅうに広がった。
応接間の家具という家具には刺繍の布がかかっていた。壁には膝頭がとがって突き出たひょろりとした体の、いかにも感じの悪い顔をした少年の引き伸ばした写真が一枚。初聖体拝領の白い服を着ている。
ピアノの上にはもっと小さな写真があった。ごわごわと濃い髪に胡椒と塩を混ぜたような顎鬚を蓄えた男で、肩の縫製が悪い上着を着ている。
顔の輪郭は少年と同じく面長だった。もう一つ気になるものがあった。しばらくしてメグレは気づいた。口がほとんど顔を真っ二つに切るように横に長く、極端に薄い唇だった。

「ご主人ですか?」

「主人です。警察がなぜここへ来たのか、聞かせていただけますか」
その後の会話の間じゅう、メグレは繰りかえし写真に目をやった。これが、死体との正真正銘の最初の出会いだった。

「悪いお知らせがあります、奥さん。ご主人は今、旅行中ですね?」

「早くおっしゃい。まさか……」

「事故がありました。正確には事故とは言えませんが。勇気をもって聞いてください」
夫人は偽のブロンズ像をのせたサイドテーブルに手を置き、メグレの前にまっすぐ立っていた。表情は硬く、疑わしそうだった。ぽっちゃりした指だけがかすかに動いている。なぜかメグレはこんなことを考えた。この人は若い頃はきっとほっそりしていた。もしかしたらすごく細かった、年をとって太ったのだろうと。
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「ご主人は二十五日から二十六日にかけての夜、サンセールで殺されました。この辛い知らせをお伝えする役目が……」
警部は写真のほうを向き、初聖体拝領の少年を指さして聞いた。

「息子さんがいますか?」
一瞬、ガレ夫人は自分の尊厳に欠かせないと思っているその堅さを崩しそうになった。ぼそりと言った。

「息子が一人」
それからすぐ、勝ち誇った声で、

「サンセールとおっしゃいましたね? 今日は二十七日ですよ? だったら人違いです。ちょっと待って」
夫人は食堂へ行った。メグレは四つん這いになっている女中を垣間見た。夫人が戻ると、葉書を差し出した。

「主人からの葉書です。日付は昨日の二十六日。ルーアン7の消印が押してあります」
警察に踏みこまれた屈辱を晴らすかのような勝ち誇った笑みをかろうじて抑えていた。

「別のガレという人でしょう。私の知らない人かもしれませんが」
もう少しでドアを開けて追い払いそうな勢いで、目がドアのほうへ向いてしまうのを止められない。

「ご主人の下の名前はエミール? 職業は商業外交員と身分証明書に?」

「ニエル商会のノルマンディー全域の代理人です」

「残念ですが、奥さん。そう喜んでいられませんよ。サンセールまで一緒に来ていただかなければなりません。お互いのために」

「でも……」
夫人はルーアンの旧市場が描かれた葉書を振った。食堂のドアは開いたままで、女中の腰と足が見えたり、顔を隠した髪が見えたりした。床板の上を蜜蝋の染みた雑巾がすべる音が聞こえた。
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「間違いであってほしいと心から願っています。それでも、死体のポケットから見つかった書類は確かにご主人のものです」

「盗まれたのかもしれません」
しかし不安が、夫人の意志に反して、声に滲みはじめていた。夫人はメグレの視線を追って写真を見るとこう言った。

「この写真は食事制限を始めてから撮ったものです」

「昼食をとりたければ、一時間後に迎えに来ますが」と警部は言った。

「結構です。あなたが必要だとおっしゃるなら……エジェニー! 黒い絹のコートとバッグと手袋を」
メグレはこの事件にまったく興味が持てなかった。嫌な事件の典型ともいうべき特徴がすべてそろっていた。顎鬚の男の姿が頭に焼きついているのも、初聖体拝領姿の少年の姿が頭に焼きついているのも、本人は気づいていなかった。
あらゆる手続きが厄介な仕事のように感じられた。まず息のつまるような暑さのなか、今度は上着を脱ぐこともできずにあの中央大通りを引きかえす。次にムランの駅のベンチで三十五分待ちながら、サンドイッチと果物とボルドーワインの入った籠を買う。

午後三時には、ガレ夫人と向かいあって一等車のコンパートメントに乗りこみ、サンセールを通る<ムーラン本線>を走っていた。
カーテンは閉められ、窓は下げられていたが、涼しい風が入ってくるのはほんのたまにすぎなかった。
メグレはポケットからパイプを取り出したものの、夫人の顔を見て、彼女の前で吸うのはやめようと思った。
列車が走りだして一時間ほどして、夫人はようやく人間らしい声で聞いた。

「どう説明がつくのでしょう?」

「今のところ、何も説明がつきません、奥さん。何もわかっていない。申し上げた通り、犯行は二十五日から二十六日にかけての夜、オテル・ド・ラ・ロワールであったのです
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今は休暇の時期ですし。それに地方の検察はいつも急ぐわけではありません。司法警察に知らせが来たのも今朝のことです。ご主人はいつも葉書を送ってきましたか?」

「留守にするたびに」

「よく旅行を?」

「月に三週間ほど。ルーアンのオテル・ド・ラ・ポストに泊まって、もう二十年になります。そこを拠点にノルマンディー全域を回りますが、できるだけ毎晩ルーアンにもどるようにしていたようです」

「お子さんは一人だけ?」

「息子が一人。パリで銀行の仕事をしています」

「サン=ファルジョーには一緒に住んでいないんですか?」

「毎日帰ってくるには遠すぎます。毎週日曜日に来ています」

「何か食べてはいかがですか?」

「結構」と彼女は失礼をはねつけるような口調で言った。
確かに、彼女がその辺の人と同じようにサンドイッチをかじったり、鉄道会社の油紙のカップでぬるくなったワインを飲んだりする姿は想像できなかった。
この人にとって品位は決して空虚な言葉ではなかった。美人ではなかっただろうが、顔立ちは整っていて、もう少しこわばっていなければそれなりの魅力があったはずだ。頭を少し横に傾ける癖が醸しだすある種のもの悲しさが、その顔に表れていた。

「なぜ主人を殺したのでしょう?」

「心当たりは?」

「敵も友人もいません。戦後の野蛮で下品な時代を知らずにすんだ人たちと同じように、私たちは世間と距離をおいて暮らしてきました」

「なるほど」
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列車の旅は果てしなく続いた。メグレは何度も廊下に出てパイプを吸った。暑さと汗でカラーがくたくたになっていた。
三十三、四度の暑さもまったく気にしないガレ夫人がうらやましかった。夫人は出発のときからずっと同じ姿勢を保っていた。まるでバスで移動するときのように、膝の上にバッグを置き、バッグの上に両手を重ね、頭を少し窓の方へ向けていた。

「その……あの人はどうやって殺されたのですか?」

「電報には書いてありませんでした。朝、死んでいるのが見つかったようです」
ガレ夫人はびくりと体を震わせ、しばらく口を開けたまま息をしていた。

「主人のはずがない。葉書が証拠じゃありませんか?来なければよかった」
なぜかわからないが、メグレはピアノの上の写真を持ってくればよかったと悔やんだ。顔の上半分がもう思い出せなかった。けれど、横に長すぎる口、ごわごわした顎鬚、肩の裁ちの悪い上着ははっきりと目に浮かんだ。

夜の七時、列車が<トレーシー=サンセール駅>に止まった。そこからさらに一キロ国道を歩き、ロワール川にかかるつり橋を渡った。
ロワール川は雄大な大河という趣きではなく、熟れすぎた麦の色の砂州のあいだを無数の小川が流れる光景だった。
砂州の一つに、肌色のスーツを着た人物が釣りをしていた。埠頭沿いに黄色い外壁のオテル・ド・ラ・ロワールが見えた。
日差しは斜めになっていたが、水蒸気で重くなった空気は相変わらず息苦しかった。
今はガレ夫人が先頭を歩いていた。ホテルの近くで行ったり来たりしている男が同僚だとわかると、メグレは顔をしかめた。この夫人と二人で歩いている様子が、どう見ても滑稽だと思ったのだ。
避暑客、とりわけ家族連れが明るい色の服を着て、白いエプロンと帽子をつけたウェイトレスが行き来するガラス張りのテラスで食事についていた。
ガレ夫人はいくつかのクラブの紋章に囲まれたホテルの看板8を見つけると、まっすぐ入口へ向かった。

ページ10の翻訳が完了しました。「続き(ページ11)」とおっしゃれば次を翻訳します。
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「司法警察の方ですか?」と行ったり来たりしていた男がメグレを呼び止めて聞いた。

「そうだ」
「遺体は役場に運びました。急いでください。解剖が八時にあります。ぎりぎり間に合います」
死体と対面する時間が!このときまだメグレは嫌な仕事をこなす男のように重い足取りで歩いていた。
後になって、メグレはこの二度目の対面を細部まで思い出せた。あれ以上の対面は二度とできないのだから。
村は嵐の前の夕暮れの光のなかで白く輝いていた。鶏とガチョウが街道を横切り、五十メートル先の木陰になった場所で青いエプロンをつけた二人の男が馬に蹄鉄を打っていた。
役場の向かいでは、カフェのテラスで人々が食卓についていた。赤と黄色の縞模様の日よけの陰からは、冷えたビールや氷の浮いた香り高い食前酒やパリから届いた新聞のような雰囲気が漂っていた。
広場には自動車が三台止まっていた。看護師が薬局を探していた。役場の中では女が灰色の石畳の廊下を水でざっと洗っていた。

「すみません、遺体は?」
「裏にあります。学校の中庭です。みなさんもそちらに。こちらからどうぞ」
女は「女子」と書かれた扉を指さした。建物のもう一方の棟には「男子」とある。
ガレ夫人は意外なほどしっかりした足取りで先へ進んだ。しかしメグレには、それはむしろある種の眩暈が彼女を駆り立てているのだとわかった。
学校の中庭では、白衣の医師が何かを待つ男のようにタバコを吸いながら歩いていた。ときおりその繊細な両手をこすりあわせた。
二人の人物が白い布をかけた遺体の横たわるテーブルのそばで小声で話していた。

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警部は勢いよく進む夫人を止めようとしたが、間に合わなかった。夫人はもう中庭の屋根の下にたどり着き、テーブルの前で一瞬立ち止まると、息をのんで突然顔の高さまで布を持ち上げた。
悲鳴は上げなかった。話していた二人が驚いて夫人のほうを向いた。医師はゴム手袋をはめながら、扉に向かって叫んだ。

「アンジェルはまだ戻りませんか?」
医師が新しいタバコに火をつけようと手袋を一つ外しているあいだ、ガレ夫人は身じろぎもせず立ちつくし、メグレは助けに行けるよう身構えていた。
夫人は突然憎しみのこもった顔で振りかえり叫んだ。

「どういうことですか? 誰がこんなことを?」

「こちらへ、奥さん。ご主人で間違いないですね?」
夫人の目が激しく動き、二人の男、白衣の医師、よちよち歩いてくる看護師を見回した。

「どうなるのでしょう?」としゃがれた声で言った。
メグレが答えに戸惑っていると、夫人はついに夫の遺体にすがりつき、中庭とそこにいる人々に向かって、怒りと反抗の目を向け、叫んだ。

「いやです! いやです!」
夫人は無理やり引き離され、水桶を置いた管理人の女に任された。メグレが中庭の屋根の下に戻ると、医師はメスを手にマスクを顔につけ、看護師がすりガラスの瓶を差し出していた。

警部はうっかり足で小さな黒い絹の帽子を蹴った。紫のリボンと偽ダイヤのカボション9で飾られた帽子だ。
解剖には立ち会わなかった。もうすぐ夕暮れで、医師はこう言っていたのだ。

「ヌヴェールで七人の夕食があるので」
二人の男は予審判事と書記だった。判事は警部と握手をしてから、一言だけ言った。
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「地元の警察が捜査を始めています。ひどく込み入った事件ですよ」
布をずらすと、遺体は素っ裸だった。
陰鬱な対面はほんの数秒で終わった。遺体は写真から想像した通りだった。長く骨張った体で、役人のようなくぼんだ胸、青白い肌が体毛を黒く際立たせていたが、胸の毛だけは赤みがかかっていた。
銃弾が左の頬をえぐりとっていたため、無傷なのは顔の半分だけだった。
目は開いていた。ねずみ色の瞳は、写真と比べてさほど輝きを失っていないように見えた。

『食事制限をしていました』とガレ夫人は言っていた。
左の乳房の下には、刃の形をそのままとどめたきれいな傷口があった。
医師がメグレの後ろでじりじりと待ちかねていた。

「報告書はどちらにお送りすれば? 宛先は?」

「オテル・ド・ラ・ロワールへ」

判事と書記はよそを向いて黙っていた。メグレは出口を間違えて学校の教室に迷いこみ、机と椅子の中に立っていた。
教室はうっとりするほど涼しかった。警部はしばらく壁のカラー写真の前で足を止めた。麦の刈り入れ、冬の農場、町の市場の日の風景だ。
棚には木製、ブリキ製、鉄製の計量器が大きさの順に並んでいた。
メグレは汗をぬぐった。敷居をまたいだところで、自分を探していたヌヴェールの警察の捜査官に出くわした10。


「来てくださいましたか。これでグルノーブルの妻のところへ行けます。昨日の朝、電話が来たときはちょうど休暇に出ようとしていたところでして」

「何かわかりましたか?」

「まったく何も。とんでもない事件ですよ。一緒に夕食をとりながら詳しくお話しします。詳細と呼べるものがあればの話ですが。盗まれたものは何もない。誰も何も見ていない、聞いていない。なぜこの人が殺されたのか、わかる人がいれば大したものです。一つだけ変わった点があります。たいした手がかりにはならないでしょうが。オテル・ド・ラ・ロワールに泊まるとき、名前をクレマン、オルレアン在住の資産家と名乗っていたということです」
ページ13の翻訳が完了しました。「続き(ページ14)」とおっしゃれば次を翻訳します。
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「一杯やりに行こう」とメグレは言った。
さっき夢のような避難場所に見えたテラスの雰囲気を思い出していた。ところが、いざ水滴のついたグラスのビールを前にすると、期待したほどの満足感はなかった。

「想像を絶するほどつまらない事件ですよ」と相棒がため息をついた。
「おわかりになりますよ。手がかりが何もない。普通と違うことは何もない。ただこの人が殺されたというだけで」
彼は、しばらく同じ調子でしゃべり続けたが、警部がほとんど聞いていないことに気づいていなかった。
街で一度すれ違っただけなのに、顔が忘れられない人がいる。
エミール・ガレについてメグレが見たのは、写真と顔の半分と青白い遺体だけだった。
それでも一番鮮明に頭に残っているのは写真だった。
メグレはその写真に命を吹きこもうとしていた。サン=ファルジョーの食堂で妻と向かいあうガレの姿、あるいは駅へ向かうために家を出る姿を思い描こうとした。
ふとした瞬間に顔の上半分がはっきりしてきた。目の下に鉛色のたるみがあったような気がした。

「肝臓を悪かったに違いない」とメグレはふとつぶやいた。

「肝臓病で死んだわけじゃありませんよ」とヌヴェールの捜査官はむっとして言い返した。「肝臓病で顔の半分が吹き飛んだり胸を刺し貫かれたりはしません」
広場の真ん中で、解体されたメリーゴーラウンドのそばに、射的場のランプが灯りはじめた。

- ピクピュス通り(rue de Picpus)は、パリ12区にある実在の通りです。パリ東部に位置し、ピクピュス墓地があることで知られています。フランス革命時に処刑された貴族たちが埋葬された歴史ある墓地です。
物語の冒頭で「六月二十七日の夜明けに、ピクピュス通りで女の行商人が殺されているのが発見された」という一文が出てきます。これはガレ事件とは別の殺人事件で、メグレが手薄な状況に追いこまれた理由の一つとして挙げられています。
つまりピクピュス通りの事件は物語の本筋とは関係なく、「その日のパリはスペイン国王の来訪対応と重なり、さらに別の殺人事件まで起きて、メグレが一人で何もかも対処しなければならなかった」という状況を説明するための背景として使われています。 ↩︎ - ヌヴェール(Nevers)は、フランス中部・ブルゴーニュ地方のニエーヴル県の県庁所在地です。パリから南へ約二百五十キロのところにあり、ロワール川のほとりに位置する歴史ある地方都市です。
この小説では、ガレが殺されたサンセールのホテルから「ヌヴェール発の電報」がパリのメグレのもとに届きます。サンセールとヌヴェールは同じロワール川流域で近いため、地元の警察(ヌヴェール署のグルニエ警部補)が最初に事件を担当していました。また後の章では、ヌヴェールの間接税検査官がメグレに重要な情報を提供する場面も出てきます。 ↩︎ - サン=ファルジョー(Saint-Fargeau)は、フランス・セーヌ=エ=マルヌ県にある小さな町で、パリから南東へ約三十五キロのところにあります。作中でメグレ自身、「一時間前まで存在も知らなかった」と言っているほど、当時は無名の田舎町でした。
物語では、ガレ家族の住まいがあるところです。ガレが自分で建てた「レ・マルグリット」というヴィラがあり、ガレ夫人と息子のアンリが住んでいます。駅を降りると、まだ開発途中の分譲地が広がっていて、完成している建物はほとんどなく、炎天下の中を二キロ近く歩かなければヴィラにたどり着けない、という描写がページ4に出てきます。
メグレにとってこの町は、捜査の重要な拠点の一つになっていきます。 ↩︎ - サンセール(Sancerre)は、フランス中部・シェール県にある丘の上の小さな町で、ロワール川のほとりに位置しています。ヌヴェールから北へ約四十キロ。白ワインの産地として有名な観光地で、夏は避暑客が多く訪れます。作中でも「夏の行楽客でにぎわう川沿いの町」として描かれています。メグレはトレーシー=サンセール駅で下車し、つり橋を渡ってロワール川を越えてたどり着きます。
**オテル・ド・ラ・ロワール(Hôtel de la Loire)**は、そのサンセールのロワール川沿いの埠頭に面した黄色い外壁のホテルです。作中では「二流のホテル」と表現されており、夏の観光客でほぼ満室の状態でした。オーナーはタルディヴォンという人物で、元料理人らしく物腰が少々大げさです。ガレはここに「クレマン」という偽名で宿泊しており、この部屋で殺害されたのがこの物語の発端になります。ホテルの隣には「イラクサの小道」と呼ばれる廃道があり、それが犯行の重要な舞台になっていきます。
オテル・ド・ラ・ロワール(Hôtel de la Loire)は、実在します!
サンセールから七キロほどのサン=チボー(Saint-Thibault)のロワール川沿いに現在も営業しており、三つ星ホテルです。
そして興味深いことに、文学好きな宿泊客のために「ジョルジュ・シムノン」という名前の客室があります。シムノンが実際にここに滞在し、メグレのある小説を執筆したからです。その作品は『ラクロワ姉妹』(Les Sœurs Lacroix)とされています。
つまり、シムノンはこのホテルに実際に泊まり、その体験をもとに「オテル・ド・ラ・ロワール」をこの作品の舞台として使ったわけです。トリップアドバイザーのレビューによると、このホテルにはメグレの小説を執筆中にシムノンが滞在したという歴史があり、昔からずっとホテルとして使われてきた場所だとのことです。
作家が実際に泊まったホテルが、そのまま殺人事件の舞台になっているというのは、なかなか面白い話ですね。
↩︎ - 水盤(vasque)とは、浅くて広い鉢型の水の容器のことです。噴水の根元などに置かれる装飾的な石や陶器の浅い鉢で、水が溜まるようになっています。
この場面では「モザイクタイル張りの水盤と噴水」と書かれており、分譲地の正面玄関にあたる広場に設置された装飾的な噴水設備です。まだほとんど何も建って いない荒れ地の分譲地なのに、入口の広場だけは立派な噴水が作られているという対比が、この分譲地の「見せかけの豊かさ」を象徴しています。
↩︎ - サン=ファルジョーの分譲地はまだ開発途中で、建物もほとんど建って いません。ところが区画図を見ると、まだ誰も歩いていない砂利道にすでに「〇〇大臣通り」「〇〇将軍通り」といった立派な名前がついている、という描写です。
これはシムノンの皮肉です。実態は荒れ地の砂利道に過ぎないのに、分譲業者が土地を売るために見栄えよく「歴史的な人物の名前」をつけて、いかにも格式ある住宅地のように見せかけている。中身が伴わないのに外見だけを飾るという「見せかけの豊かさ」です。
これはガレ家全体を象徴する描写でもあります。実態は貧しい小市民なのに、体裁だけは立派に見せようとするガレ夫人の生き方、そして商業外交員のふりをしながら詐欺師として生きていたガレ自身の二重生活——すべてが「見せかけ」でできている世界です。シムノンはこの分譲地の描写でさりげなくその主題を予告しています。 ↩︎ - ルーアン(Rouen)は、フランス北部・ノルマンディー地方のセーヌ=マリティーム県の県庁所在地で、パリから北西へ約百三十キロに位置する歴史ある大都市です。セーヌ川のほとりにあり、中世の街並みが美しく、ジャンヌ・ダルクが処刑された地としても有名です。
サンセールからはかなり遠いです。
直線距離で約二百六十七キロ離れており、道路距離では約三百三十キロあります。フランスの北部(ノルマンディー)と中部(ロワール川流域)という、まったく方向の違う場所にあります。
これがガレの「嘘」の核心です。ガレは妻に「ルーアンを拠点にノルマンディーで仕事をしている」と言いながら、実際にはサンセールにいた。ルーアンとサンセールは正反対の方向で、三百キロ以上も離れています。妻がこの矛盾に気づかなかったのは、ガレが巧みにルーアン消印の葉書を送り続けていたからです。二十年間もこの嘘を通し続けたわけで、それがこの事件の大きな謎の一つになっています。
↩︎ - クラブの紋章(écussons de plusieurs clubs)とは、ホテルが加盟している各種の旅行者協会や自動車クラブ、サイクリングクラブなどの団体のマークやエンブレムのことです。
一九三〇年代のフランスでは、ホテルの看板にこうした団体のマークを並べて掲げるのが一般的でした。たとえば、フランス自動車クラブ(Automobile Club de France)やツーリングクラブ・ド・フランス(Touring Club de France)などのマークです。これらのマークは「このホテルはこの団体に認定・登録されています」という品質保証の意味を持っており、旅行者が安心して泊まれる宿であることを示すものでした。
現代でいえばホテルの星の数やトリップアドバイザーのステッカーのような役割です。
ガレ夫人が「クラブの紋章に囲まれた看板」を見てまっすぐ入口に向かった場面は、彼女が格式を重んじる人物であることを示すさりげない描写です。
↩︎ - カボション(cabochon)とは、宝石の研磨方法の一つで、石の表面を丸く滑らかにドーム状に磨いたもののことです。ファセット(角を立てて多面体に切り出す方法)とは異なり、カットせずに丸く磨くだけなので、光をきらきらと反射するのではなく、ふっくらとした柔らかい光沢を持ちます。
偽ダイヤのカボション飾りは、ダイヤモンドに見せかけた安いガラスや人工石を丸く磨いてドーム状に仕上げた飾りのことです。
これもまたガレ家の「見せかけの豊かさ」を象徴する細部の一つです。本物のダイヤモンドならファセットカットで輝きを最大限に引き出すところを、偽物だからこそカボション仕上げの安っぽい飾りになっているわけです。シムノンらしい観察眼の鋭い描写です。
↩︎ - ページ3の冒頭の電報に「できればパリから捜査官を派遣してほしい(Si possible envoyer inspecteur de Paris)」とあり、ヌヴェール警察が自分たちだけでは手に負えないと判断してパリの司法警察(Police judiciaire)に応援を求めたのです。
フランスの警察組織は当時以下のように分かれていました。
ヌヴェール警察・憲兵隊——地元の初動捜査を担当。遺体の発見、現場保全、近隣への聞き込みなどを行いました。
司法警察(PJ)——パリに本部を置く国家レベルの捜査機関で、重大犯罪や複雑な事件を扱います。メグレはここに所属しています。
つまりこの事件は形式上はヌヴェール警察の管轄ですが、「詳細が奇妙で複雑(nombreux détails étranges)」とあったため、ヌヴェール側がパリの専門家に応援を要請した形です。グルニエがメグレに「あなたのほうに任せてよかった」と言って休暇に去っていくのも、地元警察が喜んでパリに主導権を渡した様子を表しています。
↩︎

