サン・フィアクル殺人事件|第一章 斜視の少女

サン・フィアクル殺人事件

L’Affaire Saint-Fiacre (Maigret XIII)

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月10日現在未作成)


扉を|遠慮がちに|かく音1。||床に|何かを|置く音。||ひそめた|声。


「五時半です!||最初の|ミサの|鐘が|鳴りました」


メグレは|肘を|ついて|上体を|起こし、|ベッドの|ばねを|きしませた。||そして、|傾いた|屋根に|開いた|天窓を|驚いたように|見つめていると、|その声が|また|言った。


「聖体拝領2を|なさいますか」


そのときには、|メグレ警部は|もう|立ち上がっていた。||裸足が|氷のように|冷たい|床板に|触れていた。||彼は|扉の|ほうへ|歩いた。||その扉は、|二本の|釘に|巻きつけた|紐で|閉まる|仕組みだった。||逃げていく|足音が|した。||彼が|廊下に|出たとき、|キャミソールと|白い|ペチコート姿の|女の|影を|ちらりと|見るのが|やっとだった。

そこで|彼は、|マリー・タタンが|持ってきた|湯の|入った|水差しを|拾い上げ、|扉を|閉め、|髭を|剃るための|小さな|鏡を|探した。

ろうそくは|もう|数分しか|もたなかった。||天窓の|向こうは、|まだ|完全な|夜だった。||冬の|初めの|冷たい|夜だった。||広場の|ポプラの|枝には、|枯れ葉が|いくらか|残っていた。

メグレは、|屋根が|両側から|傾いているため、|屋根裏部屋の|中央でしか|立っていることが|できなかった。||寒かった。||一晩じゅう、|どこから|入ってくるのか|わからない|細い|すきま風が、|彼の|首筋を|冷やしていた。

だが、|まさに|その寒さの|質が、|彼を|乱した。||忘れていたと|思っていた|空気の|中へ、|彼を|沈めていったのだ。

最初の|ミサの|鐘。||眠っている|村に|響く|鐘。||子供の|ころ、|メグレは|こんなに|早くは|起きなかった。||六時十五分前の|二度目の|鐘を|待っていた。||そのころは|髭を|剃る|必要が|なかったからだ。||顔を|洗ってさえ|いたのだろうか。


子どもの頃の|メグレには|お湯を|運んでくれる|者など|いなかった。||水差しの|水が|凍りついていることも|あった。||やがて|彼の靴が|凍てついた|道の上を|鳴り響いた。

今は|着替えながら、|宿の|食堂を|行ったり来たりする|マリー・タタンの|気配が|聞こえていた。|ストーブの|火格子を|ゆすり、|食器を|ぶつけ合わせ、|コーヒーミルを|回している。

上着を|着込み、|外套を|羽織った。||部屋を|出る前に、|財布から|一枚の|紙を|取り出した。|役所の|送り状が|ピンで|留めてあり、|こう|記されていた。

「ムーラン市警察。||パリ司法警察へ|参考までに|転送。」

続いて|方眼紙が一枚。|几帳面な|筆跡で。

殺人が|サン=フィアクル|教会3で|万霊節4の|第一ミサの|あいだに|行われる。

この紙は|何日も|オルフェーヴル河岸の|事務室を|たらい回しに|されていた。||メグレが|たまたま|目にとめ、|首をかしげた。


「サン・フィアクル、|マティニョンの|近くか」


「たぶん|そうでしょう。||ムーランから|こちらへ|回されてきたのですから」


そして|メグレは|その紙を|ポケットに|入れた。||サン・フィアクル!||マティニョン!||ムーラン!||彼にとっては|ほかの|どんな言葉よりも|なじみ深い|地名だった。

彼は|サン・フィアクルで|生まれた。||父は|その地の|城で|三十年間、|管理人を|務めていた。||最後に|そこへ|行ったのは、|ちょうど|父が|死んだ時だった。||父は|教会の裏手の|小さな墓地に|葬られた。

『殺人が|行われる。||第一ミサの|あいだに』

メグレは|前日に|到着していた。||泊まったのは|村で|ただ一軒の|宿屋、|マリー・タタンの|宿だった。

彼女は|メグレに|気づかなかった。||だが|メグレのほうは、|彼女の|目のせいで|すぐに|わかった。||昔、|斜視の|小さな女の子と|呼ばれていた|あの子だった。||ひ弱な|小娘が、|さらに痩せた|独身女になり、|斜視は|ますます|目立ち、|広間で、|台所で、|兎や鶏を|飼っている|中庭で、|休みなく|動き回って|いるのだった。


警部は|階下へ|降りた。||下は|石油ランプで|灯されていた。||隅に|食事の|支度が|してあった。|粗い|灰色の|パン。||チコリ入りコーヒーの|匂い、|煮立った|牛乳。


「今日みたいな日に|聖体拝領を|なさらないなんて、|いけませんよ!||それも|わざわざ|第一ミサに|行かれるのに。||ああ、|もう|二度目の|鐘が|鳴っています!」


鐘の声は|か細かった。||道を|歩く|足音が|聞こえた。||マリー・タタンは|台所へ|駆け込み、|黒い|ワンピースに|着替え、|糸の手袋5をはめ、|まげのせいで|まっすぐに|かぶれない|小さな帽子を|被った。


「食べ終わったら|ドアに|鍵を|かけてください」


「いや、|もう|準備できています」


女は|男性と|連れ立って|歩くことを|恥ずかしく|思っていた。||パリから来た|男性と!||彼女は|小柄で|前屈みに|なりながら、|冷たい|朝の空気の中を|ちょこちょこと|歩いた。||枯れ葉が|舞って|地面に|散った。||その|乾いた|かさこそいう音が|夜の間に|霜が|降りたことを|告げていた。

ほかにも|いくつかの|人影が|うっすらと|明かりのともる|教会の|扉に向かって|集まっていた。||鐘は|まだ|鳴り続けていた。||低い|家々の|窓に|いくつかの|明かり。||早朝ミサに|間に合わせようと|急いで|着替える|人々だ。

メグレは|昔の感覚を|取り戻していた。|冷気、|ひりひりする|目、|凍えた|指先、|コーヒーの|後味。||そして|教会に|入ると、|温かい|空気と|柔らかな|光が|どっとあふれ、|ろうそくと|乳香の|匂いが|漂った。


「お先に|ごめんなさい。||私の|祈禱台6が|ありますから」と|彼女は|言った。


メグレは|赤いビロードの|ひじ掛けのついた|黒い椅子を|見て、|斜視の少女の|母親である|年老いた|タタン婆さんのものだと|気づいた。

鐘つき係が|放した|ロープが|教会の奥で|まだ|揺れていた。||世話役は|ろうそくに|火を|灯し終えようと|していた。

眠そうな|顔ばかりの|この|幽霊のような|集まりには|何人いるのだろう。||せいぜい|十五人ほどだ。||男は|三人しかいなかった。|世話役と|鐘つき係と|メグレだけだ。

「犯行に及ぶ。」


ムーランでは|警察は|悪質ないたずらだと|思い、|気にかけなかった。||パリでは|警部が|出かけていくのを|見て、|不思議がられていた。

メグレには|祭壇の|右手にある|扉の向こうで|物音が|聞こえていた。||そして|そこで|何が|起きているかを|一秒ごとに|思い描くことが|できた。||聖具室、|遅れてきた|侍者の少年、|一言も|言わずに|祭服をまとい、|両手を合わせ、|祭壇へ向かう|司祭。||その後ろには|法衣に|足を|取られながら|ついていく|少年が|いた。

少年は|赤毛だった。||彼が|鈴を|鳴らした。||典礼の|祈りの|低い声が|始まった。

「第一のミサの|あいだに」

メグレは|影のような|人影を|一人ずつ|見ていた。||年老いた|女が|五人、|そのうち|三人は|自分専用の|祈禱台を|持っていた。||太った|農婦が|一人。||もっと|若い|農村の|女たちと、|子どもが|一人。

外で|自動車の|音が|した。||車の|扉が|きしむ|音。||小さく|軽い|足音。||そして|喪服の|婦人が|教会の|中を|端から端まで|横切った。

奥には|城の|人々のために|取ってある|一列の|聖職者席が|あった。||よく|磨かれた|古い木の、|硬い|席だった。||女は|そこへ|音もなく|腰を|下ろした。||農村の|女たちの|視線が|その姿を|追っていた。

『永遠の安息を|彼らに|与えたまえ、|主よ』

メグレは|まだ|司祭に|応答することも|できたかもしれない。||昔は|ほかの|ミサよりも|死者のための|ミサのほうが|好きだったことを|思い出して、|彼は|微笑んだ。||祈祷文が|短いからだった。||十六分で|終わった|ミサのことまで|覚えていた。

だが|もう|彼は|ゴシック風の|席に|座った|女から|目を|離せなくなっていた。||横顔が|かろうじて|見えるだけだった。||彼は|それが|サン・フィアクル伯爵夫人なのか|どうか、|ためらっていた。

『怒りの日、|その日は』

やはり|彼女だった。||しかし|彼が|最後に|見たとき、|彼女は|二十五、|六歳だった。||背が高く、|ほっそりした、|もの悲しげな|女で、|庭園の|遠くに|その姿を|見かけることが|あった。

そして|今では|もう|六十歳を|とうに|過ぎているはずだった。||彼女は|熱心に|祈っていた。||こけた|顔を|していた。||長すぎるほど|細い手で、|祈祷書を|強く|握りしめていた。


メグレは|藁敷きの椅子の|最後列に|陣取っていた。||大ミサでは|五サンチーム取られるが、|低ミサでは|無料の席だ。

「……第一ミサの|あいだに……」

最初の|福音書の朗読で|皆と一緒に|立ち上がった。||あちこちの|細かいものが|目に入り、|次々と|昔の|記憶が|よみがえった。||ふと|思った。

「死者の日には|同じ司祭が|三回|ミサを|行う」

かつては|二回目と|三回目の間に|司祭館で|食事を|とったものだ。||半熟卵と|山羊のチーズ!

ムーランの警察が|正しかったのかもしれない!||犯罪など|起きるはずがない!||世話役は|伯爵夫人から|四席ほど|離れた|聖歌隊席の|端に|腰を下ろしていた。||鐘つき係は|自分の|出し物を|見届けようとしない|興行主のように、|重い足音を|立てながら|立ち去っていた。

男は|もう|メグレと|司祭しか|いなかった。||若い|神秘主義者のような|燃える目をした|司祭だった。||メグレが|知っていた|老司祭とは|違い、|急ぎもせず、|詩節を|半分|省略することも|しなかった。

ステンドグラスが|白んできた。||外では|夜が|明けていた。||農場から|牛の|鳴き声が|聞こえた。

やがて|全員が|聖体奉挙7に|向かって|頭を|垂れた。||侍者の|細い|鈴が|チリンと|鳴った。

聖体拝領に|進まなかったのは|メグレだけだった。||女たちは|全員|手を|組み合わせ、|無表情の|顔で|拝領台へと|進み出た。||ホスチア8は|あまりにも|白く、|非現実的に|見えるほどだった。||一瞬|司祭の手に|渡ってから|消えていった。

ミサは|続いた。||伯爵夫人は|両手で|顔を|覆っていた。

天にまします|われらの父よ……

われらを|誘惑に|陥れることなく……

老婦人の|指が|ゆっくりと|開き、|やつれた|顔が|現れ、|祈祷書が|開かれた。

あと|四分!||祈祷、|最後の|福音書!||そうすれば|退出だ!||犯罪など|起きなかったことに|なる!

予告状には|確かに|こう|書いてあった。||第一ミサのあいだに、と。

もう|終わりだという|証拠に、|世話係が|立ち上がり、|聖具室へと|入っていった。


サン=フィアクル伯爵夫人は|再び|両手で|顔を|覆っていた。||動かなかった。||ほかの|老婆たちも|同じように|身動き一つ|しなかった。

『ミサは|終わりました』

その時になって|初めて、|メグレは|自分が|どれほど|緊張していたかを|感じた。||ほとんど|気づかぬうちに。||思わず|深いため息が|漏れた。||最後の|福音書が|終わるのを|焦れながら|待った。|外の|新鮮な|空気を|吸い、|人々が|動き回り、|とりとめない|話し声を|聞きたかった。

老婆たちが|一斉に|目覚めた。||教会の|冷たい|青いタイルの上で|足が|動いた。||農家の女が|一人|出口へ|向かい、|また|一人が|続いた。||世話役が|消し棒を|持って|現れ、|ろうそくの|炎が|消えて|青い煙の|細い筋が|立ち上った。

夜が|明けた。||灰色の|光が|隙間風とともに|中央通路へ|差し込んだ。

残る人影が|三人、|二人、|椅子が|動いた。|||もう|伯爵夫人しか|残っていなかった。||メグレの|神経が|焦れて|張り詰めた。

仕事を|終えた|世話役が|サン=フィアクル夫人を|見た。||一瞬|躊躇の色が|その顔に|浮かんだ。||同じ瞬間、|警部が|進み出た。

二人は|彼女の|すぐそばで、|その|微動だにしない|姿を|不審に|思いながら、|組み合わせた手に|隠された|顔を|見ようとした。||メグレは|おそるおそる|肩に|触れた。||すると|体が|かすかな|均衡を|失ったように|揺れ、|床に|崩れ落ち、|そのまま|動かなくなった。

サン=フィアクル伯爵夫人は|死んでいた。

遺体は|聖具室に|運ばれ、|三脚の椅子を|並べた上に|横たえられた。||世話役は|村の医者を|呼びに|走って|出ていった。

メグレは|自分の|存在が|場違いであることを|忘れていた。||若い司祭の|燃えるような|目に|疑念の色が|宿っているのに|気づくまで|しばらく|かかった。


「あなたは|何者ですか?||なぜ」


「司法警察の|警部|メグレです。」


彼は|司祭の顔を|正面から|見た。||三十五歳ほどの|整った|顔立ちだが、|その|厳しさは|昔の修道士の|激しい信仰を|思わせた。


深い動揺が|彼を|揺さぶっていた。||さっきより|力のない|声が|つぶやいた。


「まさか、|そんなことを|おっしゃるのでは?」


まだ|誰も|伯爵夫人の|服を|脱がせる|勇気は|なかった。||唇に|鏡を|当ててみたが、|無駄だった。||心臓の|音を|聞いたが、|もう|打っていなかった。


「傷は|見えん」


メグレは|そう|答えるだけだった。

そして|彼は|あたりを|見まわしていた。||三十年が|たっても、|何ひとつ|細部の|変わっていない、|動かぬ|ままの|その|光景を。||ミサ用の|小びんは|同じ|場所に|あり、|次の|ミサのために|用意された|祭服も、|侍者の|長衣と|白衣も|そこに|あった。

尖頭窓から|入ってくる|くすんだ|朝の|光が、|油ランプの|光を|薄めていた。

そこは|暑くもあり、|寒くもあった。||司祭は|恐ろしい|考えに|責め立てられていた。

惨事だ!||メグレには|最初、|その|意味が|よく|わからなかった。||しかし|子どものころの|記憶が、|空気の|泡のように|次々と|浮かび上がってきた。

『罪が|犯された|教会は、|司教によって|もう一度|清められなければ|ならない』

どうして|殺人など|ありえたのか?||銃声は|聞こえなかった!||誰も|伯爵夫人に|近づかなかった!||ミサの間じゅう、|メグレは|ほとんど|彼女から|目を|離さなかったのだ!

しかも|血は|流れていない。||見える傷も|ない!


「二度目の|ミサは|七時だったな?」


医者の|重い|足音が|聞こえてきたとき、|それは|救いだった。||血色の|よい|男で、|その|場の|空気に|圧倒され、|警部と|司祭を|かわるがわる|見た。


「死んでいるのか?」と|彼は|尋ねた。


それでも|医者は|ためらわず、|司祭が|顔を|そむける|あいだに、|胴着の|留め具を|外した。||教会の|中には|重い|足音が|響いた。||それから|鐘つきが|鐘を|動かし始めた。||七時の|ミサの|第一鐘だった。


「考えられるのは|塞栓ぐらいです。||私は|伯爵夫人の|かかりつけ医では|ありませんでした。||夫人は|ムーランの|同業者に|診てもらう|ほうを|好んでいましたから。||だが、|二、三度、|城館へ|呼ばれたことは|あります。||心臓は|ひどく|悪かったのです」

10


聖具室は|狭かった。||三人の|男と|死体だけで、|そこは|いっぱいだった。||七時の|ミサは|大ミサだったので、|二人の|侍者の|少年が|やってきた。


「夫人の車は|外に|あるはずだ!」と|メグレは|言った。||城へ|運んでやれ」


そして|彼は|司祭の|不安に|満ちた|視線が、|まだ|自分に|重く|のしかかっているのを|感じていた。||司祭は|何かを|察したのだろうか?||いずれにせよ、|聖具係が|運転手の|助けを借りて|遺体を|車へ|運んでいるあいだに、|司祭は|警部の|そばへ|近づいてきた。


「本当に|大丈夫なのですか。||私には|まだ|二つの|ミサを|あげなければなりません。||今日は|死者の日で、|信者たちが」


伯爵夫人が|塞栓症で|亡くなったのなら、|司祭を|安心させる|権利が|メグレに|あったのでは|ないだろうか?


「医者の|言葉を|聞いたでしょう」


「でも|あなたは|今日|ここへ、|よりによって|この|ミサに|来た」


メグレは|動揺を|見せまいと|努めた。


「偶然です。||父が|あなたの教会の|墓地に|眠っているので。」


そして|彼は|車の|ほうへ|足を|速めた。||それは|古い型の|クーペで、|運転手が|クランクを|回していた。||医者は|どうしたらよいのか|わからずにいた。||広場には|何人か|人がいて、|何が|起きているのか|理解できずに|いた。


「一緒に|来てください」


しかし|車内は|死体で|いっぱいだった。||メグレと|医者は|座席の|横に|身を|寄せ合った。


「私の|言ったことに|驚いて|おいでのようですね」と|まだ|すっかり|落ち着きを|取り戻していない|開業医が|つぶやいた。||「事情を|ご存じなら、|たぶん|おわかりに|なるでしょう。||伯爵夫人は」


彼は|黒い|お仕着せ姿の|運転手が、|うつろな|顔で|車を|走らせているのを|見て、|口を|つぐんだ。||車は|傾斜した|大広場を|横切っていた。||一方には|土手の|上に|建てられた|教会が|あり、|もう一方には|その朝、|毒を|帯びたような|灰色をしていた|ノートルダム池が|あった。

マリー・タタンの|宿屋は|右手に|あった。||村の|最初の|家だった。||左手には|樫の|並木道が|あり、|その|いちばん|奥には|城館の|暗い|かたまりが|見えた。

空は|一面に|同じ|色で、|スケート場のように|冷たかった。


「これから|いろいろ|もめますよ。||司祭が|あんな|ひどい顔を|しているのは、|そのせいです」

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医者の|ブシャルドンは|農民の|生まれで、|父も|農民だった。||茶色の|狩猟服に|長い|ゴム長靴を|はいていた。


「池へ|鴨を|撃ちに|出かけるところでした」


「ミサには|行かないのですか?」


医者は|片目をつぶって|みせた。


「それでも、|前の|神父さんとは|仲よく|やっていたんですよ。||だが、|今度の|神父さんは」


車は|庭園へ|入っていった。||いまでは|城の|細部が|見分けられた。||鎧戸で|ふさがれた|一階の|窓、|建物のうち|古い|部分として|残っている|二つの|隅の塔。

車が|玄関前の|石段の|そばに|停まると、|メグレは|地面すれすれの|鉄格子つきの|窓から|中を|のぞきこんだ。||すると、|湯気で|いっぱいの|台所と、|山鶉やまうずらの|羽を|むしっている|太った|女の|姿が|見えた。||運転手は|どうしてよいのか|わからず、|クーペの|扉を|開ける|勇気も|なかった。


「ジャンは|まだ|起きていないはずです」


「誰でも|いいから|呼びなさい。||この|屋敷には|ほかに|召使いは|いるのか」


メグレの|鼻は|つんと|冷えていた。||本当に|寒かった。||彼は|中庭に|立ったまま、|パイプに|煙草を|詰めはじめた|医者と|一緒に|待っていた。


「ジャンとは|誰だ?」


ブシャルドンは|肩をすくめ、|妙な|笑みを|浮かべた。


「じきに|お会いに|なりますよ」


「いいから、|誰なんだ?」


「若い男です。||感じのいい|若い男ですよ」


「親類か?」


「そう|お思いなら。||彼なりにはね。||まあ、|最初から|言ってしまった|ほうが|いいでしょう。||伯爵夫人の|愛人です。||表向きは|秘書ということに|なっています」


メグレは|医者の|目を|見つめていた。||彼と|一緒に|学校へ|通っていたことを|思い出していたのだ。||ただし、|誰も|メグレだとは|気づかなかった。||彼は|四十二歳に|なっていた。||体にも|肉が|ついていた。

城のことなら、|メグレは|誰よりも|よく|知っていた。||とくに|付属建物を。||ほんの|数歩|歩けば、|自分が|生まれた|管理人の|家が|見えるはずだった。

そして、|彼を|これほど|動揺させていたのは、|たぶん|そうした|記憶だった。||なかでも、|彼が|知っていた|サン=フィアクル伯爵夫人の|記憶だった。||当時の|彼女は、|庶民の|子どもだった|少年メグレにとって、|女性らしさの|すべて、|優美さの|すべて、|気高さの|すべてを|一身に|表した|若い女だった。

12


彼女は|死んでいた!||まるで|物のように|クーペに|押し込まれ、|足を|折り曲げなければ|ならなかった!||胸元の|ボタンさえ|留め直されず、|白い|肌着が|喪服の|黒から|はみ出していた!

「犯行に|及ぶ」

だが|医者は|塞栓症だと|言い張っている!||いったい|何者が|そんなことを|予見できたのか?||そして|なぜ|警察を|呼んだのか?

城の中では|人が|走り回っていた。||ドアが|開いては|閉まった。||半分しか|制服を|着ていない|執事が|正面玄関を|少し|開け、|踏み出すのを|ためらっていた。||その後ろに|パジャマ姿の|男が|現れた。||髪は|乱れ、|目は|疲れていた。


「何事だ?」


彼は、|そう|叫んでいた。


「ひも野郎です」


皮肉屋の|医者が|メグレの耳に|ぼそりと|言った。

料理女にも|知らせが|届いていた。||地下の|窓から|黙って|外を|見ていた。||屋根裏の|使用人部屋の|天窓が|いくつか|開いた。


「伯爵夫人を|寝室に|運ばないか!||何を|ぐずぐず|している!」


メグレは|憤慨して|怒鳴った。||何もかもが|冒涜に|思えた。||子どもの頃の|記憶と|あまりに|かけ離れていたから。||道義的な|不快感だけでなく、|体が|拒絶反応を|起こすほどだった。

「犯行に|及ぶ」

ミサの|二度目の|鐘が|鳴っていた。||人々は|急いでいるはずだ。||遠くから|馬車で|駆けつけた|農民も|いた!||墓地の|墓前に|供える|花を|持って。

ジャンは|近づく|勇気が|なかった。||ドアを|開けた|執事は|茫然と|立ち尽くすだけで|それ以上|何も|しなかった。


「奥様……|奥様が……」


執事が|口ごもった。


「いつまでも|そこに|置いておくつもりか!」


なぜ|医者が|皮肉な|笑みを|浮かべているのか。||メグレは|有無を|言わさず|命じた。

13


「さあ!|二人、|来い!||お前だ!」


運転手を|指さした。


「それと|お前!」


別の|使用人を|指さした。


「夫人を|寝室に|運べ!」


二人が|クーペの方に|かがみ込むと、|玄関ホールで|電話が|鳴り響いた。


「電話だ!||こんな時間に|妙だな!」


ブシャルドンが|ぼやいた。

ジャンは|出ようとしなかった。||茫然自失の|様子だった。||メグレが|中に|駆け込み、|受話器を|取った。


「もしもし!||ああ、|城だ」


すぐそこから|かけているような|はっきりした声が|聞こえた。


「母を|お願いします。||ミサから|戻っているはずで。」


「どなたです?」


「サン=フィアクル伯爵だ。||そんなことは|どうでもいい。||母を|出してくれ」


「ちょっと|待て。||どこから|かけているか|言ってくれますか?」


「ムーランだ!||だから、|くそっ、|いいから|早く」


「すぐに|来なさい!||その方が|いい。」


メグレは|それだけ|言って|電話を|切った。

そして|壁に|背を|押しつけ、|二人の使用人が|遺体を|運んで|通り過ぎるのを|待った。

  1. 扉をかくとは、フランスでは|他人の部屋を訪ねる際に、|特に|使用人が主人の部屋を訪ねる時など、|目下の者が|遠慮がちに存在を知らせる作法として、|ドアを|ノックするのではなく|爪で軽くひっかくことがありました。
    ノックよりも|はるかに|小さく|控えめな音で、|起こしてしまうかもしれないという|遠慮が|滲み出ている動作です。
    ↩︎
  2. 聖体拝領とは、カトリックの|ミサにおける|最も重要な儀式です。||イエス・キリストの|「最後の晩餐」に|由来するもので、|信者が|祭壇に進み出て、|司祭から|ホスチア(小麦粉で作った|薄い白い円形のパン)を|受け取ります。
    カトリックの信仰では、|このパンは|キリストの体に|変化していると|されます(化体説)。
    マリー・タタンが|早朝に|メグレに囁いた
    「聖体拝領を|受けられますか?」
    という問いかけは、|死者の日の|早朝ミサで|信者が|拝領するかどうかを|確認するもので、|当時の|フランス農村では|ごく自然な|朝の挨拶でした。
    ↩︎
  3. サン=フィアクル架空の村です。||しかしモデルとなったのは|実在するパレ=ル=フレジル村(Paray-le-Frésil)で、|ムーランの|北東約20キロに|位置する|アリエ県の村です。||まさにこの村にある城で|シムノンは|メグレという|キャラクターを|創り上げました。
    シムノンは|1922〜23年、|トラシー侯爵の|秘書として|パレ=ル=フレジルに|滞在しました。
    侯爵を|「第二の父」と|呼ぶほど|深く影響を受け、|その|土地と|城での生活の|知識が|後に|この小説の|舞台として|よみがえりました。
    つまり作中の|ジャン・メタイエ(伯爵夫人の秘書兼愛人)は|シムノン自身が|投影された|人物です。
    この|ブルボネ地方での|短い滞在が|シムノンに|決定的な|影響を与えました。||「存在すら|知らなかった世界の|啓示を受けた」と|後に語り、|農民の行動、|状況、|会話、|そして|ブルボネ地方の|凍えるような|風景を|スポンジのように|吸収した、と|記録されています。||この体験を経て|作家として|生きる|決意を|固めました。
    つまりこの小説は|シムノン自身の|青春の記憶を|メグレに|重ね合わせた、|きわめて|私的な|作品でもあります。
    ↩︎
  4. 万霊節は、カトリックで、亡くなったすべての信者の霊のために祈る日です。
    フランス語では Jour des morts、または Commémoration des fidèles défunts と言います。日付は通常、11月2日です。
    前日の 11月1日 は 万聖節、つまり Toussaint で、すべての聖人を記念する日です。これに対して、万霊節は、聖人に限らず、亡くなった人々、特に死者の霊のために祈る日です。
    ↩︎
  5. filは|「糸」「綿糸」を意味し、|gants de filは|木綿糸や|麻糸で|編んだ|薄手の手袋のことです。
    当時のフランス農村では、|ミサや|日曜礼拝など|正装が必要な場面に|女性が|身につける|礼儀作法の小物でした。||革手袋ほど|高価ではなく、|庶民の|女性が|「よそ行き」として|持つ|手袋です。
    マリー・タタンにとっては|おそらく|唯一の外出用手袋で、|黒いワンピースと|傾いた小帽子とともに|「精一杯の正装」を|表しています。||彼女の|つつましく|貧しい|暮らしぶりが|にじみ出る|小道具です。
    ↩︎
  6. 私の祈祷台とは、教会での「専用席」です。
    当時の|フランス農村の|教会では、|地主・貴族・有力者の家が|代々決まった席と|祈り台を|持つ慣習がありました。||賃貸料を|教会に|払って|確保する|「席の権利」(droit de banc)という|制度です。
    マリー・タタンが|持つ|祈り台は|母親の代から受け継いだもので、|「年老いたタタン婆さんの|赤いビロードの|ひじ掛けのついた|黒い椅子」と|原文に|描写されています。
    ↩︎
  7. 聖体奉挙(せいたいほうきょ)élévation(エレヴァシオン)は、司祭が|パンとぶどう酒を|キリストの体と血に|変える瞬間です。||司祭が|ホスチア(薄いパン)を|高く|掲げ、|信者は|頭を|垂れて|礼拝します。||侍者が|小さな鈴を|鳴らして|その瞬間を|知らせます。
    つまり|信者が|受け取る前の|準備段階です。
    聖体拝領(せいたいはいりょう)communion(コミュニオン)は、信者が|祭壇の|拝領台へ|進み出て、|司祭から|ホスチアを|直接|受け取る儀式です。||口を|開けて|舌の上に|置いてもらうのが|当時の作法でした。
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  8. ホスチア(Hostia)とは、ラテン語で|「いけにえ」を|意味します。||小麦粉と|水だけで|作った|薄くて|丸い|白いパンで、|直径は|数センチほどの|小さなものです。
    聖体拝領では、司祭が|ミサの中で|これを|キリストの体に|変え(聖体奉挙)、|信者の|舌の上に|直接|置きます。||当時は|手で|受け取ることは|許されていませんでした。
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