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ひとつの|とんちんかんな|出来事が|続いて、|滑稽な|状況に1なった。||若い女は|死体を|見つけるなり、|くるりと|振り返った。||ドアの|枠の中に|メグレの|大きな|シルエットが|見えた。||反射的な|連想が|働いた。||一方に|死体、|他方に|殺人犯。
目を|見開き、|体を|縮こまらせて、|叫ぼうと|口を|開け、|ハンドバッグを|取り落とした。
メグレには|言い訳している|暇はなかった。||片腕を|つかみ、|口に|手を|当てた。

「シッ!|誰かと|間違えています!|警察です」
言葉の|意味を|理解するまでの|間、|神経質な|女らしく|もがき、|噛みつこうとし、|後ろ向きに|かかとで|蹴り続けた。
絹が|裂ける|音がした。||ドレスの|肩紐だった。
やっと|静まった。||メグレは|繰り返した。

「騒がないで。|警察です。|家中を|騒がせる|必要は|ありません」
この事件の|特徴は、|こういう場合には|異例の|静けさだった。||二十八世帯の|住人が|死体の|周りで|普段どおりの|生活を|続けているこの|落ち着きぶりだった。
若い女は|身なりを|整えていた。


「彼の|愛人ですか?」
メグレに|険しい|目を|向けながら、|肩紐を|留める|ピンを|探していた。

「今夜|彼と|約束が|あったのですか?」
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「八時に|セレクトで。||一緒に|夕食を|とって|劇場に|行くはずでした」

「八時に|姿が|見えなくても|電話しなかったのですか?」

「しました!||受話器が|外れていると|言われました」
ふたりは|同時に|机の上の|それを|見た。||男が|前に|倒れたとき|弾みで|落としたのだろう。
中庭で|足音がした。||その夜は|小さな|音でも|鐘の下にいるように|響き渡った。||管理人が|死体を|見ないよう|敷居の|外から|呼んだ。

「警部さん、|近くの|署の方々が」

管理人は|彼らが|好きでなかった。||四、五人が|目立つのも|気にせず|やって来た。||ひとりは|面白い|話を|語り終えるところだった。||別の|ひとりは|事務室に|入るなり|尋ねた。

「死体は|どこだ?」
管轄署長が|不在のため|書記が|代理で|来ており、|メグレは|捜査の|指揮を|握りやすかった。

「部下は|外に|待たせておいてくれ。||検察局を|待っている。||住人に|気づかれないほうが|いい」
書記が|事務室を|一周している間、|メグレは|再び|若い女の|ほうを|向いた。

「お名前は?」

「ニーヌ。||ニーヌ・モワナールですが、|いつも|ニーヌと|呼ばれています」

「クーシェとは|長いのですか?」

「半年ほどです」

多くの|質問は|いらなかった。||観察するだけで|十分だった。||なかなか|きれいな|娘で、|まだ|駆け出しの|頃合いだ。||服は|いい店で|仕立てたものだ。||だが|化粧の|仕方、|バッグと|手袋の|持ち方、|人を|見る|攻撃的な|目つきが|ミュージックホールの|舞台裏を|物語っていた。

「ダンサーですか?」

「ムーラン=ブルー1に|いました」

「今は?」

「彼と|一緒に」
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彼女は|まだ|泣く|暇も|なかった。||あまりに|早く|事が|運んで、|現実の|感覚が|まだ|はっきりと|つかめていなかった。

「一緒に|住んでいたのですか?」

「完全には。||彼は|既婚者なので。||でも|まあ」

「住所は?」

「ピガール通り2の|オテル・ピガールです」
署の|書記が|言った。

「いずれにしても|盗難とは|言えませんね。」

「なぜ?」

「見てください!||金庫が|背後にあります。||鍵は|かかっていませんが、|死体の|背中が|扉を|開けるのを|邪魔しています!」
ニーヌは|バッグから|小さな|ハンカチを|取り出して|鼻をすすり、|目頭を|押さえていた。
次の|瞬間、|空気が|変わった。||外で|車の|ブレーキ音。||中庭に|足音と|声。||それから|握手、|質問、|騒がしい|やりとり。||検察局が|到着したのだ。||法医学医が|死体を|調べ、|写真班が|機材を|設置し始めた。

メグレには|居心地の|悪い|時間だった。||必要最小限の|言葉を|交わすと、|手を|ポケットに|突っ込んで|中庭に|出て、|パイプに|火をつけた。||暗がりで|誰かに|ぶつかった。||管理人だった。||見知らぬ人間が|家の中を|うろついているのを|黙って|見ていられないのだ。

「お名前は?」とメグレは|穏やかに|聞いた。

「ブルシエと|申します。||あの方たちは|長く|いるんですか?||ほら!||サン=マルク夫人の|部屋に|もう|明かりが|ありません。||眠られたんでしょう、|かわいそうに」
建物を|見回していた|警部は|別の|明かりに|気づいた。||クリーム色の|カーテン、|その|向こうに|女の|シルエット。||小柄で|痩せた、|管理人と|似た|体つきだった。||声は|聞こえなかった。||だが|声などなくても、|激しい|怒りに|とらわれているのは|一目瞭然だった。||ときに|微動だにせず、|見えない|誰かを|じっと|にらんでいる。||かと思うと|突然|しゃべり出し、|身振り手振りを|交え、|数歩|前に|出る。


「あれは|誰ですか?」
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「マルタン夫人です。||さっき|ご主人が|戻るのを|見ましたね。||ゴミ箱を|持って帰った|あの方です。||登録局の|役人で」

「いつも|喧嘩するんですか?」

「喧嘩じゃないんです。||怒鳴るのは|奥さんだけで。||旦那さんは|口も|きけないんですよ」
メグレは|ときおり|事務室に|目を|やった。||十人ほどが|慌ただしく|動き回っていた。||予審判事が|敷居の上から|管理人を|呼んだ。

「クーシェの|次の|責任者は?」

「支配人の|フィリップです。||近くに|住んでいます。||サン=ルイ島3です」
「電話は?」

「きっと|あると|思います」
電話で|話す声が|聞こえた。||上では|もう|マルタン夫人の|シルエットが|カーテンに|映っていなかった。||代わりに|ぼんやりした|人影が|階段を|降りてきて、|こそこそと|中庭を|横切り|通りへ|出て行った。||メグレは|山高帽と|ベージュの|オーバーで|マルタンと|わかった。

真夜中だった。||蓄音機を|かけていた|娘たちが|明かりを|消した。||事務室を|除いて|まだ|明かりが|あるのは、|二階の|サン=マルク家の|サロンだけだった。||元大使と|産婆が|消毒液の|薄い|匂いの中で|小声で|話していた。

◊
こんな|夜中にも|かかわらず、|フィリップが|現れたとき、|身なりは|きちんと|整っていた。||褐色の|顎鬚は|きれいに|整えられ、|灰色の|スエードの|手袋を|していた。||四十歳ほどで、|真面目で|育ちの|よい|知識人そのものの|風貌だった。

知らせを|聞いて|驚き、|動揺さえした。||だが|その|動揺の|中には、|どこか|含みが|あった。

「あの方の|生活を|考えると」と|彼は|ため息を|ついた。

「どんな|生活ですか?」

「クーシェの|悪口は|言いたくありません。||それに|悪く|言うべきことも|ありません。||ご自分の|時間は|ご自分のものでしたから」
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「ちょっと待て。||クーシェは|自分で|事業を|経営していたのですか?」

「まったくです。||立ち上げたのは|彼ですが、|軌道に|乗ると|責任の|すべてを|私に|任せました。||十五日も|顔を|見ないことが|ありました。||今日も|五時まで|待っていたんです。||明日は|支払日です。||クーシェが|三十万フランほどの|支払資金を|持ってくるはずでした。||五時に|やむを得ず|帰り、|机の上に|報告書を|置いてきました」
報告書は|そこにあった。||タイプされた文書が|死者の|手の下に。||ありふれた|内容だった。||従業員の|昇給と|配達員の|ひとりの|解雇の|提案、|ラテンアメリカ諸国での|広告計画、|など。

「では|三十万フランは|ここに|あるはずですね?」とメグレが|聞いた。

「金庫の中に。||クーシェが|開けた|証拠に|鍵がかかっていません。||鍵と|暗証番号を|知っているのは|彼と|私の|ふたりだけです」

だが|金庫を|開けるには|死体を|動かさなければ|ならず、|写真班の|作業が|終わるまで|待った。||法医学医が|口頭で|報告した。||クーシェは|胸に|銃弾を|受け、|大動脈が|断ち切られて|即死だった。||犯人と|被害者の|距離は|およそ|三メートルと|推定された。||弾丸は|最も|一般的な|口径、|6.35ミリだった。

フィリップ氏は|判事に|説明を|続けた。

「ヴォージュ広場には|この事務室の|奥に|ある|研究所だけです」
扉を|開けた。||ガラス屋根の|大きな|部屋に|何千もの|試験管が|並んでいた。||別の|扉の|向こうから|メグレは|物音を|聞いた。


「あれは|何ですか?」

「モルモットです。||右側が|タイピストと|従業員の|事務室です。||パンタン4にも|施設が|あって、|そこから|ほとんどの|出荷を|しています。||リヴィエール博士5の|血清は|世界中に|知られていますから」

「それも|クーシェが|立ち上げたのですか?」
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「ええ!||リヴィエール博士には|お金が|なかった。||クーシェが|研究に|資金を|出したんです。||十年ほど前に|今より|ずっと|小さな|研究所を|立ち上げました」

「リヴィエール博士は|今も|会社に?」

「五年前に|交通事故で|亡くなりました」
やっと|クーシェの|死体が|運び出され、|金庫の|扉を|開けると|どよめきが|起きた。||中の|金が|すべて|消えていた。||残っていたのは|業務書類だけだった。||フィリップ氏が|説明した。


「クーシェさんが|持ってきたはずの|三十万フランだけじゃない。||今日の午後に|入金された|六万フランも|なくなっています。||私が|輪ゴムで|束ねて|この仕切りに|入れておいたんです!」
死者の|財布には|何も|なかった。||いや、|マドレーヌの|劇場の|番号つきの|チケットが|二枚あった。||それを|見た|とたん、|ニーヌが|泣き崩れた。

「私たちの|ためのものだったのに!||一緒に|行くはずだったんです」
終わりだった。||混乱は|いっそう|激しくなっていた。||写真班は|かさばる|三脚を|たたんでいた。||法医学医は|戸棚の中に|見つけた|水道で|手を|洗い、|予審判事の|書記は|疲れを|隠さなかった。
しかし|しばらくの間、|この|喧騒の|中で、|メグレは|死者と|ふたりきりに|なった|ような|気がした。
がっしりした|体格の|男で、|どちらかというと|小柄で|ふっくらしていた。||ニーヌと|同じく、|仕立ての|いい|服や|マニキュアの|施された|爪、|オーダーメイドの|絹の|下着にも|かかわらず、|ある種の|粗野さを|ついに|拭い|去れなかったのだろう。
金髪が|薄くなりかけていた。||目は|おそらく|青く、|どこか|子供っぽい|表情を|していたに|違いない。

「いい男だったのに!」と|後ろで|声がした。

ニーヌは|泣きながら、|検察局の|人たちには|とても|話しかけられず、|メグレに|向かって|訴えるように|言った。

「本当に|いい人だったんです!||私に|何か|喜ばせたいと|思ったら|すぐに。||私だけじゃない、|誰に|対しても!||あんなに|気前よく|チップを|渡す人は|見たことが|ない。||それで|私は|よく|叱ったんです。||お人好しだと|思われるって。||そうしたら|彼は|こう|言うんです」
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『そんなこと、|どうだって|いいじゃないか』
メグレは|真剣な|顔で|聞いた。

「陽気な人でしたか?」

「どちらかというと|陽気でしたけど、|心の底では|そうじゃなかった。||わかりますか?||説明が|難しいんですが。||じっとしていられない人で、|何か|していないと。||じっとしていると|暗くなったり|不安そうになったり」

「奥さんは?」

「一度だけ|遠くから|見ました。||悪く|言うつもりは|ありません」

「クーシェは|どこに|住んでいたのですか?」

「オスマン大通り6です。||でも|たいていは|ムーラン7に|行っていました。||別荘が|あるので」
メグレは|すばやく|振り返った。||管理人が|入るのを|ためらいながら、|いつにも|増して|情けない|顔で|手招きしていた。

「あの!||降りてきます!」

「誰が?」

「サンマルク様(ムッシュー=ド=サン=マルク)が。||騒ぎを|聞きつけたんでしょう。||ほら!||こんな日に!||考えてみてください」
元大使は|ガウン姿で、|進むのを|ためらっていた。||検察局の|一行が|来ていると|わかったのだ。||担架に|乗った|死体が|彼の|そばを|通り過ぎた。

「何事ですか?」と|メグレに|聞いた。

「男が|殺されました。||クーシェ、|血清会社の|オーナです」
相手が|突然|何かを|思い出したように|はっとしたのを、|メグレは|感じた。

「ご存知でしたか?」

「いいえ。||つまり|噂は|聞いていましたが」

「それで?」

「何でもない!||何も|知りません。||何時ごろ……」

「事件は|八時から|九時の|間と|見られています」
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サン=マルクは|ため息を|つき、|銀髪を|なでつけ、|メグレに|会釈して|自分の|部屋へと|続く|階段へ|向かった。
管理人は|少し|離れた|ところに|いた。||それから|アーチ門の下で|前傾みになって|行き来している|人物の|そばへ|行った。||戻ってきた|管理人に|警部が|聞いた。

「あれは|誰ですか?」

「ムッシューマルタンです。||失くした|手袋を|探しているんです。||あの方は|手袋なしでは|絶対に|外に|出ないんですよ。||五十メートル先に|煙草を|買いに|行くときでも」
マルタンは|ゴミ箱の|まわりを|ぐるぐる|回り、|燃えかけの|薪に|火を|つけたりしながら、|やがて|あきらめて|部屋に|戻っていった。

中庭で|人々が|握手を|交わしていた。||検察局の|一行が|引き上げた。||予審判事は|メグレと|短く|言葉を|交わした。

「あとは|任せます。||もちろん|随時|報告を」
フィリップは|相変わらず|ファッション画から|抜け出たような|身なりで、|警部に|お辞儀をした。

「もう|よろしいですか?」

「明日また|来ます。||事務所に|いますよね?」

「いつもどおり。||九時ちょうどに」
ふいに|何か|胸に|迫るような|一瞬が|あった。||別に|何が|起きた|わけでも|ない。||中庭は|相変わらず|暗かった。||ランプが|一灯。||そして|埃っぽい|電球の|アーチ門。
外では|車が|エンジンを|かけ、|アスファルトを|滑り、|ヘッドライトが|一瞬|ヴォージュ広場の|木々を|照らした。
死体は|もう|なかった。||事務室は|荒らされた|あとの|ようだった。||誰も|明かりを|消すのを|忘れていて、|研究所は|夜間の|集中作業でも|するかのように|煌々と|灯っていた。
気がつくと|三人が|中庭の|真ん中に|残っていた。||一時間前まで|見知らぬ|同士だった、|三人の|まったく|似ていない|人間が、|それでも|不思議な|縁で|結びつけられたように|立っていた。

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さらによく言えば、葬儀が終わって|無関係な人たちが|帰った後、|ひとりきりで|残された|家族のようだった。
それは|メグレの|ふとした|印象に|すぎなかった。||くしゃくしゃに|なった|ニーヌの|顔と、|疲れ果てた|管理人の|顔を|交互に|見ながら。

「子供たちを|寝かせましたか?」

「ええ。||でも|眠れなくて。||不安なんです。||何かを|感じているみたいで」
ブルシエ夫人には|聞きたいことが|あった。||恥ずかしいような|気もするが、|彼女には|どうしても|知りたい|肝心な|問いだった。

「あの……|もしかして……」
視線が|中庭を|巡り、|消えた|窓々の|ひとつひとつに|止まるように|見えた。

「……犯人は……|この建物の中の|人間でしょうか?」

今度は|アーチ門を|じっと|見つめた。||十一時以降しか|閉まらない|あの|大きな|玄関口。||中庭と|通りを|つなぎ、|外の|見知らぬ|誰でもが|建物に|入れる|場所を。
ニーヌは|ぎこちない|様子で、|ときおり|警部に|素早い|視線を|投げていた。

「捜査が|お答えするでしょう、|ブルシエ夫人。||今のところ|確かなのは|一点だけです。||三十六万フランを|盗んだ人間と|殺した人間は|別だという|ことです。||少なくとも|そう考えられる。||クーシェが|背中で|金庫の|扉を|塞いでいたのですから。||ところで、|今夜|研究所に|明かりは|ついていましたか?」

「そうですね!||ええ、|たぶん。||でも|今ほどでは。||クーシェさんが|奥の|洗面所に|行くために|一、二灯|つけていたのでしょう」
メグレは|すべての|明かりを|消しに|行った。||管理人は|死体が|もう|ないにも|かかわらず|敷居の外で|待っていた。
中庭に|戻ると、|待っていた|ニーヌが|いた。||頭の上の|どこかから|物音がした。||ガラスを|かすめるような|音。
だが|すべての|窓は|閉まり、|すべての|明かりは|消えていた。
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暗がりの|どこかで|誰かが|動いた。||誰かが|部屋の|闇の中で|目を|覚ましていた。

「では|明日、|ブルシエ夫人。||事務所が|開く前に|来ます」

「一緒に|出ます!||馬車門を|閉めないと」
ニーヌは|歩道の縁で|言った。

「車が|あるのかと|思っていました」
なかなか|立ち去ろうと|しない。||地面を|見ながら|付け加えた。

「どちらに|お住まいですか?」

「ここから|すぐそこ、|リシャール=ルノワール大通りです」

「もう|地下鉄は|ないですよね?」

「ないと|思います」

「実は|打ち明けたいことが|あって」

「聞きましょう」
それでも|顔を|上げようと|しない。||後ろで|管理人が|閂を|引く音がして、|それから|管理人室へ|戻る|足音が|聞こえた。||広場に|人影は|なかった。||噴水が|歌っている。||区役所の|時計が|一時を|告げた。


「図々しいと|思われるかも。||どう思われるか|わかりませんが。||レイモンは|とても|気前が|よかったと|言いましたよね。||お金の|価値を|知らないくらい。||欲しいものは|何でも|くれました。||わかりますか?」

「それで?」

「馬鹿みたい。||なるべく|少なく|頼むようにして、|向こうから|思い出してくれるのを|待っていました。||それに|ほとんど|いつも|一緒にいたから、|何も|要らなかった。||今日も|一緒に|夕食のはずで。||それが!」

「すっからかん?」

「そういう|わけでも|ないんです!」と|彼女は|抗議した。||「もっと|間抜けな話で。||今夜|お金を|頼もうと|思っていたんです。||昼に|請求書を|払って」
言い出すのが|辛そうだった。||メグレが|少しでも|笑い顔を|見せたら|すぐ|引っ込もうと、|様子を|うかがっていた。

「彼が|来ない|などとは|思いもしなかった。||バッグに|少し|お金が|残っていて。||セレクト8で|待ちながら|牡蠣を|食べて、|それから|オマール海老も。||電話して。||ここに|着いたとき、|タクシー代が|ぎりぎりしか|残っていないと|気づいて」
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「ご自宅には?」

「ホテル住まいで」

「少しは|貯えが|あるかと|聞いているんです」

「私が?」
小さな|神経質な|笑い。

「何のために?||こんなことが|起きると|わかっていましたか?||わかっていても|そうは|したくなかった」
メグレは|ため息を|ついた。

「ボーマルシェ大通りまで|一緒に|来てください。||この時間に|タクシーが|拾えるのは|そこだけだから。||これから|どうするつもりですか?」

「何も。||その……」
それでも|体が|震えていた。||絹の|薄着一枚なのだから|無理も|ない。

「遺言状は|なかったんですか?」

「知りません。||何もかも|うまく|いっているときに、|そんなことを|考える人が|いますか?||レイモンは|いい人でした。||私……」
歩きながら|声も|立てずに|泣いていた。||警部は|百フラン札を|そっと|彼女の|手に|滑り込ませ、|通りかかった|車に|合図して、|両手を|ポケットに|突っ込みながら|ぶっきらぼうに|言った。

「また|明日。||ピガール通りの|ホテルでしたね?」
帰って|床に|就くと、|マダム・メグレは|うとうとしながら|かろうじて|目を|覚まして|ささやいた。

「夕飯は|食べたの?」
- ムーランブルー(Moulin-Bleu) というキャバレーは、1920〜30年代のパリに実在していたようです。Invisible Parisの記事では、1920年代から30年代に、ムーラン・ルージュの近くで営業していたライバル的な店として紹介され、所在地は 42, rue de Douai とされています。ムーラン・ルージュから200メートルほどの距離だったとも説明されています。
ただし、作中の「フォンテーヌ通りの楽屋口」と、実在資料で出てくる「42, rue de Douai」は完全には一致しません。考えられるのは、シムノンが実在の Moulin-Bleu を下敷きにしつつ、出入口や周辺地理を物語向けに少し動かした、あるいは当時の読者に「ピガール/モンマルトルの小劇場街」と分かる程度に使った、ということです。
ここで重要なのは、ムーラン・ルージュではないことです。名前は似ていますが、Moulin-Bleu はもっと小規模で、レビュー、オペレッタ、踊り子、楽屋口、バーといった、ニーヌのような女性が出入りする場として自然な場所です。Invisible Parisの記事でも、Moulin-Bleu は家庭的・小規模な運営で、レビューやオペレッタを上演し、舞台とバーの距離が近いような店だったと説明されています。
訳 ↩︎ - ピガール通りは、パリ9区と18区の境にある通りで、ピガール広場(Place Pigalle)に面したエリアです。
1930年代のピガールは、パリの歓楽街として知られていました。ムーラン・ルージュをはじめとするキャバレーや|ナイトクラブ、|ダンスホール、|安ホテルが|立ち並ぶ|庶民的で|猥雑な|界隈でした。
ニーヌが|ここに|住んでいることは|彼女の|境遇を|よく|物語っています。||ムーラン・ブルーで|踊り子を|していた女が|金持ちの|愛人に|養われながら|ピガールの|ホテルに|住んでいる。||華やかさと|危うさが|同居する|生活です。
一方|メグレの|自宅は|リシャール=ルノワール大通りで、|ピガールへは|路面電車で|行ける距離です。||この|対比も|シムノンが|意図したもので、|ヴォージュ広場の|格式、|メグレの|庶民的な|住まい、|ニーヌの|歓楽街の|ホテルという|三つの|場所が|この物語の|社会的な|地図を|描いています。
↩︎ - サン=ルイ島はフランス・パリの中心部を流れるセーヌ川の中州で、パリ4区に属し、シテ島と並んで「パリ発祥の地」とも称されています。ノートルダム大聖堂のあるシテ島のセーヌ川上流、東側に位置しています。
17世紀の貴族の館が建ち並ぶこの島は、パリで最もステータスの高い高級住宅地とされています。
古くから貴族や著名人が邸宅を構える高級住宅街として知られ、世界的大富豪ロスチャイルド家も邸宅を所有していました。セザンヌ、ボードレール、マリー・キュリーなども住んでいた島です。
小説との関係で言えば——
フィリップ氏が|サン=ルイ島に|住んでいるというのは、|彼が|相当な|高収入の|知識人であることを|示しています。||ヴォージュ広場と|同様、|パリでも|屈指の|格式ある|住所だからです。||しかも|ヴォージュ広場から|歩いて|十分ほどの|近い距離にあります。
↩︎ - パンタン(Pantin)はフランス、イル=ド=フランス地域圏のコミューンで、パリの北東の郊外にあり、パリ19区と接しています。
オスマン=セーヌ県知事が「パリ大改造」を進め、パリの町が美化・衛生化されるのと裏腹に、パンタンなどの郊外には工場や倉庫が多く造られました。
小説との関係で言えば——
ヴォージュ広場という|高級な住所に|事務所と|研究所の|看板を|構えながら、|実際の|製造・出荷拠点は|郊外の|工業地帯パンタンに|置いている——というのは、|当時の|パリの|企業の|典型的な|スタイルです。
ヴォージュ広場 → 格式ある|顔|(事務所・研究室)
パンタン → 実務的な|裏側|(大規模出荷施設)
クーシェが|いかにも|成功した|実業家らしく、|見栄えと|実務を|巧みに|使い分けていた様子が|わかります。
↩︎ - リヴィエール博士はシムノンが作った架空の人物です。
ただし「血清製造会社」という設定は|1930年代のパリとして|非常にリアルな背景です。
時代背景として:
1930年代は|パスツール研究所を|はじめとする|フランスの|血清・ワクチン研究が|世界的に|注目されていた|時代です。||ジフテリア、破傷風、狂犬病などの|血清療法が|普及しはじめており、|血清製造は|当時の|成長産業でした。
シムノンは|こうした|時代の|空気を|巧みに|取り込んで——
・研究者(リヴィエール博士)が|発明する
・実業家(クーシェ)が|資金を出して|商業化する
・支配人(フィリップ氏)が|実務を|仕切る
という|リアルな|企業構造を|作り上げています。||架空でありながら|説得力がある|のは|そのためです。
↩︎ - オスマン大通り(Boulevard Haussmann)は全長2.5キロメートル以上にわたるパリで最もエレガントな通りのひとつで、パリ8区と9区にまたがっています。
「オスマン」は人名で、パリ市を含むセーヌ県知事の名前です。1853年から1870年まで在職し、現在のパリ風景のもととなる都市計画を作りました。
精緻な装飾を施されたバルコンとアール・ヌーヴォー様式の丸天井で知られるギャラリー・ラファイエットや、プランタン・オスマンなどの有名デパートがあるショッピングの中心地です。
有名な作家マルセル・プルーストもこの通りの102番地に住み、代表作のほとんどを執筆しました。
小説との関係で言えば——
クーシェが|オスマン大通りに|自宅を|構えているというのは、|成功した|実業家として|当然の|選択です。||ヴォージュ広場に|事務所、|オスマン大通りに|自宅、|ムーランに|別荘という|三つの|拠点を|持つ|クーシェの|豊かな|生活ぶりが|よくわかります。
↩︎ - ムーラン(Meulan)は、パリの北西約40キロメートル、セーヌ川沿いにある小さな町です。現在は正式にはムーラン=アン=イヴリーヌという名称です。
1930年代のパリの裕福な実業家や上流階級にとって、セーヌ川沿いの小町に別荘を持つことは|一種の|ステータスでした。||ムーランは——
・パリから|適度に|離れた|静かな|セーヌ川沿いの|田園地帯
・週末や|夏の|避暑地として|人気
・ボートや|釣りなどの|レジャーが|楽しめる環境
クーシェの|生活パターンとして——
・平日 → オスマン大通りの|自宅に|滞在
・週末 → ムーランの|別荘へ
という|当時の|裕福な|パリ市民らしい|二重生活が|見えてきます。||のちの章でも|ムーランの|別荘が|捜査の|重要な|舞台と|なります。
↩︎ - ル・セレクト(Le Select)は、パリ6区モンパルナスにある実在のカフェ・レストランです。1923年の創業で、ヘミングウェイやフィッツジェラルドなど1920〜30年代の文人や芸術家が集ったことで知られる、当時のパリを代表するおしゃれな店でした。
ニーヌが|クーシェを|待ちながら|牡蠣と|オマール海老を|頼んでしまったのは、|彼が|必ず|来ると|信じて|疑わなかったからです。||お金の|計算など|頭に|なかった。||そのお金の|ない|間抜けで|無邪気な|一面が、|ニーヌという|人物の|愛らしさを|よく|表しています。
↩︎



