政治経済|サッカー日本代表は変わった。では、日本社会は?

日本

66月11日に開幕したサッカーワールドカップ北中米大会。日本代表はグループステージでオランダ、チュニジア、スウェーデンと対戦します。前回のカタール大会でドイツ・スペインを撃破し、世界を驚かせた日本チームが、今回どこまで行けるのか。多くの人が注目しています。

ところで、代表チームの強化の過程で語られた言葉が、サッカーを超えて日本社会そのものへの問いかけに聞こえてきます。「選手たちが主体的に考えて戦うチーム」「変化に柔軟に対応する」。森保一監督が繰り返してきたこの哲学は、じつはいまの日本全体が必要としていることではないでしょうか。

カタール大会の悔しさから始まった変化

2022年のカタール大会、日本はドイツとスペインという優勝候補を次々と破り、グループ首位で決勝トーナメントに進出しました。しかしラウンド16でクロアチアにPK戦の末に敗れ、悲願のベスト8には届きませんでした。

大会後も続投が決まった森保監督は、第2次体制のスタートとなった2023年3月の最初のミーティングで、選手たちに「ベスト8」を目指すと伝える一方、敗戦の悔しさを率直に打ち明けたといいます。「やりきった悔しさではなかった。もっと先に行きたい、もっと上に行ける、その思いが圧倒的に強かった」と語っています。

興味深いのは、その後に起きたことです。次の目標を決めたのは、監督ではありませんでした。選手たちが自主的に話し合い、遠藤航が意見をとりまとめ、「W杯優勝」を目標として監督に提案したのです。「W杯でどうやったら優勝できるかを考えて、行動してほしい」という遠藤の呼びかけがチーム全体の指針になりました。

目標を上から与えられたのではなく、選手たちが自分たちで設定した。この一点が、これまでの日本代表との決定的な違いでした。

「主体的」とはどういうことか

森保監督の言う「主体的に考えて戦う」というのは、ピッチ上の話だけではありません。チーム全体の文化として定着したことを、ある取材記事はこう表現しています。「常に自分たちが主体的にどうあるべきかというスタンダードが定着した」と。

その結果として何が起きたか。ドイツ、ブラジル、イングランドという世界の強豪相手の親善試合で勝利を収めても、選手の誰もはしゃがなかった、というエピソードが伝わっています。「W杯優勝」という高い目標があるから、強豪に勝っても通過点でしかない。そういう感覚がチームの中に自然と生まれたのです。

戦術面でも変化は起きています。カタール大会では守備的との評価もあった森保ジャパンは、その後、三笘薫や堂安律をウイングバックに配置する攻撃的なシステムへと進化しました。固定した戦い方にこだわらず、状況に応じて変化を選んでいます。

なぜサッカーでは変われたのか

ここで少し立ち止まって考えたいのは、「なぜサッカーでは、こうした変化が実現できたのか」という問いです。

答えの一つは明快です。サッカーには、変わらなければ負けるという即時のフィードバックがあるからです。相手チームはリアルタイムで戦術を変えてきます。前の試合で通用したやり方が、次の試合では通じないこともある。「昨日までの成功体験を捨てなければ、明日の勝利はない」という状況が、試合のたびに突きつけられます。

カタール大会でのPK負けは、「もっとできた」という具体的な悔しさを全員に植え付けました。その痛みが、選手たちを自発的な変化へと動かしました。外から与えられた使命ではなく、自分たちが感じた悔しさが出発点だったのです。

「外圧」ではなく「内発」から変化が始まった点が、今回の森保ジャパンの最も注目すべき点かもしれません。

日本社会には「即時のフィードバック」がない

では、社会全体ではどうでしょうか。

日本社会の構造的な問題——賃金が上がらない、生産性が低い、意思決定が遅い——は、誰もが認識しています。しかしサッカーと違い、「変わらなければ即座に負ける」という明確なフィードバックが来ません。賃金が上がらなくても企業は潰れず、政策が失敗しても政権は続き、問題が深刻化するまでに何十年もかかります。痛みが来るタイミングが遅すぎるのです。

歴史を振り返ると、日本が大きく変わった瞬間には必ず外からの強い衝撃がありました。明治維新の黒船、第二次大戦の敗北、1970年代のオイルショック。内側から自発的に変革が起きたのではなく、外から強制的に変えざるを得ない状況が作られたとき、日本は動いてきました。

「お上がなんとかしてくれる」という感覚、あるいは「自分一人が動いても変わらない」という諦めが、社会の変化を遅らせてきた背景にあります。戦後日本に輸入された「市民」という言葉は、フランス革命的な「権利を主張し、制度を問い返す主体」を意味していたはずですが、そうした能動的な市民意識が根付く機会が少なかったとも言えます。

それでも、サッカーが見せてくれたこと

悲観的な話ばかりではありません。森保ジャパンの変化は、「条件が整えば、日本人も主体的に動ける」という証明でもあります。

カタールでの明確な敗北体験、そして「もっと上に行ける」という選手たちの内発的な動機。この二つが重なったとき、選手たちは誰かに言われる前に動き始めました。監督もその動きを受け入れ、チームとして体制化しました。上意下達ではなく、全員が考えて動く組織が生まれたのです。

「W杯優勝を目指す」と宣言したことで、親善試合での強豪撃破も当然のことになりました。高い目標を自分たちで設定することが、日常の基準を底上げするという効果があったわけです。

翻って、日本社会に必要なのもこれではないでしょうか。誰かから与えられる目標ではなく、自分たちが「こうありたい」と設定する目標。そしてその目標に向けて、「自分はどう動くか」を一人ひとりが考えること。サッカーで起きたことが、経済や社会でも起きる可能性はあります。

変化は外から来るのを待つものではない。森保ジャパンが示したのは、そのことかもしれません。

ワールドカップが問いかけること

大会はすでに始まっています。日本の初戦・対オランダ戦(6月15日)はFIFAランキング7位の強豪相手で、客観的には日本が不利です。しかし2022年のカタール大会で格上のドイツ・スペインを破ったとき、誰がそれを予測していたでしょうか。

「格上には勝てない」という前提を、選手たちは疑うことから始めました。勝つためには何が必要か、自分たちに何ができるかを、主体的に考えました。その積み重ねが、あの番狂わせを生みました。

ただ、サッカーは負けても次の大会があります。社会の敗北は違います。少子化、財政悪化、産業競争力の低下——これらはすでに進行中です。完全に結果が出てからでは、取り返しのつかない局面になっているかもしれません。

日本社会も同じように、「構造的に変われない」「一人が動いても意味がない」という前提を疑うことができるでしょうか。森保ジャパンを応援しながら、そんなことを考えてみるのも悪くないように思います。