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彼女は|侮られまいと|身構えた|人間に|特有の|攻撃的な|威厳を|漂わせながら|メグレの前を|歩いた。


「おかけください、|奥さん!」
メグレは|ぼんやりした|目の|おっとりした|人物を|装って|彼女を|迎え、|窓の|青白い|四角に|よく|照らされた|椅子を|示した。||彼女は|控室で|とっていたのと|まったく|同じ|姿勢で|座った。
いかにも|威厳のある|姿勢だった。||戦闘態勢でも|あった。||肩甲骨は|背もたれに|触れていない。||黒い|絹糸の|手袋を|した|手は|空中で|揺れる|バッグを|離さずに|身振りできる|構えだった。

「警部さん、|なぜ|私が|こちらへ|参ったか|お聞きに|なるでしょう……」

「いいえ!」

最初の|接触で|こうして|相手の|出鼻をくじくのは、|メグレの|意地悪では|なかった。||偶然でも|なかった。||必要だと|わかっていたのだ。
メグレは|事務椅子に|どっかりと|背をもたれ、|かなり|無作法な|姿勢で|パイプを|うまそうに|くゆらせていた。
マルタン夫人は|はっとした。||いや、|正確には|体が|ぴんと|硬直した。

「どういう|意味ですか?||あなたは|まさか|こうなるとは|思っていなかったでしょう。||私は……」
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「いいえ!」
にこにこと|人のよい|笑みを|向けた。||とたんに|黒い|絹糸の|手袋の中で|指が|落ち着かなくなった。||鋭い|目が|室内を|ぐるりと|見回し、|マルタン夫人に|ひらめきが|来た。

「匿名の|手紙が|届いたんでしょう?」
確信めかした|偽りの|口ぶりで|断言するように|聞いていた。||これも|すでに|掴んでいる|人物像と|ぴったり|合う|特徴だったので、|警部は|さらに|大きく|微笑んだ。


「匿名の|手紙など|届いていません」
彼女は|懐疑的に|首を振った。

「信じられませんね」
まるで|家族の|アルバムから|飛び出して来たような|人物だった。

外見も|彼女が|結婚した|登録局員と|できるだけ|よく|釣り合っていた。||日曜の午後、|たとえば|シャンゼリゼを|ふたりで|歩いている|姿が|難なく|思い浮かんだ。||マルタン夫人の|黒い|張り詰めた|背中、|お団子のせいで|いつも|傾いた|帽子、|きびきびした|活動的な|女の|足早な|歩き方と|断定的な|言葉を|強調する|あごの動き。||そして|マルタンの|ベージュの|オーバー、|革手袋、|ステッキ、|落ち着いた|穏やかな|足取り、|ショーウィンドウで|立ち止まろうとして|歩きを緩める|様子。

「喪服が|手元に|ありましたか?」とメグレが|大きな|煙を|吐きながら|探るように|ひそやかに|聞いた。

「三年前に|妹が|亡くなりまして。||ブロワの|妹1です。||警察署長と|結婚していた|妹で。||つまり|あなたも|おわかりのように……」

「何が?」
何でもない!||警告したかっただけだ!||自分が|何者かを|思い知らせる時だと|思ったのだ!
この|鈍い|警部の|せいで|用意してきた|話が|すべて|無駄に|なり、|彼女は|苛立ちを|つのらせていた。

「最初の|夫の|死を|知ったのは|いつですか?」
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「ええ、|今朝です。||皆と|同じで。||あなたが|この件を|担当されていると|管理人から|聞いて、|私の|立場が|かなり|微妙なので。||わかって|いただけないかも|しれませんが」

「いいえ、|わかります!||ところで、|昨日の|午後、|息子さんが|訪ねてきませんでしたか?」

「何が|言いたいんですか?」

「別に!||ただの|質問です」

「管理人に|聞けば|わかります。||少なくとも|三週間は|来ていないと」
きっぱりした|口調だった。||目が|より|攻撃的に|なった。||最初から|彼女に|話を|させなかったのは|メグレの|失敗だったかもしれない。

「来てくださって|よかった。||あなたは|気遣いのできる|お方だ。」

「気遣い」という|言葉だけで|女の|灰色の|目に|何かが|変わり、|お礼の|つもりで|頭を|傾けた。

「とても|辛い立場|というものが|あります!||誰もが|わかってくれる|わけではない。||夫でさえ|喪服を|着るなと|言いました!||でも|形だけで。||ベールも|なし、|クレープも|なし。||ただ|黒い服というだけで」
メグレは|あごで|同意して|パイプを|テーブルに|置いた。

「離婚していて、|ロジェが|私を|不幸にしたからといって、|私が|そうしなければ|ならない|というわけでは……」
彼女は|自信を|取り戻しつつあった。||用意してきた|話に|少しずつ|近づいていた。

「特に|あのような|大きな|建物では!||二十八世帯も|いるんですよ!||どんな|人たちか!||二階の|方たちのことは|言いませんが!||それでも!||サン=マルク氏は|礼儀正しいけれど、|奥さんは|世界中の|金を|積まれても|人に|挨拶など|しない。||きちんとした|教育を|受けた|人間には|辛いものが|あります。」

「パリの|生まれですか?」

「父は|モーで|菓子屋2を|していました」

「クーシェと|結婚したのは|何歳のとき?」

「二十歳でした。||もっとも|両親は|店に|出させてはくれませんでしたが。||当時、|クーシェは|外回りを|していて、|十分|稼いでいると|言っていました。||妻を|幸せに|できると|言って」

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視線が|硬くなり、|メグレが|自分を|笑っていないか|確かめるように|目を細めた」

「彼と|いて|どれだけ|苦労したか、|話したくも|ありません!||稼いだ金は|すべて|馬鹿げた|投機に|つぎ込んで。||金持ちに|なると|言い張って。||一年に|三回も|仕事を|変えるので、|息子が|生まれたとき|貯金が|一銭も|なくて、|産着代は|母が|払う|羽目に|なりました」

ようやく|傘を|机に|立てかけた。||前夜、|カーテンの|影絵で|見た|あの|激しい|口調で|話しているに|違いないと|メグレは|思った。

「妻を|養えない|男は|結婚すべきでは|ありません!||それが|私の|考えです!||しかも|プライドも|ない!||クーシェが|やった|仕事を|全部|数えるのも|恥ずかしいくらいで。||年金のある|きちんとした|仕事を|探しなさいと|言いました。||たとえば|公務員とか!||何か|あっても|私が|路頭に|迷わないように。||でも|とんでもない!||ツール・ド・フランスに|何かの|係として|ついて行ったり。||先乗りで|補給の|準備か|何かを|するとか!||帰ってくれば|一文なし!||それが|あの|男です!||それが|私の|生活でした!」

「どこに|住んでいましたか?」
「ナンテール3です!||街中に|住む|お金も|なかったので。||クーシェを|ご存知ですか?||あの男は|気にも|しない!||恥ずかしくも|ない!||心配も|しない!||金持ちに|なる|運命だから|必ず|なってみせると|言い張って。||自転車の|次は|時計の|鎖。||いや|信じられませんよ!||露店で|時計の|鎖を|売っていたんですよ!||妹たちは|ニューイの|縁日で|あの男に|会うのが|恥ずかしくて|行けなくなって」


「離婚を|求めたのは|あなたですか?」
恥じらうように|頭を|下げたが、|表情は|依然として|神経質だった。
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「マルタンは|同じ|アパルトマンに|住んでいました。||今より|若くて、|公務員として|いい仕事に|就いていました。||クーシェは|いつも|私を|ひとりにして|冒険に|出かけていました。||でも|やましいことは|何も|ありません!||夫に|話して。||離婚は|性格の不一致|ということで|協議離婚でした。||クーシェは|子供の|養育費だけ|払うことに|なっていました。
マルタンと私は|結婚まで|一年|待ちました」
今や|椅子の上で|落ち着かなくなっていた。||指が|バッグの|銀の|取っ手を|いじり続けた。

「わかりますか、|私は|運が|なかった。||最初、|クーシェは|養育費さえ|きちんと|払わなかった!||気位の|高い|女にとって、|二番目の|夫が|自分の|子でも|ない|子供の|養育費を|払うのを|見るのは|辛いものです」
メグレは|眠っていなかった。||半眼で、|消えた|パイプを|くわえたままだったが。

場の|空気が|重くなっていた。||女の|目が|潤んできた。||唇が|不穏な|震え方を|し始めた。

「私が|どれだけ|苦労したか|わかるのは|私だけです。||ロジェに|勉強させました。||きちんとした|教育を|受けさせたかった。||父親とは|違いました。||優しくて|繊細な子でした。||十七歳のとき、|マルタンが|銀行に|就職口を|見つけてくれました。||でも|そのころ|どこかで|クーシェと|会って」

「父親に|金を|無心するように|なった?」

「クーシェは|私には|いつも|何でも|断っていたんですよ!||私には|何でも|高すぎると。||服は|自分で|仕立てて、|帽子は|三年|同じものを|使いました。」

「ロジェには|欲しいものを|何でも?」

「甘やかしました!||ロジェは|独立して|出て行って。||ときどきは|まだ|私の|ところに|来ます。||でも|父親の|ところにも|行っていたんです!」

「ヴォージュ広場に|住んで|どのくらいですか?」

「八年ほど。||アパルトマンを|見つけたとき、|クーシェが|血清の|仕事を|しているとは|知らなかった。||マルタンは|引っ越したいと|言いました。||とんでもない!||出て行くべきは|クーシェでしょう!||いつの間にか|金持ちに|なって、|運転手つきの|車で|乗りつけるように|なったクーシェが。||運転手まで|いたんですよ。||奥さんにも|会いました。

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「彼女の家で|ですか?」

「どんな人か|見てやろうと|歩道で|張り込みました。||何も|言いたくありません。||アストラカン4の|コートを|着て|気取っていても、|たいしたものでは|ありませんでした」

メグレは|額に|手を|当てた。||強迫的に|なってきた。||十五分も|同じ|顔を|見続けて、|もう|網膜から|消えない|気がしてきた。
痩せた|色の|薄い|顔、|繊細で|よく|動く|目鼻立ち。||諦めた|苦しみしか|表したことが|ないような|顔だった。
これもまた|家族の|肖像画を、|いや|自分の|家族さえも|思い出させた。||マルタン夫人より|太っていたが、|やはり|いつも|嘆いていた|叔母が|いた。||子供の|ころ、|叔母が|来ると|座るや|否や|バッグから|ハンカチを|取り出すのが|わかっていた。
「かわいそうな|エルマンス!||なんて|暮らしでしょう!||ピエールが|また|やったことを|聞いて|ちょうだい」
そして|叔母も|同じ|よく|動く|仮面のような|顔、|薄すぎる|唇、|ときに|錯乱の|ひらめきが|過ぎる|目を|していた。
マルタン夫人は|突然|話の|糸を|見失った。||落ち着かなくなった。

「わかって|いただけたでしょう、|私の|立場が。||もちろん|クーシェは|再婚しました。||それでも|私は|彼の|妻でした。||いちばん|辛かった|年月を|共に|過ごした。||今の|妻など|ただの|人形です」

「遺産に|請求する|つもりですか?」

「私が!||とんでもない!||あの男の|お金など|絶対に|いりません!||私たちは|裕福では|ありません。||マルタンは|積極性が|なくて、|自分を|売り込めなくて、|自分より|頭の|悪い|同僚に|出し抜かれてばかりで。||でも|家政婦に|なっても|あの男の|金は……」

「ロジェに|知らせるために|ご主人を|行かせたんですか?」
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彼女は|青ざめなかった。||青ざめることが|できないのだ。||顔色は|いつも|一様な|灰色のままだった。||しかし|視線が|揺らいだ。

「どうして|ご存知なんですか?」
そして|突然|憤慨して——

「まさか|尾行|されているんじゃ|ないでしょうね!||もしそうなら|上に|訴えますよ!」

「落ち着いてください。||そんなことは|言っていません。||たまたま|今朝|マルタンさんに|お会いしただけです」
それでも|彼女は|警戒し続け、|愛想なく|警部を|観察していた。

「来たことを|後悔しそう!||こちらは|誠意を|持って|来たのに、|感謝されるどころか……」

「このご来訪には|心から|感謝しています」
それでも|何かが|うまく|いっていないと|感じていた。||大きな|肩、|太い|首、|何も|考えていないような|無邪気な|目で|こちらを|見ている|この|大男が|怖かった。

「いずれにしても」と|甲高い|声で|言った。||「管理人から|聞くより|私が|直接|来た|ほうが|よかったでしょう。||どうせ|いつかは|お耳に|入るんですから、|私が……」

「クーシェの|最初の|奥さんだと|いうことですね」

「もう|一方の|奥さんには|会いましたか?」
メグレは|笑いを|こらえるのに|苦労した。

「まだです」

「嘘泣きするでしょうよ!||でも|今は|のんびりしたもの。||クーシェが|稼いだ|何百万という|お金で!」
すると|突然|泣き出した。||下唇が|持ち上がり、|顔つきが|変わって、|とがりすぎた|表情が|消えた。


「あの女は|彼が|苦労していた|ときを|知らない。||励ます|女が|必要だった|ときを」
ときおり|押し殺したような|嗚咽が、|波紋絹の|リボンで|締め付けられた|痩せた|喉から|かすかに|漏れた。
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彼女は|立ち上がった。||何か|忘れ物が|ないか|確かめるように|周りを|見回した。||鼻を|すすった。

「でも|そんなことは|どうでも|いいんです」
涙の|中に|苦い|微笑み。

「いずれにしても|義務を|果たしました。||あなたが|私を|どう|思われるかは|わかりませんが……」

「それは|もちろん……」
彼女が|自分で|続けなければ|メグレは|言葉に|詰まっていたところだった。

「どうでも|いい!||私には|良心が|あります!||誰でも|そう|言えるわけでは|ありません」
何かが|足りなかった。||何かは|わからない。||もう一度|ぐるりと|見回し、|手を|動かした。||空っぽの|手を|見て|驚いたように。
メグレは|立ち上がって|ドアまで|見送った。

「お越し|いただき|ありがとうございます」

「すべきことを|したまでです」
廊下では|刑事たちが|笑いながら|話していた。||彼女は|そのグループの|そばを|頭も|向けずに|威厳を|保って|通り過ぎた。

ドアを|閉めると、|メグレは|窓の|ほうへ|歩き、|寒いにも|かかわらず|大きく|開け放った。||手強い|犯人を|尋問した|後のように|疲れていた。||普段なら|目を|向けたくない|生活の|側面を|見せられたときの、|漠然とした|不快感が|あった。
劇的でも|なかった。||胸が|悪くなるほどでも|なかった。
彼女は|特別なことは|何も|言わなかった。||警部に|新しい|地平を|開いた|わけでも|なかった。
それでも|この|面談から|何か|うんざりした|感覚が|漂っていた。
机の|隅に|開いた|警察広報が|あり、|指名手配中の|二十人ほどの|顔写真が|載っていた。||ほとんどが|粗暴な|顔つきで、|退廃の|刻印を|押されたような|顔だった。

「エルンスト・ストロヴィッツ、|ブヌヴィル街道上での|農婦殺害により|カン検察局より|欠席裁判で|有罪判決」
赤字で|注意書き——
「危険人物。||常に|武装。」
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命がけで|抵抗する|凶悪犯の|ほうが|まだよかった。||この|ねっとりした|灰色の|鬱陶しさより、|家族の|ごたごたより、|まだ|説明も|つかないが|悪夢のような|予感のする|この|事件より。
頭から|離れない|映像があった。||日曜の|シャンゼリゼを|歩く|マルタン夫妻の|姿。||ベージュの|オーバーと|女の|首元の|黒い|絹の|リボン。
ベルを|押すと|ジャンが|現れた。||事件に|関わる|全員の|身上書を|持って|くるよう|言いつけた。
たいした|ことは|なかった。||ニーヌは|一度だけ、|モンマルトルの|手入れで|捕まったが、|売春で|生計を|立てていないと|証明して|釈放されていた。
クーシェの|息子は|賭博課と|風俗犯罪課に|麻薬売買の|疑いで|目を|つけられていたが、|具体的な|証拠は|何も|なかった。
風俗警察に|電話した。||セリーヌの|本名は|ロワゾーといい、|サン=タマン=モンロンの|生まれで、|風俗警察では|よく|知られていた。||登録証を|持ち、|定期的に|診察に|来ていた。
「悪い娘じゃない」と|担当が|言った。||「たいていは|一、二人の|決まった|男と|付き合うだけだ。||男に|捨てられて|お金に|困ったときだけ|また|うちに|引っぱられる」
事務員の|ジャンが|まだ|部屋に|いて、|何かを|示した。


「あの|奥さん、|傘を|忘れています!」

「知っている」

「は?」

「必要なんだ」
メグレは|ため息を|つきながら|立ち上がり、|窓を|閉め、|考えを|まとめたいときの|いつもの|姿勢で|暖炉に|背を|向けて|立った。

◊
一時間後、|机の上に|広がった|各部署からの|情報を|頭の中で|まとめることが|できた。
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まず|法医学医の|見解を|裏づける|解剖の|結果から。||発砲は|約三メートルの|距離から|行われ、|死は|即死だった。||死者の|胃には|少量の|アルコールが|あったが、|食物は|なかった。
司法庁の|屋根裏で|作業していた|身元確認局の|写真班は、|有効な|指紋は|一つも|採取できなかったと|報告した。
クレディ・リヨネ銀行は、|顔なじみの|クーシェが|三時半ごろ|本店に|来て、|毎月末の|前日の|慣習どおり|新札で|三十万フランを|引き出したと|証言した。

つまり|ヴォージュ広場に|着いたとき、|クーシェは|三十万フランを|金庫に|入れた。||そこには|すでに|六万フランが|あった。
まだ|仕事が|残っていたので|金庫の|扉を|閉めずに、|背中を|もたれかけていた。
研究所の|明かりは、|ある時点で|クーシェが|事務室を|離れたことを|示していた。||他の|部屋を|見回りに|行ったか、|より|可能性が|高いのは|洗面所に|行ったかだ。
席に|戻ったとき、|金は|まだ|金庫に|あったか?
おそらく|なかった。||もし|あったなら、|犯人は|重い|扉を|開けて|札を|奪うために|死体を|横に|どかさなければ|ならなかったはずだ。
これが|事件の|技術的な|側面だった。||殺しながら|盗んだ|一人の|犯人か、|それとも|殺した者と|盗んだ者が|別々に|動いたのか?
メグレは|予審判事の|ところで|十分ほど|捜査の|結果を|報告した。||正午を|少し|過ぎて|帰宅すると、|肩を|丸めていた。||不機嫌の|サインだ。

「ヴォージュ広場の|事件を|担当しているの?」と|新聞を|読んでいた|妻が|聞いた。

「そうだ!」
そして|メグレは|独特の|座り方で|メグレ夫人を|見た。||いつもより|増した|愛しさと、|かすかな|不安が|入り混じった|目で。

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メグレの|頭に|まだ|マルタン夫人の|痩せた|顔、|黒い|服、|苦しみに|満ちた|目が|浮かんでいた。
そして|突然|あふれ出て、|内側の|火に|燃やされるように|消えて、|また|少し後に|戻ってくる|あの|涙!
毛皮を|持つ|クーシェ夫人。||持たない|マルタン夫人。||ツール・ド・フランスの|選手に|食料を|補給していた|クーシェと、|同じ|帽子を|三年|使い続けなければ|ならなかった|最初の|妻。
そして|息子。||ピガールの|ホテルの|ナイトテーブルの|上の|エーテルの|瓶。
決まった|男が|いなくなった|ときだけ|街に|出る|セリーヌ。
そして|ニーヌ。

「浮かない|顔ね。||顔色が|悪い。||風邪を|ひきそうね」
そのとおりだった!||メグレは|鼻の中が|ひりひりして、|頭の中が|空洞のような|感じがしていた。

「その傘は|何?||持って|帰ってきて。||ひどい|傘ね!」

マルタン夫人の|傘だ!||日曜の|シャンゼリゼを|歩く|マルタン夫妻——ベージュの|オーバーと|黒い|絹の|ワンピース!

「何でも|ない。||何時に|帰れるか|わからない!」
◊
説明の|つかない|印象というものが|ある。||建物の|ファサードから|すでに、|何か|異常な|空気が|漂っているのが|感じられた。
ガラス玉の|葬儀用花環を|売る|店の|騒ぎは?||もちろん|住人たちが|花環を|贈るために|カンパを|したのだろう。
アーチ門の|向こうに|店を|開く|婦人向け|美容師の|不安そうな|視線は?
いずれにしても、|その日の|建物は|病んだような|空気を|漂わせていた。||四時で|夜が|落ちはじめており、|アーチ門の|下の|みすぼらしい|小さな|電球が|すでに|灯っていた。

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広場の|公園の|番人が|柵を|閉めていた。||2階では|サン=マルク家の|従僕が|ゆっくりと|几帳面に|カーテンを|引いていた。
管理人室の|ドアを|ノックすると、|ブルシエ夫人が|デュファイエル5の|集金人に|事件の|話を|していた。||集金人は|青い|制服に|小さな|インク壺を|首から|ぶら下げていた。

「何も|起きたことの|ない|建物なのに。||しっ!||警部さんよ」
マルタン夫人と|どこか|似ていた。||ふたりとも|年齢も|性別も|感じさせない|女だった。||ふたりとも|不幸だったか、|少なくとも|そう|思っていた。
ただ|管理人には|それに|加えて、|ほとんど|動物的な|諦めが|あった。

「ジョジョ!||リリ!||邪魔に|なるところに|いないで!||こんにちは、|警部さん。||今朝|お待ちして|いたんですよ。||大変なことに|なってしまって!||住人全員に|花環の|カンパの|紙を|回したんですが、|よかったでしょうか?||葬儀は|いつですか?||そうそう、|サン=マルク夫人の|ことですが|あの方には|何も|言わないで|ください。||今朝|ムッシュー=サン=マルクが|いらして、|今の|状態で|心配させたくないと|おっしゃって」
青みがかった|空気の|満ちた|中庭に、|アーチ門の|電球と|壁に|埋め込まれた|ランプの|ふたつが|長い|黄色い|光の筋を|落としていた。

「マルタン夫人の|部屋は?」とメグレが|聞いた。

「3階の、|曲がり角を|過ぎて|左側の|三番目の|ドアです」
明かりは|ついているが|カーテンに|影が|映っていない|窓を|メグレは|確認した。||研究所の|ほうから|タイプライターの|音が|聞こえていた。||配達員が|やってきた。

「リヴィエール博士の|血清会社は?」

「中庭の|奥!||右側の|ドア!||ジョジョ、|妹に|ちょっかいを|出すのは|やめなさい!」
メグレは|マルタン夫人の|傘を|小脇に|抱えて|階段を|上がった。||2階までは|建物が|改装されており、|壁は|塗り直され|階段は|ニスが|塗られていた。

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3階からは|別の|世界だった。||汚れた|壁、|荒れた|床。||部屋の|ドアは|醜い|茶色に|塗られていた。||ドアには|名刺が|ピンで|留めてあるか、|小さな|アルミの|浮き彫り|プレートが|ついていた。
百枚三フランの|名刺6
『エドガール・マルタン夫妻』
右側に|三色の|組み紐の|引き紐が|あり、|先端に|くたびれた|房飾りが|ついていた。||引くと|細い|ベルの|音が|部屋の|空虚に|響いた。||すぐに|足音が|した。||声が|聞こえた。

「どなたですか?」

「傘を|お返しに|来ました!」
ドアが|開いた。||玄関は|一メートル四方の|小さな|空間で、|ベージュの|オーバーが|コート掛けに|ぶら下がっていた。||正面の|開いた|ドアの|向こうは|居間と|食堂を|兼ねた|部屋で、|食器棚の|上に|ラジオが|あった。


「お邪魔して|申し訳ありません。||今朝|私の|事務所に|傘を|忘れていかれましたので」

「まあ!||バスに|置き忘れたと|思っていたんです。||マルタンに|そう|言っていたところで」
メグレは|笑わなかった。||夫を|苗字で|呼ぶ|癖の|ある|女には|慣れていた。
マルタンが|そこにいた。||縦縞の|ズボンの|上に|チョコレート色の|厚い|生地の|部屋着の|上着を|羽織っていた。

「どうぞ|お入りください」

「お邪魔では|なければ」

「隠すことなど|何もない|人間は、|邪魔だとは|思いませんよ!」
部屋の|特徴は|何より|まず|匂いだ。||ここは|床ワックスと|料理と|古い|服の|匂いが|混ざった|こもった|匂いだった。
カナリヤが|籠の中で|はねまわり、|ときおり|水滴を|外に|飛ばしていた。

「マルタン、|警部さんに|肘掛け椅子を!」
肘掛け椅子!||一脚だけの、|ボルテール型の|黒ずんで|見えるほど|濃い|革張りの|椅子だった。
マルタン夫人は|今朝とは|打って|変わって|愛想よく|媚びるように|言った。

「何か|お飲みに|なりませんか?||遠慮なく!||マルタン!||食前酒を|持ってきて!7」
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マルタンは|困った様子だった。||家に|なかったのかも|しれない。||瓶の底にしか|残っていなかったのかも|しれない。

「ありがとうございます。||食事前には|飲まないことに|していますので」

「でも|まだ|時間は|ありますよ」
悲しかった!||人間であることも、|太陽が|一日に|何時間も|輝いて|本物の|鳥が|自由に|飛び回っている|この世界で|生きることも|嫌に|なりそうなほど|悲しかった!
この人たちは|光が|嫌いに|違いない。||三つの|電球は|すべて|厚い|色付きの|布で|入念に|覆われ、|最低限の|光しか|通さなかった。
『何より|床ワックスだ!』とメグレは|思った。
匂いの|中で|一番|強いのは|それだった!||実際、|どっしりした|樫の|テーブルは|スケートリンクのように|磨き上げられていた。
マルタンは|来客を|迎える|笑顔を|作っていた。

「ヴォージュ広場の|すばらしい|眺めが|楽しめるでしょう!||パリに|唯一の|広場ですから」と|メグレは|言った。||窓が|中庭に|面しているのを|知りながら。


「いいえ!||建物の|様式の|せいで|広場側は|天井が|低すぎるんです。8||広場全体が|歴史的建造物に|指定されているのは|ご存知でしょう。||手を|加える|権利が|ないんです。||残念なことに!||何年も|前から|バスルームを|つけたいと|思っているんですが……」
メグレは|窓に|近づいた。||何気ない|仕草で|影絵模様の|ブラインドを|脇に|やった。||そして|動かなくなった。||あまりに|衝撃を|受けて、|行儀の|いい|訪問者らしく|話すことさえ|忘れた。
目の前に|クーシェ商会の|事務室と|研究所が|あった。
下から|見ていた|ときは|すりガラスだと|思っていた。
ここから|見ると、|すりガラスなのは|下半分だけだった。||上半分は|透明で|澄んでいて、|週に|二、三度|掃除婦が|磨いていた。
クーシェが|殺された|まさに|その|場所に、|フィリップ氏が|秘書が|一枚ずつ|差し出す|タイプされた|手紙に|署名しているのが|はっきりと|見えた。||金庫の|鍵穴まで|見えた。

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研究所との|連絡扉が|少し|開いていた。||その|窓越しに|白衣を|着た|女たちが|見えた。||巨大な|テーブルに|沿って|一列に|並び、|ガラス管の|梱包作業を|していた。
それぞれが|分担していた。||最初の|女が|籠から|裸の|ガラス管を|取り出し、|九番目の|女が|説明書と|丁寧な|箱入りの|完璧な|パッケージを|従業員に|渡す。||薬局に|届ける|準備の|整った|商品だった。

「何か|飲ませてあげて!」とメグレの|後ろで|マルタン夫人の|声がした。
夫が|あわてて|戸棚を|開け、|グラスを|ぶつけ合わせた。

「ヴェルモットを|一口だけでも、|警部さん!||クーシェ夫人なら|カクテルでも|お出しできるでしょうけど」
マルタン夫人は|唇が|針のように|とがった|微笑みを|浮かべた。

- ブロワは、マルタン夫人が|さりげなく|言及した|実在の|地名です。
ブロワ(Blois)はフランス中部、|ロワール川沿いの|歴史ある|町で、|パリから|約180キロメートル南西に|あります。||ロワール古城巡りで|知られる|地方の|中心都市です。
マルタン夫人が|「ブロワの|妹が|警察署長と|結婚していた」と|言ったのは——
自分は|警察と|無縁では|ない、|つまり一目置かれるべき|人間だと|メグレに|匂わせるための|言葉です。||「妹の|夫が|警察署長なので、|あなたも|私を|粗末に|扱えませんよ」という|牽制です。
メグレが|「何が?」と|すぐに|遮ったのは、|この|見え透いた|威圧を|一切|相手にしないという|姿勢の|表れです。
↩︎ - モー(Meaux)は|パリの|北東約50キロメートルに|ある|町です。||マルヌ川沿いに|位置する|歴史ある|地方都市で、|イル=ド=フランス地域圏に|属しています。
フランスでは|モーのブリーチーズ(Brie de Meaux)の|産地として|有名で、|「チーズの王様」と|呼ばれる|高級チーズの|本場です。
小説との|関係で|言えば——
マルタン夫人が|「父は|モーで|菓子屋を|していた」と|言ったのは|重要な|情報です。
・モーは|パリの|近郊の|地方都市
・菓子屋の|娘という|庶民的な|出自
・店に|出させてもらえなかったという|堅い|家庭環境
つまり|マルタン夫人は|決して|上流階級の|出身では|なく、|地方の|庶民の|娘です。||それでも|サン=マルク夫人に|挨拶されないと|憤慨するあたりに、|見栄と|プライドの|強い|彼女の|性格が|よく|出ています。
↩︎ - ナンテール(Nanterre)は|パリの|西側に|隣接する|郊外の|町で、|現在は|オー=ド=セーヌ県に|属しています。||パリ中心部から|約10キロメートルの|距離です。
1930年代の|ナンテールは——
パリの|高級エリアとは|かけ離れた|労働者階級の|工業地帯でした。||工場や|倉庫が|立ち並び、|パリで|生活できない|庶民が|住む|場所という|イメージが|強かったです。
小説との|関係で|言えば——
マルタン夫人が|「ナンテールに|しか|住めなかった」と|言うのは、|クーシェとの|結婚生活が|いかに|惨めだったかを|強調しています。||モーの|菓子屋の|娘として|それなりの|プライドを|持っていた|彼女にとって、|郊外の|労働者街に|住まわされたのは|屈辱だったのです。
その|クーシェが|後に|オスマン大通りに|自宅を|構え、|ヴォージュ広場に|事務所を|持つ|成功者に|なったという|皮肉が|マルタン夫人の|怒りを|より|深いものにしています。
↩︎ - アストラカン(astrakan)は|高級な|毛皮素材の|一種です。
カラクール羊という|品種の|子羊の|毛皮で、|黒や|灰色の|縮れた|巻き毛が|特徴的な|光沢ある|美しい|素材です。||産地は|ロシアの|カスピ海沿岸の|都市アストラハン(Астрахань)で、|そこから|名前が|ついています。
1930年代のパリでは|上流階級や|裕福な|女性の|コートの|素材として|非常に|人気が|ありました。||高価で|格式ある|素材です。
小説との|関係で|言えば——
クーシェの|現在の妻(ジェルメーヌ)が|アストラカンの|コートを|着ているのを|マルタン夫人が|歩道で|目撃して|悔しがっています。||かつて|貧乏だった|クーシェの|妻が|高級毛皮を|まとっているのを|見て、|自分が|苦労した|時代との|あまりの|落差に|嫉妬と|怒りを|感じたのです。 ↩︎ - デュファイエル(Dufayel)は、パリの庶民向け大型百貨店で、家具や家庭用品の月賦販売の先駆者として知られていました。
顧客の支払い能力を調査するために800人の調査員を雇い、管理人を買収して情報を集めることも厭わなかったというほど徹底した信用調査を行っていました。
小説との|関係で|言えば——
本文に登場する|un encaisseur de chez Dufayelは|デュファイエルの集金人です。毎週、借り手の自宅を回って月賦の回収をする集金人が各家庭を訪問していました。
つまり|管理人室に|いた|青い|制服の|男は、|ヴォージュ広場61番地の|住人の|誰かに|月賦を|回収しに|来た|集金人で、|管理人から|事件の|話を|聞いていた|わけです。||庶民的な|日常と|殺人事件が|交差する|シムノンらしい|場面です。
なおデュファイエル百貨店は1930年に閉店しており、この小説が書かれた1932年には|すでに|存在しない店です。||シムノンが|あえて|使った|時代の|記憶かもしれません。
↩︎ - 「表札代わりの|名刺」です。
1930年代のフランスでは|訪問名刺(carte de visite)を|ドアに|ピンで|留めておくのが|庶民の|アパルトマンでは|よく|ある|習慣でした。||表札の|代わりに|使っていたわけです。
「百枚三フラン」というのは|当時の|印刷屋で|売っていた|安い|名刺の|値段で、|安価で|庶民的な|ものであることを|示しています。
高級な|アルミの|プレートを|使っている|部屋も|あることと|対比されており、|マルタン夫妻が|節約家で|庶民的な|生活を|していることを|さりげなく|示す|描写です。
↩︎ - フランスでは|時間帯に|関係なく、|来客には|食前酒(apéritif)を|勧めるのが|礼儀です。
1930年代のフランスの|一般家庭では——
・来客が|あれば|まず|食前酒を|出すのが|当然の|もてなし
・時間帯は|あまり|関係ない
・ヴェルモット、パスティス、ポートワインなどが|定番
日本で|来客に|お茶を|出すのと|同じような|感覚です。||むしろ|フランス人にとって|食前酒を|勧めないのは|失礼に|あたると|感じる人も|まだ|多いです。食前酒は|文字どおり|食欲を|開かせるためのもので、|酔うために|飲むのでは|ありません。||会話を|弾ませながら|ゆっくり|一杯を|楽しむ|程度です。
ただし|この場面では|もう一つの|意味が|あります。
今朝の|警察での|面談では|あれほど|刺々しく|攻撃的だった|マルタン夫人が、|自分の|縄張りである|自宅では|打って|変わって|愛想よく|媚びるように|なっています。||食前酒を|勧めるのも|その|変化の|表れで、|メグレを|懐柔しようとしている|心理が|見え隠れしています。
メグレは|仕事中なので|おそらく|口を|つける|程度か、|断ったかもしれません。||実際|原文では|メグレが|飲んだかどうかの|描写は|ありません。||マルタン夫人が|勧めたという|事実だけが|重要で、|それが|今朝とは|打って|変わった|態度の|変化を|示しているからです。
↩︎ - 2階(サン=マルク家)|→ 天井が高く|改装済みで|快適
3階(マルタン家)|→ 屋根の傾斜の影響で|広場側の天井が低すぎる
つまり|天井が|低いのは|マルタン家のある3階(フランス式2階)だけ、あるいは|少なくとも|それが最も顕著な階ということです。
17世紀の|ヴォージュ広場の|建物は|広場側の|急勾配の|屋根が|特徴的で、|最上階に|近いほど|屋根の|傾斜が|室内に|影響します。||サン=マルク家の|2階は|屋根から|距離があるので|問題ないが、|マルタン家の|3階は|屋根に|近すぎて|広場側が|低くなっているわけです。 ↩︎



