銭形平次捕物帖  巻一|三 お藤は解く(一般版)

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登場人物

銭形平次 —— 神田の岡っ引1、岡っ引とも見えぬ秀麗な顔を持つ名探偵。

八五郎(ガラッ八) —— 平次の子分「下っ引」、大きな鼻が特徴の陽気な若者。

笹野新三郎 —— 南町奉行配下の吟味与力筆頭2、平次を信頼する上役。

洲崎の金六 ――深川洲崎を縄張とする大先輩の岡っ引、根は人が良い。

甲州屋万兵衛 ――深川木場の材木問屋の大旦那、今朝風呂場で殺された被害者。

伝之助 ――万兵衛の弟で店の支配人、恐ろしい毛深い左利きの四十男。

万次郎 ――万兵衛の倅、二十三歳の道楽者で親譲りの放蕩児。

お直 ――奉公人上がりの妾、三十五歳の念入りな厚化粧の女。

文次 ――甲州屋の番頭、狐のような印象の三十七八の臆病な男。

お藤 ――江戸一番の蒔絵師藤吉の娘、十八九歳の美しく聡明な娘。

おさめ ――甲州屋の下女、万兵衛の死体を最初に発見した。


「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」


南町奉行配下の吟味与力笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、銭形の平次にこう言うのでした。


「ヘェ、——旦那の仰しゃることなら、否を申す私ではございませんが」


平次は縁側に踞ったまま、岡っ引きとも見えぬ、秀麗な顔を挙げました。笹野新三郎には、重々世話になっている平次、今さら頼むも頼まれぬもない間柄だったのです。


「南の御奉行が、事をわけてのお頼みだ、——お前も聞いたであろう、深川木場の甲州屋万兵衛が今朝人手に掛って死んだという話を——」 


「ツイ今しがた、たまり3にいる八五郎から耳打をされました。あの辺は洲崎4の金六が縄張で――」 


「それも承知で頼みたい。――甲州屋万兵衛は町人ながら御奉行とは別懇べっこん間柄、一日も早く下手人を挙げたいとおっしゃる——金六は一生懸命だが、何分にも老人で、届かぬ事もあろう、すぐ行ってくれ」 


「畏まりました」


吟味与力に頼まれては、嫌も応もありません。平次は不本意ながら、大先輩洲崎の金六と手柄争いをする積りで、木場まで行かなければならなかったのです。


「八、手前が行くと目立っていけねえ、神田へ帰るがいい」


永代まで行くと、後ろから影のごとく跟いて来る、子分の八五郎に気が付きました。


「帰れと言えば帰りますがね、親分、あっしがいなきゃア不自由なことがありますよ」


八五郎の大きな鼻が、浅い春の風を一パイに吸って悠々自惚心を楽しんでいる様子です。


「馬鹿、大川の鴎5が見て笑っているぜ」


「鴎で仕合せだ。――この間は馬に笑われましたぜ。親分の前だが、馬の笑うのを見た者は、日本広しといえども、たんとはあるめえ」


「呆れた野郎だ、その笑う馬が木場6にいるから、甲州屋へ行くついでに案内しようという話だろう、落はちゃんと解っているよ」


「へッ、親分は見通しだ」


八五郎はなんとか口実を設けては、親分の平次に跟いて行く工夫をしているのです。

木場へ行くと、町内大きな声で物も言わない有様で、その不気味な静粛の底に、甲州屋の屋根が、白々と昼下りの陽に照されておりました。


「お、銭形の」


何心なく表の入口から顔を出した洲崎の金六は、平次の顔を見ると、言いようもない悲愴な表情をするのでした。


「ちょいと見せて貰いに来たよ、八の野郎の修業に――」


平次はさり気ない笑顔を見せます。


「笹野の旦那の言い付けじゃねえのか」


「とんでもない、旦那は兄哥の腕を褒めていなさるよ、年は取っても、金六のようにありたいものだって」


「おだてちゃいけねえ」


金六はようやくほぐれたように笑います。近頃むずかしい事件というと、八丁堀の旦那方が、すぐ平次を差向けたがるのは相当岡っ引仲間の神経を焦立たせていたのです。


「俺の手柄なんかにする気は毛頭ねえ。どんな事だか、ちょいと教えて貰えめえか」


あ「それはもう、銭形のが智恵を貸してくれさえすれば、半日で埒が明くよ。証拠が多過ぎて困っているところなんだから」


根が人の良い金六は、自分の手柄にさえケチを付けられなければ――といった心持で、気軽に平次と八五郎を案内しました。

店の中は、ムッとするような陰惨さ、この重っ苦しい空気を一と口呼吸しただけで、人間は妙に罪悪的になるのではあるまいかと思うようです。


木場の大旦那で、万両分限の甲州屋万兵衛は、今朝、卯刻半(七時)から辰刻(八時)までの間に、風呂場の中で殺されていたのです。

取って五十、江戸一番の情知りで、遊びも派手なら商売も派手、芸人や腕のある職人を可愛がって、四方八方から受けのいい万兵衛が、場所もあろうに、自分の家の風呂場で、顔を洗ったばかりのところを、剃刀で右の頸筋を深々と切られ、凄まじい血の中に崩折れて死んでいたのです。

声を立てたかも知れませんが、風呂場は二重戸で容易に外へは聴えず、下女のおさめが行ってみて、始めて大騒動になったのでした。

家族というのは本妻が五年前に死んで、奉公人からズルズルに直った妾のお直、――三十五という女盛りを、凄まじい厚化粧に塗り立てているのを始め、先妻の間に出来た一粒種の倅、万次郎と言って二十三、親父の万兵衛が顔負けのする道楽者と、主人万兵衛の弟で、店の支配をしている伝之助という四十男、それに、番頭の文次を始め、手代小僧、十幾人の多勢です。


「どんな証拠があるんで、金六兄哥」


風呂場の血潮の中から、拾った剃刀や、先刻居間に運んだばかりの、万兵衛の死体を見ながら、平次はまず金六に当ってみました。


「人は見掛けに寄らないと言うが、――こんな騒ぎがあって驚いたことは、甲州屋の家の者で、主人の万兵衛を殺し兼ねない者が四五人は居るぜ」


「ヘエ――」



「世間体は良い男だったが、――通人とか、わけ知りとかいう者は、大方こうしたものだろう。お互に野暮ほど有難いものはねえ」


金六はすっかり感に堪えた姿です。


「どうしたんだ、洲崎の兄哥」


「妾のお直は二三日前から、出るの引くのという大喧嘩だ。――万兵衛は他に女が出来て、それを家に入れようとしているんだ」


「なるほど」


「倅の万次郎は恐ろしい道楽者で、昨夜も帰らなかったと言うが、今朝の騒ぎの後で気が付くと、二階の自分の部屋へ入って、グウグウ寝ていた」


「それから」


「番頭の文次は血の付いた着物をそっと洗っているところを、下女のおさめに見付けられ――」


「‥‥」


「主人の弟の伝之助は、店を支配しているから、万兵衛が死ねば何万両の身代が自由になる、それに、内々の借金もかなり持っているそうだ、――第一、動きの取れない証拠は、万兵衛を殺した剃刀はこの伝之助の品で、家中の剃刀では一番よく切れる。伝之助は、逢って見れば解るが、――恐ろしい毛深い男で、三日も髯をあたらないと山賊みたいになるから、自分の剃刀だけは人に使わせないように、町内の髪結床の親方に磨がせて、大切にしまい込んであるのさ」


「フーム」


「その外、一番先に死骸を見付けたのは下女のおさめで、その時はまだ万兵衛に息はあったと言うから、これとても下手人でないという証拠は一つもない」


「‥‥」


「もう一人、万兵衛の幼友達で、今は蒔絵師の名人と言われる、尾張町の藤吉の娘、お藤がいる。これは並大抵でない綺麗な娘だから、気の多い万兵衛がちょっかいを出していたかも知れない」


「その娘が何だって、こんな家へ来ているんだろう」


「行儀見習という名義だ、――俺の娘なら、こんな家で行儀なんか見習って貰いたくはねえよ」


「有難う。それで大方判った。風呂場を見て、それから一人一人逢わせて貰おうか」


平次は死体の側を離れてまだよく掃除していない風呂場を見ました。


中は惨憺たる碧血、――検死が済んだばかりで、洗い清める暇もなかったのでしょう。

金六が説明した通り二重戸でここで大概の物音をさしても、店や、お勝手へは聴えなかったのも無理はありません。万兵衛は通人らしくたしなみの良い男で、外出でも思い立って、髯を剃りに入ったところを、後ろから忍び寄った曲者に、逆手に持った剃刀で右の頸筋をやられたのでしょう。

風呂場の構えは大町人にしても立派で、外からのたった一つの入口は、用心よく内鍵で厳重に締めてあります。


「外から入りようはないな」


平次は自分へ言い聴かせるように駄目を押しました。


「その通りだ、下手人は家の中に居た者だ」


金六も解りきったことを合槌打ちます。


「親分、――今朝、朝飯が済んでから半刻(一時間)の間、主人の弟の伝之助はどこに居たか誰も知りませんぜ」


八五郎は早くも別の方面に手を付けて、最初の報告を持って来ました。


「よしよし、悪い事をする奴に限って、自分の居た場所などを、念入りに人に知らせておくものだ。伝之助は、馬鹿でなきゃア、潔白だろう」


「ヘエ――」


こう言われると、勢い込んだ八五郎もツイ気が抜けます。


「倅の今朝帰った姿を誰も見た者がないと言ったが、もう一度よく聴いてくれ。それから、皆んないつもの通り仕事をするように、と言ってくれ。あっちこっちへ固まって、コソコソ話しているのは、褒めたことじゃねえ」


平次はそう言いながら、まだ念入りに家の中を見廻っております。


「支配人の伝之助は、兄哥に逢いたがっているぜ」


金六は店の方を指さしましたが、


「もう少し、――今度は外廻りを見よう」


庭下駄を突っかけて外へ出ると、庭から、土蔵のあたり、裏木戸の材木を漬けた堀、夥しい材木置場から、元の庭へ帰って来ました。


「倅の部屋はどこだろう。――どこの家でも、息子は一番良い部屋を取りたがるものだが――」


「あれだよ」


金六の指したのは、裏木戸から入って、見上げる形になった二階でした。厳重な格子がはまって、人の居る様子もありません。


「当人はどこに居るだろう」


と平次。


「親父が死んじゃ遊びにも出られない。つまらなそうな顔をして、先刻まで店にいたが」


何という嫌な空気の家でしょう。


「銭形の親分さん、御苦労様でございます。洲崎の親分さんにもお願いしましたが、何とかして一日も早く、兄の敵を討って下さいまし」


たまり兼ねた様子で、主人の弟――支配人の伝之助は庭に迎えました。なるほど四十三四の青髯、人相は凄まじいが、その割には腰の低い男です。


「お前さん、いつ髯を剃りなすったえ」


平次の問は唐突で予想外でした。


「ヘエ、三日前でございました。こんな騒ぎがなければ、今日は剃るはずでしたが――」


伝之助は恐縮した姿で顎を撫でております。


「剃刀はどこへ置きなさるんだ」


「風呂場の剃刀箱の中に入れております」


そんな事を訊いたところで、何の足しになりそうもありません。


次に平次が逢ったのは、番頭の文次でした。三十七八の狐のような感じのする男で、商売は上手かは知りませんが、決して人に好印象を与えるたちの人間ではありません。


「着物の血を洗っていたと言うが、そんな事をしちゃ、かえって変に思われるだろう」


平次の言葉は峻烈です。


「ヘエ、――それも存じておりますが、血が付いていちゃ、気味が悪うございます」


「どうして付いた血だ」


「主人を介抱しようと思いましたので、ヘエ」


こう言ってしまえば何でもありませんが、平次は一脈の疑念が残っているらしく、番頭が向うへ行ってしまうと、ガラッ八に言い付けて、文次の身持と、金の出入、借金、貯蓄等のことを調べさせました。

三番目は妾のお直。



「親分さん、お手数を掛けて、本当に済みませんねえ」


主人が死んでも、化粧だけは忘れなかった様子で、帯の上を叩いて、こう流し眼に平次を見るといった、世にも厄介な人種です。


「お前さん、主人と仲が悪かったそうだね」


と平次。


「とんでもない、――主人は本当によく可愛がって下さいましたよ」


「二三日前から、出すとか、出るとかいう話があったそうだが」


「御冗談で――三月になったら箱根へ湯治に行く約束はしましたが、その話を小耳に挟んで、とんだことを言い触らした者があるのでしょう。本当に奉公人達というものは――」

自分が元奉公人だったお直は、二た言目には、このせりふが出るのでした。


「主人から貰う手当はどうなっているんだ」


「そんなものはございません。給金を貰えば奉公人じゃありませんか、――主人はよくそう申しました。この家をお前の家と思え、不自由なことや、欲しいものがあったら、何でも言うように――って、ホ、ホ」


隣の部屋に、その主人万兵衛の、怨みを呑んだ死体のあるのさえ、お直は忘れている様子です。

最後に店から呼出されたのは息子の万次郎でした。――不眠と不養生と、酒精で、眼の血走った、妙に気違い染みた顔は、馴れない者には、決して好い感じではありません。


「お前さんの、昨夜帰った時刻は、誰も知らないようだが、本当のところは、何刻だったろう」


平次は、穏やかですが、突っ込んだ物の訊きようをします。


「今朝でしたよ、辰刻(八時)頃でしょうか――」


「誰も見た者がないのはおかしいが――」


「親父が死んで、大騒動していたんで、気が付かなかったのでしょうよ。――私は真っ直ぐに二階へ行って、昨夜から敷きっ放しの床の中に潜り込んでしまいました」


「誰にも見られないというのは可怪しい。それに、店にはお前さんの履物も無かったようだが」


平次は一と押し押してみました。


「雪駄はいつでも二階へ持って行きますよ。店へ置くと誰かに突っかけられてかないません」


それはありそうなことでしたが、二階へ雪駄を持って行くのは、決して良い趣味ではありません。

が、金六が飛んで行って見ると、雪駄――新しい泥の着いたのが、二階の格子の内に、間違いもなく裏金を上にして並べてありました。

ちょうどそんな事をしているところへ、ガラッ八の八五郎が帰って来たのです。


「親分、大変なことを聞込みましたよ」


「何だ、八?」


「支配人の伝之助が、小僧を使いにやって、三百両の現金を持出していますよ」


「いつだ、それは?」


「今日、――それも二た刻ばかり前」


「フーム」


「日頃、兄の物真似で、遊びが激しいから借金こそあれ、金のあるはずはない伝之助です。それが今日に限って三百両も持出させたのは不思議じゃありませんか」


これは幾通りにも考えられますが、一番通俗な解釈は、騒ぎの大きくなる前に、兄を殺してくすねておいた金を持出させ、火の付くように催促されている借金の一と口だけでも、免れようというのでしょう。一番小さい小僧に持出さしたのは思い付きですが、権柄ずくで物を言い付ける習慣が付いているので、うっかり心付けをしておかなかったのが、ガラッ八ごときにしてやられる、重大な失策になったのです。


「野郎、神妙にせい、兄などを殺して、太え奴だ」


洲崎の金六は、もう伝之助を引立てて来ました。まだ縄を打ったわけではありませんが、物馴れた鋼鉄のような手が伝之助の手首をピタリと押えているのです。


「あッ、それは間違いです。叔父さんは、下手人じゃありません」


美しい声――少しうわずっておりますが、人の肺腑に透るような、一番印象づける美しい声と共に、十八九の娘が飛び込んで来ました。


「お前はお藤、――こんな場所へ入っちゃならねえ」


金六はそう言いながらも、眼は言葉の調子を裏切って、微笑を湛えております。この娘だけが、甲州屋中での、美しい明るい存在だったのです。


「でも、見す見す間違いをするのを見てはいられません」


娘は全身を金六と平次の前へ晒しました。死んだ主人万兵衛の幼友達、江戸一番と言われた蒔絵の名人、尾張町の藤吉の娘のお藤というのはこれでしょう。

若く美しく健康と幸福を撒き散らして歩くような娘で、この陰惨な家には、一番似つかわしくない存在でもあります。それだけにまた、主人万兵衛が可愛がってもいたのでしょう。


「間違いとは何だ、お藤」
と金六。


「でも、伝之助叔父さんは店中で知らぬ者のない左利きで、箸と筆を右に持つのが不思議なくらいです。旦那様の疵は、右の頸筋で、後ろから右手に剃刀を持って斬ったのでしょう。――そんな事が出来るものですか、伝之助叔父さんは、右手に刃物を持つと、紙も切れないくらいなんです」


「‥‥」


「それに、伝之助叔父さんはあの時、土蔵の中に入っていました」


「えっ、お前はどうしてそれを?」


驚いたのは金六――いや、それよりも驚いたのは伝之助自身でした。


「朝の御飯が済むと、そっと入って、半刻ばかり何かしていました。多分、お金を取出したのでしょう。金箱の鍵はむずかしいから、旦那でないと、なかなか開かないそうです」


お藤の言葉には、寸毫も疑いを挟む余地はありません。


「それは本当か、伝之助」と金六。


「面目次第もございません。――今日に迫った内証の払い、どう工面しても三百両とは纏まらなかったので、兄には済まないと思いましたが、朝の忙しいところを狙って、そっと蔵の中に忍び込み、違った鍵と釘で大骨折りで金箱を開け、三百両取出したに相違ございません。その証拠は、開けるにはどうやら開けましたが、あとを閉める工夫が付かないので、金箱はそのまま錠をおろさずにあります」


打ち萎れた伝之助に嘘がありそうもありません。


「三百両はどこへやった」


「そのうちに兄が殺されて、家中が騒ぎになりました。金を持っていると疑われる基ですが、私が出掛けるわけにも参りません。工夫に余って、口の堅い、一番小さい小僧に八幡前まで持たしてやりました。――金を取出したのは悪うございますが、兄を殺めるような私ではございません」


何ということでしょう。平次の明智を働かせるまでもなく、たった十九のお藤が、即座に伝之助に掛る疑いを解いてしまったのでした。

次は、誰でしょう。


「親分、この野郎が逃出しましたよ」


ガラッ八の八五郎が、番頭の襟髪を取って引立てて来たのはもう申刻(午後四時)を廻る頃でした。


「何だ、文次じゃないか」


金六は飛付くと、八五郎の手からもぎ取るように、その顔を挙げさせます。

青いやるせない顔と、狐のようなキョトキョトした態度は、金六の心証を、最悪の方面へ引摺り込みます。


「どこへ逃げる積りだ、――手前覚えがあるだろう」


「‥‥」


「白状して、お上のお慈悲を願え、馬鹿野郎」


金六の腕は、腹立紛れに、文次の胸倉を小突き廻します。


「私は何にも知りません」


「知らない者が逃出すかい、太い野郎だ、――着物の血を洗ったと聞いたときから変だとは思ったがまさか逃出すとは思わなかった。とんでもねえ奴だ」


金六はすっかりムキになります。


「金六兄哥、その番頭は少し臆病過ぎはしないか、――顫えてるじゃないか」


平次は注意しましたが、金六いっかな聴くことではありません。


「芝居だよ、これは。悪者もこれくらい劫を経ると、いろいろな芸当をする」


金六は双手を掛けてさいなみ始めました。


「親分さん、――こんな事を言っちゃ悪いでしょうか」


お藤はたまり兼ねた様子で、薄暗い部屋の中へ、邪念のない――が、おろおろした顔を出します。


「お藤さん、構わないから、思い付いた事はみんな言ってみるがいい、――とんだ人助けになるかも知れない」


平次は精一杯の柔かい調子で、この聡明そうな処女を小手招ぎました。

奉公人にしては贅沢な銘仙の袷、赤い鹿の子の帯を締めて洗ったばかりらしい多い髪を、無造作に束ね、脅えた小鳥のように逃げ腰で物を言う様子は、不思議な魅力を撒き散らします。


「文次どんは下手人じゃありません。お店から一寸も動かなかったんですもの」


「それだけか」


「それに、洗った着物の血は裾へ付いておりました。後ろから旦那を斬ったのなら、返り血は顔か肩か胸へ付くはずです。あれはやはり騒ぎに驚いて駆けつけた時、裾へ付いた血です」


「‥‥」


「文次どんは、店中の評判になっているほど臆病なんです。着物の血を洗ってとがめられたので、すっかり脅えて、今度は縛られるに相違ないと思い込んだんでしょう。――逃げ出したのは、この人の臆病のせいで、旦那を殺したためじゃありません。嘘だと思うなら、店の手代、小僧さん達に聞いて御覧なさい。――文次さんは御飯の後で店から少しも動かないのは、私もよく知っております」


銭形平次に一句も言わせないような明察です。この不思議な娘の弁護を、文次はなんと聴いたでしょう。金六の逞しい腕の下にさいなまれながらも、両手を合せて、ポロポロと泣いているのでした。


「娘さんの言う通りだ。金六兄哥、その番頭さんは人を殺せないよ」
と平次。


「チェッ、忌々しい野郎だ」


金六は突き飛ばすように、文次を放してやりました。

「銭形の、これじゃどうにもなるまい、一度引揚げるとしようか」

家中に灯が入ると、年寄りの金六は、里心が付いたように、こう言うのでした。

「いや、もう一と息だ。――俺は何だか、次第に解ってくるような気がする」

平次は少し瞑想的になっております。

店の次の八畳、古い道具の多い部屋ですが、灯が点くと、それでも少しは華やかになります。

「八、お直を呼んでくれ」

「合点」

八五郎は柄に似合わず軽快に飛んで行くとまもなく妾のお直を伴れて――いや、お直に引摺られるように入って来ました。

「お前さんの手文庫の中から、小判で二百三十両ほど出て来たが、あれはどうした金だい」

平次はこの念入りに化粧した顔を、出来の悪い人形でも見るような冷淡な眼で、ツクヅク眺め入りながら問いかけました。

「私のお小遣ですよ」

「大層多いようだが――」

「でも、あれくらいは持っていないと心細いでしょう。ホ、ホ」

隣室に万兵衛の死骸のあることを、この女はまた忘れた様子です。

「お前さんは万兵衛と喧嘩をしていた、どうかしたら近いうちに捨てられたかも知れないぜ――」

「冗談でしょう、親分さん」

「お前は、この家の跡取りの万次郎とは仲が悪かったそうだね」

平次は話題を一転しました。

「継しい仲ですもの、それはね――」

白粉の首を襟に埋めて、妙に感慨無量なポーズになります。

「主人には嫌われ、息子とは仲が悪い、――お前の行くところはなくなっていた」

「そんな事はありませんよ、親分」

「それじゃ訊くが、今朝は主人と睨み合って朝飯もそこそこに、どこかへ姿を隠したそうだが、――あの騒ぎの起るまで四半刻(三十分)ばかりの間、どこに居なすった」

「私の部屋ですよ」

「誰か見ていたのか」

「いえ」

「誰も見ないとすると、自分の部屋に居たか、湯殿に居たか判るまい」

「親分、そりゃ可哀想じゃありませんか。私は、そんな大それた女じゃありません」

「気の毒だが、疑いはみんなお前の方へ向っている」

「そんな、そんな、馬鹿なことがあるものですか、私は口惜しいッ」

お直はとうとう泣き出してしまいました。白粉の凄まじい大崩落、春雨に逢った大雪崩のようなのを、平次は世にも真顔で凝っと見詰めております。

「親分さん、――それじゃア、お直さんが可哀想じゃありませんか、そんなにいじめて――」

お藤は見兼ねた様子で、また入って来たのです。

「お藤さんか、気の毒だが、主人殺しはこの女より外にない」

「いえ、大変な間違いです。お直さんは良い人です。――それに旦那が死ねば、この先お直さんの面倒を見てくれる人がありません、万次郎さんとは仲が悪いし」

お藤はやはり一番壺にはまった事を言いました。

「で――?」

「家中の者が皆んな疑われても、お直さんだけには、疑いが掛らないはずです」

「居間に一人で居たのを誰も見た者はない」

「それだけは嘘です、親分さん、――聴いて下さい。お直さんはあの時、裏口で私と愚痴を言っていたんです。御飯の後四半刻ばかり、旦那の事をかれこれ言ったので、申上げ難かったのでしょう、――ねえ、お直さん」

お直はうなずきました。一言も口はききませんが、その眼には、感謝らしい光が動きます。

「御飯の後、あの騒ぎのあるまで、私とお直さんは一緒でした。どんな事があっても、お直さんだけは下手人じゃございません」

屹としたお藤の顔、その美しさも格別ですが、人に疑わせるような陰影は微塵もありません。

  1. 岡っ引は、江戸時代の町奉行所の同心に雇われた非公式の捜査協力者です。
    正式な役人ではなく、町人身分のまま犯罪捜査や治安維持を手伝う存在でした。「目明し(めあかし)」「手先」とも呼ばれます。給金は奉行所からではなく、雇い主の同心や与力から個人的に支払われていました。
    十手を預かることで身分を示し、子分(下っ引)を使って情報収集や犯人の追跡などを行いました。平次のように優秀な岡っ引は与力から直接頼まれることもありましたが、あくまで非公式な立場でした。
    ↩︎
  2. 南町奉行所は、江戸幕府が設置した行政・司法機関です。
    江戸には「南町奉行所」と「北町奉行所」の二つがあり、一か月交代で江戸市中の治安維持、裁判、行政などを担当していました。南町奉行所は現在の東京都千代田区有楽町付近にありました。
    町奉行はその長官で、その下に与力・同心・岡っ引などが連なる組織でした。本作の笹野新三郎は「吟味与力」という役職で、犯罪の取調べを専門に担当する上級役人です。銭形平次のような岡っ引は、同心や与力に雇われた非公式の協力者という立場でした。
    ↩︎
  3. 溜(溜まり)とは江戸時代の|岡っ引や|その子分たちが|集まる|たまり場のことです。
    具体的には|次のような場所が選ばれていました。
    自身番(じしんばん) 町内の|自治的な|番所で、町人たちが|交代で|詰めている|場所。「番屋」とも。|岡っ引が|立ち寄りやすい|拠点でした。
    ・岡っ引の親分の家 平次のような|親分格の|岡っ引の|自宅が|子分たちの|たまり場に|なることが|多かったです。
    居酒屋・煮売屋 町の|情報が|自然と|集まる|飲食の場も|非公式の|溜として|機能しました。
    ・髪結床(かみゆいどこ) 江戸では|床屋が|情報交換の|場として|有名で、岡っ引も|よく|利用しました。
    ↩︎
  4. 洲崎(すさき)は、深川にある地名です。
    現在の東京都江東区東陽町あたりに位置し、江戸時代は隅田川河口に近い砂州の地域でした。江戸時代後期には洲崎弁天社(現在の洲崎神社)が有名で、門前町として栄えていました。
    金六が「洲崎の金六」と呼ばれるのは、その地域を縄張とする岡っ引であることを示しています。江戸の岡っ引は担当する縄張(地域)の名前を冠して呼ばれることが一般的でした。
    ↩︎
  5. 大川(おおかわ)は|隅田川の別名です。||
    江戸時代、|隅田川は|「大川」と|呼ばれており、|永代橋も|この大川に|架かる橋です。||
    鴎(かもめ)は|川や|海辺に|飛来する|白い鳥で、|江戸の|川沿いでは|よく|見られる|風景でした。||
    本文で|平次が|「馬鹿、大川の|鴎が|見て|笑っているぜ」と|言うのは、|こっそり|跟いてくる|八五郎を|からかった|言葉で、|「そんな|見え透いた|真似を|していると、|川の|鴎にまで|笑われるぞ」という|意味合いです。||江戸らしい|粋な|言い回しです。
    ↩︎
  6. 木場(きば)は|深川にある|材木の|集積地です。||
    江戸時代、|幕府が|材木を|管理するために|指定した|場所で、|全国から|運ばれてきた|材木を|川に|浮かべて|保管・売買する|大規模な|問屋街でした。||
    本作の|被害者|甲州屋万兵衛が|「深川木場の|甲州屋万兵衛」と|紹介されているのも、|材木問屋の|大旦那であることを|示しています。||
    現在も|東京都江東区に|「木場」という|地名が|残っており、|木場公園や|東京都現代美術館が|あります。||また|「木場の|旦那」といえば|江戸では|材木商の|大物を|指す|言葉でした。
    ↩︎