2スーの居酒屋|第二章 花嫁の夫(一般版)

2スーの居酒屋

La Guinguette à deux sous

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月15日現在未作成)

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 『2スーの居酒屋』の前に着いたとき1、メグレにはまだ『鍵が回る』感覚がなかった。彼がよくそう言っていたように。あまり確信も持てぬままバッソの後を追ってきた。ヴィエイユ=ギャルソンではうつろな目で騒ぐ人々を眺めていた。しかしあの小さな違和感、あのずれた感覚、つまり事件の空気に引き込まれるあの『鍵が回る』感覚がまだ来ていなかった。

 ジェームズに無理やり乾杯に付き合わされながら、客たちが行き来し、奇妙な衣装を試着し、互いに助け合い、吹き出し、叫んでいるのを眺めていた。バッソ一家が到着し、人参色の髪に田舎の間抜け顔に仕立てられた息子が喝采を浴びた。


「ほっとけよ!」とジェームズはメグレが仲間のほうを向くたびに言った。
「楽しんでるだけだ。酔ってもいない」


 幌馬車が二台止まった。また歓声。また笑い声と押し合いへし合い。メグレはジェームズの隣に乗り込んだ。ヴィエイユ=ギャルソンの主人と従業員たちはテラスに並んで出発を見送った。

 太陽が沈み、青みがかった黄昏が訪れた。セーヌ川の対岸に、明かりのついた窓が薄闇の中にきらめく静かな別荘が見えた。

 荷馬車はがたがたと揺れながら進んだ。警部の視線は周囲の光景を次々と捉えていった。からかわれながらも噛みつきそうに笑う御者。ベカシーヌ2に扮することに成功し、田舎訛りでしゃべろうと懸命な若い娘。おばあさんのドレスを着た白髪の紳士。

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 混沌としていた。動きが多すぎ、予想外のことも多すぎた。メグレには、一人一人がどんな世界に属しているのか、ほとんど見当もつかなかった。全体像を把握するのに時間がかかりそうだった3


「あそこにいるのが俺の女房だ」とジェームズが言った。


マトン・スリーブ4の袖をつけた、一番ふくよかな女を指さしながら。

彼はうつろな声でそう言ったが、目の中に小さな炎が燃えていた。

 みんなが歌いだした。セーヌポールを通り抜けると、村人たちが玄関先に出て行列を眺めた。子どもたちが夢中で叫びながら、荷馬車の後ろを長いこと走ってついてきた。

 馬が歩調を落とした。橋を渡った。薄明かりの中に、どこかで看板が見えた。

ウジェーヌ・ルジェ 酒屋

 家はごく小さく、真っ白で、曳船道と丘の間に挟まれるように建っていた。看板の文字は素朴だった。近づくにつれ、軋むような音に混じって音楽の繰り返しが聞こえてきた。

 何が『鍵を回した』のか?メグレにはうまく説明できなかっただろう。夕暮れのやわらかさか、明かりのともった二つの窓を持つ小さな白い家と、このカーニバルの乱入とのギャップか?

 それとも、「結婚式」を見ようと歩み出てきたあのカップルか?若い工場労働者の男と、腰に手を当てた、薔薇色の絹をまとった美しい娘。

 家は二部屋しかなかった。右の部屋では老婆がかまどの周りで立ち回っていた。左の部屋にはベッドと家族の肖像画が見えた。

 居酒屋は奥にあった。片側が庭に向かって開け放たれた大きな小屋だった。テーブルとベンチ。カウンター。自動ピアノと提灯。

 船乗りたちがカウンターで飲んでいた。十二歳くらいの女の子が自動ピアノの番をして、時々ねじを巻き、隙間に2スー硬貨を滑り込ませた。

 すべてがあっという間に活気づいた。幌馬車から降りるや否や、新入りたちは踊り出し、テーブルを押しのけ、飲み物を要求した。ジェームズを見失っていたメグレは、カウンターでペルノを前に物思いにふけっているジェームズを見つけた。

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 外では、木の下でウェイターが食器を並べていた。馬車の御者の一人がため息をついた。


「こんなに遅くまで付き合わされるのは勘弁だ!土曜日なのに!」


 メグレは一人だった。ゆっくりと一回りあたりを見渡した。煙突から煙を上げる小さな家、馬車、小屋、恋人たち、仮装した群衆。


「これだ!」と彼はぼそりと言った。


 『2スーの居酒屋!』この場所の貧しさへの当てこすりか、あるいはピアノを鳴らすのに2スー硬貨を入れなければならないことからきているのか。

 そしてここに殺人犯がいるのだ!にせの結婚式の誰かか?若い工場労働者か?船乗りか?それともジェームズか?バッソか?

 電気はなかった。小屋は二つの石油ランプで照らされ、ほかにも庭のテーブルの上にランプが置かれていた。そのためあたりは明暗の斑に分かれていた。


「食事だ!さあ食べよう!」


 だがみんなはまだ踊っていた。飲んでいた。目が生き生きとしてきた。十五分も経たないうちに、何人かが食前酒を立て続けに何杯も飲んだため、あたりに酔いの空気が漂いはじめた。

 居酒屋の老婆が自ら食事を並べて回り、料理の出来栄えを気にしていた。ソーセージ、オムレツ、そしてウサギ料理!しかし誰も気にも留めなかった。食べていることすら意識せずに食べていた。そしてどの声も飲み物を求めていた。

 音楽をかき消すほどの混沌とした騒音。船乗りたちはカウンターからこの光景を眺めながら、北の運河と電動曳船についてゆっくりと話し続けていた。

 若い恋人たちは頬を寄せ合って踊っていたが、目は賑やかなテーブルから離れなかった。

 メグレは誰一人知らなかった。隣には、口ひげと無数のつけぼくろで滑稽な顔に仕立てた女が座っており、しきりに彼をアルテュール叔父さんと呼んでいた。

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「塩を取ってくれよ、アルテュール叔父さん」


「それで、仔牛はどうなったの、アルテュール叔父さん?」


 みんな互いにタメ口をきいていた。大げさに肘で突き合っていた。この人たちは本当に互いをよく知っているのか?それともただの行きずりの仲間なのか?

 たとえば、おばあさんのドレスを着たあの白髪の紳士は、普段はいったい何をしているのか?

 そして、小さな女の子に扮して裏声を使っているあの婦人は!

 バッソ一家のようなブルジョワたちか?マルセル・バッソは花嫁の隣にいた。騒ぎ立てるわけではなかった。ただ時折、含みのある目つきでこう言いたげな視線を送るだけだった。


『昼間はよかったな!』


 ニエル通りの貸し部屋ことだ!彼女の夫もここにいるのか?

 誰かが爆竹を鳴らした。庭でベンガル花火5が輝き、工場の若いカップルが手をつなぎながらうっとりと眺めた。


「まるで舞台の書き割り6みたい」と薔薇色の絹の美しい娘が言った。


 そしてここに殺人犯がいるのだ!


「スピーチを!スピーチを!スピーチを!」


 バッソが満面の笑みを浮かべて立ち上がり、わざとらしく咳払いをして照れたふりをしながら、拍手で何度も遮られるとんちんかんなスピーチを始めた。

 ある瞬間、彼の視線がメグレの上で止まった。テーブルの中で唯一真顔だったから。警部は彼が居心地悪そうにするのを感じた。バッソは目をそらした。

 しかし二度、三度、視線が戻ってきた。問いかけるような、苛立たしげな目で。


「皆さんご一緒に。花嫁万歳!」


「花嫁万歳!」


 みんなが立ち上がった。花嫁にキスをした。踊った。グラスを打ち合わせた。メグレはバッソがジェームズに近づいて何かを尋ねるのを見た。おそらくこう聞いたのだろう。


「あいつは誰だ?」


 こんな返事が聞こえた。


「知らないが‥‥仲間だよ!いい奴だよ!」7


 テーブルはがらんとなった。みんなが踊りに出た。

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 テーブルはがらんとなった。みんなが小屋の中で踊っていた。どこから来たのかわからない人々が夜の闇の中に立ち、木の幹と見分けがつかないほどで、楽しむ人たちを眺めていた。

 発泡ワインのコルクが次々と飛んだ。


「ブランデーを飲みに来い!」とジェームズが言った。
「踊らないんだろ?」


 妙な男だった。普通の男なら四、五人は酔いつぶれるほど飲んでいた。それでも正確には酔っているとは言えなかった。苦みばしった様子で、ゆっくりと淡々とした足取りで歩いた。メグレを家の中に連れ込み、主人のヴォルテール椅子8にどかりと腰を下ろした。

 腰の曲がった老婆が皿洗いをしていた。おそらくその娘で、五十歳に近い女将がせわしなく立ち働いていた。


「ウジェーヌ!発泡ワインをあと六本!御者にコルベイユまで取りに行かせたほうがいいわ」


 質素な田舎の居間。彫刻を施したくるみ材の箱に入った振り子時計。ジェームズは足を伸ばし、注文しておいたブランデーの瓶を取り、グラスになみなみと二杯注いだ。


「乾杯!」


 結婚式の様子はもう何も見えなかった。音楽を覆い隠すどよめきだけが聞こえた。開いた扉から、セーヌ川の流れる水面がかすかに見えた。


「隅っこでいちゃつくとか、まあ、そういったことをやりたいのさ!」とジェームズが軽蔑するように言った。


 三十歳だった。しかし彼が隅っこで女性といちゃつくような男ではないことは明らかだった。


「庭の奥にはもういるに違いない」


 彼は洗い桶の上に腰を折り曲げた老婆を眺めた。


「布巾を貸しな!」と老婆に言った。


 そしてグラスと皿を拭きはじめた。時折コニャックを一口飲むためだけに手を止めながら。

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 時折、誰かが扉の前を通り過ぎた。メグレはジェームズが老婆と話している隙にこっそり抜け出した。外に出て十歩も歩かないうちに、誰かが火を貸してくれと声をかけてきた。おばあさんのドレスを着た白髪の男だった。


「ありがとう!あなたも踊らないんですか?」


「踊らない」


「うちの女房とは違いますね。一度も休まず踊り続けてますよ」


 メグレはふと直感した。


「花嫁役ですか?」


「そうです。でもじっとしてたら風邪をひきますよ」


 男はため息をついた。五十歳の男の真顔とおばあさんのドレスの組み合わせは滑稽だった。警部はこの男が普段は何をしているのか、どんな様子なのかと思いをめぐらせた。


「どこかでお会いしたような気がするんですが」とメグレはとりあえず言ってみた。


「私も同じ印象です。どこかでお会いしましたね。でもどこで?うちのシャツ屋のお客さんではないですか?」


「シャツ屋を?」


「グラン・ブールヴァール9で」


 妻は今や誰よりも騒がしかった。酔いは明らかだった。信じられないほどのはしゃぎっぷりに現れていた。バッソと踊っていたが、あまりにも密着していたのでメグレは目をそらした。


「まったく、変わった女の子だ」と夫はため息をついた。


 女の子だと!三十歳のふくよかなこの女が、官能的な唇と熱っぽい目つきで、踊り相手に全身で身を委ねているというのに!


「楽しくなると狂ったようになるんです」


 警部はこの男を見たが、怒っているのかそれとも微笑ましく思っているのか、読み取れなかった。

 その時、誰かが叫んだ。


「花嫁を寝かしつけるぞ!花嫁の就寝式だ!花婿はどこだ?!」

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 小屋の奥に小さな物置部屋があった。扉が開けられた。誰かが庭の奥から花婿役を連れてきた。

 メグレは本物の夫が微笑んでいるのを観察していた。


「まず記念のガーター10を!」


 バッソ氏がガーターを外し、小さく切り分けて配った。花婿と花嫁が物置部屋に押し込まれ、扉に鍵がかけられた。


「楽しんでますよ」と連れの男がぼそりと言った。
「あなたも結婚してるんですか?」


「ええ、まあ」


「奥さんはここにいないんですか?」


「ええ、休暇中で」


「奥さんも若い人たちが好きなんですか?」


 メグレには相手がからかっているのか本気で言っているのかわからなかった。相手がふとよそ見をした隙に庭へ抜け出し、木に寄り添う若いカップルのそばを通り過ぎた。

 台所ではジェームズが老婆と穏やかに話しながら、グラスを拭き続け、飲み続けていた。

「あいつら、何やってんだ?」とジェームズはメグレに聞いた。
「うちの女房を見なかったか?」


「気づかなかった」


「あんなでかい女、見落とすはずないのにな!」


 ここから一気に収束へ向かった。夜中の一時頃だった。帰ろうとひそひそ話す者がいた。セーヌ川のほとりで気分が悪くなった者もいた。花嫁は自由の身になっていた。まだ踊っているのは若い者だけだった。

 馬車の御者がジェームズを探してきた。


「まだかかりますかね?うちの女房が一時間も待ってるもんで」


「お前も女房がいるのか?」


 ジェームズが出発の合図をした。ベンチに座った人々の中には、頭を揺らしながらうとうとしている者も、多少なりとも乗り気で歌ったり笑ったりしている者もいた。

 眠ったはしけの群れのそばを通り過ぎた。汽車が汽笛を鳴らした。橋の上で速度を落とした。

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 バッソ一家はヴィラの前で降りた。シャツ屋はセーヌポールですでに一行と別れていた。ある女が酔った夫に小声で言っていた。


「明日言ってやるから!何をしたか!黙って!聞く気もないんだから!」


 空は星で埋め尽くされ、川の水面に映っていた。ヴィエイユ=ギャルソンではみんなが眠っていた。握手を交わした。


「ヨットはやるか?」


「ウナギ釣りに行くんだ」


「おやすみ」


 部屋が一列に並んでいた。メグレはジェームズに聞いた。

「空き部屋はあるか?」


「どこでもいいよ!空いてるのを見つけろ。なければ俺の部屋に来い」


 いくつかの窓に明かりがともった。靴が床に落ちる音。スプリングのきしむ音。

 ある部屋では、カップルが夢中でひそひそ話していた。昨夜夫に言いたいことがあったあの女かもしれない。


 翌朝十一時、みんな素顔に戻っていた。暑く晴れた一日だった。黒と白の制服を着たウェイトレスたちがテラスでテーブルからテーブルへと食器を並べて回っていた。

 人々が集まりはじめた。まだパジャマ姿の者も、水兵服を着た者も、フランネルのズボンをはいた者もいた。


「二日酔いか?」


「たいして。お前は?」


 すでに釣りに出かけた者や、戻ってきた者もいた。小さなヨットやカヌーも見えた。

 シャツ屋は仕立てのいいグレーのスーツを着ており、だらしない格好を嫌う身ぎれいな紳士という印象だった。メグレを見つけると近づいてきた。


「ご挨拶が遅れました。<フェンスタン>と申します。昨夜、私のシャツ屋の話をしましたね。商売上では<マルセル>と名乗っています」


「よく眠れましたか?」

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「まったく!思った通り、女房が具合を悪くしまして。いつもこうなんです。心臓が丈夫でないのを本人もよく知っているのに」


 なぜ彼の目はメグレの反応をうかがっているように見えるのか?


「今朝は見かけましたか?」


 彼はあたりを見回して妻を探した。バッソが操るヨットに、水着姿の四、五人と一緒に乗っているのを見つけた。


「モルサンは初めてですか?とてもいいところですよ。きっとまた来たくなる。みんな顔見知りで、常連と友人だけ。ブリッジはお好きですか?」


「ええ、まあ」


「後でやりましょう。バッソはご存じですか?パリでも有数の石炭商です。いい男ですよ!あのヨットが来ます。バッソ夫人はスポーツに夢中で」


「ジェームズは?」


「もう飲んでいるでしょう。あの男は二日酔いと酔っ払いの間を行き来しています。若いのにね!やろうと思えば何でもできるのに。のんびり生きていたいんですよ。<ヴァンドーム広場>11のイギリス系銀行に勤めていて、山ほどいい仕事を断ってきた。四時に仕事を終えたいだけなんです。それ以降は<ロワイヤル通り>12のブラッスリー13で見かけますよ」


「あの背の高い若い男が?」


「宝石商の息子ですよ」


「あちらで釣りをしている紳士は?」


「配管工事の請負業者です。モルサン一の釣り好き。ブリッジをする者も、ボートに乗る者も、釣りをする者もいて、みんないい人ばかりですよ。別荘を持っている人もいます」


 川の最初の曲がり角にごく小さな白い家が見え、自動ピアノがある小屋の輪郭がうかがえた。


「みんな2スーの居酒屋に来るんですか?」


「二年前から。ジェームズが言わば発見したんです。それまではコルベイユの工員が日曜に踊りに来るだけで。ジェームズがほかがうるさいときに一人で飲みに行く習慣をつけて、ある日仲間が合流し、踊りを始めて、それが定着した。昔からの客は居場所をなくして、少しずつ来なくなりました」

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 ウェイトレスが食前酒を乗せたトレーを持って通り過ぎた。誰かが川に飛び込んだ。台所から揚げ物の匂いが漂ってきた。

 あちらの2スーの居酒屋では煙突から煙が上がっていた。一つの顔がメグレの脳裏に浮かんだ。細い褐色の口ひげ、尖った歯、震える鼻孔。

 ルノワールが房の中を歩き回り、動揺を隠そうとしながらしゃべっていた。彼も2スーの居酒屋について語っていた。


『せめてあっちへ行くのが当然な連中と一緒に行けたなら!』


 居酒屋ではなかった!別の場所だ。翌朝パリが目覚める前に、一人で行ったあの場所へ。

 なぜだかわからないが、この暑さの中でメグレは数秒間、寒気を覚えた。いつもと違う目でシャツ屋を見た。金のフィルター付き煙草14を吸いながら、隙のない身なりを整えた男。それからバッソ一のヨットが岸に着き、半裸の人々が次々と飛び降り、互いに握手するのを見た。


「友人たちにご紹介してもよろしいですか?お名前は?」とフェンスタンが言った。


「メグレ、公務員です」


 丁寧に挨拶が交わされた。お辞儀と、「はじめまして」「こちらこそ」という言葉とともに。


「昨夜はご一緒でしたね?うまい悪ふざけでしょう?今日の午後、ブリッジはいかがですか?」


 痩せた若い男がフェンスタンに近づき、脇に連れ出して耳元で何かをひそひそと言った。メグレはこのやりとりを見逃さなかった。シャツ屋が顔を曇らせ、恐怖に似た感情を見せ、メグレをじろじろと見てから、やがていつもの表情に戻るのを見た。

 一行がテラスに近づき、テーブルを探した。


「みんなでペルノを一杯!そういえばジェームズはどこだ?」

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 フェンスタンは自分を抑えようとしながらも、落ち着きがなかった。メグレのことしか眼中になかった。


「何を召し上がりますか?」


「何でも構いません」


「あなたは……」


 言いかけた言葉を呑み込み、よそを向いたふりをした。しばらくして、それでもぼそりと


「偶然、モルサンに来られたとは不思議ですね」


「そうですね、奇妙な偶然です」と警部は相槌を打った。


 飲み物が運ばれてきた。何人かが同時にしゃべっていた。フェンスタン夫人の足がバッソの足の上に乗っており、輝く目で彼を見つめていた。


「いい天気!水が澄みすぎて釣りには残念だけど」


 静けさがうんざりするほど続く中、メグレは白い独房の高いところから差し込む一筋の陽光を思い出した。

 ルノワールが歩き回り、歩き回り、歩き回っていた。もう長くは歩けないことを忘れようとするかのように。

 メグレの視線が重く、一人一人の顔の上に順番に落ちていった。バッソ、シャツ屋、配管業者、やってきたジェームズ、若い男たち、女たち。

 彼は一人一人を想像しようとした。夜のサン=マルタン運河沿いで、「歩かせようとしている人形のように」死体を押していく姿を。


「乾杯!」とフェンスタンが長い微笑みを浮かべながら言った。

  1. この段落はメグレの感覚を先取っており、まだ2スーの居酒屋には着いていません。
    この時点での場所の流れを整理すると次のようになります。
    ①ヴィエイユ=ギャルソン(Vieux-Garçon)――ジェームズと出会い、ペルノを飲んだ宿・テラス。
    ②幌馬車に乗って移動中――仮装した一行がセーヌポールを通り抜け、川沿いの道を進んでいる。
    ③2スーの居酒屋(guinguette)に到着――橋を渡り、「ウジェーヌ・ルジェ 酒屋」の看板が見えてから、ようやく到着します。
    つまり「2スーの居酒屋の前に着いたとき」という文章は、幌馬車での移動が終わり、いよいよ居酒屋の前に到着した瞬間を指しています。ヴィエイユ=ギャルソンとは別の場所で、そこから幌馬車で移動してたどり着く目的地です。 ↩︎
  2. ベカシーヌ(Bécassine)は、フランスの漫画・絵本の人気キャラクターです。
    1905年に雑誌「ラ・サマーヌ・ドゥ・スュゼット」に登場して以来、長年にわたってフランスの子どもたちに親しまれました。ブルターニュ地方出身の純朴で無邪気な田舎娘という設定で、黒いブルターニュの民族衣装に白いエプロン、大きな頭巾をかぶった愛らしい外見が特徴です。口が描かれていない顔も印象的です。
    この場面で「ベカシーヌに扮した若い娘」が登場するのは、ブルターニュの田舎娘という仮装をしているということで、当時のフランス人なら誰でも一目でわかるキャラクターでした。田舎の結婚式というにせの設定に合わせた仮装として自然な選択です。
    シムノンがこの名前をさらりと使っていることからも、ベカシーヌが1930年代のフランスでいかに広く知られた存在だったかがわかります。
    ↩︎
  3. メグレが戸惑っているのはギャングエット文化そのものへの不慣れというよりも、むしろこの特定のグループの人間関係と社会的背景がまだ見えていないという状態です。
    原文の 「Il y avait toute une mise au point nécessaire」(全体像を把握するのに時間がかかりそうだった)がそれを示しています。
    メグレは労働者階級の犯罪には精通している警部ですが、このグループは裕福な中産階級のブルジョワたちです。石炭商、シャツ屋、銀行員、医師、実業家――仮装して馬鹿騒ぎをしているが、普段はそれぞれの社会的立場がある人々です。
    つまりメグレの戸惑いは、ギャングエットへの不慣れではなく、この階層特有の人間模様をまだ掴めていないという刑事としての職業的な違和感です。これがまさに「鍵がまだ回っていない」状態の正体でもあります。 ↩︎
  4. マトン・スリーブ(manches à gigot)は、羊の脚(gigot)の形に似た袖のことです。
    形の特徴
    肩から肘にかけては大きく膨らんでいて、肘から手首にかけては細くぴったりと絞られるという独特の形です。横から見ると確かに骨つき羊肉の脚に似ています。
    流行の時期
    1890年代に大流行したヴィクトリア朝・ベル・エポック時代の袖のスタイルです。1930年代にはすでに時代遅れのファッションでした。
    この場面での意味
    ジェームズの妻がマトン・スリーブのドレスを着ているという描写は、彼女が流行に乗り遅れた、やや野暮ったい女性であることを示唆しています。さらに彼女は「一番ふくよかな女」とも描写されています。
    ジェームズがうつろな声で「あれが俺の女房だ」と言いながら目に小さな炎を宿している場面と合わせると、夫婦関係の複雑さがこの一言に凝縮されています。
    ↩︎
  5. ベンガル花火(feu de Bengale)は、色鮮やかな炎を出す演出用の発火具です。
    特徴
    爆発音はなく、白・緑・赤などの強烈な色の炎をしばらく燃やし続けるタイプの花火です。現代の手持ち花火(スパークラー)に近いものですが、より大きく激しい炎を出します。
    名前の由来
    インドのベンガル地方で古くから使われていた火薬の発光技術に由来します。ヨーロッパには18世紀頃に伝わり、舞台演出・祭り・パーティーの演出として広く使われるようになりました。
    当時の用途
    1930年代のフランスでは屋外パーティーや祭りの定番の演出でした。電気照明が普及していない田舎の居酒屋では特に効果的で、暗闇の中で突然輝く強烈な白緑の光は非常に印象的だったはずです。
    この場面でベンガル花火が庭で焚かれ、薔薇色の絹の娘が「まるで舞台の書き割りみたい」と言うのは、まさにその非日常的な演劇的効果を言い表しています。そしてシムノンはすぐ次の行で「そして、ここに殺人犯がいるのだ!」と続けます。舞台と現実の対比が鋭く効いている場面です。
    ↩︎
  6. 書き割り(かきわり)とは、舞台の背景として使われる平らな板や布に描かれた絵のことです。
    舞台用語として
    演劇や歌舞伎などで、遠景の風景・建物・空などを描いた大きな背景画を指します。本物ではなく絵で描かれた見せかけの風景なので、「作り物めいた」「現実感がない」という意味で使われます。
    この場面での意味
    薔薇色の絹の娘(工場労働者の恋人)が「まるで舞台の書き割りみたい」と言うのは、ベンガル花火の非現実的な光に照らされた光景が、まるで芝居の舞台装置のように見えたという意味です。 ↩︎
  7. 実は、この一言には深い意味があります。
    表面上はジェームズの無頓着な性格を表しているだけに見えますが、実はこの場面には複数の層があります。
    ジェームズの立場
    ジェームズは後に明らかになりますが、この事件の核心に深く関わっている人物です。バッソ氏が「あいつは誰だ?」と警戒して尋ねた相手が、よりによって司法警察の警部だったわけです。
    「知らない」の意味
    ジェームズはメグレが警部だと知らなかったのか、それとも知っていてとぼけたのか――これは読者への問いかけでもあります。
    バッソ氏の反応
    バッソ氏は「ニエル通りの貸し部屋」の件があるため、見知らぬ人間に敏感になっています。メグレが終始真顔だったことが気になり、わざわざジェームズに確認しに来た。それに対して「知らない、いい奴だよ」という軽い返事――こののらりくらりとしたジェームズの態度がバッソ氏の不安を一時的に鎮めると同時に、読者にはジェームズの掴みどころのなさをより強く印象づけています。
    ↩︎
  8. ヴォルテール椅子(fauteuil Voltaire)は、19世紀フランスで流行した肘掛け椅子で、背もたれが高く緩やかに後ろへ傾き、座面と背もたれにたっぷりした詰め物が入った、ゆったりと体を預けられる椅子です。名前は哲学者ヴォルテール(1694〜1778)が愛用したとされるスタイルに由来します。
    この場面では、2スーの居酒屋の質素な田舎の居間に一脚だけある、いわば主人一家の誇りのような家具です。そこにジェームズが無造作に足を伸ばして座るという描写は、彼のどこでも我が家にしてしまう、階級も場所も超えた無頓着な性格をよく表しています。
    ↩︎
  9. グラン・ブールヴァール(les Grands Boulevards)は、パリの中心部を東西に走る一連の大通りの総称です。
    オスマン男爵による19世紀のパリ大改造で整備されたもので、マドレーヌ広場からバスティーユ広場にかけて連なる複数の大通り――カプシーヌ大通り、イタリアン大通り、モンマルトル大通りなどを指します。
    1930年代には劇場・映画館・カフェ・高級商店が立ち並ぶパリで最も賑やかな繁華街でした。フェンステン氏のシャツ屋がここにあるということは、それなりの格式と規模を持つ店だということを示しています。ただし原文ではその実態は借金だらけで経営が苦しいという皮肉な状況です。
    現在も観光客や地元民に親しまれるパリの中心的な通りで、地下鉄の駅名にも「グラン・ブールヴァール」があります。
    ↩︎
  10. ガーター(jarretelle)は、女性がストッキングを留めるために太ももにつけるゴム製またはリボン製の輪のことです。
    フランスをはじめとするヨーロッパの伝統的な結婚式では、花婿が花嫁のガーターを外して出席者に配るという風習がありました。これは幸運のお守りとされており、ガーターの切れ端をもらった人に幸運が訪れるという言い伝えです。
    本物の結婚式でもないのに、バッソ氏が愛人マドのガーターを外して配るという場面は、複数の意味で皮肉に満ちています。バッソ氏は花婿役ではなく村長役のはずなのに、率先してガーターを外しています。本物の夫フェンステン氏がすぐそばで微笑みながら見ているという状況と合わせて、シムノンが仕掛けた残酷なユーモアの極致といえます。
    ↩︎
  11. ヴァンドーム広場(Place Vendôme)は、パリ1区にある八角形の広場です。
    17世紀末にルイ14世の命により建設された格式高い広場で、中央にはナポレオンの戦勝を記念した円柱(ヴァンドーム円柱)がそびえています。
    1930年代から現在に至るまで、世界最高級のジュエリー店・高級ホテル・銀行が立ち並ぶパリで最も格式ある広場の一つです。ショパンが亡くなったのもこの広場に面した建物でした。現在もカルティエ、ショーメ、ヴァン クリーフ&アーペルなどの名店が並んでいます。
    フェンステン氏がジェームズについて「ヴァンドーム広場のイギリス系銀行に勤めている」と言うのは、非常に格式ある職場を示しています。それだけの職場でありながら、ジェームズが四時に仕事を終えてロワイヤル通りのブラッスリーで飲み続けるだけの生活に甘んじているという対比が、彼の怠惰でどこか虚無的な性格をよく表しています。
    ↩︎
  12. ロワイヤル通り(rue Royale)は、パリ8区にある短い通りです。
    マドレーヌ寺院からコンコルド広場へと南北に伸びる、わずか数百メートルの通りですが、パリで最も格式ある通りの一つとして知られています。
    1930年代には高級レストラン・カフェ・ブラッスリーが立ち並んでいました。中でもラデュレ(マカロンで有名なパティスリー)やマキシム(当時パリ社交界の中心だった高級レストラン)がこの通りにあります。
    ジェームズが毎日四時以降をこの通りのブラッスリーで過ごしているというのは、それなりの金を持ちながら何もしない男の生活をよく示しています。ヴァンドーム広場の銀行から歩いてすぐの距離で、仕事が終わるとそのままブラッスリーに直行するという動線が目に浮かびます。
    後の章でメグレがジェームズと待ち合わせるタヴェルヌ・ロワイヤル(Taverne Royale)もこの通りにある店です。
    ↩︎
  13. ↩︎
  14. ↩︎
マトン・スリーブ