ゲ・ムーランの踊り子|第一章 アデルと友人たち

ゲ・ムーランの踊り子

La danseuse du Gai-Moulin1

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月9日現在未作成)

Ⅰ アデルと|友人たち

「あの人、誰?」


「知らないわ。||初めて来た|客よ」とアデルは|タバコの|煙を|吐きながら|言った。


彼女は|ゆるやかに|脚を|組み直し、|こめかみの|髪に|軽く手を当て、|ホールに|張りめぐらされた|鏡の|ひとつに|目を|向けた——化粧が|崩れていないか|確かめるために。

彼女は|えんじ色の|ビロード張りの|ソファに|腰かけていた。||目の前の|テーブルには|ポートワインの|グラスが|三つ|並んでいる。||左には|若い男が、|右にも|若い男が|いた。


「ちょっと|失礼するわね」


彼女は|二人に|優しく、|内緒めかした|微笑みを|向けると、|立ち上がり、|腰を|ゆっくりと|揺らしながら|ホールを|横切り、|新入りの|客の|テーブルへと|近づいていった。

四人の|バンドマンたちは、|オーナーの|合図を|受けて、|音楽に|歌声を|付けはじめた。||踊っているのは|一組だけだった——店付きの|女と、|プロの|ダンサー。

そして|そこには、|ほぼ毎晩の|ことながら、|虚ろな|印象が|漂っていた。||ホールは|広すぎる。||壁に|はめ込まれた|鏡が|奥行きを|さらに|押し広げ、|そこに|写っている|ものと|いえば、|赤い|ソファと|テーブルの|蒼ざめた|大理石だけだった。

アデルを|失った|二人の|若者は、|身を寄せ合った。


「魅力的な|女だな!」と、|<ジャン・シャボ>は|ため息を|ついた。||二人のうちで|年下の彼は、|半ば|伏せた|まつげの|あいだから|漠然と|ホールを|眺めるふりを|していた。


「しかも|あの|気立のよさ!」と|友人の|デルフォスが|続けた。||彼は|金の|丸い|握りの|ステッキに|もたれかかっていた。

4


シャボは|十六歳半ほどだった。||デルフォスは|もっと|痩せていて、|血色が|悪く、|顔立ちも|不揃いで、|十八歳を|超えては|いなかった。||だが|もし誰かに、|人生の|あらゆる|喜びに|飽き飽きしている|わけではないと|言われでもしたら、|二人は|憤慨して|抗議したことだろう。


「おい、ヴィクトール!」


シャボは|通りかかった|ボーイを|気安く|呼び止めた。


「今|来た|あいつ、|知ってるか?」


「いや、|でも|シャンパンを|注文|しましたよ」


ヴィクトールは|ウィンク|しながら|続けた。


「アデルが|相手してます」


彼は|トレイを|持って|立ち去った。||音楽が|一瞬|止まり、|ボストンの|リズム2で|再び|鳴りはじめた。||オーナーは|例の|客の|テーブルで、|自ら|シャンパンの|瓶を|抜き、|ナプキンで|瓶|の首を|巻いていた。


「遅くまで|やってると|思うか?」と、|シャボは|声を|潜めて|聞いた。


「二時、|二時半、|いつも通りさ」


「もう一杯|やるか?」


二人は|苛立っていた。||特に|年下の|シャボは、|半ば|固定した|眼差しで|次々と|周りを|見回していた。


「あいつ、|いくら|持ってるんだろう?」


すると|デルフォスは|肩をすくめ、|苛立たしげに|言い切った。


「黙れよ」


二人の|目の前には、|ほぼ|正面に、|シャンパンを|注文した|見知らぬ|客の|テーブルで、|アデルが|腰かけているのが|見えた。||四十歳ほどの|男で、|黒髪、|浅黒い|肌——ルーマニア人か、|トルコ人か、|その手の|出身だろう。||ピンクの|シルクの|シャツを|着て、|ネクタイには|大粒の|ダイヤが|光っていた。

男は、|肩に|寄りかかりながら|笑いかけてくる|踊り子を|ほとんど|気にかけて|いなかった。||アデルが|タバコを|せがむと、|男は|金の|シガレットケースを|差し出し、|そのまま|正面を|眺め続けた。

デルフォスと|シャボは|もう|口をきかなかった。||二人は|その男を|さげすむように|眺める|ふりを|していた。||だが|実のところ、|夢中で|見入っていた!||ちょっとした|ことも|一つも|見逃さなかった。||ネクタイの|結び方、|スーツの|仕立て、|シャンパンを|飲む|男の|身のこなしまで|じっくりと|観察していた。

シャボは|既製品の|スーツを|着て、|二度も|靴底を|張り替えた|靴を|履いていた。||友人の|服は|生地こそ|上等だったが、|体に|合っていなかった。||無理もない——デルフォスには|なで肩で、|胸は|くぼみ、|背だけ|伸びすぎた|少年のような|頼りない|体つきを|していた。


「また|来た!」


入口の|ビロードの|厚い|カーテンが|持ち上がった。||一人の|男が|係に|山高帽を|渡し、|しばらく|その場に|立ったまま|ホールを|見回した。||大柄で、|重々しく、|がっしりした|体格だった。||表情は|穏やかで、|テーブルを|案内しようとする|ボーイの|言葉にも|耳を|貸さず、|適当な|席に|どかりと|腰を|下ろした。


「ビールを|くれ」


「英国ビールしか|ございませんが。|スタウト、ペールエール、スコッチエール、|どれに|なさいますか?」


男は|肩を|すくめた——どれでも|構わない|という|ことだった。

店内の|賑わいは|相変わらず|以前と|変わらず、|毎晩と|同じだった。||ダンスフロアには|一組だけ。||ジャズは|いつしか|背景の|雑音としか|聞こえなくなっていた。||バーでは|こざっぱりした|身なりの|客が|オーナーと|ポーカーに|興じていた。

アデルと|例の|連れは|相変わらず——男は|依然として|彼女を|まったく|気にかけて|いなかった。

場末の|ナイトクラブの|空気だった。||ある瞬間、|酔った|男が|三人、|カーテンを|めくって|入ってこようとした。||オーナーが|駆け寄り、|楽士たちも|懸命に|演奏を|続けた。||だが|三人は|去っていき、|笑い声が|遠ざかっていった。

時間が|経つにつれ、|シャボと|デルフォスは|ますます|険しい|顔つきに|なっていった。||疲労が|二人の|顔に|刻みこまれ、|肌は|鉛色の|醜い|色を|帯び、|目の下には|隈が|深く|刻まれていった。


「なあ、|どう|思う?」とシャボは|囁いた。||あまりに|小さな|声で、|友人は|聞き取ると|いうより|察するしか|なかった。


返事は|なかった。||指が|テーブルの|大理石を|とんとんと|叩く|音だけが|した。

アデルは|異国の|男の|肩に|もたれながら、|ときおり|二人の|友人に|流し目を|送っていた。||甘えるような|明るい|表情は|崩さないまま。


「ヴィクトール!」


「もう|お帰りですか。||待ち合わせでも?」


アデルが|甘えた|ふりを|するように、|彼は|思わせぶりに、|そして|興奮気味に|振る舞った。


「残りは|明日|まとめて|払うよ、|ヴィクトール。||小さいのが|ないんだ」


「かしこまりました。||おやすみなさいませ。||そちらの|出口から|お帰りで?」


二人の|若者は|酔っては|いなかった。||それでも|まるで|悪夢の|中を|歩くように、|何も|目に|入らないまま|店を|後にした。

ゲ・ムーランには|出入口が|二つある。|||表口は|ポ・ドール通り3に|面しており、|客は|普段|そこから|出入りする。||しかし|夜中の|二時を|過ぎると、|警察の|規則では|閉店しているはずの|時間帯に、|薄暗く|人気のない|路地に|通じる|小さな|勝手口が|細く|開けられる。

シャボと|デルフォスは|ホールを|横切り、|異国の|男の|テーブルの|前を|通り過ぎ、|オーナーの|おやすみに|応え、|洗面所の|扉を|押した。||そこで|二人は|互いに|顔を|見合わせることも|なく、|数秒間|立ち止まった。


「怖い」と、|シャボは|口ごもった。


楕円形の|鏡に|自分の|姿が|映っていた。||くぐもった|ジャズの|音が|二人を|追いかけてくる。


「早く!」とデルフォスが|言い、|扉を|開けると、|湿った|冷気が|満ちた|暗い|階段が|現れた。


地下室だった。||階段は|煉瓦造りで、|下から|ビールと|ワインの|むっとする|臭いが|漂ってきた。


「誰か|来たら!」


扉が|閉まると同時に|光が|完全に|消え、|シャボは|躓きそうに|なった。||両手で|硝石に|覆われた|壁を|手探りした。||誰かが|体に|触れた|瞬間、|彼は|びくりとしたが、|友人だった。


「動くな!」とデルフォスが|命じた。


音楽は|もはや|はっきりとは|聞こえなかった。||ただ|気配として|感じられるだけだった。||特に|バスドラムの|振動が|空気の|中に|漂い、|えんじ色の|ソファが|並ぶ|ホール、|ぶつかり合う|グラスの音、|タキシードの|男と|踊る|ピンクドレスの|女を|思い起こさせた。


寒かった。

シャボは|湿気が|体に|染みこんでくるのを|感じ、|くしゃみを|こらえなければ|ならなかった。||彼は|手を|氷のように|冷えた|うなじに|あてた。||デルフォスの|息づかいが|聞こえてくる。||一息ごとに、|タバコの|臭いが|漂ってきた。

誰かが|洗面所に|やってきた。||蛇口が|回された。||コインが|受け皿に|落ちる音4がした。

デルフォスの|ポケットの|中では、|時計が|チクタクと|刻み続けていた。


「開けられると|思うか?」


相手は|黙らせようと|彼の腕を|つねった。||指は|すっかり|冷え切っていた。

上では、|オーナーが|苛立たしげに|時計を|気にしはじめている|ころだろう。||客が|多く、|にぎわっているときは、|閉店時間を|多少|過ぎても、|警察の|怒りを|買う|危険を|冒すことを|さほど|気にしなかった。||しかし|ホールが|がらんとしていると、|彼は|にわかに|規則に|従順に|なるのだった。


「お時間です、|皆さん!||もう|二時ですよ!」


階下の|若者たちには|聞こえなかった。||しかし|彼らには、|上で|起きていることが|一分一分、|手に取るように|わかった。||ヴィクトールが|精算を|済ませ、|それから|バーに|戻って|オーナーと|帳簿を|合わせる。||そのあいだに、|楽士たちは|楽器を|ケースに|しまい、|バスドラムには|緑色の|ラシャがかぶせられる。

もうひとりの|給仕の|ジョゼフは、|椅子を|テーブルの上に|積み重ね、|灰皿を|かき集めていることだろう。


「閉店ですよ、|皆さん!||さあ、|アデル!||急いで!」


オーナーは|がっしりした|体格の|イタリア人で、|カンヌ、|ニース、|ビアリッツ、|そして|パリの|バーや|ホテルで|働いてきた男だった。

洗面所に|足音が|した。||オーナーが|路地に|通じる|小扉に|閂を|かけに|来たのだ。||鍵を|ひとまわりして|施錠するが、|鍵は|鍵穴に|差したままに|しておいた。

オーナーは|無意識に|地下室を|閉めに、|あるいは|少し|覗きに|来ないだろうか?||彼は|少し|立ち止まった。||鏡の前で|髪の|分け目を|整えているに|違いない。||咳払いが|聞こえた。||ホールの|扉が|きしんだ。


五分後には|終わる。||最後まで|残った|イタリア人は、|店の|シャッターを|下ろし、|通りから|最後の|出口を|施錠するだろう。

ところが|彼は、|売上金を|全額|持ち帰るわけでは|ない。||千フラン札だけを|財布に|入れ、|残りは|バーの|引き出しに|置いていく。||その|引き出しの|錠は|あまりに|脆く、|ペンナイフ5が|あれば|こじ開けられる。

ランプは|すべて|消えた。


「行こう!」と|デルフォスの|声が|ささやいた。


「まだだ。|待て」


二人は|今や|建物の中に|ふたりきりだった。||それでも|ひそひそと|話し続けた。||互いの|姿は|見えない。||それぞれが|自分の|顔が|青ざめ、|皮膚が|突っ張り、|唇が|干からびているのを|感じていた。


「誰か|残っていたら?」


「父の|金庫の|ときは|怖くなかったぞ」


デルフォスは|険しく、|ほとんど|威圧的だった。


「引き出しに|何も|ないかも|しれない」


眩暈のような|ものが|襲ってきた。||シャボは|飲みすぎたときより|気分が|悪かった。||地下室に|足を|踏み入れた|今となっては、|もはや|出ていく|勇気も|なかった。||階段に|崩れ落ちて|泣き叫んで|しまいそうだった。


「行くぞ!」


「待て!|引き返してくるかも|しれない」


五分が|過ぎた。||さらに|五分。||シャボが|あらゆる手を|使って|時間を|稼ごうと|しているからだ。||靴紐が|ほどけていた。||何も|見えないまま|結び直した。||転んで|騒ぎを|起こすことが|怖かったから。


「そんなに|臆病だとは|思わなかった。||行け!|先に|出ろ!」


デルフォスは|自分が|先に|出ようとは|しない。||震える|手で|仲間を|前へと|押し出した。||地下室の|扉は|開いている。||洗面所では|蛇口が|流れたままだ。||石鹸と|消毒薬の|臭いが|漂っていた。

シャボには|わかっていた。||ホールに|通じる|もう一枚の|扉が|きしむことが。||そのきしむ音を|待ち構えていた。||それでも|背筋が|凍りついた。


闇の中は、|大聖堂のように|広大だった。||途方もない|空虚さが|感じられる。||暖房器から|まだ|熱気が|にじみ出ていた。


「明かりを!」と|シャボが|息を|潜めて|言った。


デルフォスが|マッチを|擦った。||二人は|一瞬|立ち止まり、|息を|整え、|進むべき|道を|見極めようとした。||するとと突然、|マッチが|落ち、|デルフォスが|甲高い|叫び声を|上げながら|洗面所の|扉へと|駆け出した。||暗闇の中で|見つけられない。||引き返してきて|シャボに|ぶつかった。


「早く!|逃げろ!」


それは|声というより|しゃがれた|うめき声だった。

シャボにも|何かが|見えた。||しかし|はっきりとは|わからなかった。||バーの|近く、|床に|横たわる|人影のようなもの。||真っ黒な|髪。

二人は|もう|動けなかった。||マッチ箱は|床に|落ちているが、|見えない。


「マッチは?」


「もうない」


どちらかが|椅子に|ぶつかった。||もう一方が|問いかける。


「お前か?」


「こっちだ!|扉を|押さえてる」


蛇口は|まだ|流れていた。||それだけで|少し|気が|楽になる。||解放への|第一歩だ。


「明かりを|つけたら?」


「正気か?」


手が|暗闇を|探り、|閂を|求めた。


「硬い」


通りに|足音が|した。||二人は|動かない。||待った。||話し声の|断片が|聞こえてくる。

『……俺は|イギリスが|あのとき|介入しなければ……』
声は|遠ざかっていった。||政治談議を|している|警官たちかも|しれない。


「開けるか?」


しかし|デルフォスは|もう|身動き|ひとつ|できなかった。||扉に|背を|もたせかけ、|喘ぐ|胸を|両手で|押さえていた。


「……口が|開いていた」と|彼は|口ごもった。


鍵が|回った。||外気が|流れこむ。||路地の|石畳に|街灯の|光が|反射していた。||二人とも|走り出したかった。||扉を|閉めることも|頭に|なかった。

10


 だが|あの|角を曲がれば|ポン=ダヴロワ通り6だ。|人通りのある|通りである。|ふたりは|顔を|合わせない。|シャボには|自分の|体が|空洞に|なったように|感じられ、|綿に|包まれた|世界の中で|ぼんやりと|動いているような|気がした。|物音でさえ|ひどく|遠くから|聞こえてくる。


「あいつ、|死んだと|思うか|……|トルコ人か?」


「そうだ!|俺には|分かった|……|あの|開いた口|……|そして|目が……」


「どういうことだ?」


「片目が|開いて、|もう|片方は|閉じてた」


 そして|荒々しく:

「喉が渇いた!」


 ふたりは|ポン=ダヴロワ通りに|出た。|カフェは|どこも|閉まっている。|開いているのは|揚げ物屋が|一軒だけで、|ビール、|ムール貝、|酢漬けの|ニシン、|フライドポテトを|出す|店だった。


「入るか?」


 白い|調理服を|着た|料理人が|せっせと|火を|熾している。|隅の|テーブルで|食べていた|女が、|ふたりの|友人に|誘うような|笑みを|向けた。


「ビール!|フライド!|ムール!」


 最初の|一皿を|平らげると、|ふたりは|また|注文した。|腹が|減っていた。|尋常では|ない|空腹だった。|気づけば|もう|ビールを|四杯も|空けていた!

 それでも|顔は|合わせない。|むさぼるように|食べ続けた。|外は|暗闇で、|足早に|歩く|まばらな|通行人が|見えるだけだった。


「いくらだ、|ボーイ?」


 新たな|恐怖が|よぎる。|ふたりの|金を|合わせても|夕食代は|足りるだろうか?


「……七と|二・五〇と|三と|六〇と……十八フラン|七十五サンチーム!」


 チップに|渡す|一フランが|ぎりぎり|残った!

 通りへ|出る。|店の|よろい戸は|閉まり、|ガス灯が|灯っている。|遠くから|夜警の|足音が|響いてくる。|ふたりは|ムーズ川を|渡った。

 デルフォスは|何も|言わず、|ただ|じっと|前を|見ている。|現実から|はるか|遠くへ|飛んでいる|その|心は、|友人が|話しかけている|ことにさえ|気づかなかった。

ページ11 ひとりぼっちの帰り道


 シャボは|ひとりに|なるまいと、|並んで|歩く|安心感を|少しでも|引き延ばそうと、|界隈で|いちばん|立派な|通りに|ある|こぎれいな|家の|玄関まで|ついて|いった。


「もう|少し|一緒に|歩いてくれ」|と|シャボは|哀願した。


「嫌だ。|気分が|悪い」


 そうだ。|ふたりとも|気分が|悪いのだ。|シャボは|一瞬|死体を|目にした|だけだが、|想像力が|休みなく|働いている。


「やっぱり|トルコ人だったか?」


 名前を|知らないから|トルコ人と|呼んでいる。|デルフォスは|答えない。|音も|なく|鍵を|鍵穴に|差し込んだ。|薄暗がりの|奥に|銅製の|傘立てが|飾られた|広い|廊下が|見える。


「また|明日」


「ペリカン7で?」


 だが|扉は|もう|動き、|閉まりかけている。|今は|ただ|目眩がするばかりだ。|家に|帰って、|ベッドに|潜り込めば!|そうすれば|この|話も|終わりに|なるのでは|ないか?

 気づけば|シャボは|がらんとした|界隈に|ひとり、|足早に|歩き、|走り、|路地の|角で|ためらっては|狂ったように|駆け出していた。|コングレ広場8では|並木が|怖くて|遠回りした。|遠くに|通行人の|影を|見つけると|足を|緩めた。|だが|その|人影は|別の|方向へ|曲がって|いった。

 ロワ通り9。|一階建ての|家々。|ある|玄関先。

 ジャン・シャボは|鍵を|探し、|ドアを|開け、|電灯の|スイッチを|入れ、|ガラス扉の|台所へと|向かった。|火は|まだ|完全には|消えていない。

 玄関の|鍵を|かけ忘れたことに|気づいて|引き返した。|室内は|暖かい。|白い|テーブルクロスの|上に|一枚の|紙と|鉛筆で|書かれた|数行が|あった:

 戸棚に|コトレット10が|あるから。|タルトも|食器棚に|入れておいた。|おやすみ。

                   父より

12深 夜の帰宅


 ジャンは|ぼんやりと|それらを|眺め、|食器棚を|開け、|コトレットを|目に|した。|見ただけで|胸が|むかむかした。|棚の上に|ハコベに|似た|小さな|緑の|鉢植えが|ある。

 マリア叔母が|来たのだ!|叔母が|来ると|いつも|何か|植物を|持って|くる。|サン=レオナール河岸通り11の|叔母の|家は|鉢植えで|いっぱいだ。|おまけに|世話の|仕方について|事細かな|助言を|与えていく。

 ジャンは|電灯を|消した。|靴を|脱いで|階段を|上がる。|一階では|間借り人たちの|部屋の|前を|通り過ぎた。

 二階は|屋根裏部屋だ。|屋根から|ひんやりとした|空気が|漂って|くる。

 踊り場に|たどり着いた|とき、|スプリングが|軋んだ。|誰かが|目を|覚ましている。|父か、|母か。|ドアを|開ける。


 だが|声は|遠くから、|くぐもって|聞こえて|きた:

「ジャン、お前か?」


 仕方ない。|両親に|おやすみを|言いに|行かなければ。|部屋に|入る。|むっとした|空気だ。|もう|何時間も|眠っている。


「遅かったな?」


「そうでもない」


「お前は|もっと……」


 いや。|父には|叱る|勇気が|なかった。|あるいは|叱っても|無駄だと|悟っているのか。


「おやすみ、|ジャン」


 ジャンは|身をかがめ、|湿った|額に|口づけした。


「冷たいな……|お前、……」


「外が|寒くて」


「コトレット、見つかったか?|タルトは|マリア叔母さんが|持って|来たんだよ」


「友達と|食べてきた」


 母が|眠ったまま|寝返りを|打ち、|チニョン12が|枕の上に|崩れた。


「おやすみ」


 もう|限界だった。|自分の|部屋では|電灯も|つけなかった。|上着を|無造作に|放り、|ベッドに|横たわって|枕に|顔を|埋めた。

13 夜明け前


 泣けない。|泣こうにも|できない。|息が|つけない。|手足が|震え、|全身が|大きく|痙攣している。|まるで|重い|病を|患っているかのようだ。

 ただ|スプリングを|軋ませまいと|する。

 喉の|奥から|せり上がってくる|しゃっくりを|こらえようと|する。|隣の|部屋に|ほとんど|眠れない|父が|寝ていて、|耳を|澄ませているのが|わかるから。

 頭の|中で|ひとつの|映像が|膨らんでいく。|ひとつの|言葉が|鳴り響き、|ふくれあがり、|怪物のような|大きさに|なって|今にも|押し潰そうとする——トルコ人!

 それが|うごめき、|重くのしかかり、|息を|詰まらせ、|四方から|締め付けてくる。

 やがて|天窓から|陽光が|注ぎ込んできた。|ベッドの|裾に|立った|父が、|叱りすぎるのを|恐れるように|ぽつりと|言った:


「そんなことは|よせ、|ジャン。||また|飲んで|きたんだろう?||服も|脱がずに|そのままじゃないか」


 下の|階から|コーヒーと|ベーコンエッグの|匂いが|漂ってくる。|通りを|トラックが|通り過ぎる。|どこかで|ドアが|バタンと|閉まる。|鶏が|鳴いた。

  1. 小説の舞台となる「ゲ・ムーラン(Le Gai-Moulin)」とは
    ベルギーの|リエージュ市にある|小さな|ナイトクラブ(キャバレー)です。||「Gai-Moulin」とは|フランス語で|「陽気な風車」という|意味です。
    ゲ・ムーランは創作ではなく、ジョルジュ・シムノンが|実際に|存在した|リエージュの|キャバレーを|モデルに|したと|言われています。||シムノン自身が|ベルギーの|リエージュ出身で、|若い頃に|こうした|夜の|店を|よく|知っていました。
    ただし|この|小説自体は|フィクションです。||登場人物のジェナロ、アデル、シャボ、デルフォスらは|架空の|人物です。
    まとめると:
    舞台となる|リエージュという|都市 → 実在
    ゲ・ムーランという|店の|雰囲気 → 実在の|キャバレー文化を|反映
    事件・登場人物 → 創作
    シムノンは|自分が|育った|街の|空気を|そのまま|小説に|持ち込む|作家で、|それが|リアリティの|源泉に|なっています。
    場所
    ポ・ドール街(rue du Pot-d’Or)に面した|表口と、|暗い路地に|通じる|裏口の|二つの扉が|あります。
    内装
    えんじ色の|ビロード張りの|ソファ、|大理石の|テーブル、|壁一面の|鏡、|バーカウンター、|地下室への|階段が|特徴です。
    雰囲気
    ホールは|広すぎるほどで、|客は|少なく、|閑散としていることが|多い。||四人の|楽士が|演奏し、|プロの|ダンサーと|店付きの女が|踊っています。||ポルトワイン、|シャンパン、|英国ビールなどを|提供しています。
    実態
    表向きは|ナイトクラブですが、|オーナーの|ジェナロが|スパイ組織の|拠点として|使っており、|警察の|情報提供者でも|あるという|二重の|顔を|持っています。||アデルは|そこの|看板|ダンサーです。
    物語の核心
    この|店の|地下室で|シャボと|デルフォスが|潜伏し、|謎の客グラフォプロスの|殺害に|関わる|事件が|起きます。 ↩︎
  2. ボストン(Boston)とは、1900年代初頭に|流行した|社交ダンスの|一種です。
    特徴:
    ワルツから|派生した|ダンスで、|三拍子
    ゆったりと|滑らかな|動きが|特徴
    当時の|ヨーロッパの|キャバレーや|ダンスホールで|広く|親しまれていた
    この場面での|意味:
    音楽が|一瞬|止まり、|次に|ボストンの|リズムで|再開したという|描写は、|ガイ・ムーランの|ゆるやかで|退廃的な|雰囲気を|よく|表しています。||激しい|ジャズではなく、|どこか|倦んだような|優雅さが|漂う|曲調です。
    余談:
    現代では|ほぼ|忘れられた|ダンスですが、|1930年代の|ベルギーや|フランスの|夜の|店では|ごく|自然な|レパートリーでした。||シムノンが|この|単語を|使うことで、|時代の|空気が|リアルに|伝わってきます。
    ↩︎
  3. ポ・ドール通りは小説の舞台となっているベルギーの都市リエージュに実在する通りです。
    本文にも「ガイ・ムランの正面玄関はポ・ドール通りに面している」と書かれており、客はふだんこの表口から出入りします。深夜二時以降、警察の規則上は閉店しているはずの時間帯には、裏手の薄暗い路地に面した勝手口を細めに開けておく、という描写があります。
    Pot-d’Orはフランス語で「金の壺」を意味します。リエージュの旧市街に実際に存在した通りで、シムノンは地元の地名をそのまま作品に取り込んでいます。シムノン自身はリエージュ出身のベルギー人作家であり、この作品の舞台となる夜の盛り場の雰囲気も、若き日の記憶をもとに描いたと言われています。
    ↩︎
  4. 当時のフランスやベルギーの公衆トイレや洗面所では、チップ制が一般的でした。
    洗面所の番人(たいていは女性)が常駐しており、利用者は使用後に小皿や受け皿にチップとしてコインを置いていく慣習がありました。その受け皿にコインが投げ入れられる音のことです。
    つまりこの場面では、誰かが洗面所を使い終えて、チップを置いていった——ということを示しています。地下室に息をひそめて隠れているシャボとデルフォスには、そのコインの落ちる小さな音まで聞こえてくるほど、張り詰めた静寂の中にいる、という緊張感を表す描写です。
    「受け皿」の訳は適切ですが、この文化的背景を踏まえると「チップ皿」と訳すほうがより正確かもしれません。
    ↩︎
  5. ペンナイフ(canif)は、小型の折りたたみナイフです。
    もともとは羽根ペンの先を削って整えるために使われていた小刀で、そこから「ペンナイフ」という名前がつきました。19世紀から20世紀初頭にかけては、男性が日常的にポケットに携帯する道具のひとつでした。
    この場面では、バーの引き出しの錠前が非常に脆く、そんな小さなナイフでも簡単にこじ開けられるという意味で使われており、デルフォスたちが金庫破りを企てる動機を説明する伏線になっています。
    日本語では「小刀」「折りたたみナイフ」と訳してもよいですが、「ペンナイフ」のままでも通じます。
    ↩︎
  6. ポン=ダヴロワ通りは、小説の舞台となっているベルギーの都市、リエージュの中心部を南北に走る主要な大通りです。
    作中でも、その性格がよく描かれています。リエージュ市民の「伝統的な散歩道」として紹介され、夜遅くまでトラムが三分おきに走り、雨の中でも人々がゆっくりと行き交う賑やかな通りです。
    ゲ=ムーランのような怪しげなキャバレーが立ち並ぶ路地裏とは対照的に、ポン=ダヴロワ通りは明るく開かれた表の顔を持つ場所です。家族連れ、腕を組んだ娘たちのグループ、通行人をじろじろ眺める若者の一団、そしておしゃれに着飾った人々が行き交います。
    ペリカン・カフェ——シャボとデルフォスがよく入り浸っていた店——もこの通りに面しており、シャボはそこの窓から通りを行き交う人々を眺めながら、ビールと仲間との時間を楽しんでいたと描かれています。
    つまりこの通りは、物語の「裏の世界」(ゲ=ムーラン、犯罪、夜の闇)と「表の世界」(日常、市民生活、法)の境界線のような役割を果たしています。シャボたちが死体を目撃した直後にこの通りへ飛び出すのも、人の目がある安全な場所へ戻ろうとする本能からでしょう。
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  7. ペリカンとは、ふたりが|よく|入り浸っていた|カフェの名前です。|ポン=ダヴロワ通りに|面した|リエージュで|最も|高級な|カフェの|ひとつとして|作中に|描かれています。
    シャボは|そこで|仕事帰りに|仲間と|ビールを|飲み、|通りを|行き交う|人々を|眺めながら|夜を|過ごすのが|習慣でした。|デルフォスが|気前よく|おごってくれるので、|シャボは|次第に|それを|当てにするように|なっていきます。|そこから|ゲ=ムーランへと|足を|踏み入れる|きっかけにも|なった、|ふたりの|友情と|堕落の|出発点とも|いえる|場所です。
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  8. コングレ広場とは、リエージュ市内に|実在する|広場で、|木々が|植えられた|落ち着いた|一角です。|シャボが|住む|ロワ通りの|近くに|位置しており、|深夜に|家へ|帰る|途中に|通り抜ける|場所として|描かれています
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  9. ロワ通りRue de la Loi)は、|リエージュ市内に|実在する|通りです。|「法律通り」を|意味する|名前で、|ベルギーの|都市には|よく|見られる|通り名です。
    作中では「一階建ての|家々」と|さらりと|書かれているだけです。|豪邸でも|なく、|貧民街でも|ない。|慎ましい|市民が|暮らす|静かな|住宅街です。 ↩︎
  10. コトレットcôtelette)は、フランス語で|骨付きの|薄切り肉のことです。|豚や|仔牛の|リブチョップに|あたります。
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  11. サン=レオナール河岸通り(Quai Saint-Léonard)は、|ムーズ川沿いに|実在する|リエージュの|通りです。|「河岸」(quai)と|いう名の|通り、|川に|面した|堤防沿いの|道です。 ↩︎
  12. チニョンchignon)は、|後頭部や|うなじの|あたりで|髪を|まとめた|お団子状の|髪型です。|19世紀から|20世紀にかけて|ヨーロッパの|既婚女性や|中年女性に|広く|見られた|スタイルです。
    きちんと|まとめられた|髪が|眠りの中で|崩れている。|昼間は|身だしなみを|整えた|慎ましい|主婦が、|深夜には|無防備に|眠っているという描写です。
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