|原文:Maigret, Lognon et les gangsters – Georges Simenon
『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月8日現在未作成)
3ページ
第1章|メグレが|マダム・ロニョンと|その病気と|ギャングたちの|相手を|させられる|はめになる|くだり
「わかった、|わかった、|そうですよ、|そうですとも、|できるかぎりの|ことは|します、|そういうことで、|では、|え?||では、|これで|失礼します、|いえ、|かまいませんよ、|では、|ごきげんよう」
もう|十度目か。||もはや|数えても|いなかった。||メグレは|受話器を|置くと、|窓ガラスの|向こうに|降り続ける|冷たい|長雨を|うらめしそうに|眺めながら、|パイプに|火を|つけ直し、|ペンを|取って、|一時間前から|書きかけの|レポートに|身を|かがめた。||まだ|半ページにも|届いていない。
実のところ、|最初の|一語を|書きながら、|頭は|べつのことを|考えていた。||雨の|ことを。||冬本番の|寒さが|来る前に|降る、|あの|独特の|雨のことを。||首筋にも|靴の|中にも|忍び込んできて、|帽子の|つばからは|大粒の|雫が|ぽたぽた|垂れる。||風邪を|引かせる|雨だ。||汚らしく、|陰鬱で、|人を|外に|出る気も|なくさせる。||窓の|向こうに、|幽霊の|ように|ぼんやりと|人影が|透けて|見えた。
退屈の|あまり|電話でも|かけてくるのだろうか。||八本から|十本、|ほぼ|立て続けに|かかってきた|電話のうち、|役に|立ったものは|三本も|なかった。||また|呼び出し音が|鳴り響いた。||メグレは|受話器を|拳で|叩き壊してやろうか|という|顔で|眺めてから、|ようやく|怒鳴った。

「もしもし?」

「ロニョン夫人が、|どうしても|警部|ご本人と|直接|お話ししたい|とのことです」

「誰だって?」
4ページ

「ロニョンです」
こんな天気に、|こんな時に——すでに|うんざりしていた|メグレの|耳に、|受話器の|向こうから|突然|聞こえてきたのは、|「不愛想な|刑事」と|あだ名された|男の|名前だった。||パリ警察で|いちばん|陰気な|男、|その不運が|あまりにも|有名すぎて、|「あいつは|邪眼1を|持っている」と|言いだす者まで|いるほどの|男だ。||まるで|冗談みたいだった。
しかも|電話口に|出たのは|ロニョン|本人ではなく、|マダム・ロニョンだった。||メグレが|彼女に|会ったのは|一度きりで、|モンマルトルの|<コンスタンタン=ペクール広場>の|あの|住まいでのことだった。||それ以来、|ロニョンを|恨む気には|なれなかった。||できるかぎり|顔を|合わせないように|していたが、|心の底から|同情していた。

「つないでくれ。||もしもし!||マダム・ロニョン?」

「お邪魔して|申し訳ございません、|警部さん」
彼女は|しっかりした|教育を|受けたことを|示したいとでも|いうように、|一音一音を|丁寧に|発音した。||メグレは|日付を|確認した。||十一月|十九日、|木曜日だ。||暖炉の|上の|黒大理石の|時計が|午前|十一時を|示していた。

「直接お話しする|よう|お願いしましたのも、|よほどの|理由が|ございましたので」

「で?」

「夫のことは|ご存知でしょう。||あなたなら|おわかりのはず」

「ええ」

「ぜひ|お会いしたいのです、|警部さん。||ひどいことが|起きていて、|恐ろしくて。||体さえ|よければ|<オルフェーヴル河岸通り>まで|飛んでいくのですが、|ご存知のとおり、|何年も|五階に|釘付けに|なっておりますので」
「つまり、|こっちに|来いと?」

「お願いします、|メグレさん」
大した度胸だ。||丁寧だが、|きっぱりとした|言い方だった。

「ご主人は|いないのですか?」

「消えてしまったんです」

「何ですって?||ロニョンが|消えた?||いつから?」

「わかりません。||署にも|おりませんし、|どこにいるか|誰も|知らないんです。||今朝、|ギャングたちが|また|来て」

「何ですって?」
5ページ

「ギャングです。||全部|お話しします。|ロニョンが|怒っても|かまいません。|怖くて|たまらないんです」

「つまり、|誰かが|家に|入り込んだと?」

「はい」

「無理やり?」

「はい」

「あなたが|いる|ときに?」

「はい」

「何か|持っていかれましたか?」

「書類|かもしれません。||確認できなくて」

「今朝のことですか?」

「三十分前です。|でも|別の二人は|一昨日も|来ていました」

「ご主人は|どう|したんですか?」

「それ以来|会っていません」

「すぐ|行きます」
メグレは|まだ|半信半疑だった。||頭を|かきながら、|パイプを|二本|選んで|ポケットに|突っ込み、|刑事部屋の|ドアを|少し|開けた。

「最近、|ロニョンの|消息を|知っている者は|いるか?」
その名前が|出ると、|いつも|誰かが|微笑んだ。||誰も|知らなかった。||ロニョン刑事は、|あれほど|望んでいたにもかかわらず、|オルフェーヴル河岸通りの|警視庁|捜査局には|属していなかった。||第九区|第二管区に|配属されていて、|執務室は|<ラ・ロシュフコー通り>の|警察署に|あった。

「呼ばれたら、|一時間で|戻る。||下に|車は|あるか?」
メグレは|分厚い|外套を|着込み、|中庭で|小さな|警察の|車を|見つけ、|コンスタンタン=ペクール広場の|住所を|告げた。||街の中は|北駅の|ガラス張りの|屋根の|下と|同じくらい|暗く、|歩行者たちは|車が|歩道に|跳ね上げる|汚い|水しぶきを|無言で|受けていた。
建物は|ありきたりで、|築百年、|エレベーター|なしだ。||メグレは|ため息を|つきながら|五階まで|上った。||ノック|するまでもなく|ドアが|開いた。||マダム・ロニョンは|目も|鼻も|赤くして、|ぼそぼそと|言いながら|メグレを|招き入れた。

「来てくださって|本当に|ありがとうございます!|夫が|どれほど|あなたを|尊敬|しているか、|おわかり|いただけたら|よいのですが!」
6ページ
それは|嘘だった。||ロニョンは|メグレを|憎んでいた。||オルフェーヴル河岸で|働く|幸運に|恵まれた|者たちを、|警部たちを、|自分より|上の|階級に|ある|者すべてを|憎んでいた。||先輩を|憎むのは|先輩だからで、|若手を|憎むのは|若いからだ。||そして‥‥

「おかけください、|警部さん」
彼女は|小柄で|痩せていて、|髪は|ぼさぼさで、|醜い|薄紫色の|フランネルの|ガウンを|まとっていた。||目の下には|深いくまが|あり、|小鼻は|きつく|すぼまって、|絶えず|左胸に|手を|当てていた。||心臓を|患っている|人間の|仕草だった。

「何も|触らずに|おきました。||見ていただけるように」
部屋は|手狭だった。||食堂、|居間、|寝室、|台所、|洗面所——すべてが|こぢんまりとしていて、|家具が|邪魔をして|ドアが|完全には|開かない。||ベッドの上では|黒猫が|丸くなっていた。
マダム・ロニョンが|メグレを|通したのは|食堂で、|居間は|明らかに|使われていなかった。||食器棚の|引き出しには|銀食器では|なく、|書類や|手帳や|写真が|ぐちゃぐちゃに|突っ込まれていて、|手紙が|床に|散らばっていた。

「最初から|話してもらえますか」パイプに|火を|つけるのを|ためらいながら、|メグレは|言った。
「さっき|電話で、|ギャングとか|おっしゃっていたが」
マダム・ロニョンは|苦難に|慣れた|人間の|口調で|まず|言った。

「パイプは|どうぞ|お吸いください」

「ありがとう」

「火曜日の|朝から|なんですが」

「つまり|一昨日?」

「はい。|今週、|ロニョンは|夜勤で。||火曜日の|朝、|いつもどおり|六時過ぎに|帰ってきました。||でも|食事を|済ませた|あと、|すぐに|床に|つかないで、|一時間以上も|部屋の|中を|うろうろして、|めまいが|するほどでした」
7ページ

「思い悩んでいる|ようでしたか?」

「あの人が|どれほど|真面目か、|警部さんも|ご存知でしょう。||真面目すぎる、|体を|壊す、|それなのに|誰にも|認められない、|とずっと|言い聞かせてきたんです。||率直に|申し上げて|申し訳ないのですが、|あの人が|これまで|正当に|評価されたことが|なかったことは|お認めになるでしょう。||仕事のことしか|頭にない|人間で、|いつも|自分を|追い詰めて」

「火曜日の|朝の|話を」

「八時に|買い物に|出かけました。|体の|きかない|女房で|情けないのですが、|仕方が|ないんです。||医者に|階段を|上るなと|言われていて、|買い物は|どうしても|ロニョンに|頼むしか|ない。||あの人に|させる|仕事では|ないと|わかっています。|毎回|私は」

「火曜日の|朝は?」

「買い物を|してから、|署に|寄らなければ|ならない、|たぶん|すぐ|戻れる、|午後に|寝ると|言って|出ました」

「担当している|事件の|話は?」

「そういう話は|絶対に|しません。||聞こうとすると、|職業上の|秘密があると|言うんです」

「それから|戻らなかったんですか?」

「十一時ごろに|一度」

「同じ日に?」

「はい。|火曜日の|十一時ごろです」

「まだ|神経質に?」

「神経質なのか|風邪のせいなのか、|わかりません。|ひどい|鼻風邪を|引いていて。||治してほしいと|頼んだら、|暇に|なったら|治す、|もう一度|出かけなければ|ならないが|夕飯前には|戻ると|言いました」

「戻りましたか?」

「待ってください。||ああ、|今|急に|思い当たって!||もう二度と|会えなかったら!||ちょうど|あの人を|責めてしまったんです、|奥さんのことより|仕事のことしか|考えていないって」
8ページ
メグレは|諦めて|待っていた。||背もたれが|まっすぐすぎる|椅子に|ぎこちなく|腰かけて、|後ろに|倒しかけて|やめた。||頑丈では|なさそうだった。

「あの人が|出て|いってから|十五分ほど、|いいえ|もっと|短かったかもしれません、|一時ごろに|階段を|上る|足音が|聞こえました。||六階の|方への|お客かと|思いました。||あの方は|内緒の話ですが」
「ああ。|階段の|足音ですね」

「踊り場で|止まりました。|食後は|横に|なるよう|医者に|言われていて、|ちょうど|寝床に|戻ったばかりでした。||ノックの|音が|しましたが、|返事を|しませんでした。|名前を|言わない|来客には|絶対に|応じるなと|ロニョンに|言われていたので。||あの人の|仕事を|していれば|敵も|できます、|そうでしょう?||ドアが|開く|音が|して、|廊下を|通って|食堂に|入ってくる|足音が|聞こえたときは|驚きました。||二人でした。|寝室を|のぞいて、|まだ|床に|いる|私を|見た|二人の|男が」
「観察できましたか?」

「出ていけと|命令して、|警察を|呼ぶと|脅しました。||枕元の|テーブルの|電話に|手を|伸ばしも|しました」
「それで?」

「小さいほうの|男が|拳銃を|見せながら|何か|言いました。||知らない|言葉で、|たぶん|英語だと|思います」
「どんな|様子でしたか?」

「うまく|言えません。|とても|身なりが|よくて。||二人とも|煙草を|吸っていました。||帽子も|かぶったままで。||何かを、|あるいは|誰かを|探して|いる|のに|見つからなくて|戸惑っている|ようでした。||主人に|会いたいなら、|と|言いかけましたが、|聞いて|いませんでした。||大きいほうが|部屋を|全部|回り、|小さいほうは|ずっと|私を|見張っていました。||ベッドの|下も|押し入れの|中も|調べたのを|覚えています」
「家具の|中は|調べなかった?」

「その二人は|調べませんでした。||五分と|いなかったと|思います。||何も|聞かずに、|ごく|当然の|訪問でも|するように|静かに|出て|いきました。||もちろん|窓に|駆け寄ると、|歩道で|大きな|黒い|車の|そばに|立って|話している|二人が|見えました。||大きいほうが|車に|乗り込んで、|もう一人は|コーランクール街の|角まで|歩いていきました。|バーに|入ったと|思います。||すぐに|夫の|警察署に|電話しました」
9ページ
「いましたか?」
「はい。|ちょうど|着いたばかりで。||起きたことを|全部|話しました」
「驚いた|様子でしたか?」 「電話では|わかりにくくて。|いつも|変な|感じで」 「二人の|男の|人相を|聞いてきましたか?」 「はい。|話しました」 「もう一度|話してください」 「二人とも|イタリア人みたいに|真っ黒な|髪で、|でも|イタリア語では|なかったと|思います。||二人の|うちで|主役は|大きいほうで、|なかなかの|男前でした、|正直なところ。|少し|太りすぎで、|四十歳くらい。||散髪屋から|出てきたばかりの|ような|身なりでした」 「小さいほうは?」 「もっと|粗野な|感じで、|鼻が|曲がっていて、|ボクサーの|ような|耳で、|前歯に|金歯が|一本。||パールグレーの|帽子に|グレーの|コート、|大きいほうは|真新しい|キャメル色の|コートを|着ていました」 「ご主人は|駆けつけなかった?」 「来ませんでした」 「近くの|警察を|よこしもしなかった?」 「それも|なくて。||何日か|家に|帰れなくても|心配するなと|言われました。|食事は|どうするのか|聞いたら、|自分が|手配すると」 「手配しましたか?」 「はい。|翌朝、|御用聞きが|必要なものを|届けに|来ました。||今朝も|また|あの二人が|来て」 「昨日|一日、|ロニョンから|連絡は|なかったですか?」 「二度|電話が|ありました」 「今日は?」 「九時ごろに|一度」 「どこから|かけているか|わかりませんでしたか?」
- 「邪眼」(じゃがん)とは、|見つめるだけで|人に|不幸や|災いを|もたらすと|いわれる|魔力を|持った|目のことです。||英語では|”evil eye”、|フランス語では|”mauvais œil”と|いいます。
原文の|”il avait le mauvais œil”は|まさにこの|意味で、|ロニョンの|不運が|あまりにも|ひどいため、|同僚たちが|「あいつは|邪眼を|持っている」、|つまり|「あいつと|関わると|不幸が|うつる」と|噂していた、|ということです。
地中海や|中東では|今も|根強く|信じられている|迷信で、|フランス語圏でも|慣用表現として|使われています。||翻訳としては|「邪眼」で|問題ないかと|思いますが、|「不運をまき散らす目」|などと|意訳することも|できます。
↩︎
