死んだガレ|第八章 ムッシュー・ジャコブ

死んだガレ氏

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月8日現在未完成)

82ページ


第八章 ムッシュー・ジャコブ

「少し|待って、|オロール!||そんな|状態で|出ていくことは|ないわ」


 くぐもった|声が|答えた。


「どうしようも|ないの、|フランソワーズ。||この訪問は|八日前に|受けた|あの訪問を|思い出させる。||それに|あの旅も。||あなたには|分からないわ」


「分からないのは、|あんな|男を|泣く|勇気が|あなたに|あることよ。||あなたの|名誉を|傷つけ、|一生|嘘を|つき続け、|唯一の|善行が|保険に|入ることだった|男を」


「黙って!」


「それだけじゃ|ない!||月に|二千フランしか|稼いでいないと|誓いながら、|あなたを|ほとんど|惨めな|生活に|追いやっていた。||保険を|見れば、|少なくとも|その|倍は|稼いでいて、|それを|隠していたのよ。||そうなると、|もっと|稼いでいたかも|しれない。||あたしが|思うに、|あの男は|二重生活を|送っていて、|愛人がいて、|どこかに|子供も|いるかも|しれないわ」


「お願いだから、|フランソワーズ!」


 メグレは|女中が|扉を|閉め忘れたまま|通した、|サン=ファルジョーの|小さな|応接間に|一人で|いた。||同じ|廊下に|面した|食堂の|扉も|半開きに|なっており、|そこから|二人の|女の声が|聞こえてきた。

 家具や|細々した|ものは|全て|元の|場所に|戻っていた。||しかし|警部は、|大きな|樫の|テーブルを|見るたびに、|数日前には|黒い|布を|かけられ、|棺と|ろうそくを|支えていたことを|思わずには|いられなかった。

 空は|どんよりと|曇り、|空気は|重かった。||夜の間に|嵐が|あったが、|空は|まだ|晴れ切っていない|気配が|していた。

83 ガレ家の二姉妹


「なぜ|黙っていなければ|ならないの。||あなたは|これが|私に|関係ないと|思っているの?||私は|あなたの|妹よ。||ジャックは|もうすぐ|大きな|政治的地位を|得ようとしているわ。||もし|土地の人たちが|義理の|兄が|詐欺師だったと|知ったら|どうなると|思う?」


「じゃあ|なぜ|来たの?||二十年も|会いに来なかったくせに」


「あの人に|会いたく|なかったからよ!||あなたが|結婚したいと|言った時、|私は|正直に|意見を|言ったわ、|ジャックも|そうだった。||オロール・プレジャンという|名前を|持ち、|ヴォージュ1で|最も|大きな|なめし革工場の|一つを|経営する|義理の弟が|いて、|いつか|大臣の|官房長に|なるかも|しれない|義理の弟も|いるというのに、|エミール・ガレなんかとは|結婚できないわ!||名前からして|論外よ!||『行商人』なんて!||お父様が|どうして|承諾したのか|不思議で|たまらないわ。||いや|むしろ|正直に|言えば、|何が|あったか|分かる|気がする。||あの頃|父は|一つの|ことしか|考えて|いなかった、|何としてでも|新聞を|出し続けることね。||ガレは|少し|金を|持っていた。||それで|ソレイユの|事業に|出資させられたのよ。||違うと|言えるの!||それにしても|あなたが、|私と|同じ|教育を|受け、|お母様に|似ている|あなたが、|あんな|無能な|男を|選んだなんて。||そんな目で|見ないで!||ただ|泣く必要は|ないと|分からせたいだけよ。||あの人と|一緒にいて|幸せだった?||正直に|言って!」


「分からない、|もう|分からないわ」


「もっと|野心が|あったと|認めなさいよ!」


「あの人が|いつか|何かを|するかも|しれないと|ずっと|期待していたわ。||そうなるよう|背中を|押し続けていた」


「石ころを|押すような|ものよ!||結局は|あの人を|どうにも|できないと|悟って、|そのまま|受け入れて|しまって!||あの人が|死んだ日に|貧乏に|ならずに|済むことさえ|知らなかったじゃないの。||保険が|なければ|どうなっていたか|わからなかったわよ」


「あの人が|考えていたのよ」と、|ムッシュー・ガレの|妻は|ゆっくり|言った。


「それだけは|勘弁して|ほしいわ!||あなたの|話を|聞いていると、|あの人のことが|好きだったのかと|思えてくるわ」


「黙って。||警部は|私たちの|話を|聞いているかも|しれないわ。||あの人に|会わなければ|ならないから」


「どんな人?||あなたの|傍に|いるわ、|今の|あなたの|状態では|そのほうが|いいもの。||でも|お願いだから、|オーロール、|そんな|打ちひしがれた|顔を|しないで!||警部が|あなたが|共犯者だったとか、|悲しんでいるとか、|恐れているとか|思ってしまうわ」

84


メグレは|あわてて|一歩|後ろに|退いた。||二人の|女が|隣の部屋の|扉から|入ってきた。||しかし|盗み聞きした|会話から|想像していた|姿とは|少し|違っていた。

ガレ夫人は|最初の|面会の時と|ほぼ|変わらず|よそよそしかった。||姉のほうは|二つか三つ|年下で、|脱色した|金髪に|厚化粧、|神経の張りと|気取りを|同時に|漂わせていた。


「何か|新しいことが|わかりましたか、|警部さん」と|未亡人が|疲れた様子で|尋ねた。||「どうぞ|おかけください。||妹を|ご紹介します。||昨日|<エピナル>から|来たばかりで」


「ご主人は|『なめし革業者』でしたね」


「なめし革工場の|オーナーです!」とフランソワーズが|ぴしゃりと|訂正した。


「葬儀には|いらっしゃらなかったのですね。||三十万フランの|生命保険金が|入ると|新聞に|出てから|もう三日に|なりますが」


メグレは|ゆっくりと|話しながら、|わざと|間の抜けた|様子で|あちこちに|目をやっていた。||特に|はっきりした|目的も|なく|サン=ファルジョーに|来たのは、|改めて|この場の|空気を|嗅ぎ、|死者の|イメージを|整理し|直すためだった。

とはいえ|アンリ・ガレに|会えれば|それに|越したことは|なかった。


「一つ|お聞きしたいのですが」と|メグレは|二人の|女に|向き直らずに|言った。
「あなたの|ご主人は、|あなたとの|結婚が|家族から|つまはじきに|されることを|ご存じだったはずですね」


答えたのは|フランソワーズだった。


「それは|違います、|警部さん!||最初のうちは|受け入れていました。||夫は|何度も|あの人に|別の|仕事を|探すよう|勧め、|援助まで|申し出ました。||一生|あのままで、|努力の|できない|人間だと|わかってから|はじめて|避けるように|なったのです。||あの人がいると|迷惑でしたから」


「あなたは|どうでしたか」と|メグレは|穏やかに|ガレ夫人に|向き直って|言った。
「職業を|変えるよう|背中を|押しましたか?||不満を|ぶつけましたか?」

85


「それは|夫婦の|間の|ことです!||私が|口を出す|権利が|あったと|言えますか?」


扉越しに|聞こえてきた|声から、|メグレは|悲しみが|人間らしさを|引き出した|女を|想像していた。||あの|傲慢な|気位の高さを|捨てた|女を。||ところが|実際に|目の前に|現れたのは、|最初に|会った日と|少しも|変わらない|女だった。


「息子さんは|お父様と|仲が|よかったですか?」


妹が|また|口を|挟んだ。


「アンリは|違います!||いつか|必ず|何かを|成し遂げる|人間です!||体は|父親似でも、|プレジャンの|血が|流れていますから。||年頃になって|あの家を|飛び出したのも|正解でしたよ。||昨夜|肝臓の|発作を|起こしたというのに、|今朝には|もう|仕事に|戻っているんですから」


メグレは|テーブルを|眺めながら、|エミール・ガレを|この応接間の|どこかに|置いてみようとしたが、|どうしても|できなかった。||おそらく|この家の|人間は、|客を|迎える時しか|この部屋に|足を|踏み入れないからだろう。


「何か|ご用が|おありでしたか、|警部さん?」


「いいえ。||お邪魔して|申し訳ありませんでした。||ただ|一つだけ|聞かせてください。||ご主人が|<インドシナ>に|いた頃の|写真は|ありますか?||結婚前に|あちらに|いらしたと|思いますが」


「写真は|ありません。||夫は|あの頃の|ことを|ほとんど|話しませんでしたので」


「どんな|教育を|受けたか|ご存じですか?」


「とても|博識でした。||父と|ラテン文学の|話を|よくしていたのを|覚えています」


「どこの|学校に|通っていたかは|ご存じ|ないですか?」


「<ナント>出身だとしか|知りません」


「ありがとうございました。||またも|お邪魔して|失礼しました」


メグレは|帽子を|探しながら|後ずさりで|廊下に|出た。||この家に|足を|踏み入れるたびに|感じる|あの|漠然とした|不安を、|今回も|うまく|言葉に|できなかった。


「私の名前が|新聞に|出ないように|していただきたいわ、|警部さん!」とフランソワーズが|遠慮のない|口調で|言った。
「夫は|県会議員ですのよ。||政界に|強い|影響力を|持っておりますし、|あなたも|公務員である以上|そのあたりは|おわかりでしょう?」

86

メグレには|言い返す|気力が|なかった。||ただ|彼女の|額の|真ん中を|じっと|見つめ、|ため息を|つきながら|一礼した。

斜視の|女中に|見送られて|小さな|庭を|横切りながら、|メグレは|夢見るように|つぶやいた。


「まったく、|ガレも|気の毒に!」


オルフェーヴル河岸の|事務所に|立ち寄って|郵便を|受け取ったが、|事件に|関するものは|何も|なかった。||事務所を|出ると、|あてもなく|銃砲店に|向かった。||死者の|頭蓋骨から|取り出した|弾丸と、|モアエスを|狙った|二発の|弾丸を|鑑定した|店だ。


「鑑定は|終わりましたか?」


「たった今です!||報告書を|書こうとしていたところです。||三発とも|同じ|銃から|発射されたことは|間違いありません。||精度の高い|自動拳銃で、|よくある|型です。||おそらく|エルスタル2の|国立工場製かと」


メグレは|気が|重かった。||銃砲店主と|握手して、|タクシーに|乗り込んだ。

「クリニャンクール通り3まで」


「何番地ですか?」


「どちらかの|端で|降ろしてくれれば|いい」


走りながら、|サン=ファルジョーの|あの屋敷の|べたついた|記憶を|振り払おうと|した。||二人の|姉妹の|会話の|亡霊から|逃れ、|問題の|客観的な|事実だけを|見つめようと|した。

しかし|いくつかの|考えを|つなごうとすると、|すぐに|あの|フランソワーズの|顔が|浮かんだ。||夫が|県会議員だと|わざわざ|言わずには|いられなかった|あの女が。||ガレ夫人に|三十万フランの|保険金が|入ると|知るや、|すっ飛んで|やってきた|あの女が。


『家族に|迷惑を|かけていたんだから』


結婚当初から|エミール・ガレは|プレジャン家に|ふさわしい|婿に|なれと|散々|突つき回されていた。||他の|義理の|兄弟たちの|ように|出世しろと。


『行商人の|くせに!』

87


それでも|五年間も|保険料を|払い続ける|勇気が|あったとは!||メグレは|我を|忘れて|嘆じた。||複雑な|死者の|人物像に|戸惑い、|引きつけられ、|反発しながら。||妻を|愛していたのだろうか。||その|妻も|おそらく|一度ならず|夫の|卑しい|身分を|責めたはずなのに。

奇妙な|夫婦だ!||奇妙な|人生だ!||それでも|メグレは|一瞬、|ガレ夫人の|中に|本物の|愛情を|感じたのでは|なかったか。

扉越しに|聞こえてきた|声の中では、|確かに。||しかし|目の前に|現れた途端、|終わりだった。||最初に|会った時と|同じ、|嫌味で|気取った|小市民の|女に|戻っていた。||まさに|フランソワーズの|姉だと|思わせる|女に。

そして|あの|アンリ。||初聖体を|受けた|あの|写真の頃から|すでに|歪んだ|顔つきで、|陰険な|目を|していた。||二十二歳に|なっても|エレオノールと|結婚しようとしないのは、|彼女が|前の夫から|受け取るかも|しれない|年金を|失いたくないからだ!||肝臓の|発作を|起こしながらも|仕事に|戻っている。

雨が|降り|出した。||運転手は|幌を|上げるために|歩道際に|車を|寄せた。


『三発は|同じ|拳銃から|出ている。||つまり|同一人物が|撃ったと|考えられる。||しかし|アンリも|エレオノールも|サン=イレールも|最後の|二発を|撃つことは|できなかった!||浮浪者でも|ない。||浮浪者は|殺すために|殺さない。||盗むために|殺す。』


しかし|何も|盗まれては|いなかった。

捜査は|行き詰まっていた。||冴えない|憂鬱な|死者の|顔の|周りを|ぐるぐる|回るだけで、|うんざりする|ばかりだった。||メグレは|仏頂面で|クリニャンクール通りの|最初の|管理人室の|扉を|叩いた。


「ジャコブという|人を|知らないか?」


「何を|している人ですか?」


「さあ。||とにかく|その名前で|手紙を|受け取っている|はずなんだが」


雨は|降り続いていた。||細かく|豊かな|雨だった。||しかし|メグレには|むしろ|ありがたかった。||この|陰鬱な|空気の中では、|狭い|店が|並び|貧しい|家々が|続く|賑やかな|通りが、|自分の|気持ちと|よく|馴染んだから。

88


この家から|あの家へと|渡り歩く|仕事は|部下に|任せることも|できた。||しかし|メグレは|なぜか|自分でも|わからないまま、|同僚を|この事件に|巻き込むことを|嫌った。


「ジャコブさんですか?||ここじゃありません。||隣を|当たってみてください、|ユダヤ人が|いるところを」


何十もの|管理人室の|扉を|開け、|ガラス窓越しに|顔を|突っ込み、|何十人もの|管理人に|聞いて回った頃、|色の抜けた|金髪の|太った女が|疑わしそうな|目で|メグレを|見た。


「ジャコブさんに|何の用ですか?||警察の人でしょう?」


「機動捜査隊だ。||部屋に|いるか?」


「こんな時間に|いるわけないでしょう!」


「どこに|行けば|会える?」


「いつもの|場所よ!||クリニャンクール通りと|ロシュシュアール大通り4の|角。||でも|困らせないでくださいよ。||何も|悪いことを|していない|気の毒な|老人なんだから。||もしかして|何か|許可証でも|持っているんじゃないの?」


「よく|郵便物が|来ないか?」


管理人は|眉を|ひそめた。


「それが|原因なのね!||何か|おかしいと|思ってたよ。||あなたも|知っているでしょうけど、|二、三か月に|一度|手紙が|来るか|来ないかよ」


「書留か?」


「書留どころか!||手紙というより|小包に|近いわ」


「紙幣が|入っていたんじゃ?」


「知らないわ!」と、|ぴしゃりと|言った。


「そんなことは|ない。||封筒を|触ってみて、|紙幣じゃないかと|思ったはずだ」


「それが|どうしたの?||ジャコブさんが|紙幣を|持ち逃げした|わけでも|ないでしょう!」


「部屋は|どこだ?」


「屋根裏部屋よ、|一番上!||松葉杖で|毎晩|あそこまで|戻るんだから|大変でしょうよ。」


「訪ねてきた人は|いたか?」

89


「三年ほど|前かしら。||あごひげを|生やした|紳士で、|聖職者が|平服を|着たような|雰囲気の|男でしたよ。||あなたに|言ったのと|同じことを|言ってやりました、|知らないってね!」


「その頃|すでに|ジャコブに|手紙が|来ていたか?」


「ちょうど|一通|来たばかりでした」


「その男は|フロックコートを|着ていたか?」


「全身|黒ずくめで、|まるで|神父みたいでしたよ!」


「ジャコブさんを|訪ねてくる人は|他に|いなかったか?」


「娘さん|だけです。||ルピック通りの|下宿屋で|女中を|していて、|もうすぐ|子供が|生まれるんです」


「職業は?」


「知らないんですか?||警察のくせに!||まさか|ふざけてるんじゃ|ないでしょうね?||ジャコブさんといやあ|この辺じゃ|知らない者は|いませんよ、|マトゥザレム5より|有名なくらいだ!」


メグレは|クリニャンクール通りと|ロシュシュアール大通りの|角で|足を|止めた。||<ル・コーシャン>という|名の|バーの前だった。||テラスの|端には|ピーナツと|炒りアーモンドを|売る|露天商がいて、|冬には|栗を|売るのだろう。

クリニャンクール通り側に、|小柄な|老人が|腰かけ台に|座り、|交差点の|喧騒に|かき消されそうな|しゃがれ声で|繰り返していた。


「アントラン|リベルテ|プレス|パリ=ソワール|アントラン」6


一対の|松葉杖が|店の壁に|立てかけられ、|片足は|革靴を|履いていたが、|もう一方の足には|歪んだ|スリッパしか|履いていなかった。

新聞売りの|老人を|見た|瞬間、|メグレは|ジャコブ|というのが|本名ではなく|あだ名だと|悟った。||老人の|長いひげは|二房に|分かれて|尖っており、|その上に|曲がった|鼻が|突き出ていた。||よく|ジャコブと|呼ばれる|陶製パイプの|形そのものだった。

メグレは|モアエスが|解読した|手紙の|断片を|思い出した。

二万フラン|現金|月曜日。

そして|突然、|松葉杖の|老人に|身を|かがめて|尋ねた。


「最後の|荷物は|持っていますか?」

90


ジャコブ老人は|顔を|上げ、|赤みがかった|まぶたを|何度か|瞬いた。


「あんたは|誰だ?」と|やっと|口を|開いた。||アントランを|買い手に|渡しながら、|黄楊の|お椀の中を|かき回して|釣り銭を|探していた。


「司法警察だ。||おとなしく|話してもらいたい、|でないと|同行|してもらうことになる。||厄介な|話だぞ」


「それで?」


「タイプライターは|持っているか?」7


老人は|せせら笑い、|噛み砕いた|タバコの|吸い殻を|吐き出した。||前には|そんな|吸い殻が|山と|積まれていた。


「頭の良さそうな|振りは|やめなよ!||タイプライターなんか||俺じゃないのは|わかってるだろ。||あんな|話を|引き受けなきゃ|よかったよ。||これっぽっちも|割に合わない!」


「いくらもらっていた?」


「手紙一通|五フランだ。||大した|話でも|ないだろう?」


「重罪院8に|引っ張り出される|話だ」


「まさか!||やっぱり|千フラン札|だったのか?||確信は|なかったんだ。||封筒を|触ると|絹ずれみたいな|音がして。||透かして|見ようとしたが|紙が|厚すぎた」


「どうしていた?」


「ここに|持ってきていた。||知らせる|必要も|なかった。||五時頃に|なると|必ず|あの|小さな|奥さんが|来て、|アントランを|買って、|五フランを|皿に|置いて、|荷物を|鞄に|滑り込ませていった」


「小柄な|黒髪の女か?」


「全然違う!||背の高い|ブロンドだ!||少し|赤みがかった。||なかなか|いい|なりをしていたよ。||地下鉄から|出てきていた」


「初めて|頼まれたのは|いつだ?」


「三年近く前だ。||待てよ!||娘が|最初の子を|産んで、|ヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュの|乳母のところに|連れていった|頃だ。||そう、|三年には|少し|足りない。||遅い|時間で、|商品を|片付けて|背負おうと|していたら|声を|かけられた。||住所が|あるかと、|力に|なれないかと|言うんだ。||ビュット9じゃ|いろんな|人間が|いるからな。||自分の名前で|手紙を|受け取って、|開けずに|午後に|ここへ|持ってきてほしい|ということだった」

91


「五フランと|決めたのは|あんたか」


「あちらの方ですよ。||笑いながら、|赤ワインが|今の値段じゃ|割に合わないと|言ってやったんですが、|そしたら|ピーナッツ売りの|ところへ|行っちまって!||アルジェリア人ですよ!||ただ同然で|働く|連中だ!||だから|承知したんです」


「住所は|知らないか」


ジャコブじいさんは|目を|ぱちくりさせた。


「警察でも|そう|簡単には|つかまえられませんよ!||最初の|頃、|一人|調べようと|した奴が|いましてね。||うちの|管理人が、|わたしが|ここで|新聞を|売っていると|教えただけで。||その男の|人相を|聞かされて、|あの女客の|父親じゃないかと|思いましたよ。||「荷物が|届いている日は、|わたしには|声もかけずに、|ほら、|あの|果物屋の|陳列台の|後ろに|隠れて。||それから|後を|追いかけて|行くんです。||でも|だめでしたよ!||とうとう|わたしの|ところへ|来て、|住所を|教えてくれたら|千フラン|やると|言うんです。||わたしが|本当に|知らないって|言っても|信じない。||何本も|地下鉄や|バスに|乗せられた|挙げ句、|出口が|二つある|建物の前で|まかれたそうです。||陰気な|男でしたよ。||父親じゃないと|わかりました。||そいつは|二度ほど|また|来ましたが、|わたしは|その|女客に|教えておいたんで、|何キロも|歩かされたんでしょう、|それっきり|来なくなりました。||で、|その男の|千フランの代わりに|女客の|お礼が|いくらだったか、|わかりますか?||金貨|一枚(20フラン)ですよ!||それも|釣りが|ないと|言い張ったからで、|そうしなければ|十フランしか|もらえなかった。||帰りぎわに|何か|聞き取れない|失礼なことを|ぶつぶつ|言いながら|出て行きました。||食えない|女ですよ!||でも|けちなことと|言ったら!」


「最後の|手紙は|いつだった」

92

「もう|三ヶ月ほど前に|なりますよ。||そろそろ|ちゃんと|店を|構えた方が|いいですかね、|通りすがりの|お客に|気づいて|もらえないんで。||他に|何か|ご用は?||わたしが|正直者だって|認めてくれますよね、|だまそうとは|しなかったんだから」


メグレは|銭受け皿に|二十フランを|投げ込み、|軽く|会釈して、|物思いに|沈んだまま|立ち去った。

地下鉄の|入り口の|前を|通りかかったとき、|彼は|思わず|顔を|しかめた。||エレオノール・ブールサンが|老ジャコブに|五フランを|放り投げ、|千フラン札の|束が|入った|封筒を|受け取って、|涼しい顔で|地下鉄と|バスを|十路線も|乗り継ぎ、|おまけに|出口が|二つある|建物を|突き抜けてから|自宅に|帰る——|その姿が|頭に|浮かんだからだ。

それが、|上着を|脱いで|三メートルの|高い|壁に|よじ登ろうと|悪戦苦闘する|エミール・ガレと|いったい|どんな|関係が|あるというのか?

メグレが|最後の|望みを|かけていた|ジャコブは|露と消えてしまった。

ジャコブは|何も|知らなかったのだ!

では、|その代わりに|いたのは|アンリ・ガレと|エレオノール・ブールサンの|二人で、|父親の|秘密を|嗅ぎつけ、|強請っていた|ということなのか?

エレオノールも|アンリも|殺していない!

サン=ティレールも|殺していなかった。||矛盾だらけの|証言にも、|開いていた|鉄柵にも、|警部が|必ず|見つけ出すと|言い張った後で|自分の|庭師に|探させた|あの鍵にも、|かかわらず。

それでも|モレアスに|向けて|二発の|弾丸が|撃たれ、|義理の|姉たちから|一家の|恥と|言われていた|エミール・ガレは|殺されたのだ!

サン=ファルジョーでは、|彼を|こき下ろし、|その|人柄と|生き方の|みじめさを|あげつらい、|死によって|三十万フランが|転がり込んだと|考えることで|慰めと|していた。

アンリは|その朝から|ソヴリノス銀行の|仕事に|戻り、|十万フランの|貯えを|五十万フランに|増やして|エレオノールと|田舎で|暮らすという|夢に|向けて|せっせと|働いていた。

93

エレオノールは、|新聞売りの|封筒を|五フラン札と|引き換えるときと|同じように|落ち着き払って、|サンセールで|メグレの|捜査の|進み具合を|探り、|涼しい顔で|やって来ては|警部に|身の上話を|していたのだ!||

サン=ティレールは|公証人の家で|カードに|興じていた!

この世に|いないのは|エミール・ガレ|ただ一人だった。||彼は|棺の中に|しっかりと|収められ、|弾丸に|えぐられ、|七人の|客を|招いた|司法解剖医に|いじくり回された|右頬と、|貫かれた|心臓と、|誰も|瞼を|閉じて|やらなかった|灰色の|瞳を|持ったまま!

「左側の|一番奥の|通路です、|元町長の|ピンクの|大理石の|記念碑の|そばに」と|墓地の|番人を|兼ねた|寺男が|言った。

コルベイユの|葬儀業者は|頭を|かきながら|注文書を|眺めていた。||そこには|こう|書いてあった。

「ごく|簡素で、|すっきりした|品のある|石、|高価すぎず、|しかし|上品なもの」

メグレは|これまでも|いろいろ|見てきた。||それでも、|赤みがかった|金髪の|背の高い|女が|必ずしも|エレオノール・ブールサンとは|限らないと|思おうとした。||たとえ|彼女が|ジャコブじいさんの|客だったとしても、|アンリが|共犯だという|証拠は|何も|なかった。

『じいさんに|写真を|見せるのが|一番だ』

そこで|テュレンヌ通りに|向かった。||そこの|アパルトマンに|若い女の|写真が|あるはずだと|ほぼ|確信していた。


「ブールサン夫人は|外出中ですが、|アンリさんは|上に|おられます」と|管理人が|言った。


夕暮れが|迫っていた。||メグレは|狭い|階段の|壁に|体を|ぶつけながら、|ノックも|せずに|教えられた|ドアを|開けた。

アンリ・ガレは|テーブルに|かがみ込んで、|かなり|大きな|荷物を|紐で|縛っていた。||警部と|わかると|飛び上がり、|かろうじて|平静を|取り戻した。

それでも|一言も|発せられなかった。||歯を|食いしばりすぎて|痛いに|違いなかった。||一週間で|彼に|起きた|変化は|恐ろしいほどだった。||頬は|げっそりと|こけ、|頬骨が|浮き出ていた。||何より|顔色が、|鉛のような|ひどい|青白さだった。

94

「昨夜、|ひどい|肝臓の|発作が|あったそうだな」と|メグレは|意図せず|険しい|口調で|言った。
「どけ」


荷物は|タイプライターの|形を|していた。||刑事は|灰色の|包み紙を|剥ぎ取り、|ポケットから|白紙を|取り出して|適当に|何文字か|打ち、|その紙を|手帳に|挟んだ。

一瞬、|タイプライターの|音が|アパルトマンの|静寂を|破った。||家具には|カバーが|かけられ、|窓ガラスには|バカンスの|間|新聞紙が|貼られていた。

アンリは|タンスに|肘を|ついて|うつむいていた。||神経が|張り詰めていて、|見ていられないほどだった。

メグレは|重々しく、|容赦なく|捜索を|続け、|引き出しを|開けては|中身を|かき回した。||とうとう|エレオノールの|写真を|見つけた。

帽子を|後ろに|ずらし、|写真を|手に|持って|立ち去ろうとしたとき、|彼は|ふと|足を|止め、|若者を|足の先から|頭の|てっぺんまで|眺めた。


「何か|言うことは|ないか」


アンリは|まず|唾を|飲み込んでから、|やっと|声を|絞り出した。


「ありません」


メグレは|意図的に|一時間後まで|待ってから|クリニャンクール通りに|向かった。||ジャコブじいさんは|いつものように|新聞の|前に|座っていた。

証拠なら|もう|十分だった。||じいさんの|そばに|近づく前に、|ビストロの|窓越しに|アンリ・ガレの|長い|血の気の|ない|顔が|見えた。

次の|瞬間、|ジャコブじいさんが|断言した。


「間違いない!||その女だ!||もう|逃げられないな!」


メグレは|黙って|立ち去り、|ビストロを|横目で|にらんだ。||中に|入って|アンリの|肩に|手を|置くだけで、|また|肝臓の|発作を|起こさせることが|できただろう。


「それでも|あいつらは|殺していない!」


三十分後、|メグレは|誰にも|挨拶せずに|警視庁の|廊下を|突っ切り、|机の上に|ヌヴェールの|間接税|徴税官からの|手紙を|見つけた。

  1. ヴォージュ(Vosges)は、フランス北東部アルザス・ロレーヌ地方にある県および山脈の名前です。エピナル(Épinal)がその県庁所在地で、フランソワーズの夫がなめし革工場を経営している場所として原文に出てきます。
    19世紀から20世紀初頭にかけて、ヴォージュ地方は繊維業となめし革業が盛んな工業地帯として知られており、地方の有力ブルジョワ階級が多く住んでいました。フランソワーズが「ヴォージュで最も重要ななめし革工場の一つ」と誇らしげに言うのも、そうした地域の社会的背景があってのことです。
    パリからは東へ約400キロ、ドイツ国境に近い地方で、当時の感覚では地方の成功した実業家というイメージを強く持つ土地柄です。
    ↩︎
  2. エルスタル(Herstal)は、ベルギー東部リエージュ州にある町で、国立武器製造所(Fabrique Nationale d’Armes de Guerre、通称FN)の所在地として知られています。
    1889年に設立されたFNエルスタルは、当時ヨーロッパ最大級の銃器メーカーの一つで、軍用・民間用を問わず拳銃やライフルを大量生産していました。1930年代のフランスでは「エルスタル製」といえば、ありふれた量産品の拳銃を指す言葉として通じていました。
    銃砲店主が「エルスタルの国立工場製かと」と言うのは、つまり特別な武器ではなく、どこでも手に入るごく普通の拳銃だということを意味しており、捜査の手がかりに乏しいことをメグレに示唆しています。
    ↩︎
  3. クリニャンクール通り(Rue Clignancourt)は、パリ18区にある通りです。モアースが焼け跡の手紙から解読した断片の中に、「クリニャンクール」という地名が含まれていました。それが唯一の手がかりだったため、メグレはクリニャンクール通りに向かい、端から一軒一軒、管理人室を訪ねてジャコブという人物を探し始めたのです。
    当時のパリでは、18区はモンマルトルの丘の北側に広がる労働者階級や移民が多く住む下町で、狭い店が立ち並び、貧しい家々が続く庶民的な地区でした。原文にも「狭い店が並び貧しい家々が続く賑やかな通り」と描写されており、メグレの重く沈んだ気分とよく馴染む場所として選ばれています。
    現在もこの界隈には世界的に有名なクリニャンクールの蚤の市(Marché aux Puces de Saint-Ouen)があり、観光地として知られていますが、シムノンが執筆した1930年代当時は、ジャコブ氏という謎の人物が潜む、いかにも薄暗い雰囲気の庶民街だったということです。
    ↩︎
  4. ロシュシュアール大通り(Boulevard Rochechouart)は、パリ18区と9区の境界に沿って走る大通りです。
    モンマルトルの丘の麓に位置し、クリニャンクール通りとの交差点は、当時の庶民的なパリの典型的な街角でした。露天商、カフェ、安宿が立ち並び、労働者や移民が行き交う賑やかな場所です。
    この界隈はピガールにも近く、歓楽街と下町が混在するエリアで、ジャコブ老人のような松葉杖をついた新聞売りの老人が、毎日同じ場所に腰を落ち着けて商売をするには、いかにもふさわしい街角です。
    現在もこのあたりにはクリニャンクールの蚤の市への玄関口として知られており、観光客も多く訪れますが、シムノンの時代は純然たる庶民街でした。
    ↩︎
  5. マトゥザレム(Mathusalem)は、旧約聖書に登場する人物で、969歳まで生きたと記されている人類史上最長寿の人物です。
    フランス語では「vieux comme Mathusalem(マトゥザレムのように古い)」という慣用句があり、途方もなく古くから存在する、誰もが知っているという意味で使われます。
    管理人の女が「マトゥザレムと同じくらい有名」と言うのは、「この界隈では大昔からいる、知らない者はいない老人だ」という意味で、メグレが彼を知らないことへの呆れと皮肉が込められています。
    ↩︎
  6. 1930年代のパリで発行されていた新聞の名前を、ジャコブ老人が売り声として叫んでいる場面です。
    アントラン(L’Intransigeant)リベルテ(La Liberté)プレス(La Presse)パリ=ソワール(Paris-Soir)、いずれも当時パリで広く読まれていた日刊紙です。
    当時の新聞売りは、街角に陣取って新聞の名前を連呼しながら通行人に売るのが普通でした。ジャコブ老人が松葉杖をつきながら腰かけ台に座り、しゃがれ声で同じ言葉を繰り返している情景は、1930年代パリの下町の典型的な風景です。当時のパリの新聞名をそのままカタカナで表現しています。
    ↩︎
  7. モアースが焼け跡から解読した手紙はタイプライターで打たれたものでした。そのためメグレはジャコブ老人に「タイプライターを持っているか?」と聞いたのです。つまり「お前が脅迫状を打ったのか?」という疑いをかけた質問です。
    脅迫状とは、ガレに届いた、ジャコブ名義の手紙のことです。
    まずガレが殺された夜、ホテルの暖炉で大量の書類が燃やされていました。メグレは司法識別班のモアースに、その焼け跡から文字を復元するよう命じました。
    モアースが根気強く作業した結果、焼け残った灰の中から「ジャコブ」という署名の手紙の断片を解読することに成功します。そこには「二万フラン」「現金」「月曜日」「刑務所」「クリニャンクール」という言葉が断片的に読み取れました。
    これらの断片をつなぎ合わせてメグレが導き出した結論が、「月曜日までに二万フランを現金で払わなければ刑務所送りにする」という脅迫状でした。
    つまりガレは殺される直前まで、この脅迫状を誰にも見せまいと隠し持っていたのです。そしてそれを燃やした何者かがいた、あるいはガレ自身が死ぬ前に燃やしたということになります。
    ↩︎
  8. 重罪院(じゅうざいいん)は、フランスの刑事裁判所の一種で、Cour d’assises(クール・ダシーズ)の日本語訳です。
    重大犯罪、つまり殺人・強盗・強姦などの重罪を裁く最高刑事裁判所で、陪審員制度を採用しているのが特徴です。軽微な犯罪を扱う軽罪裁判所(tribunal correctionnel)とは区別されます。
    この作品の文脈では、メグレがある人物に向かって「この件はあなたを重罪院に送ることになりかねない」と脅す場面で出てきます。
    ↩︎
  9. ビュット(la Butte)は、パリのモンマルトルの丘の通称です。
    「Butte」はフランス語で「小高い丘」を意味し、パリ市民はモンマルトルのことを親しみを込めて単に « la Butte » と呼びます。
    この作品の文脈では、老新聞売りのジャコブ翁が住んでいる場所として登場します。モンマルトルは当時、画家や庶民、怪しげな人物が入り混じる下町的な雰囲気の街で、ジャコブ翁のような人物が「あのあたりではどんな人間も見かける」と言うのも納得できる場所です。
    ↩︎