『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年5月22日現在)
3
メグレが|ジヴェ1駅で|列車を|降りると、|最初に|目に|入ったのは、|ちょうど|自分の|コンパートメントの|真向かいに|立っている|アンナ・ペーテルスだった。
まるで|彼が|ホームの|その位置に|止まると|わかっていたかのようだ!||だが|彼女は|驚いた|様子も|なく、|得意そうな|顔も|していない。||パリで|見たときと|変わらない姿で、|いつも|そうであるに|違いない|格好で|立っていた。||スチールグレーの|スーツに|黒い|靴、|そして|帽子を|かぶっていたが、|あとから|形も|色も|思い出せないような|帽子だった。
ここでは、|数人の|旅客が|うろつくだけの|風の|吹き|さらすホームに|立つと、|パリで|見たときより|少し|背が|高く、|少し|がっしりして|見えた。
鼻の先が|赤く、|手には|くしゃくしゃに|丸めた|ハンカチを|持っていた。


「来てくださると|思っていました、|警部さん」
自信があるのか、|それとも|メグレを|信じていたのか。|迎えるにしては|笑顔ひとつ|ない。|もう|訊いている。

「ほかにも|お荷物は?」
なかった!|メグレが|持っているのは|使い込んだ|分厚い|革の|蛇腹バッグひとつで、|重いにも|かかわらず|自分で|提げていた。
列車が|ホームに|残したのは|三等の|乗客だけで、|すでに|姿を|消していた。||彼女は|改札係に|入場券を|渡した。||係員は|じっと|彼女を|見つめた。
駅の外に|出ると、|彼女は|臆した様子も|なく|続けた。

「最初は|うちに|お部屋を|用意しようかと|思いました。||でも|考えました。|あなたは|ホテルに|泊まられたほうが|いいと|思ったのです。|ムーズ・ホテルの|一番いい|お部屋を|取っておきました」
4

ジヴェの|小さな通りを|百メートルも|進まないうちに、|もう|誰もが|二人を|振り返っていた。||メグレは|重そうに|歩き、|腕を|伸ばした先に|鞄を|ぶらさげていた。||彼は|すべてを|観察しようとしていた。||人々、|家々、|そして|何よりも|連れの女を。

「この音は|何だ?」
そう|尋ねたのは、|聞こえてくる|ざわめきが|何なのか、|彼には|見当がつかなかったからだった。

「増水した|ムーズ川2です。||橋脚に|水が|ぶつかっているんです。||もう|三週間、|船は|止まっています」

路地を|抜けると、|突然、|川が|見えた。||広い川だった。||両岸は|輪郭が|はっきりしなかった。||褐色の|水流は、|ところどころで|牧草地の上に|広がっていた。||別の場所では、|格納庫が|水の中から|頭を|出していた。||少なくとも|百艘の|はしけ、|曳船、|浚渫船が|そこに|ひしめき合い、|互いに|押し合うように|並んで、|大きな|一つの塊を|形づくっていた。

「こちらが|お泊まりの|ホテルです。||あまり|快適では|ありませんが。||お風呂に|入るために、|いったん|お寄りに|なりますか?」
これは|あきれるほどだった!||メグレは|自分の|受けた印象を|言い表すことが|できなかった。||おそらく、|これほどまでに|彼の|好奇心を|かき立てた女は、|これまで|一人もいなかった。||この女は|落ち着いたままで、|笑いもせず、|きれいに|見せようともせず、|ときおり|ハンカチで|鼻先を|軽く|たたいていた。
彼女は|二十五歳から|三十歳の|あいだだろう。||平均より|ずっと|背が高く、|がっしりした|身体つきだった。||その骨格が、|彼女の|顔立ちから|あらゆる|おんならしい|柔らかさを|奪っていた。
プチブルジョワ3の|女らしい|服装で、|極端なほど|地味だった。||姿勢は|落ち着いていて、|ほとんど|品があると|言ってよかった。

彼女は|彼を|迎え入れているようだった。||ここは|彼女の|場所だった。||彼女は|すべてに|気を|配っていた。

「風呂に|入る|理由は|何もない」

「それなら、|すぐに|家へ|いらっしゃいますか?||鞄は|ボーイに|渡してください。||ボーイ!||この鞄を|三号室へ。||こちらの方は|あとで|おいでに|なります」
そして|メグレは|横目で|彼女を|見ながら|考えていた。

『俺は|間抜けなやつに|見えているに|違いない!』
というのも、|自分は、|どう見ても|子供じゃ|あるまいに!||彼女が|か弱くは|ないとしても、|彼の体は|彼女の|二倍も|幅があり、|分厚い|外套のせいで、|石を|削って|作られたように|見えるのだから。
5

「お疲れでは|ありませんか?」

「全然|疲れちゃいない」

「それなら、|歩きながら、|もう|最初の|手がかりを|お話しできます」
最初の|手がかりなら、|彼女は|パリで|すでに|彼に|話していた!||ある日、|メグレが|自分の|執務室に|着くと、|この|見知らぬ女が|二、三時間も|待っていた。||係りの者が|あきらめさせようとしても、|できなかった女である。

「個人的な|ことです」
二人の|刑事の前で|メグレが|問いただすと、|彼女は|そう|言い切った。

そして、|二人きりに|なると、|彼女は|彼に|一通の|手紙を|差し出した。||メグレは|ナンシーに|住む、|妻の|いとこの|筆跡だと|わかった。
親愛なる|メグレへ。
アンナ・ペーテルス嬢は、|十年ほど前に|彼女と|知り合った|私の|義兄から|推薦された人です。||たいへん|まじめな|若い娘で、|自分の|不幸を|自分で|君に|話すでしょう。||できるだけの|ことを|してやってください。

「あなたは|ナンシーに|お住まいですか?」

「いいえ、|ジヴェです!」

「しかし、|この手紙は」

「パリへ|来る前に、|わざわざ|ナンシーまで|行ったんです。||私の|いとこが、|警察の|重要な方を|知っていると|わかっていましたから」
彼女は|ありふれた|陳情者では|なかった。||目を|伏せなかった。||その態度には|へりくだったところが|なかった。||はっきりと|話し、|まっすぐ|前を|見ていた。||まるで、|当然|受け取るべきものを|求めるように。

「もし、|私たちの|ことを|引き受けて|くださらなければ、|両親も|私も|おしまいです。||そして、|それは|この上なく|忌まわしい|冤罪に|なります」
メグレは|彼女の|話を|要約して、|いくつか|メモを|取っていた。||かなり|入り組んだ|家族の|話だった。
ペーテルスは、|ベルギー国境で|食料品店を|営んでいた。||子供は|三人。||商売を|手伝っている|アンナ。||教師を|している|マリア。||そして、|ナンシーで|法律を|学んでいる|ジョゼフ。
ジョゼフは|土地の|若い娘に|子供を|産ませていた。||子供は|三歳だった。||ところが、|その若い娘が|突然|姿を|消し、|ペーテルス家が|彼女を|殺したか、|どこかに|閉じこめていると|疑われていた。
6
メグレは|本来、|この件に|首を|突っ込む|立場では|なかった。||ナンシーの|同僚が|すでに|捜査に|当たっていた。||電報を|打つと、|きっぱりした|返事が|来た。
ペーテルスは|完全に|クロ。||以上。||逮捕|間近。
それが|メグレの|背中を|押した。||彼は|正式な|任務もなく、|公的な|肩書きもなしに、|ジヴェに|来ていた。||そして、|駅に|着くなり、|アンナに|お守されることに|なってしまった。||彼女は|観察しても|飽きることが|なかった。
流れは|激しかった。||水流は|橋脚の|一つ一つで|音を|立てる|滝のようになり、|樹木を|丸ごと|押し流していた。||ムーズ川の|谷に|吹き込む|風は、|川の|流れに|逆らって|水面を|押し返し、|思いがけない|高さまで|水を|持ち上げ、|本物の|波を|作っていた。
午後|三時だった。||夜が|近づいていた。
ほとんど|人のいない|通りには|すきま風が|吹き抜け、|まれに|通る人々は|足早に|歩いていた。||鼻を|かんでいたのは、|アンナだけでは|なかった。

「左の|この路地を|見てください」

若い娘は|目立たぬように|一瞬|足を|止め、|ほとんど|わからない|身ぶりで、|路地の|二軒目の|家を|示した。||貧しい|家で、|二階建てだった。||窓には|もう|明かりが|ついていた。||石油ランプ4の|明かりだった。

「あそこが|彼女の|家です」

「誰の?」

「彼女です。||ジェルメーヌ・ピエドブフ。||あの娘です、|つまり」

「あなたの|弟さんが|子供を|産ませた|相手か?」

「それが|弟の|子かどうか!||そんなことさえ|証明されていません。||見てください」
戸口には|一組の|男女が|見えた。||帽子を|かぶっていない|娘、|おそらく|小柄な|工場の|女工と、|彼女を|抱きしめている|男の|背中だった。

「彼女か?」

「いいえ、|彼女は|消えたのですから。||でも、|同じ|種類の|女です。||おわかりでしょう?||あんな女が|弟を|丸め込んだんです」
7

「子供は|弟さんに|似ていないのか?」
すると|彼女は|そっけなく|答えた。

「母親に|似ています。||行きましょう!||ああいう|人たちは|いつも|カーテンの|陰から|見張っています」

「彼女には|家族が|いるのか?」

「父親が|います。||工場の|夜間警備を|やっています。||それから|兄の|ジェラール」
その|小さな家、|とりわけ|石油ランプに|照らされた|窓は、|それ以来、|警部の|記憶に|刻みこまれた。

「ジヴェは|ご存じないのですか?」

「一度|通ったことは|ある。||だが|降りなかった」
果てしなく|続く、|とても|広い|河岸だった。||二十メートルごとに、|はしけ用の|係留杭が|立っていた。||倉庫が|いくつか。||旗を|掲げた|低い|建物が|一つ。

「フランス税関です。||私たちの|家は|もっと|先です。||ベルギー税関の|近くです」5

水の跳ね上げる|音は|荒々しく、|はしけ|同士が||ぶつかり合っていた。||放された|馬たちが、|まばらな|草を|食べていた。

「あの|明かりが|見えますか?||あれが|うちです」
税関員が|何も|言わずに、|二人の|通り過ぎるのを|見送った。||船頭たちの|一団の中で、|誰かが|フラマン語6で|話しはじめた。


「何と|言っている?」
彼女は|答えるのを|ためらい、|初めて|顔を|そむけた。

「真実は|決して|わからないだろうと」
そして|彼女は|風に|逆らって、|体を|かがめ、|風を|受けにくくしながら、|さらに|足を速めた。
そこは|もう|町ではなかった。||川と、|船と、|税関と、|運送業者たちの|領域だった。||あちらこちらに、|風の中で|電灯が|ともっていた。||はしけの上では|洗濯物が|はためいていた。||子供たちが|泥の中で|遊んでいた。

「同僚の|方が|昨日も|うちへ|来て、|予審判事の|命令だと|言って、|司法の|判断に|従う|準備を|しておくようにと。||家中が|隅々まで|捜索されたのは|これで|四度目です。|貯水槽まで」
目的地に|着きかけていた。||フランドル人たちの|家が、|はっきり|形を|見せてきた。||それは|川べりに|建つ、|かなり|大きな|建物だった。||船が|最も|多く|集まっている|場所に|あった。||近くには|家が|一軒も|なかった。||唯一|見える|建物は、|百メートルほど|離れた|ベルギー税関の|事務所で、|ベルギーの|三色旗の|柱が|立っていた。
8

「お入りください」
扉の|ガラスには、|真鍮磨き用の|洗剤の|透明な|広告が|貼ってあった。||呼び鈴が|鳴った。
そして、|敷居を|またいだとたん、|暖かさと|何とも|言いようのない|雰囲気に|包まれた。||静かで、|甘く|重い|空気だった。||そこは|匂いが|漂う|空間だったが、|どういう|匂いなのか?||シナモンの|かすかな|香りがあり、|挽いた|コーヒーの|もっと|重い|香りが|あった。||石油の|匂いもしたが、|そこに|ジュネヴァ7の|残り香が|混じっていた。

電球は|一つだけだった。||濃い茶色に|塗られた|木の|カウンターの|向こうに、|白髪で、|黒い|ブラウスを|着た|女が|いて、|子供を|抱いた|船乗りの|奥さんと|フラマン語で|話していた。

「こちらへ|おいでください、|警部さん」
メグレには|商品で|ぎっしり埋まった|棚を|見る|時間が|あった。||彼が|とくに|目に|留めたのは、|カウンターの|端に|ある、|亜鉛を|張った|一角だった。||そこには、|金属製の|注ぎ口を|つけた|瓶が|並び、|中には|蒸留酒が|入っていた。
立ち止まる|暇は|なかった。||また|別の|ガラス戸が|あり、|そこには|カーテンが|掛かっていた。||台所を|横切った。||老人が|籐椅子に|腰かけ、|ストーブの|すぐそばに|いた。


「こちらです」
さらに|冷たい|廊下。||もう一つの|扉。||そこは|思いがけない|部屋だった。||半分は|客間、|半分は|食堂で、|ピアノが|あり、|ヴァイオリンの|ケースが|あり、|丁寧に|磨かれた|寄木の床が|あり、|居心地のよい|家具が|あり、|壁には|絵の|複製が|掛かっていた。

「外套を|お預かりします」
食卓は|整えられていた。||大きな|格子柄の|テーブルクロス、|銀の|食器、|薄手の|陶器の|カップ。

「何か|召し上がってください」
メグレの|外套は、|もう|廊下に|出されていた。||アンナが|戻ってきた。||白い|絹の|ブラウス姿で、|そのために|彼女は|いっそう|若い娘らしく|見えなかった。

それでも、|彼女の|体つきは|豊かだった。||だとすれば、|なぜ|この|女らしさが|乏しいのか?||彼女が|恋をしている|ところなど|想像|できなかった。||まして、|男が|彼女に|恋するところは|なおさら|想像|できなかった。
9
すべては|前もって|用意されていたに|違いなかった。||彼女は|湯気の|立つ|コーヒーポットを|運んできた。||それで|三つの|カップを|満たした。||また|姿を|消したあと、|米のタルトを|持って|戻ってきた。

「お座りください、|警部さん。||母が|来ます」

「ピアノを|弾くのは|あなたか?」

「私と|姉です。||でも、|姉は|私ほど|時間が|ありません。||夜は|宿題の|添削を|しています」

「ヴァイオリンは?」

「弟です」

「ジヴェには|いないのか?」

「もうすぐ|ここへ|来ます。||あなたが|いらしたことは|知らせてあります」

彼女は|タルトを|切り分けていた。||有無を|言わせない|様子で、|客に|取り分けていた。
ペーテルス夫人が|入ってきた。||腹の前で|両手を|組み、|恥ずかしげに|歓迎の|微笑を|浮かべていた。||憂いと|あきらめに|満ちた|微笑だった。

「アンナから|聞きました。||ご親切に」

彼女は|娘よりも|さらに|フランドルの|女らしく、|軽い|訛りが|残っていた。||それでも|顔立ちは|たいへん|繊細で、|驚くほど|白い髪が、|彼女に|ある種の|気高さを|与えているように|見えた。||彼女は|椅子の端に|腰を下ろした。||人に|呼ばれれば|すぐ動く、|そういう暮らしに|慣れた|女のようだった。

「ご旅行の|あとですから、|お腹が|お空きでしょう。||私は、|あれ以来、|もう|まったく|食欲が|なくて」
メグレは|台所に|残っている|老人のことを|考えていた。||なぜ|あの老人も|タルトを|食べに|来ないのか?||ちょうど|そのとき、|ペーテルス夫人が|娘に|言った。

「お父さんに|一切れ|持っていって」
そして、|メグレに|向かって|言った。

「あの人は|ほとんど|椅子から|離れません。||自分の|周りで|何が|起きているかも、|ろくに|わかっていないのです」
この|空気の中では、|何もかもが|事件とは|正反対だった。||外で|どんな|ひどいことが|起きても、|フランドル人たちの|家の|静けさを|乱すことは|できないように|思えた。||そこには|埃ひとつなく、|風の|気配も|なく、|ストーブの|低い|うなり以外には|物音も|しなかった。
そして|メグレは、|厚い|タルトを|食べながら|尋ねた。

「正確には|何日の|ことだった?」
10

「一月三日です。||水曜日でした」

「今日は|二十日だ」

「ええ、|すぐに|疑われたわけでは|ありません」

「その|若い娘は。||何という|名前です?」

「ジェルメーヌ・ピエドブフです。||夜の|八時ごろに|来ました。||店に|入ってきて、|母が|応対しました」


「何が|したくて?」
ペーテルス夫人は|まぶたの|涙を|ぬぐうような|しぐさを|した。

「いつもの|ことです。||ジョゼフが|会いに|行かない、|便りも|くれないと|こぼしに|来たんです。||一生懸命|勉強している|息子です!||いろいろ|ありながらも、|学業を|続けているので、|ほんとうに|感心|しています」

「彼女は|ここに|長く|いたのか?」

「たぶん|五分ほどです。||私は|彼女に、|大声を|出さないようにと|言わなければ|なりませんでした。||船頭たちに|聞こえたかもしれませんから。||アンナが|来て、|もう|帰ったほうが|いいと|彼女に|言いました」

「彼女は|出ていったのか?」

「アンナが|外まで|連れていきました。||私は|台所へ|戻って、|食卓を|片づけました」

「それから|彼女を|見ていないのか?」

「一度も!」

「土地の|誰も、|彼女に|会っていないのか?」

「みんな|そう|言っています!」

「彼女は|自殺すると|脅したことは?」

「いいえ!||ああいう女たちは、|自分から|死んだりは|しません。||コーヒーを|もう少し|いかがですか?||タルトを|一切れ?||アンナが|作ったんです」

アンナの|印象に、|新しい|一面が|加わった。||彼女は|椅子に|静かに|座っていた。||まるで|立場が|逆になったかのように、|彼女のほうが|オルフェーヴル河岸の|人間で、|メグレのほうが|フランドル人たちの|家に|属しているかのように、|警部を|観察していた。

「その晩、|あなたは|何を|していたか、|覚えているか?」
答えたのは|アンナだった。||悲しげな|微笑を|浮かべていた。

「そのことについては、|何度も|尋ねられましたから、|細かなことまで|思い出さざるを|得ませんでした。||帰ってきてから、|私は|編み物用の|毛糸を|取りに、|自分の|部屋へ|上がりました。||下りてくると、|妹が|この部屋で|ピアノを|弾いていて、|マルグリットが|ちょうど|来たところでした」
11

「マルグリットとは?」

「いとこです。||ドクター・ヴァン・ド・ウェールの|娘で、|ジヴェに|住んでいます。||どうせ|わかることですから|最初に|言っておきます。|ジョゼフの||婚約者です」
ペーテルス夫人は|店の呼び鈴が|鳴ったので、|ため息を|つきながら|立ち上がった。||フラマン語で|ほとんど|はずんだ声で|話しながら、|インゲン豆か|エンドウ豆を|量る|音が|聞こえた。

「母は|とても|悲しんでいます。||ずっと前から、|ジョゼフと|マルグリットは|結婚すると|決まっていました。||十六歳の時には|すでに|婚約していたんです。||でも|ジョゼフは|学業を|終えなければ|なりませんでした。||そこへ|あの|子供のことが|起きたのです」

「それでも|結婚するつもりだったのか?」

「いいえ!||でも|マルグリットは|ほかの|誰とも|結婚したくないと|言っています。||二人は|ずっと|愛し合って|いましたから」

「ジェルメーヌ・ピエドブッフは|それを|知ってたのか?」

「ええ!||でも、|彼女のほうは、|自分が|どうしても|結婚|したかったのです!||それで|弟は、|面倒を|避けるために|彼女と|結婚すると|約束したのです。||結婚は|試験のあとに|行われることに|なっていました」
店の呼び鈴が|また|鳴り、|ペーテルス夫人が|台所を|小走りで|通り抜けていった。

「私は|三日の|晩のことを|尋ねていた」

「ええ。||ですから、|私が|下りてきたとき、|妹と|マルグリットが|この部屋に|いました。||十時半まで|ピアノを|弾いていました。||父は|いつものように、|九時には|寝ていました。||姉と|私で、|マルグリットを|橋まで|送っていきました」


「誰にも|会わなかったのか?」

「誰にも。||寒い夜でしたから。||私たちは|帰ってきました。||翌日は、|何も|気付きませんでした||午後になって、|ジェルメーヌ・ピエドブフが|姿を|消したという|話が|出てきました。||二日後に|なって|初めて、|誰かが|彼女が|ここに|入るのを|見たということで、||私たちが|疑われ|始めました。||警察署長に|呼ばれ、|それから|ナンシーの|あなたの|同僚にも。||父親の|ピエドブフが|告訴したそうです。|||家中が|捜索されました。||地下室、|物置、|何もかも。||庭の土まで|掘り返されました」


「弟さんは|三日は|ジヴェに|いなかったのか?」
12

「いません!||来るのは|土曜日だけです。||オートバイで。||週の|ほかの日に|来ることは|めったに|ありません。||町じゅうが|私たちに|敵意を|持っています。||私たちが|フランドル人で、|お金を|持っているからです」
声には|わずかな|誇りが|感じられた。||いや、|むしろ|いっそう|自信が|強まっていた。

「どれほど|あらぬことを|言い立てられているか、|あなたには|想像も|できないでしょう」
また|店の|呼び鈴が|鳴り、|ついで|若い|声が|した。

「私よ!||かまわないで」
急ぎ足の音。||いかにも|女らしい|人影が、|食堂に|飛び込んできて、|メグレの|前で|ぴたりと|立ち止まった。

「あら!||失礼しました。||知りませんでした」

「こちらは|メグレ警部。||私たちを|助けに|来てくださったの。||私の|いとこの|マルグリットです」
手袋を|はめた|小さな手が、|メグレの|大きな手の中に|入った。||そして、|恥ずかしげな|笑顔。


「アンナから、|お引き受け|くださったと|聞きました」
彼女は|たいへん|繊細だった。||美しいというより、|さらに|繊細だった。||その顔は、|細かく|波打つ|金髪に|縁取られていた。

「ピアノを|弾いていたそうだな」

「はい。||私は|音楽だけが|好きなんです。||とくに、|悲しいときは」
その笑顔は|カレンダーの|広告に|出てくる|可愛い女の子の|ようだった。|口をすぼめた|ような|微笑み、|うっとりした|目、|少し|傾けた|顔。


「マリアは|戻っていないの?」

「ええ!||列車が|また|遅れているのでしょう」
メグレが|脚を|組もうとすると、|華奢すぎる|椅子が|きしんだ。

「三日は、|何時に|来たんだ?」

「八時半です。||たぶん、|もう少し|早かったかも|しれません。||うちは|夕食が|早いんです。||父は|ブリッジの|友人たちを|招いていました」

「今日と|同じような|天気だったのか?」

「雨でした。||一週間|ずっと|降り続いていました」

「ムーズ川は|もう|増水していたのか?」

「始まりかけて|いました。||でも、|堰が|決壊したのは|五日か|六日になってからです。||まだ|船は|通っていました」

13

「タルトを|もう一切れ|いかがですか、|警部さん?||いらない?||では|葉巻は?」
アンナが|ベルギーの|葉巻の|箱を|差し出しながら、|言い訳するように|つぶやいた。

「密輸品では|ありません。||この家は|一部が|ベルギー領で、|一部が|フランス領なんです」

「つまり|弟さんは、|少なくとも、|ランスに|いたのだから|完全に|容疑の|外ということだな?」
すると|アンナは|頑固そうに|眉を|寄せて:

「それさえ|違うのです!||酔っ払いの|せいです。||その男が、|弟の|オートバイが|河岸を|通るのを|見たと|言い張って|いるんです。||十五日も|たってから、|そんなことを|言い出したんです。||覚えているはずは|ないでしょう!||ジェルメーヌ・ピエドブフの|兄、|ジェラールの|仕業です。||あの人は|大して|やることが|ありません。||だから|証言を|探しまわって|時間を|潰しているんです。||考えても|みてください。||あの人たちは|民事原告に|なって、|三十万フランを|請求しようと|しているんです」

「子供は|どこに|いる?」
呼び鈴が|なった。||ペーテルス夫人が|店へ|駆けていく|音がした。|アンナは|タルトを|食器棚に|しまい、|コーヒーポットを|ストーブの上に|置いた。

「あちらの|家です!」
仕切り壁の|向こうから、|ジュネヴァを|注文する|船乗りの|声が|弾けた。
- ジヴェ(Givet)とは
フランス北部、アルデンヌ県を南北に流れるムーズ川沿いにある、ベルギーとの国境に接した小さな国境町です。
地理と性格
ムーズ川がフランス領内からベルギーへと流れ込む地点に位置し、対岸はすぐベルギーです。作品の中でペーテルス家がフラマン人(ベルギー系オランダ語話者)の一家であるのも、この国境という土地柄が背景にあります。川沿いには多くの川船(ペニッシュ)が停泊し、水夫たちが行き交う河港都市でもありました。
アルデンヌ県は気候的に大陸性とみなされており、ジヴェのような標高の高い地域では冬に降雪の可能性が高まります。メグレが到着した日も、ホームは風が吹きさらしで、寒々とした情景が描かれています。
作品における意味
国境の町ということが、この物語の核心に深く関わっています。フランス人とベルギー系フラマン人が混在し、言語も文化も混ざり合うこの場所に、よそ者であるメグレが「パリから来た警部」として乗り込んでくる構図になっています。
↩︎ - ムーズ川(Meuse)とは
フランス北東部を水源とし、ベルギーを流れ、オランダで北海へ注ぐ川です。全長950キロメートル。オランダではマース川と呼ばれます。
氾濫しやすい理由
フランス北東部のラングル高原に発し、深い谷を刻んで北流し、アルデンヌ高原を曲流します。アルデンヌ地方は冬から春にかけて降雨・融雪が重なりやすく、急峻な谷を流れるため水位が急激に上昇します。ジヴェはまさにアルデンヌの出口付近にあたり、上流からの水が一気に集まる地点です。
小説との関係
作中でアンナが「三週間前から増水して航行が止まっています」と言うのは、冬のアルデンヌの雪解けと雨が重なった典型的な季節的氾濫です。川船が百隻以上も身動きとれず係留されているのは、そのためです。
歴史的重要性
中世の早いうちから水運を背景に商業が発達し、ディナン、マーストリヒト、リエージュなど現代まで続く都市が川沿いに生まれました。つまりムーズ川は単なる川ではなく、この地域の経済・歴史の大動脈であり、川船の往来が止まるということは、地域全体の物流が止まることを意味していました。
↩︎ - フランス語の「petite bourgeoisie(プティット・ブルジョワジー)」の略で、社会的な位置づけとしては、「小市民」と訳されます。日本では中産階級の方がイメージしやすいかもしれません
・貴族や大金持ちの大ブルジョワより下
・労働者階級より上
・具体的には商店主、職人、小役人、教師といった層です。
アンナの場合、ペーテルス家は国境の町の食料雑貨店主です。裕福ではないが貧しくもない、慎み深く堅実な家柄。
だから彼女の服装を「petite bourgeoise的な、極めて地味な身なり」と表現するのは、
派手でも高価でもない、しかし清潔で整っている、見栄を張らない実用的な服という意味です。「質素だが、だらしなくはない」——アンナという人物をよく表している言葉です。
↩︎ - 石油ランプは貧しさの象徴です。
1930年代の電気事情
この小説は1932年が舞台です。当時のフランスでは:
・都市部の裕福な家 → 電気
・地方の貧しい家 → 灯油ランプ
がまだ混在していました。
小説の中での対比
実際にこのページでも対比が見えます。
・ピエドブッフ家(貧しい)→ 「lampe à pétrole(灯油ランプ)」
・岸壁のあちこち → 「lampe électrique(電灯)」
・ペーテルス家 → 後の場面で電灯が登場
つまりシムノンは|灯油ランプという|一言で|ピエドブッフ家の|貧しさを|さりげなく|示しています。
ピエドブッフ家の境遇
父親は|工場の夜警
娘のジェルメーヌは|工場女工
住まいは|二階建ての小さな家
灯油ランプは|その|貧しさを|締めくくる|細部です。 ↩︎ - この一言には重要な意味が込められています。
地理的な意味
ペーテルス家は|フランスとベルギーの|二つの税関の間に位置しています。つまり:
フランス税関 → こちら側
ベルギー税関 → あちら側
ペーテルス家 → その狭間
象徴的な意味
これはペーテルス家の|宙ぶらりんな立場を|そのまま|表しています。
フランス人でも|ない
ベルギー人でも|ない
どちらの国にも|完全には|属さない
フラマン系移民として|フランスの町に|根を|下ろしながら、|ベルギー税関の|すぐそばに|住んでいる。
物語における意味
国境という|場所は|法の目が届きにくい曖昧地帯
密輸、|逃亡、|隠蔽が|しやすい
疑惑の|舞台として|完璧な|設定
ナンシーの|同僚刑事が|「ペーテルスはクロ」と|断言した|背景にも、|この|国境という|土地柄への|偏見が|あったかもしれません。
シムノンは|この|一言で|家の場所を|説明しながら、|同時に|物語の|核心を|さりげなく|示しているのです。
↩︎ - フラマン語(Flamand)とは、ベルギー北部で話されるオランダ語の方言です。
ベルギーの言語について
ベルギー自体は:
北部フランドル地方 → フラマン語
南部ワロン地方 → フランス語
ジヴェに接するベルギー側はワロン地方(フランス語圏)ですが、ムーズ川を行き来する船乗りたちの中には、フランドル出身のフラマン語話者も多くいました。
小説のタイトル「Maigret chez les Flamands(フラマン人の家のメグレ)」からも、ペーテルス家がフラマン系、つまりベルギー北部のフランドル地方の出身であることが示唆されています。
ペーテルス家 → フランドル地方(ベルギー北部)出身のフラマン人
現在はフランス領ジヴェに移住して|食料雑貨店を|営んでいる
国境の町なので|フラマン系移民は|珍しくなかった
小説における意味
ペーテルス家が「よそ者」であることが、この物語の核心にあります。
・フランスの町に住む|ベルギー系移民
・勤勉で|堅実で|閉じた一家
・地元のフランス人からは|微妙な|距離感で|見られている
船乗りたちが|フラマン語に|切り替えたのも、|ペーテルス家への|民族的な|連帯感からかもしれません。
↩︎ - ジュネヴァ(Genièvre)とは、ジュニパーベリー(杜松の実)を主原料とした蒸留酒です。
現代のジン(Gin)の原型にあたるお酒です。
オランダ・ベルギー・北フランスで|古くから|親しまれ、|Dutch Gin、または、ジュニパー酒とも呼ばれます。
ベルギー・フランドル地方では|ジュネヴァは|労働者・船乗りの酒です。ペーテルス家が|フラマン系の|国境の|庶民に|根ざした|商売を|していることを|さりげなく|示しています。
後の場面でも|メグレが|ジュネヴァを|勧められる|場面が|出てきます。
↩︎


