2スーの居酒屋|第一章 バッソの土曜日

2スーの居酒屋

La Guinguette à deux sous1

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月9日現在未作成)


 輝かしい|夕暮れどきだった。|左岸2の|静かな|通りに、|まるで|蜜のような|陽の光が|降りそそいでいた。|そして|あらゆる場所で、|人々の|顔に、|街の|無数の|なじみ深い物音の|中に、|生きる喜びが|あふれていた。

 こんな日が|あるものだ。|存在が|日常であることを|やめ、|歩道を|行く人々や、|路面電車や、|自動車が、|まるで|夢物語の|中で|それぞれの役を|演じているかの|ように|見える日が。

 六月二十七日の|ことだった。|メグレが|サンテ刑務所3の|通用門に|着いたとき、|衛兵が|心を|ほぐされた|様子で、|白い|子猫が|牛乳屋の|犬と|じゃれているのを|眺めていた。

 石畳が|いつもより|よく|響く日というのも|あるらしい。|メグレの|足音が、|広大な中庭に|こだました。|廊下の|突き当たりで、|彼は|看守に|訊いた。


「知っているか?」


「まだです」


 鍵が回った。|錠が外れた。|天井の|高い、|清潔な|独房。|そして、|立ち上がりながら、|どんな表情を|すればいいかを|顔が|探しているような|男。


「元気か、|ルノワール?」と|警部は訊いた。


 男は|危うく|笑みを|見せそうになった。|だが、|ある考えが|とつぜん|その表情を|固くした。|眉が|寄った。|疑いの色が|漂った。|ほんの数秒の間、|彼は|険しい|顔つきを|作りかけた。|そして|肩をすくめ、|手を差し出した。


「わかった」と|彼は|はっきり|言った。


「何が?」


 疲れ果てたような|頬笑み。


「俺をからかうな。|あんたが|ここに|来た|ということは」


「明日の朝から|休暇に|出かけるもんでな。||それで……」


囚人は|乾いた|笑い声を|あげた。||後ろに|なで付けた|黒い髪の、|背の高い|男だった。||整った|顔立ち。||美しい|栗色の|目。||細い|口ひげが、|ネズミの|歯のように|尖った|白い歯を|際立たせていた。


「警部さん、|あなたは|優しい人だ」


男は伸びをし、|あくびをすると、|房の隅に|開けっ放しに|なっていた|便器の|蓋を|閉めた。

「散らかっているのは|気にしないで|ください」


そして|突然、|メグレの目を|まっすぐ|見て、

「上告は|棄却|されましたね?」


嘘をついても|無駄だった。||男には|もう|わかっていた。||彼は|房の中を|行ったり来たりした。


「期待なんて|していなかった。|じゃあ、|明日か?」


それでも、|最後の|言葉を|口にしたとき、|声は|かすれた。||細長い|高窓から|差し込む|かすかな光を、|目が|追い求めた。||

同じ頃、|カフェの|テラスで|売り子が|叫んでいた|夕刊には|こう書かれていた。

大統領は|ベルヴィル4の|若き|暴力団の|リーダー、|ジャン・ルノワールの|上告を棄却した。|処刑は|明日の夜明けに|行われる。


三か月前、|ルノワールを|サン=タントワーヌ通り5の|ホテルで|取り押さえたのは、|ほかならぬ|メグレだった。||もう一秒遅ければ、|その暗殺者が|彼に向けて|放った弾丸は、|天井に|消えるのでは|なく、|胸の|真ん中を|貫いていただろう。

それでも|警部は、|恨みを|感じることなく、|ルノワールに|興味を|抱いていた。||まず|おそらく、|ルノワールが|若かったから。||十五歳から|前科を|重ねてきた、|二十四歳の|男。

そして、|彼が|勇敢|だったから。||仲間がいた。||二人は|彼と|同じ日に|逮捕された。||同じくらい|罪を犯していたし、|集金人への|武装強盗という|最後の|事件では、|おそらく|彼らのほうが|主犯格|だった。

それでも|ルノワールは|仲間をかばい、|すべてを|ひとりで|引き受け、|「ぶちまける」ことを|拒んだ。||

見栄も、|虚勢も|なかった。||自分の|転落を|社会のせいには|しなかった。



「負けたよ」と、|彼は|ただ|それだけを|言った。


終わりだった。||いや|正確に言えば、|今は|房の壁の|一角を|金色に|染めている|あの|陽の光が|再び昇るとき、|それが|終わりになる。

ルノワールは|思わず|不気味な|仕草をした。||歩きながら、|自分の|首の|後ろに|手を|当て、|身震いし、|蒼白になり、|それから|せせら笑わずには|いられなかった。


「それにしても!|妙な気分だな」


そして|突然、|口の中で|怒りの波が|こみあげてきた。


「せめて|あっちへ行くのが|当然な連中と|一緒に|行けるなら!」


ルノワールは|メグレを|観察し、|ためらい、|狭い房を|もう一回り|してから、|ぼそりと|言った。


「今さら|誰かを|売ろうとは|思わない。|でも|それにしても!」


警部は|彼を|見ないように|していた。||告白が|近づいているのを|感じていた。||相手が|これほど|気性の荒い男だということも|わかっていた。||ほんの一瞬の|身じろぎ、|あるいは|あからさまな|関心を|見せるだけで、|口を|閉ざしてしまうだろう。

「あなたは|もちろん、||『2スーの居酒屋を』|知らないでしょう。|でも|もし|あのあたりを|ぶらつくなら、|覚えておいてください。|常連の中に|一人、|明日の|俺より|ずっとふさわしい|男がいる。|あの機械に|かけられるべき|男が」


それでも|歩き続けていた。||立ち止まることが|できなかった。||それは|もはや|幻惑的なほどだった。||それが|彼の|内なる|熱を|表す|唯一の|方法だった。


「でも|あなたには|捕まえられない。||いいですか、|洗いざらい|しゃべるわけじゃ|ないが、|これくらいは|話せる。|なぜ|今日|思い出すのか|わからない。|子供の頃の|話だから|かもしれない。|俺が|十六歳|くらいの|頃のこと。||二人で|ミュゼット・バル6に|出かけては|かっぱらいを|していた。|もう一人は|今頃、|療養所に|いるだろう。|あの頃から|もう|咳をしていた」


今の彼は、|生きている|という|錯覚を|自分に|与えるために、|まだ|人間だと|自分に|証明するために|しゃべって|いるのでは|なかったか?

「ある夜の|ことだ。||三時頃だった。||俺たちは|通りを|歩いていた。||でも|いや、|通りの|名前は|言わない。||どこかの|ありふれた|通りだ。||遠くに|扉が|開くのが|見えた。||歩道の|脇に|一台の|車が|止まっていた。||男が|一人、|別の男を|押しながら|出てきた。||いや、|押すというより、|人形を|友人のふりを|させて|歩かせようと|するような感じだ!|その男を|車に|乗せると、|自分は|ハンドルを|握った。||俺の|仲間が|目配せをして、|俺たちは|二人とも|後ろの|バンパーに|飛び乗った。||

||あの頃、|俺は『猫』と|呼ばれていた。||それだけで|わかるだろう。||あちこちの|通りを|走り回った。||運転している男は|何かを|探しているようで、|道を|間違えたような|様子だった。||やがて|何を|探しているかが|わかった。||サン=マルタン運河に|辿り着いたからだ。||もう|察しが|ついて|7いるだろう?||ドアを|開けて|閉める間もなく、|それは|終わっていた。||一体の|死体が|水の中に|あった。||まるで|楽譜通りだった!||車の|男は|あらかじめ|死体の|ポケットに|重いものを|詰めていたに|違いない。||一瞬も|浮かばなかったから。||

||俺たちは|二人とも|じっとしていた。||もう一度|目配せ。||また|元の場所に|戻った。||客の|住所を|確かめるために。||レピュブリック広場8で|男は|止まり、|まだ|開いていた|唯一の|カフェで|ラム酒を|一杯|飲んだ。||それから|車を|ガレージに|入れて、|家に|帰った。||カーテンの|向こうで|影絵のように|服を|脱いでいるのが|見えた。||二年間、|ヴィクトルと|俺は|あいつを|ゆすった。||まだ|素人だったから|欲張るのが|怖かった。||百フランずつ|もらっていた。||ある日、|男は|引っ越して|どこかへ|消えた。||三か月も|経たないうちに、|偶然、|2スーの居酒屋で|あいつを|見かけた。||俺のことを|覚えても|いなかった」


ルノワールは|床に|唾を|吐き、|無意識に|煙草を|探しながら|ぼそりと|言った。


「俺みたいな|立場の|人間には、|せめて|煙草くらい|吸わせてほしいもんだ」


高いところの|陽光が|消えた。||廊下に|足音が|聞こえた。

「俺が|特別に|悪い|人間だとは|思わない。||だが|認めなきゃならん。||俺の|言っている|あの野郎こそ、|明日の朝、|俺と|一緒に|あの台の上に|乗るべきだ」|



それは|突然、|噴き出した。||額に|汗の粒。||同時に、|脚の力が|抜けていった。||ルノワールは|寝台の|端に|腰を|下ろした。


「もう|行ってくれ。|いや|待て、|違う。|今日だけは|一人に|しないでくれ。|しゃべっている|ほうが|まだましだ。||そうだ、|マルセル|という女の|話を|してやろうか、|その女は‥‥」


扉が|開いた。||弁護士は|メグレを|見て|一瞬|ためらった。||上告が|棄却|されたことを|依頼人に|悟らせないよう、|その場に|ふさわしい|微笑みを|浮かべていた。


「いい|知らせがあります」9と|弁護士が|言いかけた。


「もういい」


そして|メグレに|向かって、


「さようならとは|言いませんよ、|警部さん。||お互い|仕事ですから。||それから|あの居酒屋に|行く|必要は|ありません。||あの野郎は|あなたと|同じくらい|賢いんでね」


メグレは|手を|差し伸べた。||鼻孔が|震え、|小さな|茶色い|口ひげが|湿り、|犬歯が|下唇に|食い込むのを|見た。


「これか|チフスか、|どっちかだ!」10と|ルノワールは|引きつった|笑いで|冗談を|言った。


メグレは|休暇に|出かけるわけでは|なかったが、|偽造証券の|事件が|ほぼ|全時間を|奪っていた。||二スーの|居酒屋|などという|話は|聞いたことも|なかった。||同僚たちに|聞いてみた。


「知らんな。|どっちの方面だ?||マルヌか?||セーヌの|下流か?」


ルノワールが|語った|事件の|当時、|彼は|十六歳だった。||つまり|あれから|八年が|経っていた。||ある晩、|メグレは|その年の|未解決事件の|ファイルを|開いた。

しかし|特に|目を|引くものは|なかった。||いつものように|行方不明事件。||首が|ついに|見つからなかった|バラバラ死体の|女。||サン=マルタン運河に|至っては、|七体もの|死体が|引き揚げられていた。

偽造証券の|事件は|複雑さを|増し、|次々と|手続きが|必要になった。||さらに|メグレ夫人を|アルザスの|姉のところへ|送り届けなければ|ならなかった。||毎年|恒例の|一か月の|滞在だった。



パリは|空っぽに|なっていった。||アスファルトは|足の下で|柔らかく|なっていた。||通行人たちは|日陰の|歩道を|求め、|テラスの|席は|どこも|埋まっていた。

日曜日に|必ず|待っています。|みんなより|キスを

メグレ夫人が|催促していた。||夫が|会いに|来なくなって|もう|二週間に|なるからだ。||七月二十三日の|土曜日だった。||彼は|ファイルを|整理し、|オルフェーヴル河岸の|給仕係の|ジャンに、|おそらく|月曜の|夜まで|戻らないと|伝えた。

出かけようと|したとき、|視線が|山高帽の|ふちに|落ちた。||何週間も|前から|つぶれたままだった。||メグレ夫人に|新しいのを|買うよう|何度も|言われていた。


『そのうち|通りで|お金を|恵んでもらうことに|なるわよ』


サン=ミシェル大通り11で|帽子屋を|見つけ、|山高帽を|次々と|試し始めたが、|どれも|彼の|頭には|小さすぎた。


「これは|絶対に|合いますよ」と|青二才の|店員が|しつこく|繰り返した。

メグレは|何かを|試着するときほど|みじめな|気分に|なることは|なかった。||ところが|鏡を|見ていると、|ある客の|背中と|頭が|目に|入った。||その頭に|シルクハットが|乗っていた。

客は|灰色の|カジュアルスーツ12を|着ていたので、|どこか|滑稽だった。||男は|しゃべっていた。


「違います!|もっと|古い型が|欲しいんです。||着るためじゃ|ないので」


メグレは|奥から|取ってきてもらう|新しい帽子を|待っていた。

「実は|いたずらの|ためなんです。||友人たちと|2スーの|居酒屋で|にせの|結婚式を|やろうと|してるんですよ。||花嫁に|義母、|花婿の|友人たち、|全部|揃えて。||田舎の|結婚式みたいに!||わかりますか?||私は|村長を|やります」


客は|そう言いながら|朗らかに|笑っていた。||三十五歳くらいの|肉付きの|よい男で、|丸々とした|バラ色の|頬が、|繁盛している|商人の|印象を|与えた。



「平たいつばの|ものは|ありますか」


「少々|お待ちを!||工房に|ちょうど|いいものが|あったと|思います。||売れ残りですが」


メグレの|ところに|新しい|山高帽が|一山|運ばれてきた。||最初に|試したものが|合った。||しかし|彼は|ぐずぐずして、|シルクハットの|男より|ほんの|少し|遅れて|店を|出ると、|当てずっぽうに|タクシーを|止めた。

それが|よかった。||男は|店を|出ると、|歩道の|脇に|止めていた|車に|乗り込み、|ハンドルを|握って|ヴィエイユ=デュ=タンプル通りへ|向かった。

そこで|古道具屋に|三十分ほど|立ち寄り、|シルクハットに|合う|礼服が|入っているらしい|大きな|平たい|箱を|抱えて|出てきた。

それから|シャンゼリゼ、|ワグラム通り13へ。||街角の|小さなバーに|入り、|五分ほどで|出てきた。||三十歳くらいの|ふっくらした|陽気な|女を|連れて。

メグレは|二度、|時計を|見た。||最初の|列車は|出てしまった。||次の列車も|十五分で|出る。||彼は|肩をすくめ、|タクシーの|運転手に|言った。


「このまま|続けてくれ」


予想通りだった。||車は|ニエル通り14の|貸し部屋の前に|止まった。||二人は|玄関の|アーチの下に|飛び込んだ。||メグレは|十五分|待ってから|入った。||入口の|真鍮の|プレートに|こう|書いてあった。

月極・日極の|貸し部屋。

不倫の|匂いが|漂う|こぎれいな|事務室で、|香水を|つけた|女主人を|見つけた。


「司法警察だ。||今|入った|カップルだが」


「カップルですって?」


女主人は|長くは|抵抗しなかった。


「二人とも|既婚の|立派な|方々で、|週に|二度|いらっしゃいます」


外に|出た|警部は|ガラス越しに|車の|身分証明プレートを|確認した。15

マルセル・バッソ、|オステルリッツ河岸通り16|三十二番地、|パリ。

風は|一切|なかった。||生ぬるい|空気。||路面電車も|バスも|すべて|駅へ|向かい、|満員だった。||タクシーは|デッキチェアや|釣り竿、|えび取り網、|スーツケースを|山と|積んでいた。


10

アスファルトは|輝きすぎて|青みがかり、|どのテラスでも|グラスと|受け皿の|騒がしい音が|響いていた。


「そういえば!||ルノワールが|処刑されて|もう|三週間に|なる」


あまり|話題に|ならなかった。||ありふれた|事件で、|ある意味|職業的な|殺人犯だった。

メグレは|あの|震える|口ひげを|思い出し、|時計を|見ながら|ため息を|ついた。

メグレ夫人に|会いに|行くには|もう|遅すぎた。||夕方には|姉と|一緒に|小さな駅の|改札口で|待っているだろう。||そして|きっと|こうつぶやくに|違いない。


「いつもの|こと!」


タクシーの|運転手は|新聞を|読んでいた。||シルクハットの|男が|先に|出て、|アーチの下に|残っていた|連れの女に|合図する前に|左右を|確認した。

テルヌ広場17で|停車。||二人が|後部座席の|窓越しに|キスしているのが|見えた。||車が|すでに|動き出し、|女が|タクシーを|止めた後も、|二人は|手を|つないでいた。


「続けますか?」と|メグレの|運転手が|聞いた。


「このまま|行ってくれ」


少なくとも|二スーの|居酒屋を|知っている|人物を|捕まえたのだ!

オステルリッツ河岸。||大きな|看板。

マルセル・バッソ||各種石炭|輸入業||卸・小売||袋入り宅配|承ります||夏期|特別価格

黒ずんだ|柵に|囲まれた|作業場。||通りを|挟んだ|向かい側には|同じ|商号の|荷揚げ場があり、|その日|荷揚げしたばかりの|石炭の|山の|そばに|荷船が|停泊していた。

作業場の|真ん中に、|ヴィラ風の|大きな|家が|あった。||バッソは|車を|止め、|肩に|女の|髪が|残っていないか|無意識に|確かめてから、|家に|入った。


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メグレは|彼が|一階の|部屋に|現れるのを|見た。||窓は|大きく|開け放たれていた。||背が高く|金髪の|きれいな|女と|一緒だった。||二人とも|笑っていた。||生き生きと|話していた。||バッソは|シルクハットを|試しながら|鏡を|見ていた。

スーツケースに|荷物が|詰め込まれていた。||白い|エプロンを|つけた|女中がいた。

十五分後、|五時頃、|一家が|下りてきた。||十歳くらいの|男の子が|先頭に|立ち、|空気銃を|持っていた。||次いで|女中、|バッソ夫人、|夫、|スーツケースを|持った|庭師。

みんな|上機嫌だった。||郊外へ|向かう|車が|次々と|通り過ぎた。||リヨン駅では|増発された|列車が|けたたましく|警笛を|鳴らしていた。

バッソ夫人は|夫の|隣に|座った。||子供は|荷物の|中に|陣取り、|窓を|下ろした。

車は|豪華では|なかった。||ロイヤルブルーの|普通の|量産車で、|ほぼ|新車だった。

数分後、|ヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュ18へ|向けて|走り出した。||それから|コルベイユ街道19へ。||この町を|抜け、|セーヌ川沿いの|でこぼこ道に|入った。

「わが憩いの場」

それが|あちらの|別荘の|名前だった。||モルサンと|セーヌポールの|間、|川沿いに|建つ|新しい|別荘。||鮮やかな|レンガ、|塗りたての|ペンキ、|朝に|洗われたばかりのような|花々。

セーヌ川に|真っ白な|飛び込み台。||ボートも|あった。

「この辺は|知ってるか?」と|メグレは|運転手に|聞いた。


「少しは」


「どこかに|泊まれる|場所は|あるか?」


「モルサンに|ヴィエイユ=ギャルソン20という|宿があります。||もう少し|上流の|セーヌポールに|マリウス21という|宿も」


「2スーの|居酒屋は?」


運転手は|知らないという|仕草を|した。||タクシーを|道端に|長く|止めておくわけには|いかなかった。||バッソ家の|車は|すでに|荷物が|下ろされていた。||十分も|経たないうちに、|バッソ夫人が|庭に|姿を|現した。||コンカルノーの|帆布22で|作った|水兵服に、|アメリカの|船乗り帽を|かぶっていた。


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タクシーを|道端に|長く|止めておく|わけには|いかなかった。||バッソ家の|車は|すでに|荷物が|下ろされていた。||十分も|経たないうちに、|バッソ夫人が|庭に|姿を|現した。||コンカルノーの|帆布で|作った|水兵服に、|アメリカの|船乗り帽を|かぶっていた。  夫の|ほうは|もっと|早く|仮装を|試したかったらしく、|窓に|現れたときには|すでに|ありえないほど|大げさな|燕尾服に|身を|包み、|シルクハットを|かぶっていた。


「どう思う?」


「三色帯を|忘れてない?」


「どんな帯だ?」


「村長は|三色の|たすきを|かけるものよ」


 川では|カヌーが|ゆっくりと|流れていた。||遠くで|タグボートが|汽笛を|鳴らした。||太陽が|下流の|丘の|木立の|向こうへ|沈みはじめた。


「ヴィエイユ=ギャルソンへ」と|メグレは|言った。


 セーヌ川沿いに|広い|テラスが|あり、|あらゆる種類の|船が|並び、|建物の|裏には|十台ほどの|車が|止まっていた。


「お待ちしましょうか?」


「まだ|わからない」


 最初に|出会ったのは|全身|白ずくめの|女だった。||走ってきて|危うく|彼に|ぶつかりそうになった、||頭に|オレンジの|花を|つけていた。||水着姿の|若い男が|彼女を|追いかけていた。||二人とも|笑っていた。||宿の|玄関先では|ほかの人々が|この光景を|眺めていた。23


「花嫁を|傷つけるな!」と|誰かが|叫んだ。


「せめて|式が|終わってから!」


 花嫁は|息を|切らして|立ち止まった。||そのとき|メグレは、|週に二度、|バッソ氏と|ともに|ニエル通りの|貸し部屋に|入っていく|あの女だと|気づいた。

 緑色に|塗られた|平底舟の中で、|一人の男が|眉をひそめながら|釣り道具を|片づけていた。||まるで|繊細で|難しい|作業を|しているかの|ようだった。


「ペルノ24五杯!」


 若い男が|宿から|出てきた。||顔に|白いドーランと|化粧を|施し、|にきびだらけで|陽気な|田舎者に|扮していた。


「うまくできてるか?」

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 一台の|車が|やってきた。||降りてきた人たちは|すでに|田舎の結婚式の|衣装を|身につけていた。||ある女は|地面を|引きずるほど|長い|ノミ色の|絹のドレスを|着ていた。||その夫は|胴回りを|クッションで|膨らませた|腹の上に、|懐中時計の鎖の代わりに|平底舟の|鎖を|ぶら下げていた。

 太陽の光が|赤みを|帯びてきた。||木々の|葉が|かすかに|揺れるかどうか|というほどだった。||一艘の|カヌーが|川の流れに|乗って|滑り、|半裸で|後部に|横たわった|乗客が|のんびりと|パドルで|操るだけだった。


「馬車は|何時に|来るんだ?」


メグレは|どこに|いれば|いいか|わからなかった。


「バッソたちは|来た?」


「道中で|追い越された!」


 突然、|一人の|男が|メグレの前に|どかんと|立ちはだかった。||三十歳くらいで、|すでに|ほとんど|禿げかかり、|道化師のような|顔つきだった。||目には|悪戯っぽい|炎が|きらめいていた。||そして|強い|英国訛りで|言った。

「おい、|公証人役に|ぴったりの|男が|いるぞ!」


 完全に|酔っているわけでは|なかった。||かといって|正気でも|なかった。||夕暮れの|光が|その顔を|赤く|染め、|その瞳は|川よりも|青かった。


「公証人を|やるだろ?」と|彼は|酔っ払いの|馴れ馴れしさで|繰り返した。


「そうだよ、|みんなで|楽しもうぜ!」


 そして|メグレの|腕を|取りながら|言った。


「ペルノを|飲みに|行こう」


 周りの|みんなが|笑っていた。||ある女が|小声で|言った。


「頑張ってるわね、|ジェームズ!」


 だが|ジェームズは|平然と|メグレを|ヴィエイユ=ギャルソンへと|引っ張っていき、|注文した。

「大きいのを|二杯!」


 そして|毎週|恒例の|この|冗談25に|自分でも|笑いながら、|縁まで|なみなみと|注がれた|二つの|グラスが|運ばれてくるのを|待った。26

  1. ユーロ導入前のフランスは、フランとサンチームが通貨単位でした。1フラン=100サンチームという単位で、1795年に導入された歴史ある通貨です。
    「deux sous(2スー)」の「sou」は民衆的な通貨単位で、正式な「centime(サンチーム)」とは別の言葉です。
    「sou」は、正式には5サンチーム(centimes)に相当します。したがって「deux sous」は10サンチームということになります。
    1932年当時のフランスでは、インフレが進んでいたため、2スー(=10サンチーム)はほとんど価値のない金額でした。当時の物価水準では、コーヒー一杯が1〜2フランはしていたので、10サンチームは100分の1フラン程度に過ぎません。「2スー」はほとんど価値のない金額で、日本語で言えば「二文」や「びた一文」に近いニュアンスです。
    つまり「La Guinguette à deux sous」は「二束三文の居酒屋」「安っぽい居酒屋」というような意味合いで、場末の安居酒屋・庶民的な川辺の飲み屋を指しています。
    ↩︎
  2. 左岸(rive gauche)とは、セーヌ川の南側の岸のことです。
    パリでは川の流れる方向(西向き)を基準に、南側を「左岸」、北側を「右岸」と呼びます。左岸はサン・ジェルマン・デ・プレ、カルチェ・ラタン、モンパルナスなどの地区を含み、歴史的に文人・芸術家・知識人の街として知られています。
    この小説でメグレが向かうサンテ刑務所も左岸に位置しています。 ↩︎
  3. サンテ刑務所(La Prison de la Santé)は、パリ14区に実在する刑務所です。1867年に開設され、現在も使用されています。
    パリの中心部に位置し、主に未決囚や重罪犯を収容することで知られています。20世紀初頭には死刑囚も収容されており、ギロチンによる処刑がこの刑務所の前で行われていました。
    この小説の舞台となっている1930年代のフランスでは、死刑はギロチンで執行され、処刑は夜明けに刑務所の門前で公開されていました。ルノワールが「明日の夜明け」と聞いてぞっとするのは、そういう背景があるからです。
    メグレ・シリーズでは何度かサンテ刑務所が登場し、シムノンの描写にリアリティを与えています。
    ↩︎
  4. ベルヴィル(Belleville)は、パリ19区と20区にまたがる下町の地区です。
    19世紀から20世紀にかけて、労働者階級や移民が多く住む貧しい地区として知られていました。犯罪や非行も多く、ルノワールのような「ベルヴィルの若き暴力団のリーダー」という表現は、当時のパリ市民には一目でその人物の出自と社会的背景を伝えるものでした。
    シャンソン歌手のエディット・ピアフもベルヴィル出身で、この地区の庶民的でたくましい雰囲気はフランス文化に深く刻み込まれています。
    ↩︎
  5. サン=タントワーヌ通り(rue Saint-Antoine)は、パリ4区にある歴史ある通りです。
    マレ地区の中心を東西に走る古い街道で、中世からパリの重要な幹線道路のひとつでした。バスティーユ広場へと続くこの通りは、1789年のフランス革命の際にバスティーユ牢獄へ向かう民衆が通ったことでも知られています。
    1930年代当時は、庶民的な商店や安ホテルが立ち並ぶ下町の雰囲気が残っていました。メグレが|ルノワールを|取り押さえた「サン=タントワーヌ通りのホテル」は、そういった安宿のひとつだったと思われます。
    ↩︎
  6. ミュゼット・バル(bal musette)は、アコーディオンの演奏に合わせて踊る庶民的なダンスホールです。
    19世紀末にパリの労働者階級の間で生まれた文化で、特にベルヴィルやメニルモンタンなどの下町に多く集まっていました。安い酒を飲みながら踊り、出会いを求める若者たちが集う場所で、犯罪者や不良たちのたまり場にもなっていました。
    ルノワールが「十六歳の頃、二人でミュゼット・バルに出かけてはかっぱらいをしていた」と語るのは、いかにも当時のベルヴィルの不良少年らしい姿です。アコーディオンの哀愁漂う音色と、薄暗い照明の中で踊る男女の姿は、1930年代のパリの下町文化を象徴するものでした。
    ↩︎
  7. サン=マルタン運河(canal Saint-Martin)は、パリ10区から11区にかけて流れる全長約4.5キロの運河です。
    1825年に開通し、セーヌ川とラ・ヴィレット貯水池を結ぶ水路として、当時は物資の輸送に使われていました。運河沿いには工場や倉庫が立ち並び、労働者階級の町として知られていました。
    深夜人けのない運河に死体を投げ込む場所として、犯罪小説の舞台にはうってつけです。実際にシムノンはこの運河をメグレ・シリーズの複数の作品で使っており、パリの暗い裏面を象徴する場所として描いています。
    現在は観光地として整備され、おしゃれなカフェや雑貨店が並ぶ人気スポットになっています。
    ↩︎
  8. レピュブリック広場(place de la République)は、パリ3区・10区・11区の境界に位置する大きな広場です。
    19世紀にオスマンのパリ改造計画の一環として整備され、中央にはマリアンヌ(フランス共和国の象徴)の大きな銅像が立っています。サン=マルタン運河のすぐそばにあり、この場面でバッソ氏が運河に死体を投げ込んだ後、近くのこの広場のカフェでラム酒を飲んだというのは、地理的にも非常に自然な流れです。
    当時は労働者階級の町の中心にある庶民的な広場で、深夜でも開いているカフェが何軒かあったようです。
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  9. これは死刑囚への残酷な慣例的嘘です。フランスの当時の慣習として、死刑執行の直前まで囚人に真実を告げないという不文律がありました。弁護士や看守が「いい知らせがある」「上告は却下されていない」などと言い続け、夜明けに突然連行するというやり方です。
    ルノワールの「それか、それとも腸チフスか!」という後の冗談も、その諦観の裏返しです。
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  10. ルノワールが|処刑される|前夜に|言った|言葉です。
    「明日ギロチンで死ぬ」か「チフスで死ぬ」か、どうせ死ぬなら同じだという、投げやりな|自嘲の|ジョークです。
    当時のフランスの刑務所では、チフスなどの感染症が蔓延することがあり、囚人にとって病死も身近な脅威でした。ルノワールは極限状態にありながら、強がりとユーモアで自分の恐怖を|隠そうとしています。
    この一言に、シムノンが描くルノワールという人物の「crâne(勇敢で強がりな)」な性格が凝縮されています。
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  11. サン=ミシェル大通り(boulevard Saint-Michel)は、パリ5区と6区を南北に走る大通りです。
    セーヌ川のシテ島に面したサン=ミシェル橋から、リュクサンブール公園の方向へ向かって伸びています。ラテン地区の中心を貫く通りで、古くから学生や知識人が多く集まる場所として知られています。書店、カフェ、レストランが立ち並ぶ活気ある通りで、「ボウル」と呼ばれる地元の人々に親しまれています。
    メグレが|ここで|帽子屋を|見つけるのは、|司法警察本部(オルフェーヴル河岸)から|歩いてすぐの|距離にあるためで、地理的に自然な場面です。
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  12. フランス語の「complet de sport」は、スポーツウェアという意味ではなく、当時の言葉で「カジュアルなスーツ」のことです。
    1930年代のフランスでは、フォーマルな黒や濃紺のスーツに対して、ツイードやフランネルなど軽めの素材で作った明るい色のスーツを「complet de sport」と呼んでいました。日本語では「平服」「普段着のスーツ」が近いニュアンスです。
    シルクハットという礼装用の帽子に、カジュアルなスーツを合わせているから「滑稽だった」という描写になっています。
    「スポーツスーツ」より「普段着のスーツ」や「カジュアルスーツ」と訳した方が自然です。
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  13. ワグラム通り(Avenue de Wagram)は、パリ17区にある大通りです。
    エトワール広場(凱旋門)から北東に向かって伸びる、シャンゼリゼから放射状に広がる十二本の大通りのうちの一本です。17区はブルジョワ的な落ち着いた住宅街で、バッソ氏がこの界隈の小さなバーで愛人と落ち合うのは、いかにも裕福な中産階級の男の密会場所として自然な設定です。
    ニエル通り(Avenue Niel)もすぐ近くで、この一帯がバッソ氏の「もう一つの生活」の舞台になっています。
    名前の由来はワグラムの戦い(1809年、ナポレオンがオーストリア軍を破った戦い)で、アウステルリッツ河岸通りと同様、ナポレオンの戦勝にちなんだ地名です。
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  14. ニエル通り(Avenue Niel)は、パリ17区にある静かな住宅街の通りです。
    ワグラム通りのすぐ近くに位置し、この界隈は上品で目立たない中産階級の住宅地です。貸し部屋(garçonnières――直訳すると「独身男の部屋」)がこの通りにあるのは、いかにも人目を避けた密会に使われる場所として説得力があります。
    ワグラム通りもニエル通りも凱旋門から近く、バッソ氏が愛人をシャンゼリゼ近くのバーで拾い、そのままニエル通りへ向かうという動線は、パリの地理として非常にリアルに描かれています。
    名前の由来はアドルフ・ニエル元帥(1802〜1869年)、ナポレオン三世時代のフランス陸軍大臣です。この17区周辺にはナポレオン時代の軍人や戦勝にちなんだ地名が多く集まっています。
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  15. 当時のフランスの自動車には、車体前部または後部に取り付けた小さなガラスケース入りの身分証明プレート(plaque d’identité)がありました。
    現代のナンバープレートとは異なり、オーナーの名前・住所が記載された金属製のプレートがガラスで覆われた小箱のようなもので、車内や車体に固定されていました。
    メグレはバッソ氏の車の外から、そのガラスケース越しに中のプレートを読んだということです。だから「マルセル・バッソ、オステルリッツ河岸通り三十二番地」という名前と住所までわかったわけです。現代でいえば車検証の情報が外から見えるようになっていたようなイメージです。
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  16. オステルリッツ河岸通り(Quai d’Austerlitz)は、パリ13区、セーヌ川左岸に沿った通りです。
    バッソ氏の石炭輸入会社はここに設けられています。川沿いの立地は石炭商には理にかなっていて、セーヌ川を遡ってくる荷船から直接荷揚げできるからです。原文にも「桟橋」「石炭の山」「停泊中のはしけ」の描写があります。
    名前の由来はアウステルリッツの戦い(1805年、ナポレオンがロシア・オーストリア連合軍を破った戦い)で、パリにはこの戦勝を記念した地名が多く残っています。近くにはアウステルリッツ駅(現在のパリ・アウステルリッツ駅)もあります。 ↩︎
  17. テルヌ広場(Place des Ternes)は、パリ17区にある広場です。
    シャンゼリゼ通りの西端、凱旋門からほど近い場所にあります。1930年代当時から高級住宅街として知られ、カフェやレストランが並ぶ賑やかな広場でした。
    この場面では、バッソが愛人と密会した後、テルヌ広場で二人が別れる様子が描かれています。二人がここで別れるのは、それぞれ自分のタクシーで帰宅するためです。高級感のある場所での密会という雰囲気が、バッソの社会的地位を示しています。
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  18. ヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュ(Villeneuve-Saint-Georges)は、パリ南東郊外のヴァル=ド=マルヌ県にある町です。
    パリ中心部から約20キロほどの距離で、セーヌ川沿いに位置しています。当時はパリ市民が週末に郊外へ向かう際の通過点で、リヨン駅からコルベイユ方面への幹線道路沿いにありました。
    バッソ一家が向かうモルサン=シュル=セーヌは、さらにその先の川沿いにある小さな村です。1930年代のパリっ子にとって、セーヌ川沿いのこのあたりは人気の週末の行楽地でした。ルノワールの絵に描かれたような、ボートや水浴びを楽しむ庶民的な川辺の風景が広がっていた場所です。
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  19. コルベイユ街道(route de Corbeil)は、パリからコルベイユ=エソンヌ(Corbeil-Essonnes)へ向かう道路です。
    コルベイユ=エソンヌは|パリ南方約30キロに|位置する|セーヌ川沿いの町で、当時は製粉業や印刷業で知られていました。この街道はヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュを経由してセーヌ川沿いを南下する道で、パリ市民が週末に郊外へ向かう際によく使われたルートです。
    バッソ一家は|この街道を|南下して、|モルサンと|セーヌポールの|間にある|別荘へ|向かっています。
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  20. 「ヴィエイユ=ギャルソン」の宿は、モルサン=シュル=セーヌに実在し、セーヌ川の渡し場近くに位置していました。
    1913年の消印のある絵葉書も残っており、小説が書かれた1932年より前から営業していた実在の宿・レストランです。シムノンは架空の設定ではなく、実際にモルサン=シュル=セーヌに存在した川沿いの宿を舞台に使ったことになります。
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  21. ヴィエイユ=ギャルソンが実在の宿であったのに対し、「マリウス」はシムノンが実際の雰囲気を参考にしつつ創作した架空の宿である可能性が高いと思われます。あるいは実在したとしても記録が残っていないほど小さな宿だったのかもしれません。
    セーヌポール自体は実在する小さな村(現在のセーヌ=エ=マルヌ県)です。
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  22. コンカルノー(Concarneau)は、ブルターニュ地方フィニステール県の漁港町です。フランス有数のマグロ漁の基地として知られ、丈夫な帆布(toile)の産地としても名高い場所です。
    「コンカルノーの帆布」とは、この漁港で使われる厚手で丈夫な綿の織物で、青みがかった濃紺が特徴です。漁師の作業着や船の帆に使われていた素材で、1930年代にはマリンファッションの定番素材として都市のブルジョワ層にも広まっていました。
    バッソ夫人がこの素材の水兵服を着ているのは、川沿いのヴィラでのバカンス気分を表すと同時に、当時のパリの裕福な中産階級が好んだリゾートスタイルをよく表しています。
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  23. バッソ氏の仲間たちは『2スーの居酒屋』で、にせの田舎の結婚式(fausse noce villageoise)を催しています。
    帽子屋でバッソ氏が語っていた通り、友人たちが集まって花嫁・義母・花婿の友人・村長などの役を割り振り、本物の田舎の結婚式のように仮装して騒ぐというブルジョワの週末の悪ふざけです。
    登場人物をまとめると、花嫁はバッソ氏の愛人マド(フェンステン夫人)、村長はバッソ氏自身(シルクハットと燕尾服)、ジェームズはメグレに公証人役を押しつけようとしている、という構図です。
    1920〜30年代のフランスのブルジョワ層では非常に一般的な娯楽でした。
    「guinguette」(ギャングエット)文化の全盛期で、パリ近郊のセーヌ川やマルヌ川沿いの安い居酒屋・野外酒場に、週末になると中産階級が押し寄せていました。そこでの娯楽は飲酒・ダンス・ボート遊びに加え、こうした集団での仮装や寸劇でした。
    「にせの結婚式」は特に人気の出し物で、役割分担を決め、衣装を用意し、本物の式さながらに演じるというものです。参加者全員が知り合いで、毎週末同じ顔ぶれが集まるコミュニティだからこそ成立する遊びでした。
    印象派の絵画――ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」やモネの川辺の絵――が描いたのもまさにこの文化で、シムノンはその享楽的な明るさの裏側に潜む人間の暗部を描く舞台としてギャングエットを選んでいます。
    メグレにとってはただの偶然の居合わせですが、ルノワールが死の直前に告げた「2スーの居酒屋」がまさにここだったという衝撃的な気づきが、この賑やかな場面の裏側に静かに走っています。タイトル「2スーの居酒屋」自体がこの文化そのものを指しています。

    ギャングエット(guinguette)
    パリ郊外の川沿いや森の近くにあった庶民的な野外酒場・ダンス場のことです。
    起源と全盛期
    18世紀末から19世紀にかけて生まれ、1880〜1930年代に全盛期を迎えました。パリ市内では酒税が高かったため、税の及ばない郊外に安い酒場が自然発生したのが起源です。
    特徴
    川沿いのテラス、ダンスホール代わりの木造の小屋、手回しオルガンや後にはピアノ、安いワインやペルノ(アニス酒)、ボート遊び、釣り、仮装パーティーなどが定番でした。入場料や音楽代として2スー(わずかな硬貨)を払うのが慣わしで、まさにこの小説のタイトルの由来です。
    社会的な意味
    当初は労働者階級の娯楽でしたが、やがて中産階級・ブルジョワ層も週末に押し寄せるようになりました。モネ、ルノワール、スーラといった印象派の画家たちが好んで描いた場所でもあり、「生きる喜び」の象徴として当時のフランス文化に深く根付いていました。
    衰退
    1936年に有給休暇制度が導入され、人々がより遠くへ旅行できるようになったこと、自動車の普及などにより、1940年代以降急速に衰退しました。
    シムノンはこの文化の最後の輝きの時期を舞台に選んだことになります。
    ↩︎
  24. ペルノ(Pernod)は、アニス(八角)の香りがする蒸留酒です。
    起源
    もともとはアブサン(absinthe)の後継として19世紀末に生まれました。アブサンはニガヨモギを含む強烈な緑色の酒で、芸術家・文人に愛されましたが、1915年に有害としてフランスで禁止されました。ペルノはアブサンからニガヨモギを除いた代替品として普及しました。
    飲み方
    グラスに注いだペルノに冷水を加えると、透明な液体が白く濁るのが特徴です。この変化を「louche(ルーシュ)」と呼びます。氷や砂糖を加えることもあります。
    当時の位置づけ
    1920〜30年代のフランスでは労働者からブルジョワまであらゆる階層が飲む国民的な食前酒でした。カフェのテラスでペルノを飲むことは、当時のパリやギャングエット文化の象徴的な光景でした。
    この小説でもジェームズが「ペルノを二杯」と頼む場面が繰り返し登場し、彼のキャラクターを象徴しています。 ↩︎
  25. ジェームズが毎週末モルサンに来るたびに、見知らぬ人に「公証人役をやれ」と声をかけるのが恒例の冗談になっていた、ということです。
    原文では 「cette boutade hebdomadaire」(毎週の冗談)とあります。
    そして、ある女が「頑張ってるわね、|ジェームズ!」と言っています。つまりジェームズは、にせの結婚式の役割分担を口実に、初対面の人間をからかって巻き込むことを毎週の習慣にしていたわけです。メグレが今週の「標的」になったにすぎません。この一言が、ジェームズという人物の気ままで飄々とした性格をよく表しています。
    ↩︎
  26. 画像のオレンジジュースのような飲み物は、ペルノを水で割った状態です。
    ペルノは瓶の中では透明な液体ですが、水を加えるとアニスの成分(アネトール)が乳化して白く濁り、このような乳白色・薄黄緑色になります。これが先ほど説明した「louche(ルーシュ)」という現象です。
    画像のグラスの手前には角砂糖も見えますね。砂糖を溶かして飲むのも当時の定番の飲み方です。
    また画像左の緑色の瓶にPERNODの文字が確認できます。雰囲気も1930年代のフランスの居酒屋によく合っていて、まさにこの小説の世界そのものです。 ↩︎