25 微笑む倦怠 ― アデルという女
アデルは|起きたばかりだった。||コンロの|そばで、|コンデンスミルクの|缶が|あふれていた。

「友達は|一緒じゃないの?」|と|彼女は|重ねて|聞いた。
シャボは|むっとして、|ぶっきらぼうに|答えた。

「なんで|一緒なんだ?」

彼女は|気にする|様子も|なく、|戸棚を|開けて|エビ色の|絹の|シャツを|探した。

「彼の|お父さんって|本当に|大きな|実業家なの?」
ジャンは|座りも|せず、|帽子も|脱がなかった。||彼女が|行き来するのを|眺めながら、|憂鬱と|欲望と、|女への|本能的な|敬意と|絶望が|入り混じった|複雑な|気持ちに|とらわれていた。
美しくは|なかった。||スリッパを|はき、|くたびれた|部屋着のままでは。||しかし|もしかしたら、|この|素のままの|親しさの|なかにこそ、|彼にとっての|魅力が|あったのかも|しれない。
二十五歳か、|三十歳か。||ともかく|波乱万丈の|人生を|歩んできた|ことは|たしかだった。||パリ、|ベルリン、|オーステンドの|話を|よく|した。||有名な|キャバレーの|名前も|よく|口に|した。
しかし|興奮でも|なく、|自慢でも|なく、|気取りでも|なかった。||むしろ|逆だった。||彼女の|性格を|支配する|ものは、|緑の|瞳に|にじむ|倦怠感であり、|唇に|だらしなく|はさんだ|タバコの|くわえ方であり、|仕草や|微笑みに|ただよう|疲れだった。
微笑んだ|倦怠感、とでも|いうべき|もの。

「何を|製造しているの?」

「自転車」

「あら、|面白いわね!||サン=テティエンヌ1に|別の|自転車|メーカーを|知ってたわ。||何歳なの?」

「お父さんが?」
26 タバコ入れの秘密 ― 震える手

「いいえ、|ルネよ」
その|唇から|出た|名前に、|ジャンは|さらに|むっとした。

「十八歳」

「悪い子でしょ、|きっと?」
完全な|馴れ馴れしさだった。||彼女は|ジャン・シャボを|対等に|あつかった。||一方、|ルネ・デルフォスの|話に|なると、|声に|わずかな|敬意の|ニュアンスが|混じった。
シャボが|裕福でなく、|自分と|似たような|家庭の|出身であることに|気づいていたのだろうか?

「座って!|着替えても|かまわない?|タバコを|取って」
ジャンは|あたりを|見まわした。

「枕元の|テーブルの|上!||そうそう」

ジャンは|蒼白なまま、|前夜|あの|外国人の|手にあった|タバコ入れに|おそるおそる|触れた。||部屋着を|はだけ、|裸の体に|ストッキングを|はいている|彼女を見た。
最初の|瞬間より|さらに|胸が|騒いだ。||顔が|真っ赤になった。||タバコ入れのせいか、|この|裸体のせいか、|おそらく|両方のせいだった。
アデルは|単なる|女ではなかった。||ある事件に|巻きこまれた|女、|おそらく|何か|秘密を|抱えた|女だった。

「ほら」
ジャンは|タバコ入れを|差し出した。

「火は?」
燃えた|マッチを|差し出す|手が|震えていた。||アデルは|笑いだした。


「まあ!||あまり|女を|見たことが|ないのね!」

「愛人は|いた」
笑いが|強まった。||目を|半分|閉じて、|正面から|彼を見た。

「面白い人ね!|変わった|タイプ。|ベルトを|取って」

「昨夜は|遅く|帰ったんですか?」
アデルは|少し|真顔に|なって|彼を|見た。

27 嫉妬と別れ ― 封筒の山へ

「恋してるんじゃないの?|おまけに|嫉妬まで!||ルネの|話を|したとき、|あなたが|むっとした|理由が|やっと|わかった。||ほら、|壁のほうを|向いて!」

「新聞は|読みましたか?」

「連載小説だけ|流し読みしたわ」

「昨夜の|男が|殺された」

「まさか!」
それほど|動揺した|様子は|なかった。||ただの|好奇心だった。

「誰に?」

「わからない。||荷物入れの|中に|死体で|見つかった」
部屋着が|ベッドに|投げられた。||ジャンが|振り向くと、|彼女は|シャツを|着こんで|戸棚から|ワンピースを|探していた。

「また|面倒なことに|巻きこまれる!」

「ガイ・ムーランから|一緒に|出ましたか?」

「いいえ!||一人で|出たわ」

「そうですか」

「信じてないみたいね。||まさか、|店の|客を|全員|ここに|連れてくると|思ってるの?||私は|ダンサーよ。||客に|お金を|使わせるのが|仕事。||でも|ドアが|閉まれば|それまで!」

「でも|ルネとは|……」
言いかけて、|馬鹿げたことだと|気づいた。

「なんなの?」

「いや|……|あいつが|言ってたから」

「馬鹿ね!|キスぐらいしたけど、|それだけよ。||もう一本|タバコを|頂戴」
帽子を|かぶりながら、


「さあ!|買い物に|行かないと。||来て!||ドアを|閉めて!」
二人は|暗い|階段を|一列で|降りた。


「どちらへ?」

「事務所に|戻ります」

「今夜は|来る?」
歩道に|人波が|あふれていた。||二人は|別れた。||ほどなく|ジャン・シャボは|事務所の|机に|座り、|切手を|貼る|封筒の山を|前にしていた。

28 悲しみと霧 ― 異変の予感
なぜかは|わからなかったが、|今は|恐怖より|悲しみが|勝っていた。||公証人の|告示ポスターで|埋め尽くされた|事務所を|嫌悪感とともに|眺めた。

「受領書は?」|と|事務長が|聞いた。
ジャンは|差し出した。

「ガゼット・ド・リエージュの|分は?||ガゼット・ド・リエージュを|忘れた!」
大事件だ!|大失態だ!||事務長の|口調は|悲劇的だった。

「いいですか、|シャボ、|はっきり|言います。||このままでは|済みません!||仕事は|仕事、|義務は|義務です。||所長に|報告せざるを|得ない。||おまけに、|夜中に|よからぬ|場所で|あなたを|見かけたという|話が|私の|耳に|入っています。||私自身は|そういう|ところに|足を|踏み入れたことは|ありません。||はっきり|言って、|あなたは|道を|踏み外しています。||話すときは|私を|見なさい!||そんな|皮肉な|顔をするな!||聞こえましたか?||このままでは|おきません!」

ドアが|ばたんと|閉まった。||ジャンは|一人|残されて、|封筒に|切手を|貼り続けた。
デルフォスは|今ごろ|ペリカンの|テラスに|座っているか、|映画館に|いるはずだった。||時計は|五時を|指していた。||ジャン・シャボは|一分ずつ|六十回|針が|動くのを|眺め、|立ち上がり、|帽子を|取り、|引き出しに|鍵を|かけた。
肩幅の|広い|男は|外に|いなかった。||冷えていた。||夕暮れが|街路に|青みがかった|霧の|大きな|帯を|敷き、|商店の|灯りと|路面電車の|窓が|その|霧を|切り裂いていた。

「ガゼット・ド・リエージュを|どうぞ!」
デルフォスは|ペリカンに|いなかった。||シャボは|いつも|待ち合わせに|使う|中心街の|カフェを|次々と|回った。||脚が|重く、|頭が|空っぽで、|もう|寝てしまいたいと|思った。
家に|帰ると、|すぐに|何か|異常な|ことが|起きていると|感じた。||台所の|ドアが|開いていた。||間借り人の|ポーランド人の|学生、|<マドモワゼル=ポーリーヌ>が|誰かに|かがみこんでいたが、|その誰かが|すぐには|見えなかった。

29 母の涙 ― 警察の影

ジャンは|静寂の|なかを|進んだ。||突然、|嗚咽が|破裂するように|溢れた。||ポーリーヌが|愛嬌のない|顔を|こちらに|向け、|厳しい|表情に|なった。

「お母さんを|見なさい、|ジャン!」
シャボ夫人は|エプロン姿で|テーブルに|肘をつき、|声を|あげて|泣いていた。

「どうしたんですか?」
ポーランド人が|続けた。

「あなたが|一番|よく|わかってるはずよ」

シャボ夫人は|赤く|腫れた|目を|拭い、|息子を|見て、|さらに|激しく|泣きだした。

「死んでしまいそう!||ひどい!」

「何が|あったの、|母さん?」
ジャンは|抑揚のない、|白々しいほど|はっきりした|声で|言った。||恐怖で|体が|完全に|凍りついていた。

「ポーリーヌさん、|席を|外してくれますか。||ありがとう。||私たちは|いつも|貧しくても|正直に|生きてきたのに!」

「わからないよ」
ポーランド人学生は|そっと|立ち去り、|階段を|上がる|足音がした。||ただし、|自分の|部屋の|ドアは|ちゃんと|開けたままにしておいた。

「何を|したの?||正直に|言いなさい。||お父さんが|帰ってくる。||近所中に|知れわたったら|どうするの?」

「本当に|わからないんだ!」

「嘘を|ついてる!||デルフォスとかいう|男や|あんな|汚らわしい|女たちと|つるむように|なってから、|ずっと|嘘ばかり!||三十分ほど|前に、|八百屋の|フェルデン夫人が|息せき切って|やってきた。||ポーリーヌさんも|いた。||その前で|フェルデン夫人が|言うのよ、|ある男が|来て、|あなたのこと、|私たちのことを|聞きまわっていたと。||絶対に|警察の|人間よ!||よりによって|フェルデン夫人に!||この界隈で|一番の|口の軽い|人に!||今ごろ|もう|みんなに|知れわたってるわ!」
彼女は|立ち上がっていた。||無意識に|コーヒーフィルターに|熱湯を|注いだ。||それから|戸棚から|テーブルクロスを|取り出した。

30 嘘の言い訳 ― 父の帰宅


「こんなに|苦労して|育てたのに!||警察が|目を|つけて、|家に|乗りこんでくるかも|しれない!||お父さんが|どう|思うか|知らないけど、|私の|父親なら|あなたを|追い出したわ。||まだ|十七にも|ならないのに!||お父さんが|悪いのよ!||夜中の|三時まで|外出を|許すから。||私が|怒ると、|あなたの|肩を|持つ!」
ジャンは|なぜかは|わからないが、|例の|いわゆる|刑事が|肩幅の|広い|男だという|確信を|持っていた。||床を|じっと|険しい|目で|見つめた。

「黙ってるの?||何を|したか|白状しないの?」

「何も|してない、|母さん」

「何も|していないのに|警察が|目を|つけるの?」

「警察とは|限らない!」

「じゃあ|何なの?」
ジャンは|突然、|この|つらい|場面を|終わらせるために|嘘を|つく|勇気が|出た。


「もしかしたら、|僕を|雇いたい|会社の|人かも。||今の|給料が|安いから、|あちこち|新しい|職を|探してて|……」
母は|鋭い|目で|彼を|見た。

「嘘ね!」

「本当だよ」

「デルフォスと|何か|馬鹿な|ことを|したんじゃないの?」

「誓う、|母さん」

「それなら|フェルデン夫人の|ところへ|行きなさい。||警察が|あなたを|探してると|みんなに|言いふらされたら|たまらないから!」
玄関の|錠が|まわる|音が|した。||シャボ氏が|外套を|脱いで|ハンガーに|かけ、|台所に|入り、|籐の|肘掛け椅子に|腰を|おろした。

「もう|帰ってたのか、|ジャン?」
妻の|赤い|目と、|息子の|暗い|顔に|気づいて|驚いた。

「どうしたんだ?」

31 家庭の夕餉 ― デルフォスの来訪


「何でもないわ!||ジャンを|叱ってたの。||こんなに|遅くまで|出歩いて。||家族と|ここに|いるのが|そんなに|嫌なのかしら」
彼女は|食器を|並べ、|カップに|注いだ。||シャボ氏は|食べながら|新聞を|読み、|コメントした。

「また|騒ぎに|なる|事件だ!||荷物入れの|中に|死体。||外国人だろう、|どうせ。||たぶん|スパイだ」
話題を|変えて、

「ボグダノフスキー氏は|払ったか?」

「まだ。||水曜日に|お金が|入ると|言ってます」

「三週間前から|そう|言ってる!||仕方ない。||水曜日に、|もう|これ以上は|続けられないと|言いなさい」
雰囲気は|重く、|なじみの|匂いに|満ちていた。||銅の|鍋の|反射、|三年前から|壁に|貼られて|新聞置きに|なっている|広告カレンダーの|鮮やかな|色。
ジャンは|無意識に|食べながら、|少しずつ|感覚が|麻痺して|いくのを|感じた。||この|見慣れた|光景の|なかでは、|外の|出来事が|現実だったのか|疑わしく|なってきた。||二時間前に|自分が|ダンサーの|部屋に|いて、|部屋着を|はだけた|白く|豊かな|少し|疲れた|体の|前で|ストッキングを|はく|彼女を|見ていたとは|とても|思えなかった。

「フェロンストレー通りの|家の|件は|聞いてきたか?」

「どの|家?」

「フェロンストレー通りの|家だよ」

「あ、|その|……|忘れてた」

「いつも|そう!」

「今夜は|休むだろうな。||顔色が|悪い」

「ああ、|外出しないよ」

「今週|初めてね!」|と|シャボ夫人が|口を|挟んだ。||まだ|完全に|安心して|おらず、|息子の|表情を|うかがっていた。

郵便受けが|ぱたんと|鳴った。||ジャンは|自分宛てだと|確信して、|廊下へ|飛び出し|ドアを|開けた。||シャボ夫妻は|ガラス戸越しに|眺めた。

「また|あの|デルフォスよ!」|と|シャボ夫人が|言った。「ジャンを|ほっておかないんだから。||このまま|続くなら|親に|言いに|行くわ!」
32 尾行 ― ジラール刑事の影

二人が|玄関口で|ひそひそ|話しているのが|見えた。||シャボは|何度も|振り返り、|聞かれていないか|確かめた。||何か|強い|誘いに|抵抗している|ようだった。
突然、|台所に|戻らずに|叫んだ。

「すぐ|帰る!」
シャボ夫人は|引き止めようと|立ち上がった。||しかし|もう|遅かった。||ジャンは|あわただしい|手つきで|帽子を|ひったくり、|通りに|出て、|ドアを|ばたんと|閉めた。

「あんな|ふうに|させておくの?」|と|夫に|言った。「あなたが|尊敬されてる|証拠ね!||もう少し|威厳が|あれば!」
ランプの|下で|食べながら|しゃべり続けた。||シャボ氏は|この|説教が|終わるまで|新聞に|手が|出せず、|横目で|ちらちら|眺めていた。

「確かか?」

「間違いない。||ちゃんと|顔を|覚えてる。||以前、|うちの|界隈を|担当していた|刑事だ!」

デルフォスは|いつにも|増して|刃のように|細い|顔を|していた。||ガス灯の|下を|通るとき、|シャボは|彼が|青ざめているのを|見た。||短く|神経質に|タバコを|ふかしていた。

「もう|限界だ。||もう|四時間も|続いてる。||ほら!||すぐ|振り返れ。||百メートルもない|ところにいる!」
ロワ通りの|家々に|沿って|歩く|ごく|ありふれた|男の|シルエットが|見えるだけだった。

「昼食の|後すぐに|始まった。||いや、|もっと|前かも。||ペリカンの|テラスに|座ったとき|気づいた。||隣の|テーブルに|座ったんだ。||顔を|見たら|わかった。||二年前から|制服じゃない|刑事になった。||父が|工場での|金属盗難で|世話に|なった男だ。||ジェラールか|ジラールとか|いう名前。||なぜか|立ち上がってしまった。||腹が|立って。||カテドラル通り2を|歩きだしたら、|後を|ついてきた。

||別の|カフェに|入ったら、|百メートル先で|待っていた。||モンダン映画館3に|入ったら、|三列後ろに|いた。||あとは|何をしたか|よくわからない。||歩き回って、|路面電車にも|乗った。||ポケットに|あの|紙幣が|あるから!||どこから|持ってきたか|説明できないし、|もし|調べられたら……||あの金、|お前のものだと|言ってくれないか?||たとえば、|所長が|使いに|持たせたとか……」
33 監視の足音と|ゲ・ムーランへの|決断

デルフォスは|額に|汗を|にじませ、|その|眼差しは|強く|そして|不安げでも|あった。

「だめだ」

「だが、|何か|手を|打たなければ|ならない|そのうち|あいつは|俺たちに|声を|かけてくる|僕が|君の|ところへ|行ったのは、|やはり|こういう|ことは|二人で|やるべきだからだ」

「夕食は|とっていないのか」

「腹は|減っていない|橋を|渡る|途中で、|あの|紙幣を|ムーズ川に|投げ捨てたら|どうだろう」

「気づかれる」

「カフェの|洗面所に|行くことだって|できる|いや、|むしろ|こうしよう|いいか|どこかに|腰を|落ち着けて、|あいつが|僕を|見張っている|あいだに、|君が|洗面所へ|行くんだ」

「もし|あいつが|僕の|あとを|追ってきたら」

「追っては|こない|それに|鍵を|かけるのは|君の|権利だ」
彼らは|なおも|ウトル・ムーズ地区に|いた。
背後では|規則正しい|警官の|足音が|聞こえており、|その|男は|隠れる|様子も|なかった。

「いっそ|ガイ・ムーランに|入らないか|そのほうが|自然に|見える|僕たちは|ほとんど|毎晩|あそこへ|行っている|もし|トルコ人を|殺していたなら、|もう|足を|踏み入れは|しないはずだ」

「まだ|早すぎる」

「待てばいい」
彼らは|それ以上|口を|きかなかった。
ムーズ川を|渡り、|中心街の|通りを|さまよいながら、|ときどき|ジラールが|まだ|後ろに|ついてきているかを|確かめた。
ポ・ドール通りで、|彼らは|開店したばかりの|ナイトクラブの|ネオン看板を|目にした。

「入るか」
前夜の|逃走を|思い出し、|前へ|進むには|大きな|努力が|必要だった。
入口には|ヴィクトルが|ナプキンを|腕に|かけて|立っており、|それは|客が|ほとんど|いないことを|意味していた。

34 ガイ・ムーランの罠 ― 濡れた紙幣


「行こう!」

「いらっしゃいませ!||アデルに|会いましたか?」

「いや!||まだ|来てないのか?」

「まだなんです!||おかしいな、|いつも|時間通りなのに。||どうぞ|中へ。||ポルト酒は?」

「ポルトを|もらおう!」
ホールは|がらんとしていた。||楽団員は|演奏する|気も|なく、|入口を|眺めながら|おしゃべりしていた。||白い|上着を|着た|店主が|バーの|うしろで|小さな|アメリカと|イギリスの|国旗を|飾り直していた。

「いらっしゃい!」|と|遠くから|叫んだ。
「調子は?」

「まあまあ!」
刑事も|続いて|入ってきた。||まだ|若く、|公証人事務所の|事務長補佐に|少し|似ていた。||クロークに|帽子を|預けるのを|断り、|ドアの|近くに|座った。
店主が|楽団員に|合図すると、|ジャズが|始まった。||ホールの|奥で|手紙を|書いていた|プロの|ダンサーが|立ち上がり、|先に|来ていた|唯一の|ダンサーに|近づいた。

「さあ!」
デルフォスが|何かを|仲間の|手に|押しつけ、|ジャンは|受け取るのを|ためらった。||刑事が|見ていた。||しかし|やり取りは|テーブルの|下だった。

「今だ!」

シャボは|覚悟を|決めて|べたついた|紙幣を|つかんだ。||無駄な|動きを|しないよう|手の|なかに|握りしめたまま、|立ち上がった。

「すぐ|戻る!」|と|声に|出して|言った。
デルフォスは|安堵を|隠しきれず、|思わず|尾行者に|勝ち誇った|視線を|向けてしまった。
店主が|ジャンを|引き止めた。

「鍵を|渡すまで|待って!||係の子が|まだ|来ていなくて。||今日は|みんな|どうしたのか、|遅刻ばかりで!」
地下室の|ドアが|少し|開いていて、|湿った|空気が|漂い、|ジャンは|身震いした。

35 アデルの登場 ― 消える紙幣

デルフォスは|ポルト酒を|一息に|飲み干した。||体に|しみわたる|気がして、|仲間の|分も|飲んだ。||刑事は|動かない!||作戦は|成功した!||あと|少しで、|水洗が|あの|やっかいな|紙幣を|流して|くれる。
そのとき、|アデルが|白い|毛皮の|縁取りの|ある|黒い|サテンの|コートを|着て|入ってきた。||楽団員に|挨拶し、|ヴィクトールと|握手した。

「あら!」|と|デルフォスに|言った。「友達は|いないの?||今日の|午後、|会ったわよ。||うちに|来た。||変わった|子ね!||コートを|脱いでも|いい?」
コートを|カウンターの|うしろに|置き、|店主と|少し|言葉を|交わして、|戻ってきて|デルフォスの|隣に|座った。


「グラスを|二つ。||誰かと|来てるの?」

「ジャンと」

「どこにいるの?」

「あっちに|……」
目で|ドアの|方を|示した。

「そう。||彼の|お父さんは|何をしてる人?」

「保険会社の|経理係だと|思う」
アデルは|何も|言わなかった。||それで|十分だった。||思った|通りだった。

「なぜ|最近|車で|来ないの?」

「親父の|車なんだ。||免許が|ないから、|父が|旅行中の|ときしか|乗れない。||来週、|ヴォージュに|行く。||よかったら|……|一緒に|ドライブでも|どう?||スパまで、|たとえば?」

「あの人、|誰?||警察じゃないの?」

「わからない」|と|赤くなりながら|言った。

「なんか|気に入らない|顔ね。||ねえ、|お友達、|気を|失ったんじゃないの?||ヴィクトール!||シェリーを。||踊らない?||別に|踊りたいわけじゃないけど、|店主が|賑やかにしてほしいって|うるさくて」

36 シャボの失踪 ― 雨の小路

シャボが|姿を|消して|二十分が|経っていた。||デルフォスは|踊りが|ひどく|下手で、|曲の|途中で|アデルが|強引に|リードを|奪った。

「ちょっと|待って。||どうしてるか|見てくる」

化粧室の|ドアを|押した。||ジャンは|いなかった。||代わりに、|係の|女が|タオルの|上に|化粧道具を|並べていた。

「友達を|見ませんでしたか?」

「いいえ。||今|来たばかりで」

「裏口から?」

「いつも|そうよ!」
ドアを|開けた。||小路は|人けが|なく、|雨で|濡れ、|冷たく、|一つの|ガス灯が|瞬いているだけだった。

- サン=テティエンヌ(Saint-Étienne)はフランス中部、ロワール県の工業都市です。
19世紀から20世紀にかけて、フランスを代表する自転車・武器・鉄鋼の製造拠点
特に自転車産業が盛んで、フランスの自転車メーカーが多く集まっていた
労働者階級の街として知られる
アデルが「サン=テティエンヌで別の自転車メーカーを知っていた」と言うのは、彼女がフランス各地を渡り歩いてきたことを示しています。パリ、ベルリン、オーステンド、そしてサン=テティエンヌ。||さまざまな町でさまざまな男と関わってきた、|倦怠感漂う|彼女の|過去を|さりげなく|示す|一言です。
↩︎ - 「カテドラル通り(rue de la Cathédrale)は、リエージュ市内の実在する通りです。
名前の通り、サン=ランベール大聖堂(現在は広場)の周辺に位置する商店や飲食店が並ぶ、市の中心的な通りの一つ
↩︎ - モンダン映画館(Cinéma Mondain)は、リエージュ市内に実在した映画館です。「Mondain」はフランス語で「社交界の」「洗練された」という意味で、当時のベルギーでは映画館にこうした優雅な名前をつける慣習がありました。
↩︎


