死んだガレ|第六章 壁の上の密会

死んだガレ氏

『Brille Editor System ver.8』用の『BESファイル』を、ZIPファイルに圧縮して公開しています。(2026年4月5日現在未完成)

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「まだ|何も|出ないか?」


「オボル(Obole)!1


「さっき|言った|言葉は|何だ?2


「プレパラティフ(Préparatifs )、|準備という|意味だと|思います。||ティフ(Tifs)の|部分が|欠けていて、|ティオン(tion)かも|しれません」


メグレは|溜め息を|つき、|肩を|すくめ、|涼しい|部屋を|出た。||朝から、|痩せた|赤毛の、|しわだらけの|顔に|北国人らしい|無感動な|表情を|浮かべた|長身の|青年が、|テーブルに|向かって|屈み込み、|修道士でさえ|気力を|くじかれそうな|作業に|取り組んでいた。

ジョゼフ・モエルスという|名で、|なまりが|フランドル|出身であることを|物語っていた。

司法鑑識局の|研究室に|勤めるこの|男は、|メグレの|依頼で|サンセールに|やってきて、|死者の|部屋に|腰を|落ち着け、|アルコールランプという|変わった|道具を|含む|機器類を|並べていた。

朝の|七時から、|警部が|突然|入ってくるか、|イラクサの|小道に|面した|窓から|身を|乗り出すときを|除いて、|ほとんど|顔を|上げなかった。


「何もないか?」


「あなたに」


「え?」


「今、|あなたに、|という|言葉を|見つけました。||でも、|s|の|文字が|欠けています」


モエルスは|薄い|ガラス板を|テーブルに|広げ、|ランプで|温めた|液体の|糊を|少しずつ|塗り重ねていた。||時折、|暖炉まで|歩いていき、|焼け焦げた|紙の|切れ端を|そっと|つまんで|板の|上に|置いた。

プロジェクト知識から62ページのテキストを確認して翻訳します。


灰は|もろく、|砕けやすく、|崩れかけていた。||それを|水蒸気で|包んで|柔らかくするのに、|時には|五分も|かかった。||そうして|ようやく、|ガラスに|貼りつけることが|できた。

向かいに|座った|ジョゼフ・モエルスの|前には、|本物の|携帯|実験室ともいえる|道具袋が|あった。||炭化した|紙の|切れ端の|中で|一番|大きいものでも、|七、八センチ|ほどしかなかった。||一番|小さいものは|もはや|塵も|同然だった。

オボル、|プレパラ、|あなたに……

二時間の|作業の|成果は|それだけだった。||しかし、|メグレとは|違って、|モエルスは|焦ることなく、|暖炉の|中身の|およそ|百分の|一しか|調べていないことを|気に|かける|様子も|なかった。

長い|あいだ、|金属的な|光沢を|帯びた|大きな|紫色の|蠅が、|彼の|頭の|まわりを|ぶんぶんと|飛び回った。||三度、|しわの|寄った|額に|止まったが、|追い払おうとする|仕草一つ|見せなかった。||気づいてさえ|いなかったかもしれない。


「困るのは、|あなたが|ドアから|入ってくると、|隙間風が|起きることです。||もう|一切れ、|灰を|飛ばされて|しまいました」


「わかった。||窓から|入る」


冗談では|なかった。||本当に|そうした。||書類は|まだ、|メグレが|仕事部屋に|選んだこの|部屋に|積まれたままで、|床に|広げられ|短剣で|刺し留められた|衣類にも|誰も|手を|触れていなかった。

警部は|自分が|依頼した|鑑定の|結果を|早く|知りたくて|しかたなく、|待つあいだ、|じっとして|いられなかった。||十五分ほど、|頭を|垂れ、|両手を|後ろに|組んで、|日当たりの|良い|小道を|行ったり来たり|するのが|見られた。||それから|窓枠を|またいで|部屋に|入り、|日焼けして|脂ぎった|肌を|拭いながら|唸った。


「遅いな」


モエルスには|聞こえていたのだろうか。||その|手つきは|相変わらず|マニキュア師のように|丁寧で、|不規則な|輪郭の|黒い|染みで|覆われていく|ガラス板だけを|気に|かけていた。

プロジェクト知識から63ページのテキストを確認して翻訳します。


メグレが|落ち着かなかったのは|主に、|何もすることが|なかったからで、|むしろ|犯行当夜に|燃やされた|書類の|鑑定結果が|出るまでは、|何も|手をつけまいと|していたからだった。

樫の木の|葉が|全身に|光と|影の|斑模様を|踊らせる|小道を|歩きながら、|同じ|考えを|際限なく|繰り返していた。


『アンリと|エレオノール・ブールサンが|ガレを|駅へ|向かう前に|殺した|可能性がある。||エレオノールが|恋人の|出発後に|一人で|殺しに来た|可能性もある。||それから、|この壁と|この鍵の|問題がある。||おまけに、|ガレが|恐ろしいほど|用心深く|隠していた|手紙の主、|ジャコブという|人物もいる』


十度も|格子戸の|錠前を|調べに|行ったが、|新たな|発見は|なかった。||それから、|エミール・ガレが|よじ登った|壁の|箇所を|通りかかったとき、|突然|決断し、|上着を|脱いで|右足の|つま先を|石の|最初の|継ぎ目に|かけた。

体重は|百キロ|あったが、|それでも|垂れ下がった|枝を|つかむのに|苦労は|しなかった。||枝を|手にした|途端、|後は|楽に|登りきることが|できた。

壁は|不規則な|野石を|積んで|漆喰を|塗ったもので、|頂上には|煉瓦が|一段、|縦に|並べて|置かれていた。||苔が|生い茂り、|丈夫な|草まで|生えていた。

メグレは|その場所から、|虫眼鏡で|何かを|解読|しようとしている|モエルスの|姿を|はっきりと|見ることが|できた。


「何か|新しいことは?」


「sと|読点が|一つ」


頭の上には、|もはや|樫の木では|なく、|敷地内に|幹を|そびえ立たせた|巨大な|ぶなの木の|葉が|茂っていた。

警部は|ひざまずいた。||壁は|幅が|狭く、|バランスに|自信が|なかったからだ。||左右の|苔を|調べ、|うなった。


「おや、|おや」


大した|発見では|なかった。||苔が|石の|擦り傷の|真上の|一か所だけ、|踏み荒らされ、|部分的に|むしり取られているのを|確認しただけで、|他の|場所は|どこも|そうなっていなかった。

プロジェクト知識から64ページのテキストを確認して翻訳します。


苔は|もろく、|実際に|試してみて|わかったことだが、|それが|エミール・ガレが|壁の上を|歩き回らなかったこと、|どちらの|方向にも|一メートルさえ|走らなかったことの|絶対的な|証拠と|なった。


『敷地の|側に|降りたかどうか、|それが|問題だ』


この場所は|もはや|厳密な|意味での|公園では|なかった。||おそらく|多くの|木々に|隠れていたために、|物置として|使われていた。

メグレから|十メートルほどの|ところに、|空の樽が|積み重なっていた。||底が|抜けたものや|たがの|外れたものも|あった。||古い|瓶も|あり、|その|いくつかは|薬品の|瓶だった。||箱や、|状態の|悪い|草刈り機、|錆びた|道具類、|それから|雨に|濡れ、|日に|干され、|土に|まみれて|みじめな|姿を|さらした、|束ねられた|古い|娯楽雑誌の|山も|あった。

壁から|降りる|前に、|メグレは|自分の|真下、|つまり|ガレが|いた|場所の|地面に|何も|痕跡が|ないことを|確かめた。||壁に|傷を|つけないよう、|飛び降りると、|両手と|両足で|着地した。

サン=イレール邸の|別荘からは、|木々の|細かい|葉の|透き間から|いくつかの|明るい|斑点が|見えるだけだった。||モーターの|音が|唸っており、|メグレは|朝から、|それが|井戸から|家の|貯水槽へ|水を|汲み上げるためのものだと|知っていた。

ゴミが|多いせいで、|その|一角は|蠅だらけだった。||警部は|絶えず|手で|払いのけなければ|ならず、|そのたびに|不機嫌さが|増していった。


『まず|壁だ』


調べるのは|簡単だった。||内側も|外側も、|囲い壁は|春に|石灰が|塗られていた。||ところが、|エミール・ガレが|よじ登った|場所の|下には、|染みも|擦り傷も|一つも|なかった。||十メートル|四方に|足跡も|一つも|なかった。

一方、|樽や|瓶の|近くで、|警部は|一つの|樽が|二、|三メートル|引きずられて|壁の|根元に|立てかけられているのに|気づいた。||樽は|まだ|そこに|あった。||彼は|その|上に|登り、|ガレが|いた|場所から|ちょうど|十メートル|五十センチの|地点で|頭が|塀から|出た。

プロジェクト知識から65ページのテキストを確認して翻訳します。


その|場所から、|モエルスが|相変わらず|汗も|拭かずに|作業しているのが|見えた。


「何も|ないか?」


「クリニャンクール(Clignancourt)||でも、|もっと|良い|断片を|つかんだと|思います」


壁の上の|樽の|真上の|苔は|むしり取られては|いなかったが、|腕を|ついたときのように|押しつぶされていた。||メグレは|試してみて、|少し|離れた|場所でも|同じ|結果を|得た。


『つまり、|エミール・ガレは|壁に|登ったが、|公園の|側には|降りなかった。||一方、|敷地の|内側から|やってきた|何者かが|この|樽の上に|よじ登ったが、|それ以上は|登らず、|少なくとも|この経路で|敷地から|出ることは|なかった』


夜の|散歩者が|若い男女で|あったなら、|ほぼ|理解|できたかもしれない。||それでも、|内側に|残った|一人は、|せめて|樽を|もっと|連れの|近くに|引き寄せることも|できたはずだ。

しかし、|逢瀬の|問題では|なかった。||二人の|人物のうち|一人は|間違いなく|ガレで、|その性格とは|まったく|相容れない|この行為の|ために|わざわざ|上着を|脱いでいた。

もう一人は|チビュルス・ド・サン=イレール|だったのか。

二人の|男は|朝に|まず、|次いで|午後に|隠れることなく|会っていた。||暗闇の中で|もう一度|会うために|そのような|手段を|使うことにしたとは|考えにくかった。

しかも|十メートルも|離れて!||小声で|話しても|聞こえるはずが|なかった。


『二人が|別々に|来て、|一方が|先で|他方が|後|だったのかもしれない』


しかし、|どちらが|先に|壁に|登ったのか。||そして|二人は|本当に|出会ったのか。

樽から|ガレの|部屋までの|距離は|およそ|七メートル、|つまり|銃弾が|発射された|距離と|同じだった。3

メグレが|振り返ると、|庭師が|呆気にとられた|様子で|彼を|見ていた。

プロジェクト知識から66ページのテキストを確認して翻訳します。


「ああ、|お前か。||主人は|いるか?」


「釣りに|行っています」


「警察の|者だということは|わかっているな。||壁を|飛び越えずに|ここから|出たい。||イラクサの|小道の|突き当たりの|格子戸を|開けてくれないか」


「簡単です」|と|男は|言って、|その|方向へ|歩いていった。


「鍵は|持っているか?」


「いいえ。||見ていてください」


潜り戸に|着くと、|男は|ためらわずに|二つの|石の|間に|手を|差し込んだが、|驚いた|様子で|言った。


「これは|おかしい」


「どうした?」


「鍵が|ない。||去年、|ここから|切り倒した|三本の|樫の木を|運び出したとき、|自分で|戻しておいたのに」


「主人は|知っていたか?」


「もちろん」


「ここを|通るのを|見たことは|あるか?」


「去年以来、|一度も」


警部の|頭の|中で、|新たな|事件の|筋書きが|自動的に|浮かび上がった。||チビュルス・ド・サン=イレールが|樽の上に|よじ登り、|ガレに|向かって|発砲し、|格子戸から|回り込んで、|被害者の|部屋へ|飛び込む……

しかし、|それは|あまりにも|ありえない|話だった。||錆びた|錠前が|抵抗しなかったとしても、|二つの|地点を|結ぶ|道を|歩くのに|三分は|かかる。

そして|その|三分の|あいだ、|顔の|半分を|吹き飛ばされた|エミール・ガレは、|叫び声も|上げず、|倒れもせず、|ただ|ポケットから|ナイフを|取り出して|やってくるかもしれない|襲撃者に|備えていたというのか。

どこか|おかしかった。||格子戸が|きしんだように、|何かが|きしんでいた。||それでも、|物的証拠から|論理的に|導き出される|唯一の|仮説は|これだった。


『いずれにせよ、|壁の|向こうに|誰かが|いた』

67ページ

それは|確かな|事実だった。||しかし、|その|人物が|サン=イレールであることを|証明するものは|何も|なかった。||鍵が|なくなっていたことと、|不審者が|敷地内に|いたという|事実を|除いては。

一方、|エミール・ガレの|死に|深く|関わり、|彼の|死に|利害関係を|持ちうる|別の|二人が、|その|時|サンセールに|いて、|イラクサの|小道に|足を|踏み入れなかったという|確かな|アリバイは|なかった。||アンリ・ガレと|エレオノールの|二人だった。

メグレは|頬に|止まった|アブを|つぶし、|窓から|身を|乗り出した|モエルスを|見た。


「警部!」


「何か|新しいことは?」


しかし|フラマン人4は|すでに|部屋の|中に|消えていた。

クワ沿いに|回るかどうか|迷ったが、|メグレは|格子戸を|揺すってみると、|意外にも|開いた。


「これは|おかしい、|閉まっていない」|と|庭師は|錠前を|のぞき込んで|驚いた。


「なぜ?||こいつは|妙だな」


メグレは|庭師に、|自分が|警察だと|告げた。||そして|サン=イレール邸への|訪問について|他言しないよう|頼もうとした。||しかし|庭師の|顔を|見て、|あまりにも|頭が|足りないと|判断し、|余計な|口止めをして|かえって|ややこしく|なるのを|恐れて|やめた。


「なぜ|呼んだんだ?」|と|彼は|少し|後で|モエルスに|尋ねた。


モエルスは|ろうそくに|火を|灯し、|ほぼ|全面が|黒く|覆われた|ガラス板を|透かして|見ていた。


「ジャコブという|人物を|ご存知ですか?」|と|満足げに|頭を|反らして|自分の|作業の|全体を|眺めながら|尋ねた。


「もちろん!||それで?」


「それだけです。||燃やされた|手紙の|一つが|M・ジャコブという|署名でした。」


「それだけか?」


「ほぼ。||方眼紙に|書かれていて、|手帳か|台帳から|破り取ったものです。||この|性質の|紙から|見つかったのは|わずかな|単語だけで、|『Absolument(絶対に)』という|語、|少なくとも|そう|思いますが、|最初の|二文字が|欠けていて。||『Lundi(月曜日)』という|単語も」


メグレは|眉を|寄せ、|パイプの|吸い口を|歯で|くわえながら|続きを|待った。


「次は?」

68ページの翻訳です。


「『prison(牢獄)』という|単語が|二度|下線を引いて|あります。||もっとも、|紙片が|欠けていて、|プリゾニエ(prisonnier、囚人)か|プリゾニエール(prisonnière)かも|しれません。||それから|ニュメラ(numéra)という|断片が。||この頭文字で|始まる|単語は|一つしか|思い当たりません。||ニュメレール(numéraire、現金)です。||ニュメラトゥール(numérateur、分子)の|話では|なさそうですから。||さらに|別の|箇所に|2万という|数字が|あります。」


「住所は?」


「さっき|申し上げました。||Clignancourt(クリニャンクール:パリ18区にある地区)||残念ながら|単語の|順序を|復元するのは|無理です。」


「筆跡は?」


「筆跡は|ありません。||タイプライターです。」


タルディヴォンは|いつのまにか|メグレに|自ら|給仕するのを|習慣にしていた。||そのやり方は、|わざとらしい|慎み深さと、|わずかばかりの|馴れ馴れしい|仲間意識を|混ぜ合わせたものだった。


「警部、|電報です!」と|彼は|ノックの|前に|叫んだ。


モエルスの|謎めいた|作業が|気になって|仕方がなかったが、|警部が|ドアを|閉めようとしているのを|見て、|気さくな|調子で|尋ねた。


「何か|お持ちしましょうか?」


「結構」と|メグレは|電報の|封を|切りながら|ぴしゃりと|言った。


電報は|パリ司法警察からで、|メグレが|いくつかの|照会を|依頼していた|ものだった。||こう|書かれていた。

エミール・ガレに|遺言なし。||遺産は|サン=ファルジョーの|家屋(動産含み十万フラン相当)と|銀行預金三千五百フラン。||オロール・ガレは夫が|一九二五年に|アベイユ生命で|契約した|三十万フランの|生命保険を|受領。||アンリ・ガレは|木曜日より|ソヴリノス銀行に|復職。||エレオノール・ブールサンは|パリ不在。||ロワール地方に|避暑中。

「なるほど!」と|メグレは|ぼやいた。||しばらく|虚空を|見つめてから、|モエルスの|方を|向いた。
「保険の|問題について|詳しいか?」

69〜70ページを翻訳します。


「場合によります」と|モエルスは|控えめに|答えた。||ピンスネー5(鼻眼鏡)が|あまりに|きつく|食い込んでいるため、|顔全体が|引きつって|見えた。


「一九二五年に、|ガレは|四十五歳を|超えていた。||それに|肝臓病まで|あった。||三十万フランの|生命保険に|入るには、|毎年|いくら|払わなければ|ならなかったと|思う?」


モエルスの|唇が|声もなく|動いた。||二分と|かからなかった。


「年に|約二万フランです。||それどころか、|保険会社に|リスクを|引き受けさせるのも|容易では|なかったはずです。」


警部は|憤然とした|目を|肖像写真に|向けた。||写真は|相変わらず|暖炉の|上に|あり、|かつて|サン=ファルジョーの|ピアノの|上に|置かれていたときと|同じ|角度を|保っていた。


「二万か!||月に|二千フランしか|使わなかったのに。||つまり、|ブルボン王朝の|支持者たちから|苦労して|搾り取った|金の|ほぼ|半分を|保険料に|充てていた|わけだ。」


肖像写真から|視線を|移すと、|今度は|床に|広げられた|黒い|ズボンに|目が|止まった。||型崩れして、|膝の|あたりが|てかてかに|光り、|だらしなく|伸びきっている。

そして|メグレは|マーヴ色の|絹のドレスを|身に|まとい、|宝飾品を|つけ、|すっぱい|声で|話す|ガレ夫人の|姿を|心に|浮かべた。

思わず|肖像写真に|向かって|こう|言いたくなるところだった。


『それほど|妻を|愛していたのか?』


やがて|肩を|すくめ、|まばゆい|陽光が|当たる|壁の|方を|向いた。||ちょうど|一週間前、|エミール・ガレが|上着を|脱いで|シャツ姿で、|ベストから|糊づけした|胸当て6を|はみ出させながら|よじ登った|あの壁だ。


「まだ|灰が|残っている」と|モエルスに|幾分|疲れた|声で|言った。
「そのジャコブ氏について|もう少し|何か|見つけてくれ。||聖書のジャコブしか|知らないと|言った|阿呆は|いったい|誰だ?」

そばかすだらけの|顔をした|少年が|窓枠に|腕を|もたせかけて、|にんまりと|笑っていた。||テラスから|男の声が|気だるそうに|命じた。


「みなさんの|お仕事の|邪魔を|するんじゃない、|エミール!」


「ほう、|こちらにも|エミールが|いる!」と|メグレは|ぼやいた。||「こっちの|エミールは|ちゃんと|生きているがな。||あの|エミールと|来たら……」


しかし|彼は|自分を|抑え、|肖像写真を|見ずに|部屋を|出た。

  1. オボル(obole)はもともと古代ギリシャの小額硬貨の名前です。フランス語では転じて「わずかな喜捨・寄付」という意味で使われます。
    この作品の文脈では、ガレが王党派の地方貴族たちを騙すための手紙の中で使っていた言葉です。「ブルボン王家復辟のために、どうかわずかばかりの寄付を」といった調子で書かれた詐欺の勧誘文に使われていたわけです。
    日本語に訳すなら「御芳志」「献金」「わずかな寄付」といったところが近いでしょう。 ↩︎
  2. オボルプレパラティフは、どちらも暖炉の焼け残った紙片からモースが解読した単語というだけで、別々の手紙から出てきた言葉です。
    「オボル」はガレが王党派貴族に送った詐欺の勧誘状に使われていた語で、「プレパラティフ(準備)」はヤコブ氏から届いた脅迫がらみの手紙に含まれていた語と考えられます。
    モエルスが次々と断片を解読しながらメグレに報告していく中で、たまたま続けて出てきた二つの単語、ということです。 ↩︎
  3. メグレの推理を整理します。
    状況の整理
    壁を挟んで二か所に痕跡があった。
    外側(小道側):ガレが壁をよじ登った跡。苔が踏み荒らされ、むしり取られていた。
    内側(敷地側):何者かが樽の上に乗って壁に腕をついた跡。苔は押しつぶされているだけで、むしり取られていない。
    二つの重要な事実
    ガレは壁に登ったが、敷地側には降りなかった。
    敷地内の人物は樽に登ったが、壁を越えて外には出なかった。
    メグレの疑問
    二人は壁越しに向かい合っていたが、距離は十メートル。小声では会話できない。なぜこんな方法をとったのか。
    もし二人が別々に来たなら、どちらが先だったのか。そして本当に出会ったのか。
    最も不気味な事実
    樽からガレの部屋までの距離は約七メートル。これは銃弾が発射された距離と完全に一致する。つまり、敷地内の人物が樽の上から壁越しにガレを狙い撃ちした可能性が浮かび上がる。 ↩︎
  4. フラマン人(Flamands)とは、ベルギー北部のフランドル地方に住む、オランダ語系の言語(フラマン語)を話す人々のことです。
    モエルスの場合、フラマン訛りのフランス語を話す人物として描かれています。ベルギー人でありながらパリの司法警察の鑑識機関に勤めているわけです。
    シムノン自身もベルギーのリエージュ出身で、フランス語圏とオランダ語圏が混在するベルギーの文化的背景をよく知っていました。モエルスにフラマン人の設定を与えたのは、おそらく自身の出自と無縁ではないでしょう。フラマン人気質として几帳面で粘り強い、という印象があり、それがモエルスの仕事ぶり——焼け紙の解読を黙々と何時間も続ける——とよく合っています。
    ↩︎
  5. ピンスネー(pince-nez)は、耳にかける蔓(つる)がなく、鼻の付け根を挟んで固定するタイプの眼鏡のことです。
    フランス語で「鼻を挟む」という意味で、19世紀から20世紀初頭にかけてヨーロッパで広く使われていました。蔓がないぶん顔に密着させる必要があるため、モエルスの描写にある「あまりにきつく食い込んでいるため顔全体が引きつって見えた」という表現が生きてきます。
    日本語では「鼻眼鏡」とも呼ばれます。
    ↩︎
  6. フランスの男性の正装についての描写です。
    当時のフォーマルな服装では、シャツの胸の部分に「プラストロン(plastron)」と呼ばれる、糊で硬く仕上げた白い胸当てをつけていました。タキシードや燕尾服に合わせる、胸元だけが白く固い、あのスタイルです。
    ガレはベスト(チョッキ)の上から上着(ジャケット)を羽織るのが通常ですが、壁をよじ登るために上着を脱いだため、ベストの前開きからその糊づけした胸当てがはみ出して見えていた、という描写です。
    重労働とは無縁な、小市民的な格式ばった身なりの男が、必死に壁をよじ登っているという、滑稽さと哀愁が入り混じった場面を際立たせる描写になっています。
    実用性はほとんどありません。純粋に礼装のための装飾です。
    もともとの起源は、シャツ全体を毎回洗濯・糊づけするのが手間だった時代に、人目に触れる胸の部分だけを白く清潔に見せるための工夫として生まれました。
    糊で硬く仕上げることで、胸元がぴしっと整って見え、フォーマルな印象を与えます。逆に言えば、硬くて動きにくく、着心地は決してよくありません。
    ガレの描写の文脈では、肝臓病を抱えた老いた詐欺師が、そんな窮屈な礼装のまま夜中に壁をよじ登っているという場面で、その滑稽さと悲哀をいっそう強調する小道具として機能しています。
    ↩︎