はじめに
点字は表音式である。
この点について異論はないはずだ。
にもかかわらず、点訳の現場ではしばしば「音として自然か」「一息で読めるか」という視点が後景に退き、文法的・制度的な区切りが優先される。
このねじれは、技術の問題ではない。
日本型保守が持つ「制度一本足打法」という思考様式の問題である。
制度一本足打法とは何か
ここで言う「制度一本足打法」とは、次のような構造を指す。
- 正しさの根拠が制度に一元化される
- 制度外の試行は、内容以前に「扱えない」とされる
- 検証や実験は、公式制度の内部でのみ許される
- 公式でないものは「混乱」「危険」「公にするな」と判断される
重要なのは、中身が検討されないことだ。
正しいかどうかではなく、制度に属しているかどうかだけが判断基準になる。
点字は表音式なのに、なぜ発話が軽視されるのか
点字が表音式であることは、理屈としては共有されている。
しかし運用においては、
- 文法文節
- 拍数規則
- 機械的な分かち
が前面に出る。
これは「音を軽視している」のではない。
音という可変で個体差のある要素を、制度が扱えないからである。
結果として、
表音式で書いているが、
判断基準は視覚言語的
という矛盾が常態化する。
発話文節という視点が「危険視」される理由
発話文節を基準にすると、必ず次の問題が生じる。
- 力点はどこか
- 一息で処理できるか
- 話者の声はどうか
これらは、
- 個別性が高い
- 文脈依存が強い
- 判断に責任が生じる
つまり、制度が一本足で立てなくなる。
だから、
- 原理としては触れない
- しかし現場では黙認する
- 名前を付けない
という二重構造が生まれる。
視覚障碍者を「守る」という名目
制度一本足打法は、しばしばこう正当化される。
視覚障碍者を混乱させないため
弱い立場の人を守るため
しかしこれは、当事者を判断主体として扱わないという選択でもある。
- 読みにくいと言う権利
- 比較する権利
- 感想を持つ権利
それらは、制度の側で先に封じられる。
これは保護ではなく、管理である。
ハイブリッドラボという立ち位置
本サイトで行っているハイブリッドラボば、
- 制度を否定しない
- 公式規範を置き換えない
- 他者に強制しない
その代わりに、
- 発話文節
- 力点
- 読みの身体感覚
を基準に、個人の責任で作品を作る。
これは改革でも対抗でもない。
制度の外に、別の足場を置く行為である。
日本型保守の中での現実的選択
日本型保守の社会では、
- 正面衝突は消耗を生む
- 原理の提示は拒否されやすい
その中で取り得る最も現実的な選択は、
静かに作り、
公開し、
継続する
ことである。
制度を説得しなくていい。
許可もいらない。
作品が読まれるかどうかだけが、唯一の検証になる。
おわりに
制度一本足打法は、安定する。
だが、発展しない。
点字が本来持っていた「音として読む」という前提は、制度の都合で抑え込まれてきた。
それを回復する試みは、制度内では困難だ。
だから私は、制度の外で書く。
趣味として、責任を引き受けて。
その記録を、Via Lexica に残す。

「制度は尊敬に値する。だが、思考まで預ける必要はない。」

