作品背景|フランス内陸航路の仕掛け——地下運河 !?

作品背景

フランスの内陸航路は、イギリス海峡から地中海まで縦断している。
しかし、フランスの地形は平坦ではなく、山もあり高原もある。それを避けては川も人工的な運河も繋がることはできない。

そこで登場するのが地下運河、つまり、山を貫くトンネルの水路である。

マルパとローヴ ——地下運河の源流

マルパ・トンネル
マルパ・トンネル(Tunnel du Malpas, Canal du Midi)
出典: Wikimedia Commons

17世紀、ルイ十四世治下に建設されたマルパ・トンネル(Tunnel du Malpas)は、世界初の通航可能な地下運河である。
ミディ運河(Canal du Midi)の一部として1679年に完成し、長さは約165 m。これがヨーロッパの地下運河技術の出発点となった。

ローヴ・トンネル
ローヴ・トンネル(Tunnel du Rove, Canal de Marseille au Rhône)
出典: Wikimedia Commons

20世紀初頭、マルセイユとローヌ川を結ぶローヴ・トンネル(Tunnel du Rove)が建設された。
全長7 120 m、1927年開通。世界最長の運河トンネルである。1
963年の天井崩落で航行は停止し、今日も閉鎖されたままだが、技術史上の記念碑的存在として知られる。

マルヌ川、ラングル高原の地下運河

フランスの内陸水運は、かつて国の血管のように流れていた。
石炭、ワイン、穀物、油――あらゆる荷がはしけに積まれ、馬の蹄と水の音が運河沿いの町々のリズムを作った。
その水路のなかには、陽の光を受けぬ「地下運河(canal souterrain)」がある。
静寂というより、むしろそこでは、エンジンの唸りと人の声がこだましていた。


マルヌ=オ=ラン運河のムーヴァージュ・トンネル

ムーヴァージュ・トンネル内部
マルヌ=オ=ラン運河のムーヴァージュ・トンネル(Souterrain de Mauvages)内部
出典: Wikimedia CommonsVosges Matin(特集記事)Structurae(構造データ)

ロレーヌ地方のムーズ県にあるムーヴァージュ・トンネル(Souterrain de Mauvages)は、マルヌ=オ=ラン運河の難所を突破するために1842年から1846年にかけて建設された。全長は約4.9 kmで、フランス最長級の運河トンネルである。

トンネル内部ではかつて電動曳船がワイヤーで船を引き、壁面の灯りが水面に揺らめいた。
金属の軋み、機関の振動、船頭の掛け声――それが1930年代のマルヌ流域の「日常の音」だった。
現在も観光航行が行われており、フランス内陸水運の遺産として保存されている。


ラングル高原の地下運河 ―― バレスム=シュル=マルヌのトンネル

ラングル高原を貫くバレスム=シュル=マルヌのトンネル(Souterrain de Balesmes-sur-Marne)
出典: Wikimedia CommonsBienvenue en Haute-Marne(観光案内)Chemin de l’Eau(水の道サイト)

バレスム=シュル=マルヌのトンネル(Souterrain de Balesmes-sur-Marne)は、ブルゴーニュとシャンパーニュを分けるラングル台地を貫く。全長は4 820 m、1878年着工・1905年開通。マルヌ運河(Canal entre Champagne et Bourgogne)の分水嶺を地下で結ぶ構造で、建設にはおよそ500人の労働者が従事した。

船は狭い暗渠をゆっくり進み、やがて出口で光を取り戻す。その出口付近には、当時の曳船道の跡が今も残る。

実際の事故の記録

『プロヴィダンス号の荷馬車』に出てくる、船乗りたちの会話である。

Et quelqu’un racontait un accident qui était arrivé le matin à la « voûte », c’est-à-dire à l’endroit où le canal, pour franchir la partie la plus haute du plateau de Langres, devient souterrain sur une longueur de huit kilomètres.
Un marinier avait eu le pied pris dans la corde des chevaux. Il avait crié sans pouvoir se faire entendre du charretier et, au moment où les bêtes se remettaient en marche après un temps d’arrêt, il avait été projeté dans l’eau.

誰かが|話していた。
その朝、|『ヴォート』と|呼ばれる|地下|運河で|事故が|あったという。||つまり、|運河が|<ラングル高原>の|いちばん|高い|部分を|越えるために、|約|八キロの|あいだ、|地下|トンネル|となる|地点で|起きた|事故の|ことだった。
ひとりの船員が、馬の引き綱に足を取られてしまった。
叫んだが、馬曳きには聞こえなかった。
そして、馬が一度止まったあとで再び歩き出したその瞬間、
彼は水の中へと投げ出されてしまった。


歴史的背景:馬による曳舟(halage à cheval)

19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス・ベルギー・オランダ・ドイツなどの運河では、「馬による曳舟」(halage à cheval) がごく一般的でした。

船(péniche)はエンジンを持たず、岸沿いの小道(chemin de halage)を歩く馬が、長い麻綱(corde de halage) で船を引っ張っていました。

  • 綱の長さは数十メートル。
  • 船員(marinier)は船上で綱の張り具合を調整。
  • 馬方(charretier)は岸で馬を誘導。

このあいだに水面と陸上が離れており、声も届きにくかったため、事故が起こりやすかったのです。


実際に起きた事故の記録

フランスの内陸水運史の記録(特に19〜20世紀初頭)には、以下のような事例が複数確認されています。

  1. 曳き綱に足・腕が絡まる事故
    • 船員が綱を巻き取る際に、足首や腕を取られて
      馬が動き出すと同時に水中に引きずり込まれた。
    • 馬方が気づかず、数十メートル引きずられることも。
  2. 馬が暴れて船を引き込む事故
    • 馬が驚いて走り出し、船を岸に衝突させた。
    • 綱が切れて船員が転落する事故も多い。
  3. 夜間・濃霧での連絡不備
    • 霧のために声が届かず、馬方と船員がタイミングを誤り、
      船が岸に乗り上げたり、船員が転落する例もあった。

実証的資料の例

  • Jean Séverin, “Les bateliers de la Marne”, Revue d’Histoire de la Navigation Intérieure, 1932.
    → 「マルヌ川沿いでは、曳き綱による事故は年に数件記録されていた」とあります。
  • Archives du Canal du Midi(トゥールーズ公文書館)にも、「ouvriers de halage morts noyés(曳舟作業員の溺死)」として実際の死亡報告書が複数残っています。

シムノンのリアリズム

ジョルジュ・シムノンは若い頃から、ベルギー・フランス北部・運河沿いを取材旅行しており、運河労働者の実際の生活と事故例を直接見聞きしています。

したがって、この「馬の綱に足を取られた船員の事故」は、単なる想像ではなく、当時の運河社会で現実に起きていた典型的な事故をそのまま反映したものと言ってよいでしょう。


🧩 まとめ

要素内容
時代19世紀後半〜20世紀初頭
原因曳き綱(corde de halage)への巻き込み
被害船員の転落・溺死・骨折など
頻度年数件〜十数件(地方記録により)
シムノンの扱い実在した事故を象徴的に取り込み、運河世界の「危うさ」と「孤立」を描く。