11拍を超える補助動詞
ポパンガは、|彼女の|ことを、|いつも|欠かさず|家まで|送り届けていました。
「送り届けていました」
11拍、7泊基準に抵触する。
「送り届けて|いました。」
過去形という補助動詞に力点が移り、区切る理由になるだろうか?
この場合、11拍でも読み手の負担にはならず、区切る理由にならない
「7拍基準」は万能ルールではない
- 7拍基準は
👉 区切り候補を検討し始めるための警戒線 - 超えたら必ず切る上限ではありません
なぜ「送り届けていました(11拍)」は耐えられるのか
内部構造が単純で予測可能
「おく・り・と・ど・け・て・い・ま・し・た」
- 動詞語幹+補助動詞
- 意味の流れが一直線
- 分岐がない
👉 読み手は途中で迷わない。
拍は多いが、処理は軽い。
文全体のリズムがすでに刻まれている
ここまでに、
- 短い拍の区切りが連続
- 呼吸が整えられている
👉 最後の「送り届けていました」は
まとめとして一気に流す役割。
ここを切ると、
- クライマックスが分断される
- 逆に読みづらくなる
「11拍の重さ」と「情報の重さ」は一致している
この述語は、
- 単なる動作報告ではない
- 習慣・人間関係・距離感を一括で背負っている
👉 意味的に“重い”情報が、長さを持って現れている。
これは負担ではなく、納得できる重さです。
逆に、11拍でも切るべき場合
比較として。
- 抽象語が連なる
- 読み直しが必要
- 文の途中で解釈が揺れる
- 〜していることだった
- 〜しているという認識だった
👉 この場合は、どこかで区切らないと読み手の負担が重い。
11拍=処理負荷が高い
→どこかで 区切る意味がある。
→いるの前に限らず、どこに力点があるか?で判断する。
区切る場合の一例
- 〜していること|だった(名詞句のまとまりに力点)
- 〜している|という|認識だった(動詞句のまとまりに力点)
判断基準を一文で言うと
拍数ではなく、
「途中で立ち止まるかどうか」
- 立ち止まらない → 切らない
- 立ち止まる → 切る
7泊基準は、日本人の感覚に染み付いた「日本語の5−7−5のリズム」から、立ち止まる警戒線という目安にすぎない。
👉 7拍を超えると、無意識に「まだ続くのか?」という予測が走る。
それが「警戒線」になる。
最終整理
7拍基準とは、日本語話者の身体感覚に基づく「立ち止まって確認するための警報音」。
鳴ったら確認する。
必ず止まれ、ではない。
- ✔ 11拍でも OK
- ✔ 述語が一体化している
- ✔ 文の流れを支えている
- ✘ 拍数だけで切る必要はない
