アイリーン・アドラーは悪女か?
アイリーン・アドラーは、しばしば「ホームズを出し抜いた唯一の女性」として語られてきました。
映像化や二次創作では「ホームズが恋した女性」「妖婦のような悪女」というイメージが広まり、今日に至るまで根強く残っています。
しかし原典を丁寧に読むと、そこに現れるのはまったく異なる女性像です。
原典を読む ― 手紙に記された真意
事件の終盤、アドラーが残した手紙には次の一文があります。
“The King may do what he will without hindrance from one whom he has cruelly wronged.”
(王は、自らひどく裏切った相手から妨げられることなく、好きなように振る舞えるでしょう。)
彼女は王を「残酷に裏切った」と認識しつつも、復讐ではなく「妨害しない」と宣言しました。
ただし「再び私を傷つけるなら、その時は写真を使う」と条件を添え、写真を脅迫ではなく「防御手段」として保持したのです。
王との関係 ― 捨てられ、危害を加えられた女性
ボヘミア国王は結婚のためにアドラーを切り捨て、さらに過去を消そうと盗賊や間者を差し向けました。
アドラーにとっては単なる「別れ」ではなく「裏切り+危害」でした。
だからこそ写真を返すことはなく、自らの尊厳を守るために手元に残したのです。
通俗的イメージ vs 原典の姿
| 見方 | 通俗的イメージ (シャーロッキアンや映像化で広まった像) | 原典に即した姿 (今回の翻訳で私に見えた像) |
|---|---|---|
| 立場 | ホームズを出し抜いた「悪女」 | 自立した知性ある女性 |
| ホームズとの関係 | 唯一の恋心を抱かせた女性 | 恋ではなく、稀に見る人物としての敬意 |
| 王との関係 | 元愛人で、写真を脅しに使う女 | 裏切られたが、復讐せず誠実にけじめをつけた女性 |
| 写真の扱い | 王を脅迫するための切り札 | 再び危害を加えられないための「防御手段」 |
| 最終的な選択 | 王を翻弄した「妖婦」的存在 | 弁護士ノートンと結婚し、庶民的な幸福を選んだ誇り高い女性 |
こうして並べると、「悪女」というよりも “気高さと冷静さを持った現実的な女性” という印象が強まりますね。
だからこそホームズは彼女を「the woman」と特別に呼んだ、と納得できます。
ボヘミア国王が誠実であれば ——起こらなかった事件
私は、アドラーはそもそも国王を本気で脅すつもりはなかったと思います。
王が最初から誠実に別れを告げていれば、写真は「返す」こともできたのかもしれません。
しかし実際には、泥棒やスパイを差し向けて彼女を追い詰めたため、アドラーは身の危険を感じて「返却」ではなく「保持」と「脅迫」に踏み切ったのではないでしょうか。。
つまり「写真問題」を生んだのは、王の不誠実さと力に頼ったやり方そのものだったと思うのです。
自らの人生を選ぶ ― ノートンとの結婚
アドラーは弁護士ノートンとの結婚を誇らしげに報告します。
権力ある王ではなく、庶民的な愛と幸福を選んだのです。
「王妃」にはならずとも「本当の愛」を得た——この選択が彼女の気高さを物語っています。
さらに彼女は、まさか自分が執拗に狙われていたとは真剣には考えていなかったようです。
But then, when I found how I had betrayed myself, I began to think. I had been warned against you months ago.
・・・・
Yet, with all this, you made me reveal what you wanted to know.
Even after I became suspicious, I found it hard to think evil of such a dear, kind old clergyman.
しかし、|自分で|ボロを出したと|気づいてからは、|考え|はじめました。||数か月も|前から、|あなたに|用心せよと|警告を|受けて|いたのです。
・・・・
警戒|するように|なってからも、|あんなに|親切で|やさしい|牧師|さんに|悪意が|あると|見破ることは|困難でした。
アイリーン・アドラーの健気さ
ホームズの後を追って、自分がホームズから狙われていると確信した後、彼女は愛する夫のいる「テンプル」に行きました。。
Then I, rather imprudently, wished you good-night, and started for the Temple to see my husband.
それから、|私は|すこし|軽はずみにも、|あなたに|『おやすみなさい』と|声を|かけ、|<テンプル>へ|夫に|会いに|出かけました。
そしてホームズに狙われている恐怖から、夫と共に慌てて姿を消しました。
そこには冷酷な策略家ではなく、追い詰められながらも愛する夫にを頼りに必死に身を守ろうとする健気な女性の姿が浮かび上がります。
The furniture was scattered about in every direction, with dismantled shelves and open drawers, as if the lady had hurriedly ransacked them before her flight.
家具は|いたるところに|散らかり、|取りはずされた|棚や、|開いた|引き出しが|並んでいた。||まるで|女性が|急いで|逃げ出す|前に、|慌てて|ひっくり|返したかの|ようだった。
ホームズの評価 ― “the woman” の意味
事件後、ホームズは彼女を「the woman」と呼び続けます。
これは恋心ではなく、数多の女性の中でただ一人、特別に敬意を払う存在という意味です。
美貌と知性、気高さと、そして健気さ——それらがホームズの記憶に深く刻まれました。
結論 ― 美しく聡明なヒロイン
アイリーン・アドラーは「悪女」ではありません。
裏切られ、危害を受けながらも復讐せず、自らの愛と人生を選んだ女性です。
王が誠実であれば、この事件は起こらなかったでしょう。
だからこそ、彼女の美貌と知性は輝きを増し、ホームズの心に「the woman」として永遠に残ったのです。


