« L’auto à turbocompresseur doublait une charrette de paille, disparaissait à l’horizon. »
—— Georges Simenon, La Nuit du carrefour (1931)「ターボ・コンプレッサーのその車は、干し草を積んだ荷馬車を追い抜いて、すでに地平線の彼方へと消えていたのだ。
夜の田舎道を切り裂く閃光――『三つの十字路(La Nuit du carrefour, 1931)』の一節に登場する 「auto à turbocompresseur(ターボ付きの自動車)」が、当時、普及していた技術だったのか?
実は当時の車で、現実に普及していたかどうかというよりも、 近代の速度と力を象徴する表現だったようだ
1930年頃の「過給」技術—— ターボチャージャーとスーパーチャージャーの実情と普及状況を簡潔に整理する。
二つの「過給」方式の誕生
過給(supercharging)は、燃焼室へ空気を圧縮して送り込み、その爆破力を向上させてエンジン出力を高める考え方である。
方式は大きく二つ。
- スーパーチャージャー(compresseur mécanique):エンジンの回転軸で直結駆動する機械式。 反応が早く当時の材料技術でも成立しやすかった。
- ターボチャージャー(turbocompresseur):排気タービンで圧縮機を回す方式。 理論効率は高いが、高温・高回転に耐える材料と潤滑・冷却が課題だった。
第一次大戦と航空機技術の進歩
実は、ターボの着想自体は、20世紀初頭に確立していたが、第一次世界大戦期に航空用として研究が進展。
高高度での酸素不足を補って、航空機エンジンの爆発力を維持するための必要性が技術開発を後押しした。ただし民生用の自動車用としてはコスト・耐久・制御の壁が厚く、 戦間期を通じて「実験・試験」の段階にとどまっていた。
スーパーチャージャーの黄金期(1920〜30年代)
一方で機械式過給は、1920年代後半〜1930年代初頭のグランプリ・レースで全盛を迎える。
メルセデス・ベンツやブガッティ、アルファ・ロメオなどが「コンプレッサー車」で覇を競い、 市販の高性能車にも波及した。
- 例:メルセデス・ベンツSSK(1928)――機械式コンプレッサーで当時屈指の大出力。
- 例:ブガッティType 35――レースを席巻した名車で、過給機の象徴的存在。
当時の読者・観客にとって「コンプレッサー車」は、技術と富、都市の速度文化を体現する存在だったようだ。
1930年前後のターボ:まだ「幻の技術」
1930年頃のターボチャージャーは、主に航空機・大型ディーゼル(船舶・鉄道)の領域で試験・採用が進む段階だった。
実は、量産乗用車への本格普及ははるか後年(1960年代以降)である。
したがって小説に見える 「ターボ車」は、現実の民生車の一般像ではなく、シムノン特有のスピードの象徴としてのレトリックと読むのが妥当だ。
田舎道を切り裂く「速度」の象徴
1930年代初頭のフランスでは舗装路網の整備は途上で、農村では馬車や荷車が現役だった。 その静けさの中を、「過給された近代の猛スピード」が轟音と光を残して走り去る。
そんなフランスの田舎で、現実には販売されていないターボタージャーを備えたスポーツカーが走り去っていくことは、ありえなかったのである。
もしかしたら、シムノンは、ターボとスーパーチャージャーをごっちゃにしてい疑惑さえ感じられる。スポーツカーを表現するとしたら、その違いなど微々たる間違いに過ぎないだろう
もちろん、この十字路の交通量が極めて多かったといういうことは、後の事件の真相に近づくフラグであったことは、ミステリーファンにとってはありえないとはいえ、納得できる描写だったかもしれない。
しかし、そのあり合えない風景を描写したシムノンの一節は、単なるミステリートリックや社会背景を越えて、近代と伝統/都市と田園の衝突という当時の空気を 一瞬で凝縮しているのだろう。
つまり、読者の視界はヘッドライトの消滅とともに暗闇へ戻り、 「On ne voyait plus rien.(もう何も見えなかった)」という余韻を残すとを狙ったのである。
技術系としてのまとめ
とはいえ、技術革新は、技術系の人間としては、シムノンの世界を冷静にまとめておこう。
- 1930年頃:スーパーチャージャー=実用・普及(レース/一部市販)、ターボ=実験・航空・大型機関中心。
- 小説の「ターボ車」は、スピード記号としての比喩性が高い(民生乗用車の一般像ではない)。
- 場面効果:過給=速度の象徴が、田舎道の静けさと強烈な対比を生む。
参考
- Alfred Büchi, 内燃機関のターボ過給に関する初期特許(1905)。
- 戦間期のSAE論文・各社技報(航空用ターボの高高度性能保持)。
- Mercedes-Benz Classic:SSK Kompressor(1928)ほか、戦間期コンプレッサー車の資料。
- Georges Simenon, La Nuit du carrefour(1931)。

