ベルティヨン式人相記録とは
十九世紀の末から二十世紀初頭にかけて、ヨーロッパの警察は「個人を科学的に識別する」新しい方法を手に入れた。
それが、ベルティヨン式人相記録(le système Bertillon) である。
アルフォンス・ベルティヨンという人物
アルフォンス・ベルティヨン(Alphonse Bertillon, 1853–1914)は、フランス警察の事務官から身を起こした実務家であり、世界で初めて身体測定による個人識別(anthropométrie judiciaire)を体系化した人物である。
1882年、彼はパリ警視庁で「同姓同名による誤認逮捕」を防ぐため、身長・腕・頭・耳などの身体寸法を精密に計測し、写真と人相記録を組み合わせた識別カードシステムを考案した。
これが後にベルティヨナージュ(Bertillonnage)と呼ばれる。
科学としての「人相記録」—— Signalement Anthropométrique
ベルティヨン法は、単なる写真や似顔絵ではなく、人間の身体を定量化と専門用語で記述する試みだった。
各項目には統一された観察語彙があり、電報や書類で国際的に共有できるように設計されていた。
主な記録項目の例
| 区分 | 項目 | 意味 |
|---|---|---|
| Taille | 身長 | センチメートル単位で計測 |
| Base | 頭の傾き(base horizontale, inclinée) | 顔の角度 |
| Sinus dos | 背の曲がり具合 | 直立か湾曲か |
| Saillie / Cloison | 額・鼻の突出 | 横顔の形 |
| Oreille | 耳の形状(bordure, lobe, antitragus) | 耳輪・耳たぶ・突起など |
| Face | 顔全体の形(ovale, rectiligne, biconcave) | 卵形、角張り、くぼみ等 |
| Sillons | 顔の筋や皺 | 明瞭・分離などの特徴 |
| Couleur des cheveux et des yeux | 髪と瞳の色 | 標準化された色名で分類 |
この詳細な観察語彙をもとに、警察官は「言葉だけで顔を再構成できる」ほどの記録を残した。
それが、シムノンが『ピエトル・ル・レットン』の中で引用した、機械的で冷たい「Signalement de Pietr-le-Letton」である。
『ピエトル・ル・レットン』の人相書き
ベルティヨン式の美学は、いわば「人体の地図化」であった。
それまで曖昧だった「顔の特徴」を、まるで地形図のように線・角度・寸法で表す。
limite forme rectiligne ― 顔の輪郭は直線的
particularité sillons séparés ― 顔のしわの線が分かれている
base horizontale ― 頭部は水平姿勢
antitragus saillant ― 耳の突起が目立つ
こうした専門語の連なりは、当時の警察にとっては「科学の言葉」だった。
しかし文学の中では、むしろ人間を数字と線に還元する不気味さとして響く。
ベルティヨン法の衰退と遺産
二十世紀初頭、指紋識別法(dactyloscopie)の登場により、ベルティヨン法は急速に姿を消す。
しかし、彼の発想――「人間の身体を客観的データとして記録する」考え方は、現代の身分証明・生体認証(biométrie)にまで受け継がれている。
また、ベルティヨンが導入した「顔の正面写真と横顔写真の組み合わせ」すなわち マグショット(mugshot) の形式は、今日まで警察写真の基本として残っている。

