🇫🇷作品背景|右手と左手の迷信(ヨーロッパ篇)

メグレ夫妻の一場面から

「あなた、右手でドアを開けてるわね。」
これは彼には珍しいことだった。彼はいつも左手でドアを開けていた。
そしてマダム・メグレは、自分が迷信深いことを隠しもしなかった。

静かな家庭の一幕にすぎないこの会話には、実は古くからの「右」と「左」にまつわる象徴が潜んでいる。
マダム・メグレの“迷信”は、単なる気まぐれではなく、ヨーロッパ文化に深く根を下ろした感覚なのだ。


右手──秩序と祝福の象徴

古代以来、右手は「正しさ」「力」「加護」を表してきた。

  • ラテン語の dexter は「右」を意味し、
    同時に「器用な」「巧みな」という語義をもつ。
    → 英語の dexterous(器用な)や adroit(巧妙な)はこの語源による。
  • 聖書では、神は「右の手で祝福し」、「キリストは神の右に座す」とされる。
  • 日常の所作でも、右手で握手し、右足で家に入ることが「吉」とされた。

右手は秩序・清浄・社会性を象徴し、
人が他者や世界と調和して生きる方向を示す手と考えられてきた。

左手──不吉と内面の象徴

これに対し、左手にはしばしば逆の意味が与えられてきた。

  • ラテン語 sinister は「左」を意味し、
    同時に「不吉な」「邪悪な」という意味をもつ。
    現代英語でも「sinister」は「不吉な」「悪意のある」の意。
  • 中世ヨーロッパでは「悪魔と契約するのは左手」とされ、
    左利きの者はしばしば忌避の対象となった。
  • 宗教画では、右手が祝福を与える一方で、
    左手は「拒絶」「隠された力」「裏の世界」を示す。

しかし19世紀以降になると、
左手は「心臓に近い手」「感情・誠実の象徴」とも見なされるようになり、
単なる“悪”ではなく“内面的な真実”の象徴へと転じていく。


メグレとマダム・メグレの象徴性

メグレは常に左手でドアを開けていた。
それは彼の習慣であり、秩序と日常を守るための無意識の動作である。
その彼が、ふと右手で開けた──。
マダム・メグレはそれを「何かの兆し」と感じ取る。

  • 右手=外へ向かう変化・運命の転換
  • 左手=いつもの安定した日常

彼女の迷信深さは、言い換えれば直観の鋭さでもあり、
その一言が、のちに起こる“非日常=事件”への小さな前兆となる。


右と左の文化史的対比(まとめ)

象徴項目右手 (Right)左手 (Left)
語源dexter(正しい・器用)sinister(左・不吉)
象徴秩序・清浄・社会・光直観・感情・影・内面
宗教的意味祝福・神の力退けられた者・隠された力
日常の所作握手・誓い・正しい道無意識・逆運・心臓に近い
近代以降の変化公的・理性的私的・感情的・誠実

あとがき

メグレの物語に漂う静かなリアリズムは、こうした象徴や迷信が、当時の人々の心にまだ生きていた時代を背景としている。
「右手でドアを開ける」
そのわずかな仕草の中に、日常から非日常への“扉が開く”気配を、ジョルジョ・シムノンはさりげなく忍ばせているのだ。