メグレ夫妻の一場面から
「あなた、右手でドアを開けてるわね。」
これは彼には珍しいことだった。彼はいつも左手でドアを開けていた。
そしてマダム・メグレは、自分が迷信深いことを隠しもしなかった。
静かな家庭の一幕にすぎないこの会話には、実は古くからの「右」と「左」にまつわる象徴が潜んでいる。
マダム・メグレの“迷信”は、単なる気まぐれではなく、ヨーロッパ文化に深く根を下ろした感覚なのだ。
右手──秩序と祝福の象徴
古代以来、右手は「正しさ」「力」「加護」を表してきた。
- ラテン語の dexter は「右」を意味し、
同時に「器用な」「巧みな」という語義をもつ。
→ 英語の dexterous(器用な)や adroit(巧妙な)はこの語源による。 - 聖書では、神は「右の手で祝福し」、「キリストは神の右に座す」とされる。
- 日常の所作でも、右手で握手し、右足で家に入ることが「吉」とされた。
右手は秩序・清浄・社会性を象徴し、
人が他者や世界と調和して生きる方向を示す手と考えられてきた。
左手──不吉と内面の象徴
これに対し、左手にはしばしば逆の意味が与えられてきた。
- ラテン語 sinister は「左」を意味し、
同時に「不吉な」「邪悪な」という意味をもつ。
現代英語でも「sinister」は「不吉な」「悪意のある」の意。 - 中世ヨーロッパでは「悪魔と契約するのは左手」とされ、
左利きの者はしばしば忌避の対象となった。 - 宗教画では、右手が祝福を与える一方で、
左手は「拒絶」「隠された力」「裏の世界」を示す。
しかし19世紀以降になると、
左手は「心臓に近い手」「感情・誠実の象徴」とも見なされるようになり、
単なる“悪”ではなく“内面的な真実”の象徴へと転じていく。
メグレとマダム・メグレの象徴性
メグレは常に左手でドアを開けていた。
それは彼の習慣であり、秩序と日常を守るための無意識の動作である。
その彼が、ふと右手で開けた──。
マダム・メグレはそれを「何かの兆し」と感じ取る。
- 右手=外へ向かう変化・運命の転換
- 左手=いつもの安定した日常
彼女の迷信深さは、言い換えれば直観の鋭さでもあり、
その一言が、のちに起こる“非日常=事件”への小さな前兆となる。
右と左の文化史的対比(まとめ)
| 象徴項目 | 右手 (Right) | 左手 (Left) |
|---|---|---|
| 語源 | dexter(正しい・器用) | sinister(左・不吉) |
| 象徴 | 秩序・清浄・社会・光 | 直観・感情・影・内面 |
| 宗教的意味 | 祝福・神の力 | 退けられた者・隠された力 |
| 日常の所作 | 握手・誓い・正しい道 | 無意識・逆運・心臓に近い |
| 近代以降の変化 | 公的・理性的 | 私的・感情的・誠実 |
あとがき
メグレの物語に漂う静かなリアリズムは、こうした象徴や迷信が、当時の人々の心にまだ生きていた時代を背景としている。
「右手でドアを開ける」
そのわずかな仕草の中に、日常から非日常への“扉が開く”気配を、ジョルジョ・シムノンはさりげなく忍ばせているのだ。

