『スタイルズ荘の怪事件』には、登場人物たちの発言や仕草の中に、当時のイギリス社会の価値観が自然に映し出されています。ジョン・キャベンディッシュが、義母の再婚相手アルフレッドを指して「absolute outsider」と批判する場面もその一つです。
The fellow is an absolute outsider, anyone can see that.
He’s got a great black beard, and wears patent leather boots in all weathers!
あいつ|絶対|よそから|来た|人間だって|ことは、|誰だって|わかるよ。||黒々とした|大きな|ひげを|生やしていて、|どんな|天気でも|エナメルの|革靴を|履いてるんだ!

農村社会と「よそ者」
第一次世界大戦前後のイギリス農村社会では、地主層や古くからの家柄が地域社会の核を成していました。そこでは「どこの出身か」「どの家の血筋か」が、信頼の基盤となります。外部からやって来た人間は、たとえ富や魅力を備えていても「地元の価値観を共有しない異物」と見なされやすい立場に置かれました。
服装が語る社会的違和感
ジョン・キャヴェンディッシュはアルフレッドを評して「黒い大きな髭をはやし、どんな天候でもエナメルのブーツを履いている」と批判します。
この外見は単なる奇抜さではなく、当時の社会的な感覚を強く反映しています。
黒い髭 ― 時代遅れで怪しい印象
第一次世界大戦を経た1920年代のイギリスでは、都会的で進歩的な男性の姿は「髭を剃った清潔な顔」でした。
大きく黒々とした髭はむしろ古風で時代遅れに見え、特に地方の保守的な社会では「胡散臭い」「よそ者」と受け取られる要素になりました。
ジョンが彼を不審視した背景には、この社会的感覚があります。
エナメルのブーツ ― 都会的で新しい印象
一方で、光沢のあるエナメル靴は地方ではまだ目立つ存在で、都会的な洗練や流行を感じさせるものでした。
アルフレッドの都会性は、カヴェンディッシュ家の人々からの不信を招いただけではありません。エミリー夫人自身にとっては、むしろ信用に足る資質として映ったと考えられます。
エミリー夫人から見た「都会的魅力」
- 夫人は慈善事業や社交活動に熱心で、広い交際範囲を持っていました。
- その活動を支えるには、都会的な礼儀作法や人脈を備えた秘書が不可欠です。
- アルフレッドの装いと立ち振る舞いは、農村社会では浮いても、社交界ではむしろ頼もしい「適任者」と見えたはずです。
キャヴェンディッシュ夫人がアルフレッドを秘書として信用したのは、この「都会風の身なり」に安心感や信頼を見出したからだと考えられます。
二重の印象が生んだ対立
こうしてアルフレッドの外見は、
- 息子の目には「時代遅れで怪しい人物」
- 夫人の目には「都会的で頼れる人物」
という相反する印象を同時に与えました。
この「都会と田舎」「新しさと古さ」の二重性が、アルフレッドをめぐる不信と信頼の対立を際立たせ、物語に緊張感を加えています。
作品世界における意味
クリスティは、アルフレッドの格好を通じて彼を「怪しげで場違いな都会人」と位置づけました。それは単なる人物描写ではなく、読者にも「財産目当ての成り上がり者ではないか」という先入観を抱かせる仕掛けになっています。服装ひとつが、社会的背景と夫人の懐に入り込む狡猾な人物評価を結びつける重要な手がかりなのです。
そして、田舎社会における「よそ者」性と、夫人にとっての「都会的魅力」は、裏表の関係にあります。この視点の違いこそが、アルフレッドをめぐる緊張関係を生み、物語に深みを与えているのです。