🇫🇷作品背景|1930年代のセーヌ川のタグボート

ハイブリッドラボ

一日の終わりを告げる音

The last tug had gone by, carrying green and red lights and towing three barges.
「最後のタグボートが通りすぎた。緑と赤の灯をつけ、3艘のはしけを引いていた。」

メグレの部屋の窓の外を、ゆっくりとセーヌ川をくだっていく小さな曳船――。
その一文は、1930年代のパリに流れていた生活のリズムそのものを伝えている。

昼の喧騒が終わり、バスもメトロも止まるころ、最後のタグボートだけが、静かな川面を赤と緑の灯をともして進んでいく。
それは、都市の眠りへの「合図」であった。

セーヌ川と都市物流の時代

1930年代のセーヌ川は、まだ「街の背骨」であり「運搬の動脈」だった。
鉄道やトラック輸送が発達する以前、パリの生活物資や建材は多くが川を経由して運ばれていた。
セーヌ川には、大きな貨物船などは入ってこれない。

  • 穀物・石炭・砂利などを積んだはしけ(barge)
  • それを曳航するタグボート(tugboat)

が昼夜を問わず行き交っていた。

日中は荷上げや荷降ろしで賑わい、夜は照明を落とした船が静かに川をすべる。
その「最後のタグ」が通り過ぎるとき、パリの一日はようやく終わりを迎える。

灯の色 ― 緑と赤の意味

シムノンが描く “green and red lights” は、実際の航行灯の色を正確に写している。

  • 右舷:緑灯(starboard)
  • 左舷:赤灯(port)

この二色の灯りは夜の川で船の向きと進行方向を知らせる信号であり、セーヌの霧や薄闇の中では、点滅する光だけが人々にその存在を知らせた。
作中では、静まり返った街の闇に浮かぶその光が、まるでパリの心臓の最後の鼓動のように描かれている。

タグボートの姿と音

当時のタグボートは、小型の蒸気またはディーゼル船で、黒い煙突と平たい船体を持ち、低いエンジン音を響かせながら進んだ。
彼らはしばしば三〜四そうのはしけを連ね、ゆっくりと流れに逆らいながら荷を運んだ。
夜になると、「ゴトン、ゴトン」という鉄の鎖の音と、遠くでうなるようなエンジンの響きが、セーヌの両岸に眠る街にかすかに届いたという。

シムノンのパリとタグボートの象徴

メグレの視線の先を通りすぎる“the last tug”は、単なる背景描写ではない。
それは、

  • 一日の終わり、
  • 都市の静寂、
  • そして人間の疲労や孤独、

を象徴する小さな存在である。
昼間は人と車であふれるパリも、夜になると残るのは、川を行くタグボートの音と灯だけ。その静けさの中に、メグレの人間観察のまなざしが沈んでいく。

最後のタグボートが映し出すパリ

1930年代のセーヌ川におけるタグボートは、単なる労働船ではなく、都市の呼吸を象徴する存在だった。
シムノンはその日常的な情景を一行で描き、パリという街の生きた時間と静かな夜の重みを伝えている。

「最後のタグボートが通りすぎた」
この一文の背後には、1930年代パリの労働と休息、光と影、そしてセーヌ川をめぐる人々の暮らしそのものが息づいている。