ジャップ主任警部とヒース巡査部長
推理小説を読むとよく登場するのが「警部(Inspector)」や「Sergeant(巡査部長)」です。
しかしイギリスとアメリカでは、この呼び方が必ずしも同じ階級を意味するわけではありません。アガサ・クリスティのポワロ作品に出てくる「ジャップ主任警部(Chief Inspector)」と、ヴァンダイン『ベンスン殺人事件』で捜査主任となる「ヒース巡査部長」とを比べると、その違いが浮かび上がります。
イギリス(スコットランドヤード)の「警部(Inspector)」
ホームズ作品における Inspector
19世紀末のロンドン警視庁では、Inspector(警部) が現場責任者でした。
レストレード警部やグレグスン警部などがその典型で、部下の Sergeant(巡査部長) や Constable(巡査) を率いて事件の捜査にあたります。
ホームズと並んで登場するのは、こうした現場担当の警部でした。
クリスティ作品における Chief Inspector
一方、1920〜30年代のクリスティ作品では、スコットランドヤードから来るのは Chief Inspector(主任警部)です。
本来この階級は Inspector の上位で、署や課をまとめる管理職的な位置づけですが、小説の中では現場に出て直接捜査を指揮する役割を担っています。ジャップ主任警部はその代表例で、ポワロと並ぶ相棒として描かれます。
なぜ、ただの警部ではなく、上位職の主任警部が相棒になったのか?
この背景には、ポワロとジャップの最初の出会いがベルギーでの国際犯罪捜査だった、という設定が関係しています。
その時に一緒に捜査にあたった二人の友情が、この後、ポワロがイギリス亡命した後も事件捜査に関わることになるという流れができました(長編第1作『スタイルズ荘の怪事件』)。
さらに、スコットランドヤードから海外に派遣されるのは主任警部級以上の上位職であり、国際的な事件に対処する権限と経験を持つ人物でした。
クリスティはジャップを「 Chief Inector」 とすることで、ポワロが第1次大戦後の国際的犯罪に通じた探偵であることを強調し、二人の協力関係に説得力を与えたと考えられます。
つまり、ホームズがまだ第1次大戦前の大英帝国のロンドンという一都市の中で活躍するのに対し、ポワロの活動範囲として、フランスまで及ぶドーヴァー海峡を挟んだ壮大なドラマを生み出すことができたのです(長編第2作『ゴルフ場殺人事件』)
アメリカの 警察組織
ニューヨーク市警(NYPD)の Sergeant / Lieutenant
一方、アメリカ警察では Inspector はもっと上位の階級で、本部クラス(警視〜警視正級)にあたり、現場にはめったに出ません。
実際に現場を仕切るのは Sergeant(巡査部長)や Lieutenant(警部補級) です。ヴァンダイン作品のヒースは肩書としては Sergeant にすぎませんが、NYPD本部の指名を受け、事実上の捜査主任として事件を担当します。
地方検事とNYPD
さらに大きな組織的違いとして、ヴァンスの相棒は地方検事マーカムです。
イギリスでは警察が独自に捜査を主導するのに対し、アメリカでは検察(District Attorney)が強い権限を持ち、警察を指揮して事件を進めることが多いのです。
そのためヒースは巡査部長という階級でありながら、地方検事の後ろ盾によって大規模な事件の捜査主任を務めることが可能になり、捜査権限や手柄争いまで含めたドラマを描き出しています。
ポイント
- ホームズ時代の Inspector(警部)は現場の責任者で、探偵の協力者として描かれた。
- クリスティ作品では Chief Inspector(主任警部)が現場に登場し、制度上は管理職でも物語では現場責任者として機能する。
- アメリカの Sergeant は階級的には下位だが、検事や本部の権限で捜査主任を任され、現場を仕切ることができる。
このようにイギリスとアメリカでは「現場に出てくる肩書き」や「組織的な背景」が異なり、読者に与える印象も変わってきます。
各国の警察階級比較
各国の刑事物フィクションに出てくる比較表です。
| イギリス(UK) | アメリカ(US) | 日本 |
|---|---|---|
| Chief Superintendent(警視長級) | Inspector(警視級〜警視正級) | 警視〜警視正(警察本部課長・部長クラス) |
| Superintendent(警視級) | Captain(警部級・署長) | 警部〜警視 |
| Detective Chief Inspector(主任警部)←ジャップ | Lieutenant(警部補級) 『刑事コロンボ』コロンボ | 警部 『相棒』杉下右京(水谷豊) |
| Detective Inspector(警部) ←レストレード | Sergeant(巡査部長級) ←ヒース | 警部補 『古畑任三郎』(田村正和) 『ストロベリーナイト』姫川玲子(竹内結子) 『MIU404』志摩一未(星野源)、伊吹藍(綾野剛) |
| Detective Sergeant(巡査部長) | Detective(刑事職) おそらくアメリカ映画の主役になるほとんどの刑事(私服警察官) | 巡査部長 『アンフェア』雪平夏見(篠原涼子) 『ハコヅメ〜たたかう!交番女子〜』藤聖子(戸田恵梨香) 『太陽にほえろ』山さん(露口茂) |
| Constable(巡査) | Police Officer / Patrolman(巡査級) 制服警察官 | 巡査(長) 『亀有公園前派出所』両津勘吉 |
ドラマの中で『警部どの』と呼ばれる「杉下右京」は、実際に事件の統括責任者である「課長クラス」で、制度上はほんとに格上だったんです。
イギリスのスコットランド・ヤードに研修に行っていたという設定もあり、時代が違えどジャップ主任警部と同格の国際犯罪も手掛けることができる職位であると考えられます。
さらにアメリカのコロンボ(Lieutenant=警部補〜警部級)や日本の古畑任三郎(警部補)なども現場で捜査責任者を務めますが、階級的には中堅にあたります。
(参考)世界の刑事物フィクションで1番の格上は?
実は、表にすると煩雑になるので出てきませんでしたが、フランスのメグレは Commissaire(警視、日本語訳では警部) であり、制度的には警部よりも一段格上の立場から捜査にあたる特別な存在です。
BBCのドラマでも「メグレ警視室」という個室を与えられており、内務大臣にも捜査について説明を求められる立場です。多くのパリ管区担当警部を従えて事件を解決に導きます。
フィクションに登場する刑事役の中では、日本では「杉下右京」(警部どの)がトップですが、世界的にはフランスのメグレが最も高位に位置づけられると言えるでしょう。


