ボヘミアンとボヘミア
シャーロック・ホームズの物語には「ボヘミア」という言葉が二度登場します。ひとつは『ボヘミアの醜聞』に登場する「ボヘミア王」。もうひとつは、ホームズ自身の性格を形容して使われる「Bohemian soul(ボヘミアン気質)」です。一見すると同じ意味のように思われがちですが、実際にはまったく異なる言葉であり、ときに「ボヘミア人=自由奔放な民族」という誤解を生むことさえあります。今回はその背景をたどってみましょう。
歴史的なボヘミア
ボヘミアとは、現在のチェコ共和国西部にあたる地域で、首都プラハを含みます。その歴史を時代順にまとめると次のようになります。
- 中世:ボヘミア王国として独立。神聖ローマ帝国内でも重要な地位を占める。
- 16世紀以降:ハプスブルク家の支配下に入り、オーストリア帝国領となる。
- 19世紀末(ホームズの時代):オーストリア=ハンガリー帝国の一部。
- 第一次世界大戦後(1918年):オーストリア=ハンガリー帝国崩壊により、チェコスロヴァキア共和国の一部となる。
- 現在:チェコ共和国西部として存続。
住民の大多数はスラヴ系のチェコ人でありながら、支配層や官僚はドイツ語を公用語とし、文化的にはドイツ圏に属していました。
👉 ボヘミア人はむしろ歴史的に抑圧され、独立心を育んできた民族であり、「自由奔放」などというイメージとは正反対だったのです。
「ボヘミアン」という言葉の誤解
それでは、なぜ「ボヘミアン=自由奔放」という意味が生まれたのでしょうか。背景にはロマ人(ジプシー)に対する呼び名の誤解がありました。
- 15世紀、ヨーロッパに現れたロマ人の一部がボヘミアを通過して西へ移動した。
- 彼らの中には ボヘミア王が発行した通行証(旅券) を持つ者もいた。
- そのため「ボヘミアから来た人々」と勘違いされ、フランスで Bohémiens(ボエミアン) と呼ばれるようになった。
ロマ人の放浪生活は「自由」「常識外れ」というイメージと結びつき、やがて芸術家や自由人を指す比喩へと発展します。けれども、ロマ人は従来のボヘミア人とは無関係でした。ボヘミア人からすれば、まさに「いい迷惑」な誤解だったのです。
ホームズの「ボヘミアン気質」
ホームズが「Bohemian soul」と形容されるとき、それは「社交を嫌い、自由に生きる性格」という比喩的な意味で使われています。ホームズとボヘミア人は関係はなく、芸術家や放浪者に近い気質を指しているだけなのです。
一方、『ボヘミアの醜聞』に登場するボヘミア王は、歴史的なボヘミアを背景にした架空の人物です。同じ「ボヘミア/ボヘミアン」という言葉でありながら、ひとつは地名に基づく歴史的設定、もうひとつは文化的に転用された比喩表現というまったく別の意味を持っているわけです。
おわりに
「ボヘミア王」と「ホームズのボヘミアン気質」はしばしば混同されますが、その背景にはヨーロッパの歴史的経緯と文化的な誤解があります。実際のボヘミア人は自由奔放な民族ではなく、抑圧に抗いながら独立心を育んできた人々でした。「ボヘミアン=自由人」というイメージは、ロマ人に対する誤称から派生した文化的な産物にすぎません。こうした背景を知ると、ホームズ作品がさらに奥深く楽しめるのではないでしょうか。

