同じ保守主義なのに話がかみ合わない!?
「保守」という言葉は、日本でも欧米でも日常的に使われている。
しかし両者は、同じ言葉で呼ばれているだけで、内実は大きく異なる。
この違いを意識しないまま議論すると、
- 話が噛み合わない
- 相手が「分かっていない」ように見える
- 最後は感情論になる
といった事態が起こりやすい。
本稿では、優劣や是非を論じるのではなく、
構造の違いだけを整理する。
それが、点訳研究で感じてきた違和感を位置づける手がかりになるからだ。
欧米型保守の基層
古代ギリシャ・ローマという「原理を語る文明」
欧米型保守の根は、近代やキリスト教だけにあるわけではない。
その基層には、すでに古代ギリシャ・ローマの思考様式が存在していた。
古代ギリシャでは、
- ロゴス(理屈・言語)による思考
- 公的な議論
- 正義や善を言葉で定義し、問い直す態度
が重視された。
古代ローマでは、
- 法の成文化
- 契約という概念
- 制度を理屈で説明し、検証する姿勢
が発達した。
重要なのは、
原理が外に書き出され、議論可能なものとして扱われていた点である。
キリスト教は「原理を一本化した」
キリスト教は、このギリシャ・ローマ的基盤の上に、
- 神の前の平等
- 普遍的倫理
- 超越的原理
を重ねた。
つまり欧米型保守においては、
原理はすでに
考え、語り、議論するもの
として存在していた
キリスト教はそれを否定したのではなく、一本化した。
そのため欧米では、
- 神の意志
- 理性
- 自然法
が、同じテーブルで論じられうる。
ここから、**原理に照らして制度を批判することも「保守的」**という感覚が生まれる。
日本型保守の基層
儒教──原理は「運用のための道徳」
一方、日本思想の基層は異なる。
日本に受容された儒教は、
- 統治の倫理
- 社会秩序の維持
- 役割と関係性の安定
として強く機能した。
しかしそこでは、
- 原理そのものを抽象化して問い直す
- 個人が原理を引き受ける
という方向には進みにくかった。
原理は、あった。しかも、明確に!
しかし、
守るもの
適用するもの
逸脱しないもの
であり、
公に問い直す意味での議論の対象ではなかった。
国学──原理を「語らない」ことで守る
国学は、儒教とは別の方向から日本的思考を形づくった。
- 普遍より固有
- 理屈より感受
- 言語化より沈黙
を重んじる姿勢である。
これは日本文化に深い厚みを与えたが、同時に、
原理を語らない
↓
原理が制度や慣行に埋め込まれる
という構造を生んだ。
結果として、
制度そのものが原理の代替物になりやすくなる。
原理と制度の扱いの違い
ここまでを整理すると、次のようになる。
- 欧米型保守
原理は
言語化され、議論され、制度を検証する基準 - 日本型保守
原理は
語られず、制度や慣行として保持される
この違いのために、
- 欧米では
「原理に立ち返れ」という批判が保守の内部で成立し - 日本では
「制度を壊すのか」という反発が先に立つ
同じ「保守」でも、守っている対象が違う。
点訳研究に現れるズレ
この構造は、点字・点訳の議論にもそのまま現れる。
点字は表音式である、という原理は共有されている。
しかし運用では、
- 制度化された規則
- 公式な分かち
- 前例
が判断基準になる。
これは偶然ではない。
原理を言語化して引き受ける文化が弱い社会では、
制度が原理の代役になる。
Via Lexica の立ち位置
Via Lexica は、
- 欧米型保守の原理主義にも与せず
- 日本型保守の制度主義にも従属しない
その中間で、
原理を自分で引き受け、
制度から距離を取り、
個人の責任で実践する
という立場を取っている。
これは折衷ではない。
日本型保守社会の中で、思考を止めないための現実的な選択である。
おわりに
日本型保守と欧米型保守は、どちらが優れているかという問題ではない。
ただし、
同じ言葉で呼び続ければ、誤解は必ず生じる。
この違いを意識したうえで、自分はどこに立つのか。
Via Lexica は、その思考の痕跡を残す場所である。

原理を語らぬ保守は、しばしば制度を信仰する。
それもまた、人間的だがね。

