1930年代のフランス人が抱く学者像の特徴
『オランダの殺人』の中で、メグレが初めてデュクロ教授に会った時の印象である。
A rien ! A l’ensemble ! Duclos appartenait à une catégorie d’hommes que le commissaire connaissait bien. Des hommes de science. L’étude pour l’étude ! L’idée pour l’idée ! Une certaine austérité dans les allures et dans la conduite de la vie, en même temps qu’une tendance aux relations internationales. La passion des conférences, des congrès, des échanges de lettres avec des correspondants étrangers.
何も特定の理由はないのだ!ただ、全体の雰囲気でそう感じたのだ!
デュクロは、メグレがよく知っている一種の人間に属していた。
いわゆる学問の世界の人間である。
学問そのもののために学問をし、観念そのもののために観念を追うタイプだ。
身なりにも生活ぶりにも、どこか禁欲的なところがあり、同時に国際的な交流を好む傾向がある。
講演や学会に駆け回り、海外の学者たちとの書簡のやりとりに情熱を燃やすような男だった。
——『オランダの殺人』第2章
学問のための学問
“L’étude pour l’étude. L’idée pour l’idée.”
『研究のための研究。観念のための観念』
このフレーズは当時の皮肉まじりの常套句です。
現実の社会問題や一般大衆から乖離した“象牙の塔”の住人、という意味を含んでいます。
学問そのものを目的化し、
・実務から離れ
・生活感が薄く
・人間関係は専門家同士の国際的ネットワーク中心
というイメージ。
国際主義・コスモポリタニズム
「国際会議」「海外との書簡交流」は、1930年代の“進歩的インテリ”の象徴でした。
ところが当時のヨーロッパは政治的緊張が高まり、国境を越えて活動する知識人は、しばしば猜疑心の対象になりました。
特にフランスでは、
・共産主義者
・平和主義者
・リベラル派の知識人
が国際会議や講演に積極的で、社会から横目で見られることも多かった。
個人生活の禁欲・質素さ
Simenon がここで描く “austérité”『厳格』 は、宗教的禁欲ではなく、知的生活に偏った無装飾の生き方のこと。
・服装に無頓着
・習慣が厳格
・生活は質素
・しかし精神活動だけは異常に活発
このタイプは、周囲から「近寄り難い」と思われやすい。
思想的な緊張の時代
1930年代の欧州は、
・ファシズム
・共産主義
・民族主義
・国際平和主義
がぶつかる時代。
知識人は“思想を持つ生き物”として政治的に色づきやすい存在でした。
そのため“internationalistes(国際派)”の学者には、微妙な警戒感が向けられたのです。
メグレと学者タイプの人間との関係
メグレは“庶民社会の刑事”であり、知識人に対して一定の距離感を持つ人物です。
彼はこのタイプを“よく知っている”と言い切っていました。
メグレの経験として
メグレは、「学者が事件に巻き込まれた」「学者が事件の鍵を握る」という案件に何度も触れてきました。
彼は“学者特有の思考の癖”を把握しています。
彼らの「抽象的な理屈」が、事件捜査では邪魔になる
学者は、
・論理
・観念
・抽象
に偏る。
しかし、事件捜査は
・感情
・金
・嫉妬
・利害
といった“泥臭い現実”で動く。
ゆえにメグレは、学者の抽象論と現場の現実とのズレを警戒している。
“あまりにも合理的すぎる人物”は逆に危うい
Simenon の世界では、理屈で自分を固める人物は、どこかで情緒の歪みを抱えているケースが多いのです。
メグレはその点を敏感に察知します。
『オランダの殺人』のデュクロの
「禁欲」「観念」「国際主義」「学会巡り」
この組み合わせには、
一見清潔だが、どこか掴みどころのない危うさがあると感じました。
■学者の“知恵の使い方”は、時に犯罪を複雑化させる
メグレは経験的に知っているのです。
学者タイプの人物は
・嘘をつくなら非常に巧妙
・自己正当化がうまい
・理屈で罪悪感を処理してしまう
という傾向があることを。
デュクロに対するメグレの警戒は、宗教や出身よりも、“学者というタイプ”に対する経験的な直感によるものでした。
・抽象的で
・現実感に欠け
・国際的で
・身の周りに無頓着で
・理屈で身を固め
・感情の微妙な揺れを隠しがち
このタイプは、事件において「何かを隠す場合、非常に巧み」だとメグレは知っているからです。

