作品背景|1930年代のフランス人が考える「北方諸国」

les pays du Nord(北方諸国)

1930年代のフランスで les pays du Nord(北方諸国)と言えば、現代の「北欧(Nordic)」とも、EU圏の「北の国々」とも微妙に異なる、独自の地理観が前提になっていた。
それは地図上の位置だけではなく、気候・文化・港湾交通・フランス語圏からの距離感などが織り交ざった、当時のフランス人特有の『北のイメージ』である。


オランダとベルギー

まず何より、フランス語圏の人々にとって最も身近な「北」は次の二国だった。

● オランダ(Pays-Bas)

港湾都市ロッテルダムやアムステルダム、北海の強い風、堤防と運河の国。
フランスから見れば、海運で密接に結ばれた「北の玄関口」である。

● ベルギー(Belgique)

文化的・言語的に近い。特にフランス語圏のワロン地方は、ほぼ“隣家の延長”として扱われる。
そのため、北へ向かう旅=まずベルギーを経由する旅という感覚が常に存在した。


その先に広がる「北ヨーロッパ」

1930年代のフランス語世界では、les pays du Nord はしばしば以下を含む広い表現として使われる。

● ドイツ北部(Allemagne du Nord)

ハンブルクやキールなど、北海に面した港湾都市。
気候風土はフランスの想像する「寒冷な北」の典型。

● デンマーク(Danemark)

地理的にも文化的にも、フランス人がイメージする“北の入口”。
当時は文学界・演劇界でデンマーク作品の紹介が盛んで、文化的距離がいまより近い。

● スウェーデン(Suède)

高い教育水準、福祉国家の萌芽、エキゾチックな森と湖の国というイメージ。
北方民族学や犯罪学の文献でも頻繁に登場した。

● ノルウェー(Norvège)

フィヨルド、漁業、北海。
「最果ての静謐な国」というロマンティックな位置づけが当時から強かった。


1930年代フランスにおける“北のイメージ”

当時の雑誌・旅行案内・犯罪学文献などを総合すると、フランス人の抱く北方諸国の特徴は次のようになる。

  • 寒冷で霧が多い気候
  • 港湾都市が発展し、海運と貿易が活発
  • 英語・ゲルマン語系文化圏に近い
  • 風景が静かで、緊張感を孕んだ異郷感がある
  • 犯罪や警察制度がフランスとは異なる“観察対象”になる

まさにメグレがデルフゼイルへ向かったときに感じた、“うっすらとした異国の緊張感”の背景は、この時代の北方イメージそのものと言える。


メグレ作品における「北方諸国」

『オランダの殺人事件』では、les pays du Nord は次の意味で使われている。

オランダを中心に、ベルギー・北ドイツ、そしてデンマークやスウェーデンにまで広がる北ヨーロッパ文化圏の総称。

講演旅行をする大学教授デュクロが巡る先として、
「現実的な距離感」「海路・鉄路の結節点」「文化的な北」の三つを満たした、実にフランス的な分類である。


まとめ:1930年代の“北方諸国”とは?

フランスを起点とするとき、 “北方諸国=オランダ・ベルギーを軸にした北ヨーロッパ一帯” という広い文化圏を指す表現である。

その広がりは、今日の「北欧」よりも柔らかく、
フランス語的な距離感で形づくられた“北の世界”と言える。