作品背景|エトワール・デュ・ノール「北極星号」

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エトワール・デュ・ノール「北極星号」

ジョルジュ・シムノン『怪盗レトン』(1931)の中で、警視メグレが受け取る三通目の電報に、一つの列車名が登場する。

Pietr-le-Letton embarqué compartiment G.263, voiture 5, à 11 heures matin dans l’Étoile-du-Nord, à destination Paris.
——「ピエトル・ル・レットン、午前十一時、北極星号の五号車、区画G263に乗車。行き先パリ。」

実は、この「Étoile-du-Nord(エトワール・デュ・ノール)」は、シムノンの想像上の列車ではなく、
実在した国際急行列車である。


パリと北欧を結ぶ国際急行

「エトワール・デュ・ノール(北極星号)」は、19世紀末から1939年まで運行していた国際列車で、
**パリ北駅(Gare du Nord)**を出発し、ブリュッセル、アントワープ、ロッテルダム、アムステルダムを結んでいた。

当時、フランス・ベルギー・オランダをまたぐ最速・最上級の旅客列車として知られ、欧州鉄道網の中でも特に重要な「北方ルート」を担っていた。

列車の車両は、「ワゴン・リ(Compagnie Internationale des Wagons-Lits)」社の製造による
青い寝台車と食堂車が連結され、国際的な外交官、実業家、そして…時にスパイや犯罪者までが利用した。


1930年代のヨーロッパにおける“動脈”

シムノンの『ピエトル・ル・レットン』では、この列車が象徴的な意味を帯びる。

物語の電報通信を追うと――

出発地発信者内容
クラクフ(ポーランド)ポーランド警察ピエトルがブレーメンへ向かった
ブレーメン(ドイツ)ブレーメン警察アムステルダム経由でブリュッセルへ
アムステルダム(オランダ)オランダ中央警察パリ行き北極星号に乗車

こうして、一人の男の足取りが、東欧から西欧へ、電報のリズムに合わせて浮かび上がる。
エトワール・デュ・ノールは、その「ヨーロッパの神経網」の最終区間として登場する。

L’Etoile-du-Nord devait rouler à cent dix à l’heure entre Saint-Quentin et Compiègne.
Pas d’arrêt à la frontière. Aucun ralentissement.
——「北極星号は|今ごろ、|<サン=カンタン>と<コンピエーニュ>の|あいだを、|時速|百十キロで|走っている|はずだ。国境でも|停車せず、|速度も|落とさない。」


列車がもたらすリアリズム

シムノンがこの実在の列車を登場させたのは、単に「交通手段」としてではない。

彼の筆致は、1930年代のヨーロッパに存在した“情報と移動のネットワーク”を描くことに向かっている。

・各国警察の連携を支える暗号通信 polcod
・そして、各国を結ぶ鉄道網 l’Étoile-du-Nord

電線と鉄路――この二つの線が、シムノンの初期メグレ作品の根幹を成している。
通信と移動、目に見えない網の上で、一人の男が世界を渡り、その足跡をメグレが追うのだ。


『北極星号』の終焉と記憶

第二次世界大戦の勃発とともに、エトワール・デュ・ノール号は運行を停止する。
しかしその名は、戦後も象徴的に使われ、後のThalys(タリス)高速列車の「北ヨーロッパ・ライン」の前身として位置づけられる。

今日の高速鉄道が描く地図の上には、かつての北極星号のルートが静かに重なっている。


一つの列車が描くヨーロッパ

『ピエトル・ル・レットン』における「エトワール・デュ・ノール」は、単なる移動の手段ではない。
それは、第1次大戦後のヨーロッパという大陸が、すでに一つの有機体として機能し始めていた時代の象徴である。

ストーブの前で電報を読むメグレの耳には、
遠く北方から響く列車の轟音が
かすかに届いていたのかもしれない。