地方検事マーカムの背後にあるニューヨーク政治
S.S.ヴァン・ダインの処女作『ベンスン殺人事件』は、地方検事マーカムの登場から始まります。彼は「独立・改革派(Independent Reform Ticket)」の候補として選ばれ、ニューヨーク郡地方検事に当選した人物として描かれます。ここには、当時のニューヨーク市の政治状況が色濃く反映されているのです。
タマニー・ホールとは?
「タマニー・ホール(Tammany Hall)」は、18世紀末に誕生したニューヨーク市の民主党系政治組織です。
- アイルランド系移民を中心に庶民の支持を固め、就職口や生活支援を提供する代わりに票を集めました。
- 19世紀から20世紀初頭にかけて、市政・警察・裁判所などを事実上支配しました。
- しかし同時に、汚職や縁故主義の温床として悪名を轟かせる存在でもありました。
反タマニーの周期的反動
ニューヨークの政治は、長らくタマニーの支配と、それに対する市民の反発の間で揺れ動きました。
- 有権者の不満が高まると「改革派(Reform)」が台頭し、選挙でタマニー候補を破ることがあります。
- しかし改革派の力は一時的で、やがて再びタマニーが勢力を盛り返す、という循環が繰り返されました。
- 作中に出てくる「periodical reactions(周期的な反動)」とは、この歴史的現象を指しています。
マーカム地方検事の意味
マーカムが「独立・改革派」から選ばれたという設定は、こうしたニューヨークの現実を反映しています。
- 「タマニー支配に対抗する改革派の検事」という立場は、読者にすぐ理解できるリアリティを与えました。
- 単に登場人物の背景というだけでなく、物語に「市民の正義 vs. 腐敗政治」という大きな文脈を付与しています。
ヴァンス探偵が皮肉やユーモアを飛ばす一方で、マーカムが公的な正義を担う人物として描かれるのは、この政治的背景と無関係ではありません。
まとめ
『ベンスン殺人事件』の舞台裏には、タマニー・ホールと改革派のせめぎ合いというニューヨーク特有の政治史が息づいています。
一見、推理小説とは関係なさそうな設定も、当時の読者には「おお、これはタマニーを揶揄しているな」と伝わったことでしょう。作品を現代から読み直すと、ヴァン・ダインがいかにリアルな背景を意識していたかが見えてきます。

