作品背景|1920年代アメリカ、ジャズ・エイジ——ベンスン殺人事件

ハイブリッドラボ

ヴァンスの皮肉

ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』の一節である。

“This chap Vollard,” he remarked at length, “has been rather liberal with our art-fearing country.
He has sent a really goodish collection of his Cézannes here. I viewed ’em yesterday with the proper reverence and, I might add, unconcern, for Kessler was watching me; and I’ve marked the ones I want you to buy for me as soon as the Gallery opens this morning.”

「この|ヴォラールと|いう人はね」しばらくして|彼は|言った。
「芸術を|恐れる|我が国に、|ずいぶん|気前よく|贈りものを|してくれたよ。||立派な|セザンヌの|数々を|運んできてくれた。||昨日、|ケスラーに|見張られながら、|敬虔に、|しかも|知らぬ顔で|眺めたんだ。||そして、|今朝|画廊が|開いたら|君に|買ってもらいたい|品に|印を|つけておいた」

ヴァンスが口にする「our art-fearing country(芸術を恐れる我が国)」という皮肉は、単なる言葉遊びではない。そこには、1920年代アメリカ文化の二面性大衆が熱狂した——「ジャズ・エイジ」と、伝統的な芸術への距離感——が鮮明に映し出されている。

芸術嫌いの国、アメリカ

ジャズ・エイジとは何か

第一次世界大戦後、アメリカは空前の繁栄を迎えた。自動車、ラジオ、映画が生活を変え、人々は豊かさとスピードを享受した。その象徴がジャズ音楽であり、夜のダンスホールや禁酒法時代のスピークイージー(秘密酒場)を彩った。ジャズは即興性とリズムの自由を武器に、若者の解放感を体現する音楽だった。

だが同時に、それは「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」と呼ばれる刹那的な享楽文化の象徴でもあった。保守的な人々には不道徳で退廃的に見え、芸術というよりも一過性の娯楽に過ぎないと考えられていた。

芸術嫌いの国

芸術嫌いの国、アメリカとは?

  • 歴史の浅さ:ヨーロッパには数百年の美術・音楽の伝統があったが、アメリカは建国から150年ほどしか経っておらず、芸術の積み重ねがまだ不足していた。
  • 実利主義の価値観:新大陸の国では開拓や産業、経済的成功が最優先され、芸術は「余裕のある人の道楽」とされがちだった。
  • 大衆文化の隆盛:ラジオや映画、ジャズなど、手軽に楽しめる娯楽が急速に普及し、美術やクラシック音楽は「高尚すぎるもの」として敬遠される傾向があった。
  • 移民社会の多様性:文化的背景が多様すぎて、国全体で共有する芸術伝統を育てにくかった。

このような土壌の中で、ヨーロッパの伝統芸術を重んじるヴァンスには、アメリカが「art-fearing country」(芸術を恐れる我が国=芸術嫌いの国、アメリカ)と映ったのである。

ジャズのイメージ

ジャズの発祥

ジャズの発祥は、19世紀末から20世紀初頭のアメリカ南部にさかのぼる。
黒人労働者の歌から生まれたブルース、跳ねるリズムが特徴のラグタイムといった音楽が融合し、ニューオーリンズで最初のジャズが形になった。1910年代にはシカゴやニューヨークに広がり、1920年代には全米の大衆文化を席巻するようになる。

1920年代のジャズ

「モダンジャズ」という言葉があるように、1920年代のジャズは我々がイメージするジャズとは音楽性も社会的な位置付けも大きく異なっていた。

  • ニューオーリンズやシカゴの酒場、禁酒法下のスピークイージーで演奏される「踊るための音楽」。
  • 即興演奏はあっても、芸術的探求より「ノリ」や「熱狂」が中心。
  • 若者の自由の象徴であり、保守層からは「退廃的」と見られることも多かった。

言い換えれば、当時のジャズは大衆娯楽の延長にあり、芸術の殿堂に飾られるものではなかった。だからこそ、ヴァンスは「芸術を恐れる我が国」と皮肉を言う余地があったのである。
ヴァンスの皮肉は、ジャズに熱狂し芸術を軽視する国民性への批判であると同時に、自らの審美眼を誇示する言葉でもあった。

現代のジャズのイメージ

今日「ジャズ」と聞くと、多くの人はビル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスに代表される モダン・ジャズ を思い浮かべる。洗練され、芸術的で、静かに耳を傾ける音楽——敷居の高さすら感じさせるジャンルだ。
もし、ヴァンスがそういった現代のアメリカのジャズを聴いたら、きっとそんな皮肉は言わなかったではないか。

光と影の二面性

ジャズ・エイジは、自由・繁栄・若さという「光」を象徴する時代である。だがヴァンスの目には、その背後にある「影」——芸術的伝統の未成熟、刹那的な享楽文化への偏重——が見えていた。
「our art-fearing country」という一言は、ヴァンスから見た「光と影」のコントラストを浮き彫りにする。探偵小説のセリフに過ぎないようでいて、そこには1920年代アメリカ文化そのものへの痛烈な批評が込められているのである。