イギリスには「戸籍制度」がない
日本では、結婚によって必ず夫婦どちらかの姓を選び、戸籍に記載されます。しかしイギリスには、日本のような「家単位の戸籍制度」は存在しません。
- 中世以来、出生・結婚・死亡は教会のパリッシュ・レジスター(教区簿)に記録されました。
- 1837年以降は国家の民事登録制度(civil registration)に一本化されます。
ただしこれは「個人の出来事の登録」にすぎず、「家族全員をひとまとめに管理する戸籍」ではありません。
姓は社会的慣習で変わる
イギリスでは、結婚しても法的に姓を変える義務はありません。
それでも20世紀初頭までは、社会的慣習として女性が夫の姓を名乗るのが当然とされていました。
したがってエミリーが「Mrs. Inglethorp」と呼ばれるのも、法律ではなく社会的マナーの反映です。夫の姓と「Mrs.」を組み合わせるのが、上流・中流社会の標準的な呼び方でした。
現代イギリスと夫婦別姓
現代のイギリスでは、姓の選択は完全に本人の自由です。
- 多くの女性はいまも夫の姓を選びますが、旧姓を保持する人も珍しくありません。
- 学者や作家など、職業上の名前を維持するために旧姓を使うケースも多いです。
- さらに、ダブルバレル姓(例:Smith-Jones)のように、両方の姓を並べて使う方法も一般的です。
つまりイギリスでは、制度的に「夫婦別姓」が最初から可能であり、日本のような「夫婦同姓の法的義務」自体が存在しないのです。
日本との違い
- 日本:1898年の民法制定以来、夫婦同姓を法律で義務化。戸籍制度に基づき、夫か妻どちらかの姓を必ず選ばなければならない。
- イギリス:戸籍制度はなく、姓の変更は慣習的な選択にすぎない。夫婦別姓・旧姓保持・複合姓など自由。
まとめ
『スタイルズ荘の怪事件』でエミリーが「ミセス・イングルソープ」と呼ばれるのは、当時のイギリス社会における自然な慣習を反映したものです。
しかし現代では、イギリスでは夫婦別姓や旧姓保持が当たり前のように認められており、日本の戸籍制度に基づく「同姓義務」とは大きく異なります。
この違いを意識すると、作品に登場する呼称の背後にある社会制度がより鮮明に見えてきます。
現在に日本でも、「選択的夫婦別姓」の議論があります。
今後、クリスティ自身の生きた時代の「女性の地位と姓名の慣習」についても、伝記や当時の社会史をもとに検証できれば、さらに深い考察につなげられるでしょう。

