【マイルス・デイヴィス】第1期黄金時代(1955~1959)

クール・ジャズ

ビバップの反動として1940年代後半に生まれた、白人寄りの傾向をもつジャズのジャンル。リラックスした軽いサウンドが特徴である。

クールの誕生

ジャズ界がビバップ隆盛に沸く1940年代後半、1948年までに3年間ビバップを演奏していたが、その未来に早くも限界を感じていたマイルス・デイヴィスはギレスピーやパーカーのようなスピードと音域に合わせるのに苦労し、代わりに楽器の中音域で演奏することを選んだ。そして、アレンジやアンサンブルを重視した9人編成の実験的グループを結成。その斬新な発想が高く評価され、大手Capitol Recordsから録音の機会を獲得。そのサウンドは、ギル・エヴァンス、ジェリー・マリガン、ジョン・ルイスによる洗練されたアレンジと知的で抑制されたアドリブを融合し、さまざまなアイデアが盛り込まれた。1950年代には、そのサウンドからインスピレーションを受けて、西海岸でウェストコーストジャズのムーブメントが起こるなど、新たな方向性を提示する大きなきっかけとなった。そして、全ての音源がまとめられて、1957年にリリースされたのが、このアルバム「Birth of the Cool」である。

1952年当時、デイヴィスは麻薬中毒の為レコーディングがままならなかったが、ブルーノートのアルフレッド・ライオンは彼をサポートした。1952年より録音を重ねていった。

ハードバップ

モダン・ジャズの一種。ニューヨークなどのアメリカ東海岸で、1950年代に始まり1960年代まで続いた演奏スタイルである。

ビバップの特徴であるコード進行に乗せたアドリブといった基本は一緒だが、特にソロのアドリブ演奏で、メロディアスに洗練された演奏スタイルにあるといわれ、よりフレーズが重要視される。

1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。

レコーディングは、1954年4月3日4月29日に、マイルス・デイヴィス・オールスターズ (Miles Davis All-Stars)」名義とされている。

1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。

バグス・グルーヴ

1954年に録音された2枚の10インチLP盤に2曲の別テイクを加えた編集盤である。

Bags’ Groove」の2つのテイクは、いずれも1954年12月24日のセッションから採られており、最初のバージョンはいち早く『Miles Davis All Stars, Volume 1』(PRLP 196) に収録されていた。「バグス」はヴィブラフォン奏者ミルト・ジャクソンのニックネームである。このセッションの際に録音された他の楽曲は、『Miles Davis and the Modern Jazz Giants』(PRLP 7150) にも収録された。アルバムの残りの曲は、同じ年いち早く6月29日に録音されたものである。

1957年プレスティッジ・レコードからリリースされた、

Miles Davis All Stars, Vol. 1 & 2

1954年12月24日Rudy Van Gelderによって録音され、翌年にMiles Davis All Stars, Vol. 1Miles Davis All Stars, Vol. 2としてPrestige Recordsからリリースされた、別々の、しかし関連する10インチLPアルバムのペアです。

1955年チャーリー・パーカーの死も重なり、一般大衆ファンはビバップから徐々に離れはじめていた。その中でハードバップは、メロディアスで聴きやすいと同時に、演奏者の個性や情熱を表現することができ、大衆性と芸術性の共存を可能にした一方、ハードバップは、メロディーとして成立しない音を音階から外さざるをえず、同じコードを使用しても、使えない音が出てくることが多い。そのためビバップよりも、融通性のないメロディーやフレーズになりやすいという側面を持っていた。

第1期クインテットhttps://en.wikipedia.org/wiki/Miles_Davis_Quintet

1955年、Columbia Recordsと専属契約したマイルス・デイヴィスは、7月にカフェボヘミアで、テナーサックスソニー・ロリンズピアノレッド・ガーランドベースポール・チェンバースドラムフィリー・ジョー・ジョーンズとの約束を果たすために、最初の本格的なレギュラークインテットを結成した。

ロリンズはヘロイン中毒に対処するために脱隊、その年の後半にはクリフォード・ブラウンマックス・ローチが率いるハードボップ・クインテットに参加している。

1955年秋に、ドラマーのジョーンズの推薦で、デイビスはロリンズの代わりに当時の若手だったジョン・コルトレーンを抜擢(5年間のパートナーシップ)、ジョン・コルトレーンレッド・ガーランドポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズのレギュラークインテットを結成した。

ラウンドアバウストミッドナイトhttps://en.wikipedia.org/wiki/%27Round_About_Midnight

1957年3月にコロンビア・レコードからリリース、コード会社移籍後、最初に録音されたアルバム。1955年10月から1956年9月までの3回のセッションでコロンビアのニューヨークスタジオで行われた。レーベルをまたぐ時期だったことに加え、この直後にPrestigeに残されていた契約上のノルマを消化するために敢行されたアルバム4枚分の録音、通称”マラソンセッション”とも重なった。セロニアス・モンク作の冒頭曲”‘Round Midnight“では楽曲の物語性を沈思するようにありったけの創造力を動員、移籍第1弾にふさわしい力演を見せる。逝去直後の恩師チャーリー・パーカーの”Ah-Leu-Cha”を取り上げているのも印象深い。

マラソン・セッション

マイルズ・デイヴィス・クインテット

1956年5月11日と10月26日に、伝説のマラソンセッションを含むアルバムを録音した。

マイルス・デイヴィスが1956年に「マラソン・セッション」と呼ばれる4部作(『Cookin’』『Relaxin’』『Workin’』『Steamin’』)を録音した理由はいくつかあります。

1. Prestigeとの契約を早く終わらせるため

当時、マイルスはPrestige Recordsと契約していましたが、新たにColumbia Recordsと契約することを決めていました。しかし、Prestigeとの契約にはまだアルバム数枚分の録音義務が残っていたため、それを早く終わらせるために1956年5月11日と10月26日の2回のセッションで一気に録音したのです。

2. クインテットの絶頂期を記録するため

このセッションには、マイルスの黄金の第1期クインテット(Miles Davis Quintet)が参加しました。

  • マイルス・デイヴィス(トランペット)
  • ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)
  • レッド・ガーランド(ピアノ)
  • ポール・チェンバース(ベース)
  • フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラム)

この時期のバンドは最高のコンディションにあり、Prestigeのプロデューサー、ボブ・ワインストックも「できるだけ自然な形で彼らの演奏を捉えたい」と考えていました。そのため、リハーサルなし・一発録りで、まるでライブ演奏のようにレコーディングが行われました。

3. シンプルなアプローチを重視

マイルスはこの時期、スタンダード曲をシンプルに演奏することに力を入れていました。「テーマ→アドリブソロ→テーマに戻る」というストレートな構成で、即興性と緊張感が際立っています。彼は後に「この4枚がジャズの基礎だ」と語っており、ジャズ初心者にもおすすめできるアルバム群となっています。

4. Columbia移籍への準備

Prestigeとの契約を終えたマイルスは、その後Columbiaで『Round About Midnight』を発表し、さらに音楽性を発展させていきます。このマラソン・セッションは、彼が次のステップへ進むための「区切り」としての意味もあったのです。

まとめ

「マラソン・セッション」4部作は、契約消化のための録音でありながら、結果的にジャズの名盤となった特別な作品です。マイルスのクインテットが持つ即興の魅力、ライブ感、スウィング感がそのまま詰め込まれ、今もジャズの歴史に輝き続けています。

第1期セクステット

1958年にはキャノンボール・アダレイを加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。

マイルストーンズ

デイヴィスは、「ウォーキン」にも似たブルース曲である「シッズ・アヘッド」で、トランペットとともにピアノを弾いている。アンサンブルのパッセージと、ソロではトランペットを吹いてるが、ガーランドが不在だったため、サクソフォーン奏者たちのソロでは伴奏のピアノを弾いている。「ビリー・ボーイ」は、ガーランドとリズム・セクションのソロをフィーチャーした曲である

マイルストーンズレコーディング時の写真。左からマイルス・デイヴィスキャノンボール・アダレイジョン・コルトレーン

同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。名義はアダレイとなっているが、実質はフィーチュアされているマイルス・デイヴィスが統制を執っている。ブルーノートのアルフレッド・ライオンは麻薬中毒のマイルスをサポートしていたが、1955年にマイルスはコロムビア・レコードと契約をした。この為デイヴィス名義でのソロ作は出せなかったが、アダレイをリーダーに据えることにより、デイヴィス統治の下、レコーディングを進めていった。

また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、客による白人バッシングに耐えきれず、7か月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。

『マイルストーンズ』(1958年)と『カインド・オブ・ブルー』(1959年)の2作は、いずれも1950年代モダン・ジャズを本質を表した作例と考えられている。当時のデイヴィスは、メジャースケールとマイナースケール以外の音階、すなわち「モード」に実験的に取り組んでいた

モードジャズ

コード進行よりもモード (旋法)を用いて演奏される

ハード・バップは、メロディが洗練された一方で、コードに基づく一つの音階のうち元のフレーズから外れた音が使えないという状況が出てきて制限がさらに増した。その大きな原因は、コード進行だけでなくメロディにおける進行感も演出しようとしたことにある。そこで、考え方を改め、コード進行を主体とせず、モードに基づく旋律によるモーダルに変更したものが、モード・ジャズである(一説にはハード・バップから洗練・発展したものともいわれる)。バッキングなどの和声の面では多少困難にはなったものの、ソロプレイにおいては飛躍的に自由度が増し、メロディの選択肢も増えた。

1959年、更なる高みを目指すマイルスはビル・エヴァンスを加えたセクステットでモードジャズの傑作「Kind of Blue」を発表し、1960年代のジャズの方向性を決定づけた。コルトレーンは1960年代を通してモーダルな即興演奏を他の誰よりも深く追究した。